赤城神社(富士見町米野)

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 富士見村米野故郷公園の北側に鎮座する赤城神社(前橋市富士見町米野甲551)。
 鳥居の額には「諏訪大明神」、柱には「明和元甲申十二月吉日」と刻まれている。明和元年は1764年。

『群馬縣管下上野國南勢多郡米野村字吹張甲五五一 村社 赤城神社
祭神 豊城入彦命
   建御名方神 菅原道真公 素盞嗚尊 譽田別尊 大物主命 火産靈命
   保食命 市杵嶌姫命 大日孁尊 大山祇命 埴山姫命 日本武命 大雷命
由緒 不詳
   明治四十年十二月十八日許可、本社境内末社五社及仝村字芦沼無格社諏訪神社、仝
  境内末社末社七社及仝村字東上ノ原無格社菅原神社、仝境内末社四社并仝村字中田無
  格社八幡神社ヲ合併セリ
   大正七年二月十五日明治三十九年勅令第九十六號ニ依リ神饌幣帛料供進神社トシテ
  指定セリ
境内末社 七社 壱社
 三島神社 明治四十年十二月十八日許可本社へ合併
  祭神  大山祇命
  由緒  不詳
 稲荷神社 明治四十年十二月十八日許可本社へ合併
  祭神  保食命
  由緒  不詳、本村字窪谷戸ニ在シヲ明治十一年八月八日移轉
 息洲神社
  祭神  岐神
  由緒  不詳、本村字西上ノ原ニ在シヲ明治十年八月八日移轉
      明治四拾年十二月十八日許可本社末社石神社ヲ合併セリ
 愛宕神社 明治四十年十二月十八日許可本社へ合併
  祭神  火産靈命
  由緒  不詳、本村字向吹張ニ在シヲ明治十年八月八日移轉
 神明宮  明治四十年十二月十八日許可本社へ合併
  祭神  大日孁命
  由緒  不詳、本村ノ原ニ在シヲ明治十年八月八日移轉
 石神社  明治四十年十二月十八日許可本社へ合併、本社末社息洲神社ヘ合併セリ
  祭神  岐神
  由緒  不詳、本村字尺神ニ在シヲ明治十年八月八日移轉
 嚴島神社 明治四十年十二月十八日許可本社へ合併
  祭神  市杵嶋姫命
  由緒  不詳、本村字尺神ニ在シヲ明治十年八月八日移轉』
(「上野国神社明細帳」より抜粋)

『富士見村大字米野字吹張に鎮座し、祭神は豊城入彦命、素盞嗚尊、市杵島姫命、建御名方命、誉田別命、大山祇命、火産霊命、埴山姫命、菅原道眞、保食命、大雷命、日本武尊、大日孁命である。例祭は九月十九日、宮司は根井治郎平である。その由緒は不詳であるが明治四十年、十二月十八日に許可を得て本社の境内末社五社(稲荷神社、愛宕神社、神明宮、嚴島神社、三島神社)字芦沼の無格社諏訪神社、同境内末社七社(八幡宮、琴平宮、愛宕神社、稲荷神社、嚴島神社、神明宮、大山祇神社)字東上ノ原の無格社菅原神社、同境内末社四社(秋葉神社、大山祇神社、吾嬬神社、雷神社)字中田の無格社八坂神社を合併した。なお、境内社として息洲神社がある』
(「富士見村誌」より抜粋)
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 二の鳥居。
 額には「赤城大明神」、柱には「延享元甲子十一月吉日」と刻まれている。延享元年は1744年。
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 三の鳥居。
 額には「天満宮」、柱には「明和元年■申十二月吉日」と刻まれている。
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 拝殿。
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 シラカシの根元に息洲神社。その左奥に大国主命。
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 二の鳥居の傍に小さな石祠があったが、何神社なのかはわからない。
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 神社合祀碑も建てられていたのだが、ほぼ崩し文字で記されていた為読めなかった。

 以上で6月18日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA15mmとDA20-40mm、FA77mm、50-150mmII。X30。
 この日は朝四時から動き出した為やや寝不足気味なのに加えて気温が高かった為か、帰宅後に身体がだるくなってダウン。数時間寝てたら回復したが、そろそろ熱中症に気をつけないといけない時期か。
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赤城神社(富士見町横室)

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 十二山の頂に鎮座する赤城神社(前橋市富士見町横室甲55)。
 幟枠の側面には「大正十一年四月吉日」と刻まれている。大正十一年は1922年。
 駐車場は無さそうに見えたので車は古墳公園の駐車場に置いて歩いて来たのだが、十二山の北側に回り込めば境内まで入れたのね。まぁ例祭時の搬入などのことを考えればあるのがあたりまえか。

『群馬縣管下上野國南勢多郡横室字初室 郷社 赤城神社
祭神 豊城入日子命
   大山祇命 譽田別尊 経津主命 保食命 素盞嗚尊 大日孁命 建御名方命
   木花開耶姫命 龍田姫命 大己貴命 市杵島姫命 奥津彦命 奥津姫命 火結命
由緒 不詳
   明治四十年七月十六日許可、本社境内末社大山祇神社、八幡社、妙義社、衣笠社、
  八坂神社、神明社、稲荷神社四社及同大字々■無格社諏訪神社、同境内末社四社、字
  東澤口無格社諏訪神社、同境内末社六社ヲ本社ヘ合併シタリ
   大正四年十一月五日明治三十九年勅令第九十六號ニ依リ神饌幣帛料供進神社トシテ
  指定セラル
境内末社 拾七社
 大山祇神社 明治四十年七月十六日許可本社へ合併 祭神 大山津見神      
 琴平社  祭神 金山彦命
 秋葉社  祭神 迦具土命
 八幡社  明治四十年七月十六日許可本社へ合併  祭神 誉田別命
 妙義社  明治四十年七月十六日許可本社へ合併  祭神 經津主命
 衣笠社  明治四十年七月十六日許可本社へ合併  祭神 保食命
 八坂神社 明治四十年七月十六日許可本社へ合併  祭神 須佐之男命
 稲荷社  明治四十年七月十六日許可本社へ合併  祭神 保食命 
 御嶽社  祭神 日本武命
 三峯社  祭神 凢河内躬恒
 雷電社  祭神 大雷命
 神明社  明治四十年七月十六日許可本社へ合併  祭神 大日孁命
      由緒 不詳、明治十年七月當村字下庄司原三百七十二番地ヨリ移轉  
 天神社  祭神 菅原道真公
 稲荷神社 明治四十年七月十六日許可本社へ合併  祭神 保食命 
 愛宕社  祭神 火産靈命
 稲荷神社 明治四十年七月十六日許可本社へ合併  祭神 保食命
 稲荷神社 明治四十年七月十六日許可本社へ合併  祭神 保食命』
(「上野国神社明細帳」より抜粋)

 ■は蒼刂。しかし富士見村誌には薊と書かれているので、誤記なのか或いは異体字なのかも。

『富士見村大字横室字初室に鎮座し、祭神は豊城入彦命、大山祇命、大己貴命、誉田別尊、市杵島姫命、木花咲耶姫命、奥津彦命、保食命、素盞嗚命、奥津姫命、建御名方命、竜田姫命、火積命である。祭日は四月八日、十月十五日、宮司は塩原行雄である。由緒は不詳であるが、厩橋築城以来、城の鬼門鎮護として長尾氏、平岩氏を始め、代々の城主の崇敬篤く、大洞の赤城神社と共に酒井雅楽頭忠世の城主の時には、祭日には奉幣せられたと云う。当山を国見ヶ岳と称して山高く聳え、社殿は頂上に在って境内には老松が立並び風景幽邃の霊地である。
 明治四十年七月十六日に至って許可を得、本社の境内末社拾社(大山祇神社、八幡社、妙義社、衣笠社、八坂神社、神明神社、稲荷神社四社)字薊の無格社諏訪神社、同境内末社四社(浅間神社、八坂神社、風神社、諏訪神社)字東沢口の無格社諏訪神社、同境内末社六社(八幡宮、大国主神社、拔鉾神社、嚴島神社、竈三柱神社、大山祇神社)を合祀した。なお、境内七社として琴平社、秋葉社、御嶽社、三峰社、雷電社、天神社、愛宕社がある』
(「富士見村誌」より抜粋)
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 寛延二年(1749)造立の一の鳥居。
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 参道。
 石段は全部で333段あるそうなのだが、数えながら登ってみたら44+23+25+21+19+37+21+27+25+33+20+20=315。それに鳥居前の3段を足しても318段。15段合わないのだが、どこかで数え漏れしたかな。
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 鳥居から132段登った所の参道左手側に道祖神と青面金剛。その他石祠など。
 ここから左奥へと入って行くと山頂へと続いているようではあるのだが、木や草が生い茂っていて歩き難い。表参道を登って行く方が絶対楽だ。
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 道祖神の少し上に猿田毘古大神と大黒天。
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 参道右手側に四阿。左手側に……なんだろこれ。
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 猿田彦大神。右の建物はやっぱりわからない。格子の奥に立てかけられた板には上を向いた剣のような形の穴が空けられていたので、不動明王なのかな?
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 二の鳥居前の広くなった参道の脇には十基の石祠が並んでいる。
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 最後の20段。ここを登れば山頂へ到着。
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 二の鳥居。
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 拝殿。
 左側の広場には木のベンチやテーブルが設置されている。
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 広場側から。
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 狛犬。
 台座には「昭和十二年十二月吉日」と刻まれている。
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 末社。
 石祠二基は不明だが、右端の石塔には「天眞一産靈大神」と刻まれている。
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 十二山案内図。
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『富士見かるためぐり 19
つ つつじは赤城と十二山
六月中旬、山肌を紅に染める推定十万株といわれる赤城山新坂平のれんげつつじは県下に有名ですが、横室の十二山も、つつじの名所として知られています。かつて五月の開花時には、つつじ祭が催されていました。現在でも多くの見物客が訪れる憩いの場所です』

『十二山
 標高三百メートルの十二山は眺望が村内随一といわれ表参道の三百三十三段の石段を登ると頂上に赤城神社がある。また山の中腹には県内でも珍らしい千基の庚申塔が奌在する。
 この付近一帯を十二山公園としい、赤城山と共につつじの名所で五月頃には山つつじが全山を紅に染め見事な景観を呈する』
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 南側の眺望。
 手前側のネットに囲われているのは横室会館西側にある横室ふれあい公園。ストリートビューを見ると横室会館の敷地の端に摩多利神が祀られているが、この時は気付いていなかったのでそちらには行っていない。
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 西を向くと榛名山が見える。
 左手前の建物は北関東循環器病院。
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 裏参道を下って行くと、北の彼方に赤城山が見える。
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 裏参道の斜面に鎮座する石祠。何神社なのかは不明。
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 普通に表参道で下りて行くのでは面白みが無いなと思い、遊歩道を歩いて行くと、大きな石と石祠が見えた。
 石の下の石祠は何神社なのかわからなかったが、右の石祠は雷電宮。
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 その近くにも石祠。左上に見えるのは上記の雷電宮。
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 元のルートに戻ろうとすると、あらこんな所に御嶽社が。わかりにくいなぁ。
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 三峯社。
 額に刻まれた「三峯山」が初め「雨傘山」に見えたが、中に納められた三峯神社の御神札が三峯神社のものだったので、あぁこれ三峯山かと気付いてみたり。
 上野国神社明細帳の記述を見ると三峯社の御祭神は凡河内躬恒となっているが、伊弉諾尊・伊弉冉尊ではないのかな。気になったのでググってみると、沼田市の三峰山に鎮座する河内神社が三峰神社とも呼ばれており、その祭神が凡河内躬恒であると伝えられていると「かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き」と言うブログに書かれている。とすると、こちらの境内社の三峯社は秩父からではなく沼田からの勧請と言うことになるのだろうか。でも御神札は普通に三峯神社のものなのだけど。
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 またも大きな石。人の手によって並べられたものなのだろうか。
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 石祠と猿田毘古命。
 石祠は何神社なのかわからなかったが、「于時明暦元年未七月吉日」と刻まれているので1655年の造立であることはわかる。
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 半ば土に埋もれた庚申塔。
 山の中腹に千基の庚申塔があるとは書かれていたが、どうやら状態はあまり良くはないようだ。
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 猿田毘古大神と庚申塔。
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 庚申塔。
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 下は草が生い茂り、上は木が覆い被さるように伸びているため背を屈めながら進んでいるうちにどうやら道に迷ったようだ。ここどこ。
 とりあえずわかるところまで戻り、あとは大体こっちだろうと当りをつけて歩いて行くと、そのうちに表参道に出た。やれやれ。
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横室古墳公園(富士見町横室)

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 十二山の西側に位置する横室古墳公園(前橋市富士見町横室)。
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『陣場・庄司原古墳群
 陣場・庄司原古墳群は富士見村大字横室字陣場・上庄司原・下庄司原地区にあり法華沢川右岸の台地上に位置していました。この地区一帯は富士見村でも有数の遺跡包蔵地で、平成元年度県営ほ場整備事業富士見地区に伴って発掘調査が行われました。(陣場・庄司原古墳群)
 古墳公園が作られた上庄司原1号古墳周辺も縄文時代前期と平安時代の集落跡で、遺跡名を上庄司原東遺跡と言います。
 発掘調査を行った古墳は7基で、墳丘の形状はすべて円墳です。墳丘の規模は直径20m前後が5基、10m前後が2基です。ほとんどの古墳の墳丘の回りに葺石が積まれ、その外側に周堀が掘られていました。石室の前には墓前祭を行ったと思われる、前庭という施設が設けられているものも多くありました。
 石室はすべて両袖型横穴式石室ですが、石室の構築方法や石材の加工方法・材質などには様々なものがあります。多くは赤城山の山石(輝石安山岩)をほとんど加工せずに積み上げただけの、自然石乱石積石室ですが、入口などの一部に切り石を用いているものもあります。さらに、榛名山二ツ岳から噴出された(6世紀)転石(角閃石安山岩)を用いた削り石積石室や截石切組積石室もあり、この古墳群の中で古墳時代後期から終末期の石室の変遷がたどれる貴重な古墳群です。
 遺物はほとんどの古墳が盗掘されていましたが、武器類(大刀・小刀・鉄鏃)、馬具、飾類(耳環・ガラス小玉・帯金具)、土器類(須恵器の𤭯・高坏・平瓶・甕、土師器の高坏・坏)などが出土しています。
 古墳群の作られた時期は6世紀後半から7世紀後半にかけての間と思われます。
 横室古墳公園は現地保存した上庄司原1号古墳のまわりに上庄司原2号古墳と上庄司原4号古墳の石室を移築し、あわせて保存整備を行ったものです』
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 上庄司原1号古墳。
 今の時期は草に埋もれてしまうので、冬場の方が形がはっきりわかるようだ。
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『上庄司原1号古墳
 上庄司原1号古墳は、陣場・庄司原古墳群の中で最も残存状況のよかった古墳であり、現在地にそのまま保存し、墳丘の復元などの若干の整備を行ったものです。
 古墳は、法華沢川に望む台地の崖端に築かれた、径約14m(テラス状の基壇を含めると約24m)の円墳で、その周辺には一部分を除いて周堀が巡っています。墳丘の周囲には葺石が積まれています。
 石室は、赤城山の山石(輝石安山岩)を用いた自然石乱石積みの両袖型横穴式石室で、旧地表面を掘り込んで作られています。石室の前面には、墓道状の前庭が設けられており、墓前祭が行われたと思われます。
 玄室の中からは耳環や大刀、鉄鏃、馬具等が出土し、人骨、歯も残っていました。(複数の遺体が埋葬されていたと思われます。)前庭とその周辺からは、須恵器の𤭯、甕、土師器の坏等が出土しています。
 整備は、後世の耕作などによって崩されていた墳丘に若干の盛土を行い、盗掘などによって抜き取られていた玄室と羨道部の天井石を補っただけで、多の部分はほとんど調査した時のままです。なお、周堀の部分には砂利を敷いて範囲を示しています。
 平成4年3月 富士見村教育委員会』
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『上庄司原4号古墳
 ここから約400m南西にあった古墳の石室を移築し、若干の石材等を補って復元整備を行ったものです。
 墳丘の形状は円墳で直径約16m、北側から西側にかけて周堀が巡っていました。
 石室は上庄司原2号古墳と同じ榛名山給源の角閃石安山岩を用いたもので、形状は他の古墳と同様に両袖型横穴式石室ですが、石材の加工方法・石室の構築方法は、截石切組積という当時の最高技術を用いて造られた石室です。
 石材には加工を行うときや、石室を構築するときの目安とした「朱線」が残っているものがあります。また、石材の中には内面に「水磨き」を施しているものもあり、これらの石材を「間知積み」しています。
 石材の内面形状は基本的に方形ですが、意識的に凹凸の部分を作って石材を組ませています。
 石室はすでに盗掘されていましたが、鉄製の鞘金具と銅製の帯金具(巡方・丸鞆)が出土しました。このうち、銅製の帯金具は截石切組積石室としては群馬県内で初めて出土したものです。
 截石切組積石室の古墳はこれまでわずか約30基が知られているに過ぎませんが、上庄司原4号古墳の石室は、前橋市の宝塔山古墳や吉岡町にある南下A・E号古墳の石室などとともに、その中でももっとも秀麗な部類に属しています。

 上庄司原2号古墳
 上庄司原1号古墳の西側に隣接していた古墳の石室を移築して調査時点の出土状態に復元したものです。
 墳丘の形状は円墳で、直径約20m、南側の一部分を除いて周堀が巡っていました。
 石室は、榛名山二ツ岳噴出(6世紀)の角閃石安山岩の転石を用いた削り石積み両袖型横穴式石室です。玄室は間仕切りによって奥室と前室に区切られ、奥室の床面のほうが一段高く造作されていました。
 石室は構築後間もなく左壁から崩壊したと思われ、遺物がほとんど盗掘されずに残っていました。
 遺物は、奥室から直刀・小刀が、前室から須恵器の子持ち𤭯・平瓶・長頸瓶・高坏・土師器の高坏・ガラス小玉・耳環・馬具(轡・鉸具)・鉄鏃が出土しました。また、羨道部から土師器の小型甕、石室の前から須恵器の甕が出土しています。
 須恵器の子持ち𤭯は、東日本では出土例が数少なく、大変珍しく貴重な遺物です。また、中小の古墳では、遺物が盗掘されずに残っていることも少ないため、埋葬当時の副葬品の内容がわかる貴重な古墳です。
 平成4年3月 富士見村教育委員会』
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 上庄司原2号古墳。
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 上庄司原4号古墳。
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 十二山々頂の赤城神社が見える。
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 十二山々頂から見た横室古墳公園。
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神明宮(富士見町引田)

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 群馬県道34号線沿い、引田構造改善センターの北西に鎮座する神明宮(前橋市富士見町引田261)。
 鳥居の柱には「大正七秊十月良辰」と刻まれている。大正七年は1918年。

『群馬縣管下上野國南勢多郡引田村字日向甲二六一番 村社 神明宮
祭神 大日孁命 豊受姫命
   譽田別命 大山祇命 保食命 建御名方命 経津主命 火産靈命
   大物主命 白山姫命 日本武命 豊城入彦命
由緒 不詳
   大正七年七月廿六日明治三十九年勅令第九十六號ニ依リ神饌幣帛料供進神社トシテ
  指定セラル
   明治四十年三月二十五日許可、本社境内末社八幡神社、大山祇神社、稲荷神社及仝
  村字諏訪無格社諏訪神社、仝境内末社六社、并仝村字愛宕無格社愛宕神社、仝境内末
  社三社及字日向無格社赤城神社、仝境内末社二社ヲ合併セリ
境内末社 弐社
 天神社  祭神 菅原道真公
 八千矛社 祭神 大國主命』
(「上野国神社明細帳」より抜粋)
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 拝殿。
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 本殿覆屋。
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 末社群。
 十三基の石祠と一基の馬頭観音塔が並んでいる。
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 庚申塔と道祖神。

赤城神社(富士見町田島)

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 群馬県道34号線と県道151号線が合流する田島交差点から北東に350m程の位置、道路脇に鎮座する赤城神社(前橋市富士見町田島586)。
 鳥居の柱には「明治十一年歳次戊寅四月吉日」と刻まれている。明治十一年は1878年。

『群馬縣管下上野國南勢多郡田島村字遠廻リ五八六 村社 赤城神社
祭神 保食命 豊城入彦命 市杵島姫命 御穂須々美命
由緒 昔時本村各所ニ鎮坐アリシヲ明治十年十月赤城社ヘ相殿トス
   大正七年四月十九日明治三十九年勅令第九十六號ニ依リ神饌幣帛料供進神社トシテ
  指定セラル
境内末社 七社
 大山祇神社 祭神 大山祇命
 琴平宮   祭神 大物主命
 八坂神社  祭神 素盞嗚尊
 菅原神社  祭神 菅原道真公
 八幡宮   祭神 譽田別尊
 大國神社  祭神 大國主命
 湯殿神社  祭神 保食命』
(「上野国神社明細帳」より抜粋)
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 鳥居の傍の石燈籠には秌葉宮と石尊宮の名が刻まれている。秋葉宮の方は文化六己巳年(1809)、石尊宮の方は寛政十二庚申年(1800)の造立。
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 拝殿。
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 斜め後ろから。
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 末社。
 左の石祠は不明。右は秋葉大権現。背面に「天保二辛卯年十一月大吉辰」と刻まれているので1831年の造立。
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 境内の斜面下、用水路の畔に水神宮。
 「明治二十七‡六月吉日」と刻まれているので1894年の造立。
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 末社群。
 左側の四基の石祠は不明だが、右側の三基の石祠は左から菅原神社、八坂神社、八幡神社。菅原神社の石祠の側面には「文化九申天 六月大安日」、八幡神社の側面には「文化九申天 六月吉祥日」と刻まれている。文化九年は1812年。
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 手前の石燈籠は文化九申年九月の造立。
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 道祖神。

赤城神社十二宮(富士見町漆窪)

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 漆窪公民館の200m程北に鎮座する赤城神社十二宮(前橋市富士見町漆窪)。

『富士見村大字漆窪字窪に鎮座し、祭神は豊城入彦命、罔象女命、倉稲魂命、保食命、鎌倉権五郎景政である。宮司は塩原行雄、例祭は十月十五日である。その由緒は不詳であるが、昭和二十三年に大洞の赤城神社より分離して現在地に移った。なお境内社としては景政社、八幡神社、熊野神社、菅原神社、大山祇神社の六社がある』
(「富士見村誌」より抜粋)
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 参道。
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 拝殿前左側の石灯籠は寛延元年(1748)、右側の石燈籠は寛保二年(1742)の造立。
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 社殿横から。
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 末社。左の石祠は何神社か不明。右の石祠は熊野宮。
 熊野宮には「明治三庚午年九月吉日建立」とあり、その手前の石燈籠には「寛保三癸亥暦十二月吉日」と刻まれている。明治三年は1870年で、寛保三年は1743年。
 富士見村誌によると境内末社は六社ある筈なのだが、残りの四社は見当たらない。

八幡社(富士見町石井)

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 前橋市立石井小学校の西130m程の位置に鎮座する八幡社(前橋市富士見町石井209)。

『富士見村大字石井字下小原目に鎮座し、祭神は誉田別命、建御名方命、大物主命、岐神、市杵島姫命、菅原道真、天照皇太神、伊弉冊命、事解主命、屋加須利神、火産霊命、猿田彦命、速玉之男命、久那斗神、大雷命、柿本人丸、木花咲耶姫命である。宮司は塩原行雄、例祭は十月十五日である。その由緒は明かでないが、昭和二十三年に許可を得て大洞の赤城神社より分離して現在地に鎮座した。なお、境内末社として諏訪神社、八坂神社、白河神社、菅原神社、三島神社、堰神社、神明社、塞神社、三峯神社、阿夫利神社、秋葉神社、琴平神社、山神社、浅間神社、地神社、稲荷神社、猿田彦神社の十七社がある』
(「富士見村誌」より抜粋)
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 庚申塔。
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 鳥居。
 額束の裏側に「享和三癸亥七月吉日」と刻まれているので、1803年に建てられたものなのだろう。
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 「明治三十四年」「當村氏子中」と大きく記された幟枠の手前には小さな神橋が架けられている。
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 拝殿。
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 本殿。
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 駐車場は無さそうだったので石井一区住民センターに車を置いて歩いて来たのだが、神社南側に小原目浄水場前を抜けて境内まで通じている道があった。
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 末社。
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 本殿南側の末社群。六基の石祠の右側に出羽三山塔と道祖神。
 出羽三山塔には「文化十四丁丑歳 仲冬大吉祥日」、道祖神には「安永四未霜月」と刻まれている。文化十四年は1817年で安永四年は1775年。
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 本殿裏の末社群。石祠六基と三峯神社。
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 末社群。
 左から四基目の石祠の額には「富士山」、石灯籠の竿部には「奉納日天宮」と刻まれている。

 この後は400m程南下した所にある三嶋大明神へと向かったのだが……うぅむ、困ったな。確かにそれらしき石祠は見えるのだが、どこから入ればいいのかわからないし、私有地内に有るようにも見える。よし、パスしよう。

山口神社(富士見町山口)

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 山口住民センターの北東500m程の位置に鎮座する山口神社(前橋市富士見町山口438
 ストリートビューでは神社の前を確認できなかったので、神社下の道端と言うか退避エリアに駐車したのだが、鳥居の左側に社務所らしき建物があり、その前に駐車できるスペースがある。
 鳥居の石額には「諏訪宮」、柱には「文政十一戊子歳四月吉日」と刻まれている。文政十一年は1828年。

『群馬縣管下上野國南勢多郡山口村字十二後 村社 山口神社
祭神 大山津見神 橘姫命 高龗神 大雷神
相殿 建御名方神 宇迦之御魂神
由緒 不詳
   明治四十年十月二十三日許可、本社境内末社阿夫利神社及仝村字伊子田原無格社吾
  嬬神社、仝村字上ノ皆戸無格社諏訪神社、仝村字前沢無格社大山祇神社ヲ合併セリ
   大正七年八月廿三日明治三十九年勅令第九十六號ニ依リ神饌幣帛料供進神社トシテ
  指定セラル
境内末社 三社 二社
 阿夫利神社 祭神 大山祇命 高龗神 大雷神
       由緒 不詳、明治四十年十月廿三日許可本社へ合併
 八幡宮   祭神 譽田別命
       由緒 不詳
 菅原神社  祭神 菅原道真公
       由緒 不詳、本村字西天神嶺両所ニ在シヲ同神ニ付合併、明治十年十月本
         地ヘ移轉』
(「上野国神社明細帳」より抜粋)
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 二の鳥居。
 石額には「十二神」、柱には「明和二乙酉年八月吉祥日」と刻まれている。明和二年は1765年。
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 こちらの鳥居も十二神の額が掛かり、明和二年八月の建立。
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 石灯籠の竿部の四面に「十二神」「石尊大権現」「大天狗小天狗」「享和元辛酉年六月吉祥日」と刻まれている。享和元年は1801年。
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 拝殿。
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 斜めから。
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 末社群。
 左端は若宮八幡宮。台座の側面に「当若宮八幡宮は西地■百五拾米■畑中に鎮座せしを昭和五十四年土地改良事業の為当処に遷宮し祭祀をなす。神官木暮貞四郎■」と刻まれている。その右隣の石額には「四阿屋丄」と刻まれているが、なんだこれ。他には山神宮と琴平神社が確認できたが、他は不明。

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 山口住民センター脇には子育観音が鎮座している。
 態々エントリーを建てるまでもないので、ここに混ぜておこう。

諏訪神社(富士見町市之木場)

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 市之木場住民センターの脇に鎮座する諏訪神社(前橋市富士見町市之木場136)。

『富士見村大字市之木場字西平に鎮座し、祭神は建御名方命、大日孁命、誉田別命、菅原道眞、保食命である。宮司は塩原行雄、祭日は十月十五日である。由緒は詳かでないが、昭和二十三年に赤城山大洞の赤城神社より分離して現在地に移った。境内末社としては八坂神社、大山祇神社、琴平宮、稲荷神社、八幡宮、赤城神社、神明宮、菅原神社の八社がある』
(「富士見村誌」より抜粋)
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 たぶんこちらが諏訪神社。
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 道路側から。
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 こちらはなんだろう。中には仏像のような物が見えたが、よくわからない。
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 末社群。

諏訪大明神(富士見町石井)

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 樺澤会館の200m程北東に位置する丘の頂に鎮座する諏訪大明神(富士見町石井)。

『大字石井の字名に諏訪峯がある。石井の八幡神社の境内末社に諏訪神社があり、明治以前に鎮守八幡神社に合祀されたものである。祭神は建御名方命である』
(「富士見村誌」より抜粋)
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 石燈籠の竿部には石尊大権現や大天狗などの文字が見える。
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 鳥居……の柱のみ。
 天明四甲辰年十一月と刻まれているので、1784年のものである。
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『御即位記念
樺澤氏由緒之碑 桃山陵墓監陸軍歩兵少佐従五位勲四等功四級猪谷不美男篆額
我國開闢以来皇統累一百二十二代紀元経二千五百七十五年今上陛下以允文■武之神資茲
卜大正乙卯年十一月十日擧即位禮緇一系不断之■緒應天壌無窮之神勅代天敷化率土仰仁
孰不謳歌此千秋之大典乎■勢田郡富士見村樺澤氏一族胥謀欲建碑誌事永使子孫仰皇化于
千百年後併記祖先之所由來余文按畎樺澤氏藤原姓系出大織冠■之始稱佐藤氏世住奥州白
川郡鯖山村遠祖左馬之介敬重延暦元年及従居于上野國勢多郡赤城山下更今氏尋同七年文
月二十七日勸請累世所祀諏訪大明神爲城隍神越十年以其氏名邑稱樺澤村同二十年併小原
目石居二村更石井村天長元年嫡子主水重久出赴奥州入鯖山村育王寺實爲佐藤氏之墳墓地
次男隼人景照與父同居石井村同三年自開市之騎村既而子孫益滋家門愈昌而別興家者末亦
尠矣延長三年嫡孫尤京之介國時於小暮村末孫多宮政照於藤澤村寛弘八年曾孫中將行親於
柏倉村寛仁元年曾孫右京之介春光於山口村大治四秊七世孫左京之介忠宗於群馬郡湯之上
村爲其尤者■以邑著姓稱焉爾■物換星移迄今一千百餘年雖不免時有盛衰一族綿々乎至算
以二百數十家者豈得無不因神明之呵護与祖先之恩惠耶天保十三年霜月子孫胥謀改建諏訪
大朙神祠殿■效敬虔之誠明治十年據官令合祀之于邨社八幡神社大正元年■合祀村社赤城
神社現在赤城山大洞神祠是也先是明治三十年開拓赤城原野數十百町歩而種樹以殖林同三
十九秊得官允行耕地整理於接壌地於是乎區畫井々水疏而路通加之以地積之増加興収穫之
饒多蓋一族協心戮力所致也如此而子孫一克服業治産則無幾乎不以墜家聱乃繋銘曰 名門
 流末 垂訓有源 敬神崇祖 惠及子孫 土沃田足 産也益蕃 乃衣乃食 維孰之恩
        羣馬縣勢多郡従六位勲六等横尾雄彌撰   天笠秀雄書
大正四乙卯年十一月十日                      ■谷光年鑱』

 ■の部分は読み難かったり、文字の形がわかってもIMEパッドで出て来なかったりしたもの。それ以外の部分でも読み取りを間違っているかも知れないので、ちょっと怪しい。
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 諏訪大明神石宮。
 台座の側面には「昭和二年四月十五日建設」「樺澤組 氏子中」と刻まれている。
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 登り口前にかろうじて車一台分程のスペースがあるので、そこに駐車可能。

五代神社(五代町)

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 日枝神社の東600m程、五代町公民館脇に鎮座する五代神社(前橋市五代町453)。

『群馬縣管下上野國南勢多郡五代村字大宮 村社 五代神社
祭神  豊城入彦命 市杵島姫命 大物主命 八重思兼神 菅原道真公 素盞嗚命
    譽田別命 速玉男命 事解男命 伊弉冊命 大山祇命
由緒 不詳
   明治四十四年九月一日明治三十九年勅令第九十六號ニ依リ神饌幣帛料供進神社トシ
  テ指定セラル
   明治四十年四月十七日許可、仝大字無格社菅原神社、無格社厳島神社、無格社思兼
  神社、無格社琴平宮ヲ本社ヘ合併、村社五代神社ト改称、四月廿四日合併済届出
境内末社 弐社
 神明宮   祭神 大日孁命
 秋葉神社  祭神 迦具土命』
(「上野国神社明細帳」より抜粋)

『五代神社
 五代字大宮に鎮座する。豊城入彦命・市杵島姫命・大物主命・八意思兼命・菅原道真公・素盞嗚尊・誉田別命・速玉男命・事解男命・伊弉冊尊・大山祇命の十一柱を祀っている。豊城入彦命を祭った字大宮の赤城神社に、字天神から菅原神社と、その末社八坂神社・八幡宮・字嶺久保の厳島神社、その末社菅原神社、字社口にあった思兼神社、字大宮の琴平宮、その末社熊野神社・大山祇神社を合祀し、村社五代神社と改称したのが、明治四十年四月であった。境内は東西二十間南北四十五間、五百九十九坪、二段に区切られた北部に、一段高く社殿が建つ。本殿は、九尺四方萱葺入母屋造、拝殿は本殿と離れて、萱葺入母屋造三間二尺に二間の平(ひら)の向拝が附いている。この拝殿は、本村に数ある社寺中、珍しく出組の枓組がある。それに向拝柱は大へんに強い面がとってある。屋根のたたずまいなど。見かけに古びた感じがする。江戸時代の末期を上らぬようであるが、本村中で最も好ましい建物である。
 例祭は十月十九日、氏子は百二十戸である』

『社地は、五代町の北部と南部の境界にあり、かつては四百年位の松や杉の古木が欝蒼と茂っていたが戦後の台風で倒れ、やむなく伐採い現在の広場となった。
 氏子は五代町住民全員で、氏子総代は五人である。また、社守は各組から一人づつで、一年任期の輪番制である。
 役員になると、祭りには寄付を集めたり、祭典の行事一切を行う。
 祭日は、一月と三月、八月と九月の二期に分かれていた。その外に十月の秋祭り(十五日)がある。祭日の行事は神官が祝詞をあげ、各家では、赤飯を炊いて祝う。また、赤飯は神社にもっていってハンビツの中に供え、既に供えてある赤飯をオミゴクとして貰って帰るしきたりとなっている。
 また、祭りの日には相撲、盆踊り、八木節などがあり大変な賑わいであったそうである。今では懐かしい思い出である。
 現在の社殿は、昭和四十年頃茅葺屋根にトタン板を被せ改築され、広場も併設された。また、境内には立派な公民館が昭和五十四年三月に建設され、地域の文化センターの役割を充分果している。
 最近では、祭りが復古兆で子供会が中心となってKK子供祭りが行われ、町内中を樽神輿二基でねり歩き古老たちを悦ばせている』
(「芳賀村誌・芳賀の町誌」より抜粋)
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 鳥居。
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 井上武士先生顕彰之碑。
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 拝殿。
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 狛犬。
 台座には「紀元二千六百一年 昭和十六年三月廿六日」と刻まれている。
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 社殿西側から。
 「芳賀村誌・芳賀の町誌」に載っている写真とは屋根の形状が違うので、昭和四十年以後にも屋根の葺き替えが行われたのだろう。
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 末社群。
 左端にある享和四年(1804)造立の石祠の側面にはヘチマと兎が浮き彫りされているが、これはいったい何神社なのだろう。
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 前列左から福壽辨財天、観世音菩薩、石灯籠、道標……かな。
 後列左から青面金剛塔、猿田彦大神、庚申塔、青面金剛種子塔。
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 前列左から甲子大黒天、思兼大神、庚申供養塔、庚申塔、青面金剛供養塔。そして後列に道祖神。

 以上で6月11日参杯分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA15mm、DA35mm Macro、FA77mm、DA20-40mm。X30。
 この後は上泉町の赤城神社へ向かったのだが、駐車禁止の看板が設置されていた為、少し南にある上泉町公民館に置かせてもらおうと向かったところなにやら建設中だったので、今回は参拝を見送りそのまま帰宅。

日枝神社(端気町)

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 上沖町の神明宮より東へ600m程、天台宗艮場山慧雲院善勝寺の参道脇に鎮座する日枝神社(前橋市端気町333)。

『群馬縣管下上野國南勢多郡端氣村字後原三三三 村社 日枝神社
祭神 大山咋命 大日孁尊
由緒 不詳
   明治四十年五月六日許可、仝大字無格社神明宮ヲ合併、同月十五日合併済届出
   明治四十四年十月三十一日明治三十九年勅令第九十六號ニ依リ神饌幣帛料供進神社
  トシテ指定セラル
境内末社 七社
 愛宕神社  祭神 火産靈命
 雷神社   祭神 大雷命
 八坂神社  祭神 素盞嗚命
 山神社   祭神 大山祇命
 八幡宮   祭神 譽田別命
 稲荷神社  祭神 保食命
 猿田彦神社 祭神 猿田彦命』
(「上野国神社明細帳」より抜粋)

『日枝神社の祭日は、四月十五日の春祭りと七月十五日の天王祭り及び十月十五日の秋祭りの年三回である。
 祭りには、三つの曲輪から一人ずつ氏子総代が出て祭りを取り仕切る。そのほかに、各曲輪から祭典当番が一人ずつでて協力する。
 氏子総代には特に年限はないが祭典の当番は二年の任期が慣例のようである。
 また、日枝神社の境内には、蚕の神様(アヤトリ稲荷)の石祠がある。
 全体が高い壇上に建ち、いかにも神寂びたお宮があった。現在の社殿は、昭和昭和三十年頃瓦葺に改造したものである。
 日枝神社の東隣には、町の公民館が土地改良(基盤整理)事業に伴い、昭和六十年に建設され、町の文化活動の中心になっている。また、神社の北側にはゲートボール場があり、長寿会のみなさんが一日置きに楽しいゲームを行っている。日枝神社が善勝寺境内の一隅に鎮座しているのは、その昔、平安時代のはじめ、天台宗では比叡山の山の神、日吉(日枝)神社を祀った。このことが神仏習合の始まりであり、これに因んだものと思われる』
(「芳賀村誌・芳賀の町誌」より抜粋)
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 鳥居の額には「大神宮」とあり、柱には建立された年が刻まれているのだが、カビのせいで「■■三■寅年立之」くらいしか読み取れない。一文字目が文のようにも見えるので、文化三丙寅年(1806)かな?
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 北側から。
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 何神社なのかはわからないが、これがアヤトリ稲荷なのだろうか。或いは合併された神明宮か。他の末社とは離れた、拝殿の前に祀られていることから見て特別な社であるとは思うのだが。
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 末社群。
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 明治二十六年(1893)二月造立の馬頭観音。
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神明宮(上沖町)

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 小神明町神明宮から南東へおよそ500m、上沖町公民館の傍に鎮座する神明宮(前橋市上沖町90-1)。
 県道76号線脇に「大國主神社入口」と書かれた看板が設置されているので、そちらからの方がわかりやすいか。

『神明宮(上沖)
由緒 古記録によれば、天平神護二丙午年(七六六)歳社殿を造営す。その後乾元元壬寅年(一三〇二)歳社殿を改造。応仁二年(一四六八)焼失。文明三年(一四七一)社殿を新築、その後承応元壬辰年(一六五二)事変のため焼失、その年直ちに社殿を新築し小神明より御神体を奉遷した。この時は承応元年壬辰歳応鐘十六日とある。応鐘とは陰暦十月の異称である。村人は再び火災に遭わないようにと境内に杉、松、しいの木等を植え、社殿を守ることにした。現在の御神木の大木である。
 更に享保二丁酉年(一七一七)四月に改築、その後天明六丙午年(一七八六)に拝殿に祭神大国主神を奉遷の際社殿を改修。明治五年区画制定の際十二ケ村の郷社に列せられ、明治四十二年の甲子に幸塚村字宮西の赤城神社を合併、大正三年村社となる。
 また、大国主命は沖の大黒様と称されている。大黒様は徳川家光の手造の像と伝えられる。旗本の岩本内膳朝臣正利の女が殿中に仕えたおり将軍より拝領し、家法となっていた品という。天明三年の浅間山噴火以来、領地では飢饉や凶作が続き領民は大変困窮していた。領主は福利増進を願い天明六年十二月家臣の菊田弾兵衛に指示してこの地に祀らせたと伝えている、以後領主の崇敬は厚く江戸より勧進相撲がきて興行を行った。以後、六十年ごとに大祭が行われ、大正十三年の大祭の前日には神明宮の前の田圃で競馬が行われにぎわった。
祭神 大日霊女命・大己貴命
祭日 七月十六日(塞神祭)、十月十六日
境内 神社は小高い丘の上で本村の中央に位置し、境内は二百五十一坪ある。参道の中ほどに御影石の神明鳥居があり、三十九段の石段を登りつめると両側に元治二年、慶応元年、明治二十五年の御神燈、紀元二千五百三拾九年、大正二年の手洗石がある。本殿裏には、天正元年、寛政八年、明治五年、昭和三十八年の年号を刻む九基の石宮が集められている。本殿に向って左側には、木造瓦葺の社務所、右側には木造瓦葺間口一間半、奥行一間半覆屋に入った天満宮が祀られている。本殿は木造板葺の一間社流造で中に、木造の菅原道真公の坐像が祀られる、なお、現在の覆屋は昭和五十九年十月新築された。
 記念碑は北側に一列に、日支・大東亜戦役記念碑。日露戦役凱旋記念碑、大沢七太郎記念碑、赤入道川改修記念碑、境内復興記念碑が並ぶ。なお、境内に建っていた木造萱葺の舞台は昭和四十一年台風で大きな被害をうけたため壊された。また、境内南には土俵が造られてあった。ここでは毎年地方相撲が行われた。江戸時代は、江戸の佐渡ケ嶽大五郎などがきたほど相撲がさかんなことが、残っている絵馬や番付版から知ることができる。しかし、昭和四十三年土俵はかたずけられ、現在ゲートボール場になっている』
(「桂萱村誌」より抜粋)

『群馬縣管下上野國南勢多郡上沖之郷字宮下 村社 神明宮
祭神 大日孁命 大穴牟遅神 火産靈命
   菅原道真公 大穴牟遅神 大物主命 火産靈命 大己貴命
由緒 不詳
   明治四十年十二月十六日許可ヲ得テ字上ノ山ニ祭祀セル無格社秋葉神社ヲ合祀シタ
  リ
   明治四十二年四月十日許可ヲ得テ本社末社天神社、琴平神社及本村大字幸塚村字西
  ニ祭祀セル村社赤城神社、仝末社秋葉社、菅原神社、琴平社ヲ合祀シタリ
   大正三年四月十三日明治三十九年勅令第九十六號ニ依リ神饌幣帛料供進神社トシテ
  指定セラル
境内末社 四社
 山神社  祭神 大山祇命
      由緒 不詳
 八坂神社 祭神 須佐之男命
      由緒 不詳
 八幡神社 祭神 誉田別命
      由緒 不詳、明治十年九月本村字根際ヨリ移轉
 星宮   祭神 天之御中主神
      由緒 不詳、同年同月本村字西新井ヨリ移轉』
(「上野国神社明細帳」より抜粋)
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 鳥居。
 柱には「昭和十年十月」「納主 前橋市 小野里亀澄」と刻まれており、鳥居の両脇に下げられた提灯には「甲子大祭記念」と書かれている。翌日が甲子祭であったのか、境内ではゆるゆると祭りの準備が進められていた。
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 石段を上った先に……なんですかコレ。
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『境内復興記念之碑
當社主祭神大日孁命ハ遠ク天平神護以前ヨリ奉齋スト傳
フ攝社大國主命ハ徳川家ノ重臣岩本内膳正朝臣正利ニヨ
リ天明六丙午歳十一月江戸ノ地ヨリ縁リアル當所ニ奉遷
セラレタルナリ沿革如斯ク神徳灼然トシテ郷キイ尊崇深
キハ固ヨリ神意ヲ渇仰シ賽スル者絶ニルコトナシ
偶昭和十年七月五日暴風雨ノ爲メ未曽有ノ惨禍ヲ蒙リ古
杉数樹社地建物ノ倒壊破損甚ダシク直チニ復興ヲ企圖ス
幸ナル哉崇敬者ノ絶大ナル賛志ヲ得浄財ヲ寄スル者六千
有餘ニ及ブ翌丙子年早春全ク其ノ工ヲ竣セリ此ニ依リテ
益々敬神ノ美風ハ顯揚セラレ衆庶悉ク神明ノ加護ニ倚賴
シテ彌廣キ惠ノ霧ニ潤ヒ壽福ノ慶ヲ重ヌ可シ謹ミ記シテ
以テ後昆ニ傳フト云爾
 昭和十一年十月甲子日』
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 拝殿。
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 神明宮の社殿右側の祠は天満天神宮。
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 社殿裏手に並ぶ末社群。
 左奥から不明、不明、不明、十二大神、不明、八阪神社、八幡神社。
 右の石祠三基は三峯神社、三峯神社、不明。
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 大澤七太郎の碑。誰ですよ?
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 御神木。
『椎の木 御神木
由来
 承応元年(一六五二年)徳川四代将軍家綱の時代 社殿を新築した際記念植樹された椎の木は今年(平成二八年)にて樹齢三六四年になりました
 長い年月上沖町及び近隣の市町村の繁栄を静かに見守って来ました。これからも大切な御神木として敬いたいものです』
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 御神木を囲むように置かれた石のベンチ。
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 この石に腰を掛けて碁を打っていたりしたのだろうか。もう一つには奉納者の名前らしきものが刻まれているが、はっきりとは読み取れない。

神明宮(小神明町)

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 小神明町公民館の隣に鎮座する神明宮(前橋市小神明町578)。

『群馬縣管下上野國南勢多郡小神明村字宮本 村社 神明宮
祭神 大日孁尊
由緒 不詳
   大正四年十月三十一日明治三十九年勅令第九十六號ニ依リ神饌幣帛料供進神社トシ
  テ指定セラル
境内末社 九社
 稲荷神社  祭神 倉稲魂命
 諏訪神社  祭神 建御名方命
 嚴嶋神社  祭神 市杵嶋姫命
 八幡宮   祭神 譽田別尊
 西宮神社  祭神 大國主命
 大山祇神社 祭神 大山祇命
 菅原神社  祭神 菅原道真公
 春日神社  祭神 天兒屋命
 鹿嶋神社  祭神 武甕槌命』
(「上野国神社明細帳」より抜粋)

『小神明字宮本に鎮座する。大日るめの命を祀り創建は明らかでないが、もと南隣りの、上沖之郷との総守であったという。承応元年善勝寺住僧円海という人の世話で、上沖之郷へ分神し、以来本村の鎮守になったと伝える。(南勢多郡村誌)境内に九座の末社がある。稲荷神社・諏訪神社・厳島神社・八幡宮・西宮神社・大山祇神社・菅原神社・春日神社・鹿島神社がそれである。東西二丁二間五分、南北三十四間、境内四百十三坪、というので東西向きに長い参道があったと思われる。
 社殿は、十尺に八尺の銅板切妻屋根の上屋の中に、二尺七寸五分に二尺二寸四分の柿葺神明造があり、十六尺の十尺五寸の拝殿との間を、十尺の幣殿で繋ぐ。本社の有名な灯籠流しの、器具材料置小屋三棟は、昭和二十年八月三日戦災をうけて、一棟を残して焼失、残りの一棟は、現在境内西北の一隅に、材料も殆ど失って物置となっているが盛時を顧みて惜しまれる』

『神明宮は、金の幣束三本が御神体であったが、その内の一本を承応元年に上沖町の神明宮の御神体として分神した。「拝見候ニ付写置者也于時明治九年丙子一月」従って神明宮と同神とみてよい。祭りには上沖町では大相撲を行ったので「小神明の大灯籠と、上沖の大相撲」とよく言われたそうである。
 その日は、露天商も沢山出て賑わった。この祭りは明治二十四年に行ったものが有名で、近郷、近在から大勢の参拝者が押しかけたために、村内の橋が三箇所も落ちたとのことである。この祭りが、最後となったようである。
 昔は、神明宮の境内に神明小学校や神明寺があったが、神明寺は昭和二十年八月の戦災で焼失してしまった。
 神明寺の境内は、南北に長く面積は四百三十坪(一三六三平方メートル)を有し、昭和四年に銅板葺切妻造りに改築した。昭和三十年には神社と並列して立派な公民館が建設され、更には、広場も完備されて名実共に地域の文化センターとして効率的に活用されている』
(「芳賀村誌・芳賀の町誌」より抜粋)
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 鳥居の柱には「大正拾五年壹月吉日」と刻まれている。大正十五年は1926年。
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 拝殿。
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 社殿裏手から。
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『小神明燈籠祭り由来記
 小神明の地は平安時代以来伊勢大神宮の神領細井御厨に属し 古来より伊勢神明宮を勧請し村の鎮守としてきた 神宮文書には細井御厨は伊勢国二見郷来迎院相伝の御厨となっている 小神明の地名の由来もこの御厨の関係から生じたものであろう
 神明宮境内にかつて弁天島と呼ばれる小山あり 周囲には清流を引水した池があった 干魃に悩まされた先人はこの島に弁財天の石祠を祭りその加護を願った 石祠には神明宮の別当存須の代に村中氏子相謀り寛延二年四月の吉日を選び造立したとある
 基礎石には波間に浮ぶ弁財天の化神の大蛇が刻まれている この弁財天の祭りは神明宮祭日に続き十月十七・十八の両日とされ 数年毎に大祭あり慶応元年・明治五年・同十三年・同二十四年の記録がある 明治二十四年の記録によると十月一日から村民挙げて燈籠づくりが開始され 村内四組の㞮しものは弁天組の弁天様の玉取り 宮西・寺西両組は相対して富士の巻狩り 中間に廻組の川中島合戦とある 各組毎に燈籠とそれに入れる人形を作り弁天の池に浮べた 流水に浮ぶ燈籠人形は巧みに操られ 見物人は東京方面からも訪れる程であった 大祭で消費する油は前橋の油相場にまで影響するといわれた
 昭和六十年三月小神明地区土地改良事業に伴い当社境内地も整備され 弁天島はその姿を消した 人々この燈籠祭りの盛時を後卋に伝えんとし ここに由来の一端を記した次第である
   昭和六十年五月吉日』

 「南橘村誌」に記された細井神社の由緒には、「細井御厨は上細井附近の地と考えられる。依って御厨関係の神明宮が存在したであろうことは想像出来るが明らかでない」とあるが、この細井御厨の神明宮とは小神明の神明宮であるように思われる。上細井町と小神明町は隣同士でもあるし。
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 末社。
 左の石祠には梅鉢紋が刻まれているので菅原神社であろう。右の石祠が弁財天を祀った石祠と思われる。
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 左の石祠にも蛇の頭のように見える部分があるが、梅の方が目立つ。右の石祠は左右からにょきっと飛び出しているのが蛇なのだろう。鱗のようなものも刻まれていることであるし。
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 半ば草に埋もれた末社群。
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 弁天池跡。その脇に溶岩で造られたと思われる塚らしきものがあるが、これはなんだろう。その上には石燈籠の宝珠部のみが置かれ、それには丸に片喰紋が刻まれている。
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 四方梵字の刻まれた石塔の一部と、その傍らに……なんだろう、地蔵尊か馬頭観音だろうか。童子と刻まれているようにも見えるのだが。

金丸神社(金丸町)

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 金丸町公民館の北側に鎮座する金丸神社(前橋市金丸町152)。

『金丸神社は、金丸町の公民館北側の高いところに鎮座している。この神社は金丸の赤城神社と言われ、氏子の人たちの厚い信仰と平和が守られている。
 祭神は、大峯神社の分霊で、建御名方命、菅原道真公、誉田別尊の三神である。
 昔は、十二様といわれた守り神様が、書上商店前の十字路にあり、この神様の御神体は、明治十年頃より持主不明の石造物で、大きさは高さ二尺五寸位(約八十センチ)の三重組立で出来ており、素材は軽石で造られ、山の神として祀られていた。
 当時、金丸より軍隊へ入隊や除隊のときは村中でこの神様の前で武運長久を祈り送迎したそうである。しかし、この神様は、昭和四十年頃、造園ブームの時に何者かに持ち去られてしまった。
 金丸神社の由来は、戦後の昭和二十四年に、マッカーサー元帥より「日本の各地にある戦争に関連した神社や記念碑は人目につかぬ所に撤去せよ」との通達が出された。この対応策として旧芳賀村では真先に日清、日露以来の戦争で戦死された将兵の御霊を祀った英霊殿を他に移動しなければならなくなり、当時の芳賀在郷軍人会では大変困っているとのことを聞いて、金丸町の有志は、直ちに、村の神社として頂きたいと当局に申し込んだところ、渡りに舟と大喜びで金丸地区へ移すこととなった。その礼金として当時千円を包金として当局へ支払ったとのことである。
 金丸では村中の人が大喜びで一戸当り一人の出役で、英霊殿を「丸通」の大型トラックを頼み、赤城県道廻りで運んだが、途中、赤城の一鳥居が通過出来ず(当時の鳥居は小さかった)農協の庭を借りて金丸まで運んだ。
 その他、移動のために、電線などを数箇所も切断するなど大変な苦労を重ね、現在のところに神社を祀ることが出来た。
 以来、三十六年が経過し大分腐蝕が進んだので、昭和六十年、時の自治会の発案で、大改築が行われ立派な社殿ができ、村の人たちは大変な喜びと、より豊かな信仰心を高めることができた』
(「芳賀村誌・芳賀の町誌」より抜粋)

 当神社は金丸の赤城神社と呼ばれるが、御祭神は大峯神社から分霊した建御名方命、菅原道真公、誉田別尊の三柱で、社殿は元英霊殿のものであると……赤城神社の要素がまるで無いじゃん!? 十二様がこちらに移設されたとかならともかく、それも盗まれちゃってるし。
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 丸太造りの階段。
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 社殿。
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 斜めから。
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秋葉山大権現(勝沢町)

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 前橋市立芳賀小学校の北西、藤沢川のそばに鎮座する秋場山大権現(前橋市勝沢町)。
 ストリートビューでは駐車スペースがありそうに見えたのだが、行って見たら草が生い茂っていて無理。道端に停めてぱぱっとなー。

『秋葉講(其の一)
 勝沢町東部の藤沢川畔の田圃の隅に、小さなブロック造の祠があり、近くに大小二つの石碑が建っている。大きい方が「庚申」を祀る「青面金剛塔」碑で、小さい方が「秋葉大権現」碑である。傍に一本の花水木が植えてあり、「秋葉大権現祭復活記念植樹、東昭会、昭和六十三年」と記した立札が添えてある。
 右の立札が示すように、秋葉様の祭典は、途中で一時中断されていた時期があったようである。地元の古老が語ってくれた「秋葉講」の由来は、要約すると次のような内容である。
 秋葉講の始りは、既述の石碑の裏側に彫られてある年号が「嘉永三年」とあることによっても明らかなように、今から数えて、約百五十年以上も前であった。その昔、勝沢東部(昔は番城と言った)は火事が頻繁に発生し、住民は枕を高くして眠れない時期が続いた。そこで何とか火事を無くそうということで「火伏せの神」として「秋葉様」を祀ったと伝えられている。
 時が移り、明治大正の頃迄、秋葉様のお祭りは寔に盛大そのものであった。仮り宮は鬱蒼たる松林に囲まれた南向きの木造のお宮であった。祭りの当日は、現在の県道に面した入口から、仮り宮までの参道の両側に、大小十数本の幟と灯籠が建てられ、夜になっても、赤々と灯された灯籠の「あかり」で昼と変わらぬ「にぎわい」を保っていた。灯籠は毎戸から一灯づつ持ち寄り、足りない分は勝城神社の灯籠を借りて灯した。当時使用した幟は、保管していた当番の家の火災で焼失し現存しない。
 祭典は、春三月十七日と、秋十月十七日の年二回行われ、講中は赤飯を炊いて仮り宮にお供えをした。当番に当った代表が数年おきに、本山への代参を続けて来た。終戦後になって、祭りの主役が、当番から「子供」中心に変った。祭りの当日になると、子供達は何組かに別れて、「つらぬき」と称して講社の宅を一軒一軒廻って、祭りの寄附金を募って歩き、祭りに必要な蝋燭その他の費用を賄い、余った金があると、学用品等を買って、全員に分配した。
 夜は「お籠り」と言って仮り宮に一泊し、講中の供えた赤飯や、菓子、果物などを頂き、小規模乍らも、集団生活の実習体験を身につけて、翌朝帰宅をする。このような行事が毎年続けられ、後輩は先輩を見習い、先輩は後輩を指導する伝統行事に育って行った。
 ところが在る年のこと、予期しない事件に遭遇した。事情を知らない通りがかりの人が、親切心からか、警察署に通報したことから事件となった。その人は、この伝統行事の内容も解らぬまま、不良少年少女の集り、と勘違いし、警察も、それは大変と早合点したものと解り、事件は一応落着したものの、濡れ衣を着せられる羽目になった子供達のショックはかなり大きかったとみえて、それから数年後に、子供達によるお祭りは中止された。
 祭りの復活に力を入れたのが既述の「東昭会」である。この会は昭和五十八年に、勝沢東部に住む昭和生れの若者全員で結成された親睦団体であるが、話し合いの過程で、中断されている「秋葉祭」を復活させることに意見が纏り、昭和六十年に、復活第一回の祭りを開催した。以後毎年主催の役を買って出て、現在まで祭りは継続されている。この間、昭和六十三年と平成四年の暫らく途絶えていた本山への代参も行い、名実ともに祭りは復活された。本山は静岡県天竜市の北方、周知郡にある、秋葉寺の本堂に安置されている、三尺坊大権現(防火鎮護の神)である。代参者は祈祷の後、本山のお札を拝受し、帰参後之を各戸に配布して務めを終る。
 尚秋葉祭とは直接関係はないが、正月が終ると秋葉様の境内に、古い達磨や神社、仏閣のお札などが沢山納められるようになったのが契機となって、昭和六十三年の小正月から、この境内で、「どんど焼き」が復活し、秋葉祭りと相俟って、地域ふれあいの年中行事となっている』
(「芳賀村誌・芳賀の町誌」より抜粋)
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 左は青面金剛塔、右は秋葉山大権現。
 左奥には五基か六基程の庚申塔が草に埋もれている。
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大鳥神社(鳥取町)

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 鳥取公民館の北東100m程の位置に鎮座する大鳥神社(前橋市鳥取町310)。
 ストリートビューでは駐車場が無さそうに見えるが、鳥居の前に駐車できるスペースがある。

『群馬縣管下上野國南勢多郡鳥取村字打出 村社 大鳥神社
祭神 大日孁命 山邊之大鶙 大山祇命 菅原道真公
由緒 不詳
   明治四十年十一月四日許可、本社境内末社大山祇神社及仝大字村社鳥取神社、同境
  内末社弐社ヲ合併、同時ニ村社大鳥神社ト改称ス
   大正七年三月廿九日明治三十年勅令第九十六號ニ依リ神饌幣帛料供進神社トシテ指
  定セラル
境内末社 七社
 諏訪神社  祭神 建御名方命
 秋葉神社  祭神 迦具土命
 稲荷神社  祭神 保食命
 熊野神社  祭神 速玉男命 伊弉冉命 事解男命
 八阪神社  祭神 素盞嗚尊
 大山祇神社 祭神 大山祇命
       明治四十年十一月四日許可本社へ合併
 厳嶋神社  祭神 市杵嶋姫命』
(「上野国神社明細帳」より抜粋)

『鳥取字内出に鎮座、祭神は大日るめの尊、山辺之大鶉・大山祇命・菅原道真公の四柱である。本社はもと神明宮、本村字八王子の鳥取神社山辺之大鶉を合祀して、明治四十年十一月に大鳥神社と社名を改めた。鳥取神社は上野国神名帳で鳥取明神といっているのに当ると伝えられるが明らかでない。社殿は昭和九年八月改築の四尺五寸銅板葺神明造である。拝殿は二間三尺に、二間の桟瓦葺入母屋造りで、幣殿をもって繋いでいる。境内末社は、六社で次の通りである。諏訪神社・秋葉神社・稲荷神社・熊野神社・八坂神社・厳島神社。
(中略)
群馬県下上野国南勢多郡芳賀村大字鳥取村八王子 村社 鳥取神社
一、祭神 山辺之大■
一、由緒 垂仁天皇二十三年冬十一月天皇大殿ニ立給フ時ニ鵲大虚ヲ渡ル天皇侍臣ニ告テ
    曰ク誰カ鶯ヲ捕テ献センモノカアルト於是湯河板挙奏シテ曰ク臣必ス捕テ之ヲ献
    ント遂ニ但馬国ニ至リ捕テ奉ル
     天皇大ニ喜ヒ給ヒ之ヲ賞シテ姓ヲ鳥取造ト賜ト云尚按スルニ鳥取ノ村号亦此神
    名ヨリ出タルナラン上野国神名帳ニ従三位鳥神明神ト見エタルハ即是ナリ。(明
    治二十八年五月現在の神社寺院明細帳による。)』
※■部分は席鳥。IMEパッドでは出て来ないが、鶙の異体字ではないようなので、なんらかの異体字であろうか。

『鳥取神社
所在地  勢多郡鳥取村
祭 神  湯河板挙命
祭 日  九月一日
境内末社 菅原社・大山祇社
由 緒  垂仁天皇二三年冬十一月、天皇鵠のわたるのを見、この鳥の献上を望みたると
    ころ、湯河板挙命但馬国まで行き捉え献上したので姓を鳥取造と賜わる。鳥取の
    村号はこの神名より出たものであろう。上野国神名帳に従三位鳥取明神とあるの
    はこの神社である。現大鳥神社』

『大鳥神社
 昔狩人が武蔵野で大きな鳥を見つけて、どうしても射止めようとして追いかけて来て、やっと今の鳥取でこの鳥を射止めることが出来た。ここに今の鳥取の地名が生まれた。
 この鳥は余りにも大きかったのでこれを祭って大鳥神社としたという』
(「芳賀村誌・芳賀の町誌」より抜粋)

 山辺之大鶙(やまのべのおおたか)と湯河板挙命(ゆかわたなのみこと)の二つの名があるが、古事記では山辺之大鶙、日本書紀では天湯河板挙と記されているとのことで、どうやら同一人物であるようだ。
 余談ではあるが、古くはこちらに鳥取城と言う城があり、戦国時代初期の記録に名が出てくるのだそうだ。つまり、ここ城跡でもあるのね。
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 鳥居。
 額束の裏に「再建立 享和二壬戌歳十二月吉日」と刻まれている。享和二年は1802年。
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 拝殿。
 瓦の落下の危険性があるとのことで、周囲にトラロープが張られている。なのでロープの手前からお賽銭を放り込んでみたが、弾かれた○刀乙
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 本殿。
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 裏手から。
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 道祖神×3と天満天神宮。
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 秋葉大権現と末社群。
 左端は昭和十五年五月七日建立の諏訪神社。石祠三基は何神社なのか不明。
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 本殿西側にも境内社。
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 何神社なのかはわからない。
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 庚申塔と念仏供養塔、社号標石。

小暮神社(富士見町小暮)

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 赤城大鳥居がある小暮交差点から北東へ250m程、ふじみじどうかんの西隣に鎮座する小暮神社(前橋市富士見町小暮815)。
 敷地内に入っても良いのか少し悩んだが、そこにいた人に尋ねてみたら大丈夫だと言うことだったのでゲートを通って神社近くに駐車。

『小暮神社
 富士見村大字小暮字八幡に鎮座し、祭神は誉田別命、埴山姫命、素盞嗚命、大日孁命、菅原道眞、水分神である。祭日は十月十五日、宮司は塩原行雄である。由緒は詳らかでないが明治四十年に赤城山山頂大洞の赤城神社に合祀されたが村人の総意に依り、新たに昭和二十三年に至り旧地たる小暮字八幡に復帰し、以前は八幡宮であったが、他の神社を併せて村名をとり小暮神社と名付けられたものである』
(「富士見村誌」より抜粋)
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『前橋市指定重要文化財 旧小暮一の鳥居
指定年月日 平成7年10月1日
所 在 地 前橋市富士見町小暮814 小暮神社
 この鳥居は、江戸時代後期の宝暦11年(1761)に小暮村(現前橋市富士見町小暮)の人たちにより赤城山信仰のシンボルとして小暮村内に建てられたが、天明4年(1784)に、小暮の十字路に移され、大洞赤城神社の「一の鳥居」として親しまれてきた。昭和40年(1965)に有料道路建設に伴って解体され、赤城山頂大洞の旧赤城神社に移築された。しかし、山頂の風雪による傷みが激しくなったことから、平成6年に現在の小暮神社に、再度移転された。鳥居の基礎石にはこれらの経緯が次のとおり刻まれている。
  宝暦十一年辛巳十一月吉日 此華表於南而建立  ※華表は鳥居のこと
  天明四年甲辰年二月吉日  此処江引再建之   願主 小暮村中
 鳥居は、高さ6.45メートルで、その形式は両部鳥居という2本の本柱を4本の支柱で支えるものである。
 鳥居上の扁額は、江戸時代後期の僧侶ので書道家の「角田夢幻」の書である。
 「角田夢幻」は、群馬県下野田村(現吉岡町下野田)出身で、津久田村(現渋川市赤城町)に住した。寛政4年(1792)に上洛し、京都大善院の住職となる。その際、書が時の大納言の目に止まり、光格天皇に千字文を献上したことで知られる。上毛三筆の一人に数えられる。
 現在の小暮十字路にある鉄筋コンクリート製の大鳥居に掲げられる扁額はこの額を拡大したものである』
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『旧一之鳥居の由来
 この赤鳥居は宝暦十一年に小暮地内に建立され浅間大噴火の
翌天明四年に赤城火山鎮撫のため一之鳥居として赤城登山口に
移築された その時書家の角田夢幻が赤城山の風格を豪快に表
わす額文字を揮毫している この鳥居は近郷稀な優雅な形で昔
から小暮の一之鳥居として親しまれ地域の象徴として名声を高
めてきた 昭和四十年に赤城有料道路建設の折この貴重な文化
財の解体撤去を惜む多くの人々の努力で赤城大洞に移築された
しかし山頂の厳しい風雪に材質の損傷も拡がり それを心痛し
た小暮五区民が浄財を募り村の援助も得て温和な小暮の里に遷
し緑に映える真紅の鳥居を補修復元出来た この由緒ある木造
の赤鳥居が二百三十年以上も完全な姿で残っていることは郷土
の誇りとする貴重な文化遺産であり 生きた歴史資料として先
人の願いを継承し小暮区民の安寧と繁栄を祈念するものである
 平成六年十一月吉日』
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 拝殿。
 左側の石灯籠には「天明三癸卯天臘月吉日」、右側の石灯籠には「寛政八丙辰七月吉立」と刻まれている。天明三年は1783年で寛政八年は1796年。
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 斜めから。
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『長者石(不老長寿の石)
 此の石は小暮神社前広川広一氏宅前に大きな塚がありその塚の前に巽の方向に向けられ据えられていた
 この石を小暮邑人は長者石と呼びこれを崇拝し毎年拾月十五日に家々では赤飯と甘酒を作りこれを供えて不老長寿を願って邑中のお祭りをしてきた近年この風習は薄らいでいる
 このような歴史的文化財を埋らしてはと 富士見村郷土研究会の池田建一氏 井口清氏が発起人となり永久保存のため各方面に渉り承諾を得て中村造園の協力作業に依り小暮神社境内此処に鎮座したものである
 願くはこの歴史的由緒ある小暮邑の貴重な宝財を大切にお守りすると共に人々は健康と幸福そして家内安全を祈りお手を合せることを希うものである
 平成四壬申拾月吉日』
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 赤城大鳥居。
 200m程離れた位置から見てもこの大きさ。大洞赤城神社に参詣する予定は当面無いので近寄っての撮影はしなかったのだが、どうせ近くに行ったのだから撮っておけば良かったかな。

 以上で6月4日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA15mm、FA43mm、DA20-40mm、50-150mm II。
 この後は九十九山で古墳の石室開口部を見て、それから群馬県立文書館に向かい資料を漁った後帰宅。

大峯神社(嶺町)

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 嶺町公民館の北東60m程の位置に鎮座する大峯神社(前橋市嶺町1)。
 神社の方には駐車スペースは無いので、嶺町公民館に駐車。

『群馬縣管下野國南勢多郡嶺村字寺間 村社 大峯神社
祭神 建御名方命 菅原道真公 譽田別尊 大山祇命
   相殿 倉稲魂命
由緒 不詳、天明三年信州浅間山噴火ノ時特異ノ神驗アリシニヨリテ當時ノ領主松平大和
  守ヨリ金三円献納有タリ、即チ此金ヲ以テ石鳥居ヲ造立ス、倉稲魂命ハ明治十一年合
  祭
   明治四十年四月廿四日許可、仝大字無格社八幡宮、無格社若宮八幡宮、無格社大山
  祇神社及本社ヲ合併、村社大峯神社ト改称、明治四十年五月九日合併済届出
   明治四十四年九月一日明治三十九年勅令第九十六號ニ依リ神饌幣帛料供進神社トシ
  テ指定セラル
境内末社 三社
 八坂神社   祭神 素盞嗚尊
 埴山姫神社  祭神 埴山姫命
 琴平宮    祭神 大物主命』
(「上野国神社明細帳」より抜粋)

 元は諏訪神社であったが神社合祀の際に改称した、と言うのはよくあることなのでわかるが、嶺神社ではなく大峯神社になったのは何故なんだろう。
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 鳥居。
 柱には「明和九壬辰歳四月吉日」と刻まれているので、1772年の建立。
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 拝殿。
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 狛犬。
 台座には「昭和八年四月村社改築記念」と刻まれている。
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 拝殿前には寛政十一己未(1799)七月造立の石灯籠。
 幣殿横にも石灯籠。左奥の石灯籠には「寛政十一己未稔七月吉祥日」「領主當邑 池田榮蔵」と刻まれており、手前の舟形の台座が付いた石灯籠には「延享四丁卯歳五月吉日」と刻まれている。延享四年は1747年なので、寛政十一年とは五十二年の開きがある。
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 猿田彦尊。
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 神楽殿。
『大峯神社
 大峯神社は、嶺町の氏神様で、嶺墓地公園へ向かう道路の右手下の寺間と言うところに鎮座している。
 この神社の最大の特色として、本殿の手前東寄り(巽方)には、立派な神楽殿がある。この神楽の歴史は、明治十六年に、神奈川県御嶽神社あてに出された「里神楽執行伺い書」が遺っていうことから、約百年になる。その間、芳賀地区内の他の神社において、神楽の奉納をしたり、また、明治三十六年には、伊勢神宮への神楽奉納をしたりして現在に至っている。
 戦後三十年後頃より十五年間ほど、後継者不足により、奉納ができなかった時期もあるが、現在では、毎年、八十八夜に奉納されている。
 舞は、式舞、興舞あわせて十二座(天狗の舞、四神、鈿女、岩戸、鍛冶屋、小屋根、鯛つり、鬼金、火の神、種蒔き、両刀舞、造木)からなっているが、十五年間途絶えていたために、三座(種蒔き、両刀舞、造木)ができなくなってしまい、現在は九座を奉納している。
 この神楽は特に大きな特徴はないが、明治時代に京都でそろえられたと伝えられている面があり、他の神楽の面より、一回り大きいといわれている。
 現在は十五名で神楽の伝承につとめているが、後継者育成のため、子供たちに神楽を教えたところ、熱心に取り組み、今では、いつでも上演できるほど上達したことは、頼もしいかぎりである。
 大峯神社の祭日は、四月の十五日の春祭り、五月二日の稲荷祭り、十月十五日の秋祭りである。祭りには、必ず神楽が奉納される。
 数年前には、嶺町の公民館の敷地内に神楽の諸用具を保存するため、完全な保存庫ができた。
 また、春秋の祭りには幟を立て町の役員が集まり、神官を招き祝詞をあげ、町中で参詣する。現在は、組長が氏子総代を兼ねて祭事にあたっている。
 このような町の伝承文化は、のちのちまでも守り続ける事に大きな意義をもつものと思う』
(「芳賀村誌・芳賀の町誌」より抜粋)
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 社殿西側から。
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 本殿裏に稲荷社。
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 稲荷社の横に末社群。
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 稲荷社の裏にも末社。
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 嶺町公民館敷地端の庚申塔群。

小坂子八幡神社(小坂子町)

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 芳賀団地の東側に鎮座する小坂子八幡神社(前橋市小坂子町598-1)。
 鳥居は大正十年(1921)四月の建立。

『群馬縣管下上野國南勢多郡小阪子村字西新井 村社 八幡神社
祭神 譽田別尊
   素盞嗚命 大山祇命 伊弉冊命 速玉男命 事解男命 建御名方命
   菅原道真公 大國主命 火産靈命 大物主命 大日孁命
由緒 不詳 明治四十年六月六日許可、本社境内末社八坂神社、大山祇神社、仝境内末社
  二社、若宮八幡宮及同大字無格社熊野神社、無格社諏訪神社、無格社菅原神社、無格
  社愛宕神社、同境内末社一社、無格社神明宮ヲ合併、同時ニ村社八幡神社ト改称シタ
  リ
   明治四十三年十二月廿三日明治三十九年勅令第九十六號ニ依リ神饌幣帛料供進神社
  トシテ指定セラル
境内末社 三社
 厳島神社   祭神 市杵嶋姫命
 猿田彦神社  祭神 猿田彦命
 大雷神社   祭神 大雷命』
(「上野国神社明細帳」より抜粋)

『小坂子の字西新井に鎮座する。祭神は誉田別尊・伊弉冊之命・速玉男命・事解男命・建御名方命・菅原道真公・火産霊神・大日るめの尊である。明治四十年、字岩ノ下熊野神社、字諏訪前諏訪神社、字下中川菅原神社、字霞皆戸愛宕神社、字向原神明宮を合祀して村社八幡神社とした。境内には厳島神社・八坂神社・大山祇神社・猿田彦神・若宮八幡宮・大雷神社・八千矛神社・琴平宮の石宮が末社となっている』
(「芳賀村誌・芳賀の町誌」より抜粋)
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 拝殿。
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 手水舎。
 猫が水を飲んでいた。人に馴れているようで、めっさ擦り寄って来る子もいたが、ごめんよー、エサ持ってないのよー。
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 狛犬。
 台座には「大正十一年」「壬戌二月四日」と刻まれているので1922年の造立。
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『八幡宮ご案内
小坂子町字西新井に鎮座する祭神は、誉田別尊外十二神である、外に明治四十年六月村内の字岩の下から熊野神社字諏訪前から諏訪神社字下中川の菅原神社字霞皆戸から愛宕神社字向原の神明宮をここに移して合併した。
戦後、スポーツ広場に利用するため、社前東南にあった神楽殿を社務所の隣りに移動した。境内には樹齢三百年の赤松の外、黒松の大樹が多く繁茂していたが、台風や松食い虫によって、ここ十年ほどの間に消滅し、今は、根株を残すのみである。神社は、近隣住民の初詣など繁昌を極めている。神社の創立、由緒などは村に伝わる古文書類の戦災による焼失によって不詳であるが宝物の太刀二振と神鏡三面は残され別保管されている。例大祭は四月十五日と十月十五日である。
平成元年十月十五日』
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 ちょっと引いて。
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 本殿。
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 斜め後ろから。
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 社殿屋根修復記念碑。
『社殿屋根修復の経緯
 大正二年に大がかりな改修を行った八幡神社は、これまで補修等の維持管理を行ってきたものの、長年の経過から社殿等に傷みが発生。全体に老朽化が進んでいることから、近年、大きな懸案となっていた。
 こうした事態を解消するため、平成二十年四月、氏子総代から町総会で神社の屋根修復について提案があり、二十一年九月、町内の有識者で委員会を構成、屋根修復工事計画を策定し翌年四月の町総会に提案、この計画が了承された。
 その後、工事の円滑化を図るため評議員や幹事等を新たに委員に加え、弱体であった推進組織を強化、工事の障害となる樹木の伐採等を進める一方、浄財の確保に努めた。この結果、町民や篤志家等から多大な浄財が寄せられ、これに神社の拠出金等を加えた総額は壱千弐百万円に達し、懸案であった社殿や便所等の工事が完成した』
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 社殿東側の末社群。
 左端の石塔には歸眞…怪? 惶? 三文字目がよくわからないが、まぁそんな感じの文字が刻まれている。なんだろうこれ。その右側の石塔には「諏訪明神 南無妙法蓮華経 荻原りやう建之」とあり、その右隣の石祠は冨士嶽大神。残りの五基の石祠はいずれも不明。その奥は赤城大明神。右端は御嶽山座王大権現。
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 末社。
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 社殿西側の末社群。
 右端は城峯神社。他は不明。
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 裏参道から。
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 裏参道入り口には「八幡宮と小坂子城跡」と書かれた案内標が建てられている。
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勝城神社(勝沢町)

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 群馬県道101号線の脇、勝沢町集会所隣に鎮座する勝城神社(前橋市勝沢町387)。
 一応鳥居の前に車を置けるスペースはあるが、狭い。
 鳥居の額束の側面に「安永四乙未歳」と刻まれているので、1775年に建立されたものだろう。

『群馬縣管下上野國南勢多郡勝沢村字西曲輪 村社 勝城神社
祭神 譽田別尊
   大日孁尊 倉稲魂命 須佐之雄命 大山祇命 水波能女命 大物主神
   経津主命 高産靈命
   天御中主命 神靈産命 八衢彦命 八衢姫命 久那斗神
由緒 不詳、明治四十年五月卅一日許可、本社境内末社稲荷神社、神明宮、八坂神社、若
  宮八幡宮、大山祇神社及仝大字神明宮、其境内末社四社、仝無格社若宮八幡宮、其末
  社弐社ヲ本社ヘ合併、同時ニ村社勝城神社ト改称シタリ
   明治四十四年八月二十一日許可、仝村字勝谷戸無格社一之宮神社、仝境内末社二社
  ヲ合併、氏子ヲ七拾八戸ト更正セリ
   大正五年三月十日明治三十九年勅令第九十六號ニ依リ神饌幣帛料供進神社トシテ指
  定セラル
境内末社 四社
 菅原社    祭神 菅原道真公
 三峰神社   祭神 伊佐奈美命
 猿田彦神社  祭神 猿田彦命
 東照宮    祭神 徳川家康公』
(「上野国神社明細帳」より抜粋)

『勝城神社
 その昔、信仰の対象が神社であったため、氏子集団が氏神として祀ったものと思う。
 過去の歴史を見ると、天明二年(1782)の戸数は、九十一戸だったが、どうした事か百年後の明治十四年(1881)には八十戸とかなり減っている。
 その当時(明治十二年の社寺堂一欖表)勝沢には、勝城神社の前身である八幡宮があり、祭神は誉田別尊が祀ってあり、境内の末社は九つの宮社(菅原社、八坂社、三峯社、若宮八幡宮、稲荷社、東照宮、神明宮、大山祇社、猿田彦社)がある。
 二社目は、五十嵐曲輪に祀られていた一宮神社である。一宮という社名の神社は本県では富岡市の貫前神社が有名で、赤城神社が二宮である。祭神は貫前神社と同じ経津主命である。境内の末社は二つの社(造化社、道祖社)である。
 三社目は、北曲輪に神明宮が祀られていた。祭神は大日霊女尊であり、境内の末社は四つの社(八坂社、稲荷社、大山祇社、水神社)である。
 四社目は、現在の明和幼稚園北側の芝居若宮に若宮八幡宮が祀られていた。祭神は、誉田別尊で境内の末社は二つの宮社(琴平社、神明宮)があった。
 この四箇所の宮、神社が明治二十二年の町村合併により、芳賀村が誕生し「大字勝沢」が生まれたことにより、神社も一社にまとめる動きがでてきた。その後、明治四十五年五月三十一日に現在の位置、八幡宮に他の宮社を合併し勝城神社と改称した。
 この神社は、社地二百七坪(六百八十三平方メートル)の中に大正十五年五月二十六日(大正八年十二月類焼)に建造され、勝沢町の氏神として現在にいたっている』
(「芳賀村誌・芳賀の町誌」より抜粋)
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 拝殿。
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 留蓋瓦。
 元は八幡宮だから波の図柄や三つ巴紋はわかるとして、水……?
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 狛犬。
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 本殿。
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 末社群。
 左から稲荷社、不明、天満宮、不明、不明、山神、不明、不明、不明、不明、天満宮、一宮社。その奥には猿田彦や金毘羅大権現、道祖神、そして神祖宮と刻まれた石額などが並んでいる。
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 猿田彦大神と大辨財尊天。

八雲神社(浦和区元町一丁目)

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 笹岡稲荷神社から370m程東に鎮座する八雲神社(さいたま市浦和区元町1-21-3)。
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『八雲神社 御由緒
 さいたま市浦和区元町一‐二一‐三
□御縁起(歴史)
 当社は、氏子から「天王様」と呼ばれ親しまれている。創建の年代は明らかでないが、口碑によれば、往古、本太を疫病が襲い多くの村人が倒れたため、牛頭天王社を勧請し、神輿を作って疫病消除の祭りを始めたという。祭神は建速須佐之男命である。
 氏子の旧家は、石井・石塚・加藤・吉野などの姓を名乗る家々で、中でも石井重徳家は名主を務めた家柄である。現在、当社の境内地は石井重徳家ほか五〇名の共有地となっている。また。境内地周囲の土地は、当社の北方に居を構え、屋号を「ホウエンサマ」あるいは「ホウゲンサマ」と呼ばれる石井賢一家の所有である。その屋号やかつてその庭先に不動堂を祀っていたことなどを勘案すると、同家は「風土記稿」元太村の項に見える「光台寺 本山修験、中尾村玉林寺の配下、医王山光膳寺と号す、本尊不動」の裔と推測され、往時当社の祭祀にかかわっていたものであろう。
 また、「風土記稿」元太村の項には、天台宗延命寺の境内社として「天王社」が見え、あるいはこの社が当社のことであるとも考えられるが、現在当社と延命寺は一キロメートルほど離れており、往時の両者のかかわりについては明らかでない。
 明治初年の社格制定に際しては、地内の氷川社が村社とされ、当社は無格社とされた。
□御祭神と御神徳
 建速須佐之男尊・・・災難除け、安産、家内安全
□御祭日
 夏祭り(七月中旬)』
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 三峯神社。
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 石仏群と末社。
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 左から青面金剛(宝永二天乙酉年(1705)三月吉日)、馬頭観音(弘化二乙巳天(1845)四月吉日)、馬頭観音(寛■午年立)。
 寛の付く元号で午年は寛平十戊午年(898)か寛弘三丙午年(1006)、寛仁二戊午年(1018)、寛治四庚午年(1090)、寛元四丙午年(1246)、寛正三壬午年(1462)、寛永七庚午年(1630)、寛文七丁未年(1667)、寛延三庚午年(1750)、寛政十戊午年(1798)となるが、他の石仏の造られた年から見て寛文以後だろうなぁ。
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 庚申供養塔(延享三丙寅(1746)天月日)、不動明王(天保三壬辰(1832)三月吉日)。

 以上で5月28日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA15mmとDA20-40mm、50-150mm II。X30。
 この後は大宮で新刊を購入してから帰宅。

笹岡稲荷神社(浦和区常盤三丁目)

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 浦和橋の東側、常盤三丁目自治会館隣に鎮座する笹岡稲荷神社。
 鳥居をくぐって左(北側)に笹岡大稲荷神社(さいたま市浦和区常盤3-26-13)、右(南側)に笹岡小稲荷神社(常盤3-27-17)。
 何故二つあるのだろうと思いググってみると、名前は同じだがそれぞれ別の宗教法人であるのだそうだ。
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 大稲荷社の鳥居。
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 社殿。
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 側面には金属製の小さい鳥居が括り付けられている。
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 お狐さま。
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 小稲荷社。

三角稲荷神社(浦和区本太三丁目)

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 国道463号線高架下の三角地に鎮座する三角稲荷神社(さいたま市浦和区本太3-27-1)。
 鳥居の柱には「明和七寅歳二月初午」と刻まれているので1770年の建立。また幟枠には「神靈崇萬古」「民福受千秋」「明治二十五歳初午 當所氏子中建之」と刻まれている。
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『三角稲荷神社 御由緒
 さいたま市浦和区本太三‐二七‐一
□御縁起(歴史)
 本太の西端に鎮座する当社は、旧本太村の北部一帯に古くから住む石井姓と石塚姓を名乗る両一族が氏神として祀った社である。
 本太村の光膳院光台院には、かつて不動尊、阿弥陀如来、稲荷社の三つの神が祀られていた。本太の西端に鎮座する当社は、村人達がこの神を戴き、本太の三角地に社を建立して、お祀りするようになった。祭神は宇賀御魂神である。
 建立した年は不明であるが、現在ある石造りの鳥居が明和年間に建てられたものなので、それ以前の創建ということになる。また、社名にある「三角」については、境内地が三角形をした土地であったことに由来し、近所の人達からも崇拝されている。
 「風土記稿」本太村の項に、「稲荷社 光台寺持」とあり、江戸期は光台寺が別当を務めていたことがわかる。更に、この光台寺については、同項に「本山修験、中尾村玉林寺の配下、医王山光膳寺と号す、本尊不動、弥陀堂」とある。同寺は明治初期までには廃寺となったようであるが、現在の元町一丁目の石井斉家がその子孫で、「ホウエン(法印)様」の屋号で呼ばれている。なお、同家も当社の氏子である石井一族の一員である。
 本太の旧村社であった本太四丁目に鎮座する氷川神社の「明細帳」によると、無格社であった当社は、明治四十年六月七日に同社に合祀されたことになっているが、昭和九年から二十年の間に同社の「明細帳」から削除され、再び当社の「明細帳」が復活している。ただし、氏子の中では当社が氷川神社に合祀されたことや、復祀したということが実際に行われたことはなかったといわれ、あくまで書類上の操作で行われたことのようである。
□御祭神と御神徳
 倉稲魂命・・・五穀豊穣、商売繁昌
□御祭日
 初午祭(二月初午)』
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 二の鳥居。
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 拝殿。
 手前には鳥居の台石が残っている。以前はここにもう一基の鳥居があったのだろうか。
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 力石。

三峰神社(浦和区常盤一丁目)

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 慈惠稲荷神社の60m程北東に鎮座する三峰神社(さいたま市浦和区常盤1-3)。
 鳥居の柱には「昭和六年七月一日」と刻まれている。
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慈惠稲荷神社(浦和区常盤一丁目)

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 常盤公園の北東、埼玉県道65号線に面して鎮座する慈惠稲荷神社(さいたま市浦和区常盤1-5-15)。
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 市神。
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『さいたま市指定史跡 浦和宿二・七市場跡
 指定年月日 昭和三十七年三月三十一日
 浦和の市場は戦国時代に開設されたものと考えられ、天正十八年(一五九〇)には豊臣秀吉の家臣である浅野長吉から喧嘩口論などを禁じた「禁制」が「浦和市」に対して出されています。浦和市は月六回開かれる六斎市と呼ばれるもので、毎月二と七の日に開かれたため(二日・七日・十二日・十七日・二十二日・二十七日)、「二・七市場」といわれています。
 江戸時代、十返舎一九は「代ものを 積重ねしは 商人の おもてうらわの 宿の賑い」と詠み、浦和の市の賑いを表現しています。
 また、川口芝の長徳寺住持である龍派禅珠は、ある歳の暮れ、浦和の宿で萩。屠蘇、麹、膠、末醤(味噌と醤油)、新暦などを購入しています。
 周辺では、蕨(一・六の市)、鳩ヶ谷(三・八の市)、与野(四・九の市)、大宮(五・十の市)で市が設けられており、毎日どこかで市が開かれていたことになります
 平成十九年三月二十二日』
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 二の鳥居。大正十四年(1925)二月建立。
 手前の庚申塔の側面には「富士山 大山 引又 道」と刻まれている。昔は道標でもあったのだろうか。
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 お狐さま。
 台座には大正十四年二月吉日と刻まれているので、二の鳥居と一緒に奉納されたものなのかも。
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 拝殿。
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 木鼻。
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 宝珠紋。
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 本殿と狐の彫刻。
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 本殿裏の末社。
 何神社なのかはわからなかったが、ググってみたところ八雲社であるようだ。ちなみに右奥の小さな石柱は疱瘡神。
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仲町稲魂稲荷神社(浦和区仲町二丁目)

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 ファミリーマート浦和仲町店の西側、細い路地の脇にひっそりと鎮座する仲町稲魂稲荷神社(さいたま市浦和区仲町2-9)。
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 お狐さま。
 台座には「昭和四十四年五月吉日」と刻まれている。
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第六天神社(浦和区岸町四丁目)

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 調公園北側の民家の隙間に鎮座する第六天神社(さいたま市浦和区岸町4-18-6)。
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『調町内鎮座第六天神社縁起
 旧岸村の清岡。この地に鎮座ましまして、調神社とともに七社明神の一に数えられ、近郷近在の人々に尊崇されてきた第六天神社はわがふるさとの奉斎するいわれある土地の守護神であります。
 御祭神は高天原第三神朝の第六代天津日嗣と称えられる。
 面足命(別名 穂千田比古命)
 吾屋惶根命(神后)
をお祀りしているところから、第六天社。または一等六天社とも申し上げ、その御子の倉平顔比古命(クラヒラツラヒコノミコト)や、金子甘美金希代命(カネコウマシカキシロノミコト)とともに、穀物貯蔵法や刀剣、鉾や農機具等の製法発明等、農産業発展に尽くされた神様で、面足命とおくり名のあるとおり、福よかな好美顔で高天原でまつりごとをされたので、他の神々にも敬慕され、縁結び、商売繁昌、子育神、火難災厄除神……等民福安栄の象徴として、後世までお祀りされ信仰されてきた、縁起のよい神様であります。
 その歴史的伝統的由緒等は、慶安二年の記録をはじめ、断片的ながらも事実がとどめられ、その由緒の正しさを今日に伝えております。
 昭和四十五年。当地、調自治会発起にて社殿の整備が行われ、ともに祭礼も恒例化したことを機に心よりこの故郷の弥栄を期待し、祈願するものであります。
 例大祭 七月二十日
 歳亘祭 一月 二日』
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 拝殿。

 調公園の中にも小祠があったのだが、この日は公園で骨董市が行われており、祠の周囲にもずらりと並べられていた為近寄れず。まぁ、また後で行った時にでもいいか。

調神社(浦和区岸町三丁目)

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 JR浦和駅の南西500m程の位置に鎮座する調神社(さいたま市浦和区岸町3-17-25)。
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 御神使の兎。
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『由緒畧記
当社は天照大御神、豊宇気姫命、素戔嗚尊の三柱を祭神とする延喜式内の古社にして古くより朝廷及び武門の崇敬篤く調宮縁起によれば第九代開化天皇乙酉三月所祭奉幣の社として創建され第十代崇神天皇の勅命により神宮斎王倭姫命が参向此の清らかな地を選び神宮に献る調物を納める御倉を建てられ武総野の初穂米調集納蒼運搬所と定めらるる、倭姫命の御伝により御倉より調物斉清の為め当社に搬入する妨げとなる為鳥居、門を取拂はれたる事が起因となり現今に到る』
 調(ツキ)神社と言う名のくせに御祭神は月読尊じゃないのかよと言いたくなるが、由緒を見ると、昔の税制度である租庸調の調が名前の由来なんですかね。天保年間に書かれた江戸名所図会には月読尊を祭神とすると記されていたりもするそうだけど。
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 調神社が有する文化財の案内板。
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 元宮司の像。なにゆえ……?
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 手水舎。
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 兎の口から水だばー。
 水盤の台石にも兎の姿が刻まれている。
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 拝殿。
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 神楽殿。
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 狛兎の先代様だろうか。
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 金毘羅神社。
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 調宮天神社。
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 池の中にも兎。
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 何故かある童子像。
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 長谷川かな女句碑。
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 池の上に架けられた橋を渡ると、
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 稲荷社の両部鳥居。
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 稲荷社。覆い屋の中の祠は調神社の旧本殿である。
 左側の小祠は稲荷社分社。その後ろには久久能智大神。
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 柵の向こうにも二つの祠が見えるが、入れないので何神社なのかはわからない。

白山神社(浦和区神明二丁目)

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 睦神社から北東へ向かって行くと、埼玉県道213号線から路地に少し入った所、民家に挟まれる形で白山神社(さいたま市浦和区神明2-24)がちんまりと鎮座している。
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 大槻大明神。
 万延元年(1860)三月二十一日の造立。

 白山神社の南西100m程の交差点傍に金山稲荷と書かれた扁額の掛けられた小祠があるが、塀やネットフェンスで囲われている為参拝できず。地図にも記載されていないし、屋敷神なのかな。
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