稲荷神社(馬場町)

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 前橋市消防団第十七分団三部屯所の北50m程に鎮座する稲荷神社(前橋市馬場町字小太郎29-1)。
 駐車場は無いが、境内の端になんとか駐車できる。

『群馬縣管下上野國南勢多郡馬場村字小太郎 村社 稲荷神社
祭神 宇迦之御魂神 大山津見神 火雷神 素盞嗚尊
由緒 不詳
   明治四十四年六月二拾九日許可、本社境内末社八坂神社、大山祇神社、疱瘡神社及
  仝村字新山無格社八坂神社ヲ合併セリ
   大正十年四月二十二日明治三十九年勅令第九十六號ニ依リ神饌幣帛料供進神社トシ
  テ指定セラル
境内末社 七社
 神明神社 祭神 大日孁命
 稲葉神社 祭神 御年神
 御嶽神社 祭神 國常立命
 琴平神社 祭神 大物主命
 八幡神社 祭神 誉田別命
 春日神社 祭神 建御雷神 天児屋命 齋主命 比賣神
 愛宕神社 祭神 火産靈命』
(「上野国神社明細帳」より抜粋)
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 一の鳥居前の常夜燈。
 側面に「天明七丁未年六月吉日」と刻まれているので、1787年の造立。
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 二の鳥居。
 額束の裏に「文化八年歳次未六月吉日」と刻まれているので、1811年の造立。
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 一の鳥居には「山神十羅刹 雷電王 稲荷大明神」、二の鳥居には「天王宮」と刻まれた額が掛けられている。
 一瞬、某雷電王閣下を祀っているところを妄想しそうになったが、こちらの御祭神は宇迦之御魂神と大山祇命、火雷神、素盞嗚尊の四柱なので、雷電王とは火雷神のことデスネ。
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 狛犬。
 台座には「昭和六十三年十月吉日」と刻まれている。昭和六十三年は1988年。
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 拝殿。
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 本殿。
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 本殿東側の末社群。
 右の小さな石祠三基は額部分に「意和羅」「御嶽山」「大頭羅」と刻まれているので、こちらの木曽御嶽信仰も大前田町の諏訪神社境内末社木曽御嶽三神と同様に順明行者の流れを汲んだものなのだろう。
 他の石祠はわからん。
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 本殿北西側の末社群。社日碑の他は不明。
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 文政十一戊子年(1828)造立の石祠。
 額部分に文字が刻まれてはいるのだが、薄くなっていて判読は難しい。
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 「南無妙法蓮華経 春日大明神」と刻まれた石塔と文化財案内板。
『稲荷神社の文化財
所在地 前橋市馬場町29-1 稲荷神社
前橋市指定重要文化財 あ・うん石仏 指定年月日 昭和54年4月1日
 「阿吽」とは、仏教において宇宙の始まりと終わりを表すほかに、一対のものを指し示す言葉としても用いられている。神社仏閣で遂に置かれた狛犬や仁王像など、口を開けた「阿形」、口を閉じた「吽形」一対の像のモチーフとして使用された。稲荷神社に残されたこの石像は摩滅が著しく、その像容や作られた年代は判然としないが、一対で作られたものと考えられ、この地域の歴史を伝えている。

前橋市指定重要有形民俗文化財 馬場の石造馬頭観世音立像 指定年月日 昭和54年4月1日
 馬頭観音は頭上に馬頭を抱く菩薩で、地獄や餓鬼などの六道から衆生を救う六観音の一つとされる。観音は通常、慈悲を表した柔和でやさしい表情で表現されるが、馬頭観音のみ恐ろしい憤怒相で表され、諸悪を打ち砕く菩薩と信じられている。稲荷神社に伝えられる馬頭観音は石造で、三つの顔と六本の腕を持った三面六臂で、表情はやはり憤怒相で表されている。手には剣や蓮華などの持物を持ち胸の前で印を結んでおり、非常に丁寧なつくりである。
 江戸時代になると、馬頭観音は農耕馬などの動物の守護神として、また旅の安全を護る菩薩として広く信仰を集め、各地で馬頭観音が造られた。この馬頭観音の台座には、「□是畜生 発菩提心」「寛延四(1751)年辛未 九月十六日」「施主 敬白」と刻まれており、農耕や荷物の運搬等、人々の生活を支えた牛馬などの動物たちの平穏無事を祈念した、願主の祈りを表していると考えられる』
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 あ・うん石仏。
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 地蔵尊と馬頭観音かな。
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 地蔵堂。
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 鬼子母神。
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 馬頭観世音。
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 その下に一面二臂の馬頭観音。
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 消防団屯所傍の道端に鎮座する天満宮と石祠二基。
 天満宮石塔には「天保五甲午歳二月建之 霊皇謹書」と刻まれているので1834年の造立。
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 群馬県道102号三夜沢国定停車場線の脇に大灯籠
 ここから900m程北上すると、苗島神社のそばにも大灯籠が建てられている。
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 群馬県道333号上神梅大胡線の脇、吉川酒店前に建てられた馬頭観音石塔
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 以上で7月18日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA15mm、DA20-40mm、50-150mm II。X30。
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熱田神社(茂木町)

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 茂木町自治会館入口脇に鎮座する熱田神社(前橋市茂木町377-7)。

『熱田神社
 茂木の鎮守様であった。今は、大胡神社に合併したので、奥の院だけあり、中組だけでまつっている。祭日は十月十七日のオクンチ。この日には、各家から赤飯をもっておまつりに行った。むかしは、この日は、子どもたちが灯籠をつけてまつった』
(「大胡町誌」より抜粋)

『群馬縣管下上野國南勢多郡茂木村字西小路 村社 熱田神社
 明治四十二年六月五日許可、仝村大字河原濱村字根古屋村社近戸神社ヘ合併、村社大胡神社ト改称セリ
祭神 日本武命
由緒 不詳
境内末社 六社
 菅原神社  祭神 菅原道真公
 諏訪神社  祭神 建御名方命
 大山祇神社 祭神 大山祇命
 石神社   祭神 八衢彦命 八衢姫命 久那斗神
 稲荷神社  祭神 保食命
 疱瘡神社  祭神 八十枉津日神』
(「上野国神社明細帳」より抜粋)
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 社殿前の石造物。
 ググってみたところ、「赤城南麓陶遊ロード」というブログにこちらの記述があり、それを見るとどうやら赤城塔の一部であるようだ。
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 小さな狛犬。
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 社殿裏に並ぶ末社群。

天王宮(嶺町)

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 嶺久保集会所の脇に鎮座する天王宮(前橋市嶺町)。
『天王様
 嶺の峰久保の藤沢川の岸に小高い、今より四百年前、田中城(嶺城)築城の時尾根の先を切残しておき、小高い塚を残し、藤沢川の名を取り、藤沢塚と称す。塚があって緑樹の生い茂った中に天王様がある。
 昔、大和守が参勤交替の帰りに悪病除けに祭ったものだといわれ、ここの木を切ると病気になると言っている。今も田圃の真中にここばかりは緑樹が生い茂っている』
(「芳賀村誌・芳賀の町誌」より抜粋)
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 右の石祠が天王宮。左は不明。
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『天王塚遺跡
古代より天王様と稱し嶺町字天神嶺五三二番地に東西五間南北十六間高さ三間総面積二畝十七歩の塚の頂上に部落の守護神として八坂様を鎮座し 毎年七月二十五日を祭日と定め永代に渉り親しまれて参りしが維時昭和四十五年二月部落に通ずる市道の改修に当り此の塚を撤去す
誠に愛惜の念に堪へず之を末永く後世に伝へる爲此の碑を建立す
 昭和四十五年二月 嶺久保部落一同』
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 庚申塔と馬頭観世音。
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天王宮(小坂子町)

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 小坂子町二区集会所の西220m程、十二沼の傍に鎮座する天王宮(前橋市小坂子町)。
 石祠の側面には「寛政五癸丑年十二月吉祥日」と刻まれているので1793年の造立。
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『天王様の由来
 この地域は地形からして山の多い所で、山仕事は住民の生活にとって大事な仕事で、山の神である十二様を信仰していた。
 ところが江戸時代、寛政年間のはじめ頃、この地域に疫病が流行り、村人は大変な難儀をした。
 困り果て、疫病払いをする事となり、代表者が最もご利益のある八坂神社(天王様)へ早速参詣し、疫病退散の願をかけ、お札をいただきおまつりしたところ、あれほど猛威を振るった疫病がたちどころに鎮まった。
 以来、天王様信仰が盛んとなり、寛政五(西暦一七九二)年に村人全員で石祠を造りこの地に祀った。
 時は移り明治となって、江戸時代からの村は大きく変わり、天王様は他の神社に先駆けて小坂子「八幡宮」に合祀されたが、明治十五(西暦一八八一)年頃、再びこの地に疫病が流行した。
 村人は昔の出来事を伝え聞いていたので、天王様の祠を元の位置に安置したところ、みるみる病人の容態は回復し、幾日も待たずに疫病は治まったと伝えられる。
 こんなことがあってから、天王様信仰は一層盛んとなり、縁日である七月十六日には子供の相撲大会が昭和三十五年頃まで行われると共に、今でも毎年、縁日には村人の無病息災を祈念し、一区関係者により祭典が続いている。
 こうした信仰を伝え先人の遺徳を偲ぶため、当組合ではこの地に天王様由来碑を建設し子孫に伝えるものである。
                      平成十八年七月吉日
                         小坂子第一区納税組合
                         (芳賀村史より撰文)』

 草が刈り取られ綺麗に手入れされているものだと思ったが、二日前が例祭日であったのならば納得だ。
 小坂子町自治会館のサイトには2013年の祭りの様子が記されている。

福守大権現(五代町)

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 五代南部中央公園の200m程東に鎮座する福守大権現(前橋市五代町)。
 五代神社からだと650m程。

『木福様の話
 木福様の御尊体は、板碑に刻まれた梵字の「キルク」「サ」「サク」の三字が大きな石面に刻まれている。キルクは、阿弥陀様、サは勢至様、サクは観音様で三尊仏を祀ったものである。境内に福守様、長さ三尺二寸、直径一尺三寸、重量四十余貫の巨砲が路傍にさらし出されている。この御神体を路傍にさらし物にしておいては風教上面白くない結果を招来するから速やかに取片付けのお触れが出たのが明治維新のことで、崇敬措く能わざる村の連中も命令にそむくこともならず五代神社に隣接する墓地へ木福様と福守様とを一緒に埋没してしまった。古老たちは、「あんな御無体の真似をしくさって何か不吉のことでもなければよいが」と顔をしかめて語り合ったが、それは、案にながわず悪病が拡まり、「五代悪病、芳賀肺病」などと悪宣伝されるようになった。こうなると地頭も糞もあるものか、場合によっては一揆を起すまでだと決意して墓地から掘り出し、月光冴える旧十月十四日を卜して木福様復活の大祭が行われた。
(中略)
 木福様は、雄渾なる石棒を御神体とする福守様と雑居するようになってから彼我混同され福守様の分身のように待遇されるようになってしまった。だから、木福様の祭りの夜はあたかも福守様の秋祭りのように思われて、木福様の方はなおざりにされ勝ちであるといわれる。
 古老町田栄之助さんの話によると、福守様の方は、明治維新に淋病に悩んだ男が、おのれの病気を癒したい一念から建て込んだもので、別に木福様と身寄り縁者の関係はない。木福様は、明治九年頃世話人だったという。私の先代の話によると、新田義貞公が、赤城山麓で戦争の時守り本尊である木福様(キルク様)を新田四天王の一人である篠塚伊賀守に背負わせて戦場を馳せていたが、さすが力自慢の伊賀守も、五代の丘陵へ来て背中から芝生へ下ろしてホッとした瞬間、どうしたことか力抜けがして、再びかつぎ出せなくなってしまった。やがて、起る法螺貝の響き、盤木の音、いわずと知れた攻防秘術を練って転戦の用意を知らせの合図だったのである。さア伊賀守も困り抜いてしまった。「出陣を今少しくお待ち下され」と弱音を吐くのも男らしくない。「拍子抜けがしてかつぎ出せない」とあってはさらさら男らしくないと身もだえをしていたのを見てとったのが、義貞公だ。「自分に背負いきれぬ代物をそちらに託したのが身の不覚、背負うには及ばぬ。この地に奉納して出陣しよう……」との御託宣に喜んだのは伊賀守とゆい緒の深い木福様をおいとけぼりにされた村人だった。時は仲秋満月の夜十月十四日だったので、爾来村人はその夜の歓楽に甘美するよう習慣づけられたのだとかたったという。(柳芳太郎氏著「猟奇の上毛」による)
 その霊験について、福守様を五代神社の近所に運ぶ時、一青年が「このくらい俺が一人でかついで行く」といってかつぎ出した。ところが、途中で重くなったためか肩から落してしまったため中央から割れてしまった。
 この青年は後に甲種合格で兵隊に行って足をけがしてしまって兵役免除となって帰郷した。しかし、この足のけがが兵隊での病院でも治らず帰されたためか、どこの医者にかかっても治やなかった。途方にくれて神様に見てもらったところが「福守様のたたりであるから福守様をもとのようにして信仰せれば治る」といわれた。当時割れた物を重ねて、御祈祷をして戴いた。あら不思議なるかな、さすがの難病もすっかり治った。この霊験を知った村人はコンクリートと鉄筋とをもってすっかり修繕して、今までは南部だけがお祭りしたものを五代全体の祭りとなった。大東亜戦争中警察の方から注意があったので、それから後はお祭りの日以外は、横にして埋められてある』
(「芳賀村誌・芳賀の町誌」より抜粋。明らかに誤字のような部分もあるが、中略部以外は原文のままである)
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 福守大権現。
 背面にも文字が刻まれており、中央の「天皇陛下萬々歳」という部分は読み取れたのだが、他は薄くなっていて少し読み取り難い。
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 阿弥陀三尊板碑と木福様。
 後ろの御神木は一度切り倒そうとしたことがあったのか、根元辺りに大きな切込みの痕が残っている。
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 板碑にはキリーク・サ・サクの種子が刻まれているとのことなのだが、ちょっとわかりにくい。
 その隣の木福霊神には補修された痕が見える。
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 「芳賀村誌・芳賀の町誌」に掲載されている写真には福守様の御神体である金精様が写っており、それは祭りの日以外は埋められているとのことである。
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 左奥から青面金剛を表すウンの種子と「八幅輪 万延元庚申 十二月朔日」と刻まれた石碑、庚申塔、如意輪観音。
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 なんだかよくわからない石。
 ただの石にしてはなんだか置き方が不自然なような気がするので、何らかの意味があるんじゃないかなぁと思うのだが、よくわからない。
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赤城神社(上泉町)

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 上泉町自治会館の北西240m程、県道76号線のそばに鎮座する赤城神社(前橋市上泉町1097)。
 桂萱村誌によると、こちらの御祭神は大己貴命で、祭日は六月十五日。境内社に菅原社と愛宕社があるとのことなのだが、はて、そんなのあったかな? 気付かなかったのか、或いは諏訪神社に合祀された際にそちらに移されたのか。
 鳥居の柱には昭和拾五年五月と刻まれている。
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 屋根と柱のみだが、これも拝殿になるのだろうか。割拝殿のようなものと考えればいいのかな。
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 狛犬。
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 石宮には覆いは無い。
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