菅原神社(青梨子町)

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 青梨子町集会所の隣に鎮座する菅原神社(前橋市青梨子町7)。

『群馬縣管下上野國西群馬郡青梨子村字天神 村社 菅原神社
祭 神  菅原道真公
由 緒  寛永十二年九月勧請
     明治四十四年十月三十一日幣帛料供進指定
境内末社 三社
 琴平宮  祭神 大物主命
 八坂社  祭神 素盞嗚命
 神明宮  祭神 大日孁貴命』
(「上野国神社明細帳」より抜粋)
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 一の鳥居。
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 二の鳥居。
 柱には「元禄六年癸酉四月吉日」と刻まれているので1693年の造立。
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 拝殿。
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 狛犬。
 台座には「明治三庚午年二月吉日」と刻まれているので1870年の造立。
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 金刀比羅宮。
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 八坂社と秋葉神、猿田彦大神。
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 神牛。
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 末社。
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 なんだかわからない石と菅公一千年紀念碑。
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 宮中献納俳句碑と筆塚。
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 境内西端にずらりと並ぶ庚申塔群。

 以上で8月11日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA15mmとFA31mm、DA20-40mm、50-150mm II。
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淡嶋神社(上青梨子町)

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 上青梨子町集会所の隣に鎮座する淡嶋神社(前橋市上青梨子町218)。
 鳥居の柱には「明治三十六癸卯年二月穀旦」と刻まれているので1903年の造立。

『群馬縣管下上野國西群馬郡青梨子村字神明西 村社 大木神社
祭神 大日孁命、少彦名命、大物主命
由緒 不詳
   明治四十五年七月十五日許可、仝所字神明西無格社淡島神社、仝境内末社一社ヲ
  合併、仝時に村社大木神社ト改称セリ
   大正十年一月二十八日明治三十九年勅令第九十六號ニ依リ神饌幣帛料供進神社ト
  シテ指定セラル
境内末社 五社
 八幡宮  祭神 誉田別命
 三峯社  祭神 木花咲屋姫命
 疱瘡社  祭神 久斯神
 愛宕社  祭神 大山祇神
 八坂社  祭神 素盞嗚命』
(「上野国神社明細帳」より抜粋)
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『淡島神社
所 在 前橋市青梨子町二百十八番地
御祭神 少彦名命
例祭日  十月九日
 元始祭 一月三日
 節句祭 三月三日
 夏 祭 七月十四日
由 緒 創立は天長年間、安永五年九月再建
    明治四十五年、古来 神明宮と称えていたものに同字神明西に奉祀せる 淡島
   神社、同境内地の末社琴平宮を合祀、村社 大木神社と社名を改称したが、昭和
   三十五年四月みたび淡島神社と社名を変更し今日にいたる。
    御祭神、少彦名命は少名昆那神とも言われ、神代の昔、大国主神と共に国を作
   り固められた。又 医薬治病の神であり、病災の消除、子宝安産、縁結びの神と
   して、その霊験は著しい。
    少彦名命を淡島神とも称し、女性の守り神として信仰厚く、特に雛祭り発祥地
   として、三月三日には、盛大に例大祭が行われている』
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 拝殿。
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 斜めから。
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 台座の側面には「御大典奉祝記念 平成二年十一月吉日 元宮改修工事」と刻まれたプレートが埋め込まれているので、こちらの石祠は淡島神社の元宮なのだろう。たぶん。
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 末社群。
 左から御嶽山大神、秋葉大権現、祇園牛頭天王宮、不明、不明、不明、不明、三峯社。「上野国神社明細帳」によると八幡宮、疱瘡社、愛宕社、八坂社もある筈なので、この何神社なのかわからない石祠がそれらであるのだろうか。
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 上青梨子町集会所前の水路縁に鎮座する双体道祖神。

八幡宮(清野町)

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 八幡川の畔に鎮座する八幡宮(前橋市清野町346)。
 八幡宮の前には車一台分程の幅の道が通るだけで駐車場などは無い為、ささっと参拝と撮影を。
 鳥居の柱には「享保十五庚戌卯月吉日」と刻まれているので1730年の造立。

『群馬縣管下上野國西群馬郡野良犬村字八幡前 村社 八幡宮
祭 神  品陀和氣命
由 緒  不詳、明治六年四月邨社ニ列ス
境内末社 六社
 八坂社  祭神 健速素盞男尊
      由緒 天明三年六月建立明治十年本村字屋鋪ヨリ移轉
 琴平社  祭神 大物主櫛甕玉尊
      由緒 不詳、明治十年五月本村字屋鋪ヨリ移轉
 神明宮  祭神 大日孁貴命
      由緒 不詳、嘉永六年九月十六日再建
 菅原社  祭神 菅原道真公
      由緒 不詳、明治十年七月本村字屋鋪ヨリ移轉
 三峯社  祭神 日本武尊
      由緒 不詳
 榛名社  祭神 埴山姫神
      由緒 不詳』
(「上野国神社明細帳」より抜粋)
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 社殿東側から。
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 末社群。
 左から三番目の石祠は榛名山大権現。右端の石塔は秋葉大権現。他は不明。
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『前橋市指定重要無形民俗文化財 野良犬獅子舞
 指定年月日 昭和48年9月24日
 所 在 地 前橋市清野町346 八幡宮
 清野町の八幡宮に伝わる獅子舞で、吉岡町南下の下八幡宮から慶長年間に伝えられたといわれている。「野良犬」とは清野町の旧村名の一つである。
 獅子舞は毎年10月上旬の八幡宮の秋祭りに奉納され、古くは、八幡宮の氏子が舞子とされたが、現在では広く清野町の住民によって守り伝えられている。
 本獅子舞の流派は「関白龍天流」といわれ、一人立ちの前獅子、中獅子、後獅子と呼ばれる3頭の獅子で舞う。その他にカンカチ・ササラ・棒使い・天狗・笛方・万灯や氏子中が加わり総勢20人を超える。
 獅子頭は、前獅子は黒漆塗りで螺旋状の角、中獅子は赤漆塗りで角が無く宝珠を戴き、後獅子は黒漆塗りで枝のある角を持つ。
 舞は13通りからなり、祭礼時には「宿」と呼ぶ練習会場の家から八幡神社まで絶間なく舞い続けられる。獅子は頭を左右に激しく振り、その動きは、市内の獅子舞の中でも最も勇壮なものである』

神明宮(池端町)

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 池端町公民館の北側に鎮座する神明宮(前橋市池端町157)。
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『神明宮
 この神明宮の祭神は、天照大神・別名大日霎貴命で、勧請年月日は不詳だが、上野国神名帳に従五位池岸明神の記録があり、これが池端神明宮ではないかと伝えられている。
 明治六年正一位小出神社、祭神経津主命を合併した。
 明治四十二年拝殿を新築し、平成七年本殿の一部を改修している。
 現在境内には次の末社がある。
        勧請年    祭神
秋葉大権現 天保六年   火之迦具土神
衣笠大神  明治三十一年 宇迦御魂神
八坂神社  明治三十二年 須佐之男命
 平成十年一月一日     氏子総代』

 「上野国神社明細帳」によると、境内社は小出社(経津主命)、雷電社(健御雷神)、琴平宮(大物主命)、八坂社(素盞嗚命)、菅原社(菅原道真公)、疱瘡社(健速須佐之男命)、大國主社(大國御魂命)、三峯社(倭建命)、榛名社(埴山姫命)の計九社あるとのことだが、現在どれがどの神社であるのかわかるのが上記の三社と言うことなのだろうか。
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 末社。左から不明、猿田比古神、双体道祖神、八坂神社。
 八坂神社の石祠の側面には「明治丗二歳芬七月吉日」と刻まれている。明治三十二年は1899年。左端の石祠は何神社は何を祀っているのかはわからないが、石祠の前面に「歸峯 木山執檢 大僧都行滿㳒印 尊」らしき文字が刻まれている。
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 参道と拝殿。
 社殿は清里3号墳と呼ばれる円墳の頂に建てられている。
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 石段の両脇に並べられた末社群。
 幸神の隣の石祠には「金毘羅大権現」と刻まれているので琴平宮であるとわかるが、他の石祠は不明。
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 本殿。
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 その脇に小出神社跡。
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 秋葉大権現。
 側面には「天保六年歳在乙未十一月良辰 葛西静壽謹書」と刻まれている。天保六年は1835年。
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 庚申堂。
 横のコンクリート壁には「池端町108番地北原賢宅前より移祭す 平成十一年四月吉日」と刻まれたプレートが埋め込まれている。
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 堂の左右に並べられた庚申塔群。

小出神社(吉岡町陣場)

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 陣場公会堂の南側に鎮座する小出神社(北群馬郡吉岡町陣場137)。

『小出神社
 陣場を通過する県道の中程、東側に「邨社小出神社入口」と刻まれた石柱が建てられてある。ここにあった四メートルに余る石灯篭は、数年前、境内巽の隅に移された。この石柱から約五〇メートル東進した所が、陣場の花火で知られた小出神社の境内である。天孫降臨に先だって武甕槌命と共に、中ツ国を平定した経津主命を祭神とし、武運の神としてあがめられてきた。
 人皇五十代桓武天皇延暦十八年(七九九)、皇子葛原親王御東征のみぎり、この地に御所を置き、陣所を建て、武運長久祈願の為、勧請されたといい伝えられている。祭典は春秋二回行われ、四月十五日の春祭りに奉納される太々神楽は、里神楽といわれた。
(中略)
 社務所から、小出神社西側に行った所に、道俟神と天王様を祭る。道俟神は、安政二歳次(一八五五)乙卯三月の建立で、陣場出身の石関黒山の書である。陣場の人たちは、これを六三除けの神として、線香を供えて祈願している。天王様は、七月十四日、十六日を農休み、中の十五日を祇園祭りとて祝っている。十四日の宵祭りに、氏子総出で境内掃除、紙花つくり、百八灯の張り替えをし、各家庭では、表道に面した所に灯篭を掲げ、あたりが一面明るくなる思いで、ゆかた着の老若男女が、三々五々参詣し、夜がふけるまで太鼓の音が響きわたり、お祭りの心をじっくりと味わうのであった。
 その奥に金比羅大権現を祭る。「安永六(一七七七)丁酉正月吉日建立」とあり、水難除けの神である。真中にしがみ石を台座としたのが天神宮で、建立は子供中である。後方に猿田彦大神が二基祭られ、飯島勘右衛門、同太兵衛の名が見える。
 奥の院の真後に、かしの御神木があり、年をとっていたので樹心は朽ちて、うろになり外皮だけでいたころ、この木に祈り釘が打ち込まれたことがある。今は、根っこだけ残されている。ここに奉安されてある神額は、大明神を刻まれているので、石鳥居中央の額であろう。このすぐ側の石宮は、屋根のひさしに宝珠の玉の図柄があり、中に白狐があるから稲荷様であろう。
 東側の雷神宮は安政三年歳次(一八五六)丙辰五月閏の建立で、落雷除けの願がこめられている。秋葉様は、安永二年(一七七三)癸巳五月、火伏せの神として祭ったものである。十二月十八日には、例祭を行ない、村内の安全を祈るのである。稚蚕霊神は、明治二十一年(一八八八)四月の建立で、四月十五日に祭りがある』
(「吉岡村誌」より抜粋)

 こちらの神社は明治六年の神社調査の際、本来村社の資格を有するところを誤って無格社として届けられてしまったが大正十三年九月二十三日に社格の変更願を出し、昭和二年七月四日、内務大臣鈴木喜三郎の承認を得て無事村社として認められたと「吉岡村誌」に記されている。その際の願書や調書、意見書なども記載されているが、長いのでパス。
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 鳥居の右の柱には「正徳三年癸巳仲冬建之」、左の柱には「天保十三壬寅季春繕焉」と刻まれている。1713年の冬に建立され、1842年の春に修繕されたということか。
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 拝殿。
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 狛犬。
 台座には「昇格記念 昭和三年十月 氏子中」と刻まれている。村社昇格を記念して奉納されたもののようだ。
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 稚産霊神の石碑。
 この碑はぐんま絹遺産の第23-56号として登録されている。後ろに見える案内板には以下の文が記されている。
『陣場桑
 蠶養育手鑑の著者・馬場三太夫重久翁が栽培していた桑に、進取の精神に富んだ此の地の人達が改良を重ね、葉が柔らかく、稚蚕の給桑として理想的な陣場桑を完成させ、自用のほか、県から販売許可を受け明治から大正にかけて、近郷からの注文により毎年何万本も出荷していたという』
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 雷神宮と秋葉大権現。
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 本殿裏の石祠と神額。「吉岡村誌」によれば稲荷社と推測されている。
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 猿田彦大神。
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 金比羅大権現と天神宮。
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 天王宮と衜俟神。
 天王宮の側面には「天明八年戊申二月吉日」と刻まれているので1788年の造立。
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 石関黒山の顕彰碑と水準点。
『石關黒山■士墓表
嗚呼是石關黒山■士之墓也處士以農家子自幼乃績學不
怠既長遊于江戸受業於太田錦城師之門又屢踵余質疑盖
将進求古人為己之學焉居數年河越候聞其名也辟為前橋
教授■士教人以孝友惇睦爲先藩之子弟久而化之駸駸馬
莫不嚮學勵行者矦嘉之賜以紋服人皆荣之而■士性譙虗
退託身亦善病懼教導之有缺大非矦家所以設學之意於是
一朝辭去頽然一室清約自甘而子弟之嚮慕之者猶昨云■
士諱光芳字子蘭又曰勝次郎石關其姓黒山其所自號也上
毛陣場里人父曰太郎八諱光一有二子長曰正暁次即處士
也■士以安政戊午二月十二日終于家享年五十九葬于里
中先塋之側配非爪氏先卒子男一女二皆夭葬之明月其門
人相與謀營建其碑以■士信余特䔍也具状来請墓上之文
余不可以辤遂掲其概略以表之
安政五秊歳次戊午冬十有一月
        江戸 海保元備撰并書 須藤永裕鐫』
 ■部分はユニコードではU2909Cの異体字。
 水準点には
『陣場の位置
 標高 197.5M
 北緯 36度25分50秒
 東経 139度0分12秒
  国土地理院調査
  平成24年11月調べ』
と書かれている。
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『陣場の常夜塔
 陣場を南北に通る県道は、昔三国街道と呼称されていた。江戸時代となって城下町高崎が大きく発展すると共にこの道の交通量も次第に多くなり、重要な幹線交通路となった。
 陣場の常夜塔は県道に面し、神社入口となるところに文化五年十月(一八〇八)に建立された。神社の氏子達が通行人の利便のために建立したものである。越後方面の大名達の江戸への参勤交代の往来もあったし、人馬による旅人の通行も長い年月見続けてきたが、昭和三十年頃から急速に自動車交通時代となり、常夜塔が果たす役割も減少し、ついに神社境内に移転したのである。
 歴史的建造物としてのこの石灯籠は、静かな境内で自動車の排気ガス公害も受けず、人々の営む生活を見下ろしているのである。
 平成六年三月三十一日』
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 三国街道に面して建てられた社号標石。その脇には里程標が建てられている。
『里程標
 高﨑市へ   三里二町
 前橋市へ   二里七町
 澁川町へ   二里
 朙和村役場へ 十八町
  大正七年十月 陣場青年會』

三宮神社(吉岡町大久保)

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 吉岡町の代表的な神社の一つである三宮神社(北群馬郡吉岡町大久保1)。
 鳥居の柱には「平成十八年三月吉日建立」と刻まれている。地図上ではこの鳥居の南西側すぐ傍に火防神社があり、ストリートビューでもそれを確認できるが、現在その建物は無くなっている。三宮神社境内に火防神社があるので、合祀され遷されたか、或いは新築準備中なのかも知れない。

『群馬縣管下上野國西群馬郡大久保村字宮 村社 三宮神社
祭神 日子穂々出見命、宇迦之御魂神、少毘古那命
   菅原道真公、豊玉毘賣命、須佐之男命
由緒 不詳
   明治四十一年三月二十六日許可、本社境内末社八坂社、及仝大字字十二無格社稲荷
  神社、並ニ字上町無格社菅原神社、仝境内末社一社及字下町無格社菅原神社、仝境内
  末社一社ヲ合併セリ
境内末社 四社
 猿田彦社  祭神 佐田彦大神
       由緒 不詳、明治十年五月本村字十二ヨリ移轉
 八坂社   祭神 須佐之男命
       由緒 不詳、同年同月同村字乙溝祭ヨリ移轉
          明治四十一年三月二十六日許可本社ヘ合併
 大山祇社  祭神 大山祇命
       由緒 不詳、同年同月同村字乙溝祭ヨリ移轉
 雷電社   祭神 大雷神
       由緒 不詳、同年同月同所ヨリ移轉』
(「上野国神社明細帳」より抜粋)
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 二の鳥居。
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『町指定重要文化財 三宮神社
 指定年月日 昭和63年2月22日
 所 在 地 吉岡町大字大久保字宮1番地の1
 当社は、天平勝宝2年(750)の勧請と伝えられ、また「神道集」(14世紀頃の天台系説話集)に「女体ハ里ヘ下給テ三宮渋河保ニ御座ス、本地ハ十一面也」とあり、伊香保神社の里宮とする説がある。
 総欅造り銅板葺の本殿は、嘉永元年(1848)の改築で明治以降その他の社殿も増改築された。
 御神体は一木彫りの十一面観音像で、像長90cm、右手は施無畏に作り、左手には宝瓶を持つ丸木彫りの地方的素朴なもので室町時代の作と推定されるが、江戸末期に塗り変えられて極彩色である。
 例祭には、獅子舞、太々神楽が奉納され、大祭には大久保の各町内から屋台(山車)が曳出されて賑う。
 昭和63年10月』
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 拝殿。
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 斜めから。
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 社殿西側から。
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 狛犬。
 台座には「大正十年四月吉日」と刻まれている。
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 神楽殿。
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『三宮神社由来記
吉岡村大字大久保字宮の地に鎮座する三宮神社は天平勝宝二年創祀の伝承をもつ古名社で彦火々出見命豊玉姫命少彦名命の三柱の神を奉斉している当社を三宮と称する所以は三柱の神を祭るためでなく上野国三之宮であったことによる九条家本延喜式神名帳には上野国三之宮は伊賀保大明神とあり当社はその里宮の中心であったと考えられる抑古代当地方の人々は榛名山を伊賀保山と称しその山頂を祖霊降臨の聖地と崇め麓に遥拝所をつくり里宮とした上野国神名帳には伊賀保神が五社記載されてありその中心の宮を正一位三宮伊賀保大明神と記している当地三宮神社は伊賀保神を祭る中心地であったため三宮の呼称が伝えられたのである近くに大古墳群の存在はそれを裏付ける当社を伊賀保神とする由縁はその祭神にもよるが本殿に安置される十一面観音像のあることがこれを証する南北朝時代の延文年中編と推定される神道集所収の上野国三宮伊賀保大明神の由来には伊賀保神は男体女体の二神あり男体は伊香保の湯を守護する薬師如来で女体は里に下り十一面観音になるとある当社は古来十一面観音像を御神体として奉安してきたのである慶應四年神仏分離令が発せられると全国各地で神社内の仏教関係遺品が破却された当地の先人は古来三宮神社の御神体として奉安してきた十一面観音像を秘仏として密かに遺し今日に伝えたのである昭和六十年秋の関越高速自動車道開通に伴い当社境内地の一部も道路編入の止むなきにいたりこの機会に氏子一同相計り社殿および境内の整備につとめ由緒ある当社の由来を後世に伝えんとし石碑に刻んだ次第である
   昭和六十一年九月吉祥日
      群馬県史編纂委員近藤義雄撰文
          三宮神社氏子一同建之』

『町指定重要無形文化財 溝祭三宮神社獅子舞
 指定日 平成十五年五月二十二日
 天正年間(一五七三年頃)からあったと伝えられる獅子舞で、頭が毛獅子で作られているのが特色である。
 この獅子舞は稲荷流佐々良獅子と言い、毛獅子三頭で舞い、氏神三宮神社の祭典に奉納されてきたものである。又、日照り続きの時には雨乞い獅子として、船尾滝に登り雨乞い祈願をした事でも知られている。
 春秋の神社の祭には、笛の音で白足袋姿の前獅子・中獅子・後獅子が腰に太鼓を付けバチで打ちながらカンカチを交えて舞う。演目も「宮廻り」や「剣の舞」など十数種の舞がある。
 平成十七年三月』

『町指定重要無形文化財 三宮神社太々神楽三楽講
 指定日 平成二十三年十一月二十九日
 三宮神社は天平勝宝二(七五〇)年に創祀されたとの伝承を持つ古名社である。
 ここ三宮神社に伝わる太々神楽は、一時途絶えた期間もあったが、昭和二十二(一九四七)年に地元有志により復活された。それ以降永きにわたり継承される伝統芸能である。吉岡町に唯一伝承される貴重な神楽である。
 神楽の演目には、「戸開の舞」、「天浮橋の舞」など日本国の成り立ちに係わるものや、「蛭児の舞」、「天狐の舞」など農耕と深い関わりを持つ舞がある。その内容や舞う姿は、大変に見事で興味深いものである。
 神楽は、毎年四月の第一日曜日に開催される三宮神社春祭で、奉納されている。
 平成二十六年二月』
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『竹内邦造翁壽碣銘
竹内邦造翁本姓小淵氏為同村小淵竹次郎第二子以萬延元年十二月十日生為竹内氏所養當是時竹内氏家道甚衰翁深慨之决挽回之志夙夜勤若勞役大勉先是天明中近郷下村有馬場重久者深究養蠶之術創火力飼育法有遺著翁讀其著述有所感以為興家益國莫之若更學一倉儀平薪火育法闔郷蠶家多效之淂益甚多且為収入得村會議員關係村治者數年令茲翁年六十門人反村民胥謀欲健寿碑以不朽翁名来乞余文余曰翁謙譲温厚而興家益國是可以傳也乃作之銘々曰
  駒寄之郷 踞郡中央 土肥家冨 桑麻茂良
  翁之勤勉 治産有常 及老汲々 家門益昌
 大正八年三月十二日  高橋諄信就撰并書』
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 火防神社と万葉歌碑。
 火防神社の中には神輿などが見えるので、元は神庫として使われていた所に火防神社を遷し祀っているのだろうか。

『万葉集のこの歌がうたわれた時代(一四〇〇年前)は、榛名の二ツ岳の噴火がくり返されて、榛名山は恐ろしい怒りの山で怒ツ穂(イカホ)と呼んで、神として恐れあがめ信仰の対象としていました。この里宮として三宮神社(イカホ神社)がおかれてました。この歌の伊香保風は榛名山からふき下す空つ風です。
 ここで行われた歌垣でうたわれた歌として祖先への敬愛の念をこめて石に刻みます。
 揮毫者の伊藤信吉氏は前橋市元総社町出身の詩人・評論家です』
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 末社群。
 四基並ぶ石祠の右端は大神宮。他は不明。「上野国神社明細帳」によれば末社は猿田彦社、八坂社、大山祇社、雷電社の四社の筈なのだが、うぅむ。本殿裏に猿田彦大神と刻まれた石塔があるから、こちらの石祠三基が残りのいずれかなのだろうか。

下八幡宮(吉岡町南下)

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 下八幡公会堂の南隣に鎮座する下八幡宮(北群馬郡吉岡町南下847-3)。

『群馬縣管下上野國西群馬郡南下村字下八幡 村社 八幡宮
祭神 品陀和氣命
由緒 不詳
境内末社 二社
 神明宮  祭神 大日孁命
 秋葉社  祭神 火産霊命』
(「上野国神社明細帳」より抜粋)

『下八幡宮
場所 南下下八幡
祭神 応神天皇誉田別命、神功皇后
由緒 鎌倉時代、一二二五(嘉禄元)年足利義胤が桃井荘の地頭となるに及び、源氏の氏
  神である八幡宮をこの地に勧請したものと伝えられる。一説によると一六九六(元禄
  九)年九月十六日の創建とも伝えられ、一九一八(大正七)年九月十三日神饌幣帛料
  を供進する神社に指定された』
(「吉岡村誌」より抜粋)
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 鳥居の柱には「正徳二年壬申十月吉日」と刻まれているので1712年の造立。
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 拝殿。
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 狛犬。
 台座には「昭和五十一年九月吉日」と刻まれたプレートが埋め込まれている。
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 鞘殿。
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 少し引いて。
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 末社。
 左から猿田彦大神、不明、相満山大権現、不明。「上野国神社明細帳」には神明宮と秋葉社の二つがあると記されているので、この二つの石祠がいずれかなのだろう……と言いたいところだが、隣に設置された案内板には祭神不明と記されている。
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『町指定重要文化財 下八幡宮の石祠
 指定日 平成十三年十月二十二日
 下八幡宮は、この地方の豪族桃井氏が南北朝時代に源氏の守り神として勧請したと思われる。本殿の西北裏に祀られるのがこの石祠で、祭神は不明である。
 石祠は高さ一〇二cm、棟幅八六cm、奥行九九cmで、棟の鬼面は向かって右が高さ一八cm、幅一〇cm、左が高さ一六cm、幅一二cmと鬼面の大きさでは県下屈指の作品と考えられる。
 銘に「寛永十弐乙亥十二月吉日」とあり、江戸時代前期の一六三五年の造立である。鬼面が風雨で荒れて能面の翁のような顔立ちである。
 平成十四年十月』
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 鬼面。
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 御嶽山大神・八海山大神・相満山大神。側面には「明治十六年歳在癸未十月良晨」と刻まれている。明治十六年は1883年。
 その左には「開闢普寛尊」。右には「三笠山刀利天 武尊山 意羅山 御山諸天神」。なぜか後ろに八幡宮の神額が落ちている。
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『町指定重要無形文化財 下八幡宮獅子舞
 指定日 平成十五年五月二十二日
 下八幡の獅子舞の起源は、下八幡から野良犬(前橋市清野町)に獅子舞が伝えられたのが、慶長年間(一六〇〇年頃)と言われるので、室町時代まで遡ると思われる。又、獅子頭の塗り替えが安永六(一七七七)年に行われたとの記録もある。
 流派は、極めて少ない関白竜天流。頭は雄獅子が二本、雌獅子が一本の螺旋状の角を持つ。舞の列は、万燈持ち二名・山伏・棒使い二名・師匠・笛頭と並び、先獅子とカンカチ・雌獅子とオカメ・後獅子とヒョットコが続く。獅子の両側に十名程の笛を従える。
 演目は一番組・二番組・三番組に大別され、舞は十通りを越える。
 平成十七年三月』
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 大けやき。

金剛寺(吉岡町南下)

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 大藪八幡宮の西100m程に位置する金剛寺(北群馬郡吉岡町南下187)。
 金剛寺前の道は一部大きく波打っているので、車高の低い車は大藪八幡宮の行き帰りには車体の底を擦ないように注意。ごりっと言う音が聞こえて来るのは心臓に良くない。行きは大丈夫だったんだけどなー。
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 石段の上り口に馬頭観音と地蔵尊。
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 本堂。
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 宝篋印塔と如意輪観音、庚申塔、石祠。
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『町指定史跡 金剛寺の宝篋印塔
 宝篋印陀羅尼経を納めた小塔を模して造られた石塔を宝篋印塔と言い、鎌倉期より供養塔として造立された。江戸期には墓塔として用いられることが多くなりその形は著しく変化した。
 宝篋印塔には関東型と関西型の二系統が有り、関東型は芝石の上に反花座を据え、その上に基礎、塔身、笠、相輪と順次積み重ねた形式である。
 吉岡町金剛寺の宝篋印塔は、関東型に属し反花座と相輪とが欠失している。基礎部の四面は共に輪郭を以て二つに区分し、上部は三重段形を成している。塔身部の四面は平面であって、円形中に「ア」「アー」「アン」アアク」の胎蔵界四佛の種字が陰刻されている。笠部は下方に二重の段形を有し、上部は四重の段形を成しているが第一段は隅飾突起に連結している。四段目上面の中央に掘られた穴は相輪一式下方の突起部を組み込み固定したものである。
 この宝篋印塔の基礎正面の「浄眼大禅定門應永十三年(一四〇八)十二月廿八日」等の刻字や、塔身部の正面刻字に付いては異論もあるが、欠損を免れた二つの隅飾突起を初め塔全体の形状が室町初期造立の形態を具えていて吉岡町石造物中屈指の逸品である。
 平成六年三月三十一日』

大藪八幡宮(吉岡町南下)

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 群馬県道25号高崎渋川線バイパス大藪交差点の北東300m程の位置に鎮座する大藪八幡宮(北群馬郡吉岡町南下)。

『群馬縣管下上野國西群馬郡南下村字大藪 村社 八幡神社
祭神 品陀和氣命
由緒 不詳
   昭和十八年五月十四日明治三十九年勅令第九十六號ニ依リ神饌幣帛料供進神社トシ
  テ指定セラル
境内末社 二社
 雷電社  祭神 大雷神
 久斯神社 祭神 久斯神』
(「上野国神社明細帳」より抜粋)
 久斯神社は旧疱瘡社であり、昭和十八年一月五日に許可を得て改称したようだ。

『上八幡宮
場所 南下城山、南中腹
祭神 応神天皇(誉田別命)、神功皇后
由緒 この神社は南下元八幡にあった。伝えによると一一八六(文治二)年三月源頼朝が
  六十六ヶ国の総追捕使となったとき、藤原八郎を桃井荘の地頭とし、八郎は桃井姓を
  名乗って南下元八幡の高台に住んだ。その後新田義重の子吉包が桃井氏の跡を襲い、
  桃井氏を名乗って元八幡に住み、その子孫尚義が源氏の氏神として祀ったものが、こ
  の神社のはじまりと伝えられる。明治元年元八幡から現在地に遷宮し、石祠を木造の
  神殿に造りかえた』
(「吉岡村誌」より抜粋)
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 拝殿。
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 斜めから。
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『町指定重要無形文化財 大藪獅子舞
 指定日 平成十五年五月二十二日
 大藪の獅子舞は、大永三(一五二三)年桃井播磨守が守刀とともに八幡神社に奉納したのが始まりといわれる。
 流派は、稲荷流佐々良獅子で、一人立ち三頭連れの舞である。頭は獅子でなく、枝角を二本つけた竜で、手甲・タツケ・白足袋・草履の衣装で、腰につけた太鼓を打ち鳴らして舞う。舞の振りは、「剣の舞」を始め三十通り、歌が二十一通り、通り笛が六通りあり、威勢のよさと、振りの多さは近隣にないものである。又、新井村や溝祭村の獅子舞も、大藪の人が教えたと言われている。
 平成十七年三月』
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 末社。左右は生洌大神と御嶽山。石祠三基は不明。
 生洌大神と言う名には聞き覚えが無いが、「吉岡村誌」によると、南下城山には鹿島大神、香取大神、生潤大神、堅牢地神、上八幡宮の計五社の旧無格社があるとのことで、生洌大神とはこの生潤大神のことだろうと思うのだが、詳細は記されていないのでよくわからない。
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 末社。石祠二基と堅牢地大神。
 堅牢地大神は昭和十五年に紀元二千六百年記念として建立されたと「吉岡村誌」に記されているが、それ以外のことについては不明。
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 左奥には金剛寺へ続く道が伸びている。

蚕神社(吉岡町北下)

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 北下北部公民館の北側に鎮座する蚕神社(北群馬郡吉岡町北下1071-2
『蚕神社の石碑 ぐんま絹遺産登録記念碑
 ぐんま絹遺産登録番号第23-55号
 平成二十四年二月六日
 蚕神社の石碑がぐんま絹遺産として登録された事を記念する
蚕神社のいわれ
 蚕神社という石神は馬場三太夫重久が生前屋敷内に板宮を建て蚕、蛾の老廃したのを集めて祭った名残であって現在の石碑の台石が当時の板宮の台石だといわれ、馬場一族ではこの蚕神社のお札を出して、参拝する養蚕家にわけていました。
 平成二十五年五月吉日』
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 蚕神社と刻まれた石碑と石祠。
 石碑には「正徳二年壬辰十一月 三太夫重久建之」と刻まれている。正徳二年は1712年。馬場重久が「蚕養育手鑑」を出版したのもこの年である。
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 石祠がいくつか並んでいるが、詳細は不明。
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 三界万霊塔。
 葉に隠れて見え難いが、天明年間の造立。
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 道祖神。
 右側の石仏は首から下が地中に埋まっているのか、或いは破損してそこしか残っていないのか。
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諏訪神社(吉岡町北下)

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 北下西南部住民センターの南に鎮座する諏訪神社(北群馬郡吉岡町北下505)。
『群馬縣管下上野國西群馬郡北下村字諏訪臺 村社 諏訪神社
祭神  建御名方神、品陀和氣命、櫛御氣野命
由緒  勧請年月不詳、末社ニ馬場社アリ、或云馬場美濃守ノ霊ヲ祭ルト、此説タゝ社名
   ニ因テ附會セルノミ、按スルニ上野國神名帳ニ従五位馬場明神ト見ヘタルハ此社ナ
   ランカ
    明治四十一年四月十三日許可、仝村字山下無格社八幡宮、及字千代開無格社熊野
   神社ヲ合併セリ
境内末社 六社
 八坂社  祭神 素盞嗚命
 稲荷社  祭神 倉稲魂命
 神明社  祭神 大日孁命
 秋葉社  祭神 火産霊命
 厳島社  祭神 市杵島姫命
 馬場社  祭神 不詳』
(「上野国神社明細帳」より抜粋)

『祭神由緒書
諏訪台五〇五番地鎮座  村社 諏訪神社
一、祭神  建御名方命 品陀和氣命 櫛御気野命
一、由緒  建御名方命ハ父君大国主命、正妃ハ八坂刀売命、当国桃井城主房久 文禄
 慶長之頃勧請ト言ヒ伝フ。社殿創立ハ元亀天正之頃ト按ズ。元禄六年七月吉辰石鳥居
 建立。元文二年九月十一日京都神祇官領兼雄幣帛ヲ献ズ。天明六年冬十二月丙午良辰
 秋葉山勧請。天明七年丁未正月吉辰道祖神勧請文化五年戊辰正月吉辰高橋兵衛門清房
 金比羅宮勧請ス。文化六年六月吉辰厳島神社勧請総村中。文化六年己巳季夏良辰八坂
 神社建立総氏子中。稲荷神社勧請年月不詳。神明宮勧請年月不詳。馬場社元文五年七
 月吉祥日勧請。衣笠大神慶応三年卯四月吉日勧請ス。品陀和氣命ハ母ノ体中ニ有リテ
 朝鮮安定ス、国土平安息災延命ノ守神。櫛御気野命ハ素盞嗚命ナリ命ハ五穀豊盛之守
 神、弐社共明治天皇四十一年四月十弐日ニ当社ニ合併セリ。大正二年一月四日明治天
 皇勅令第九十六号ニ依リテ神饌幣帛料供進神社トシテ指定セラル』

『勧請年代は不詳なれども桃井城守播磨守直常従二位大納言四条隆俊を通じ京都神祇官より勧請すと伝ふ。其の始め当領主の祈願所たり。美濃守に至り再建す。城主は家中及び領内に命じ獅子舞を献ずるを例とせしが今なおこの例あり。境内に馬驫社あり当城主及び臣下の霊を祭りたりという。慶長九年社領除地となる。又当村は旗本六人の領地となり領主一人につき祭典料四百疋ずつ年々献ぜられ、次で北下村正一位諏訪大明神と称し奉る。天明元年神殿増築、明治六年北下村鎮守諏訪神社と改め十二年村社に列す。明治四十三年五月無格社同熊野神社、同八幡宮を合併し神殿を増築す。

 現在でも獅子舞用具一揃、破損こそすれ箱に収めて保有しているが笛を吹き舞を舞う人には制限があったのでこれを伝える者とて一人もない。境内社でも八坂社・衣笠神・稲荷社・道祖神のみがはっきりとわかるだけである。明治小学校南隣に鎮座する八幡宮もかつて諏訪神社に合祀され、大戦中北下から戦死者続出したことで一九四三(昭和一八)年戦争さ中、また元の地へ戻ったのであるが昔の八幡の森はことごとく変ぼうして石鳥居のみ堂々と立ち祠は暑い日の光を四方からあびている』
(「吉岡村誌」より抜粋)

 馬驫社と言うのが馬場社のことであるのなら、上野国神社明細帳では不詳とされる馬場社の御祭神は桃井城主とその臣下の霊となる。英霊殿のようなものだろうか。
 そして、明治小学校の南に八幡宮? そんなのあったかなと思いストリートビューで周辺を見てみたら……あった。あー、ここかぁ。次の蚕神社へ向かう際にこの前の道を通ってるのに、なぜ気付かなかったかなぁ○刀乙
 余談だが、「上野国神社明細帳」には北下東原に白山神社があると記されており、「吉岡村誌」には北下東原に八坂神社があると写真付きで記されている。どうやらこの八幡宮のある辺りが東原であるようなのだが、それらしいものは見当たらない。どこにあるのだろう?
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 参道。
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 拝殿。
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 狛犬。
 台座には昭和五十一年九月吉日と刻まれたプレートが埋め込まれている。
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 社殿北側から。
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 社殿北側の末社群。右奥は衣笠大明神。
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 社殿南側の末社群。
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 道祖神。
 裏側には「天明七丁未春正月吉辰」と刻まれているので1787年の造立。
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『顕彰碑
馬場三太夫重久翁顕彰碑       群馬縣知事竹腰俊蔵篆額
衆に先んじて事にあたり恩恵を千載に及ぼす業績を残すことは独り先覚の士のみがよくするところであるわれらが郷土の先輩馬場三太夫重久翁こそは実に時代の先覚者として輝かしい事績を残した人というべきである翁は甲陽の智将馬場美濃守信房の子孫で医を業としたが常に農民の福祉を念とし若年の頃より蚕の飼育について実験研究を重ねること三十余年ついに合理的な飼育方法を会得して蚕養育手鑑を著わし正徳二年江戸の書肆より出版して広く同志に頒布した時に翁は五十才であったこれは養蚕書中の古典としてわが國第二のものであり養蚕技術の進歩向上に役立ちしところ多く昭和九年今上陛下本縣に行幸のみぎりには天覧を賜わるの光栄に浴した翁はまた農事の改良に心を致し当時早くも後世の稲作品評会の方式をもつて稲穂の優劣等級づけを行いあるいは手鍬に改良を加え世にいう馬場鍬を考案して耕作に便ならしめるなどこの道の発展に寄与するところ多く享保二十年七十三才を以て世を去るまで郷党を措導して倦むことがなかったこれらの故を以て北下山下地先にある翁のささやかな墓碑は昭和二十七年吉岡村唯一の史跡として群馬縣の文化財保護顕彰規定にもとずく指定をうけたたまたま翁の偉業を景仰する北下地区民こぞって翁の顕彰会を結成し広く同志の賛同を得てここに顕彰の碑を建立しその功績を万世に傳えんとするに際し請われて建碑の由来を撰する次第である
 昭和三十三年文化の日          群馬縣蚕業試験場長日高八十七撰
                              森田精一書』
 ちなみに馬場重久の墓は、諏訪神社から東南へ350m程離れた水路縁にある。

久那度神(吉岡町北下)

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 群馬県道25号高崎渋川線バイパス千代開交差点傍に鎮座する久那度神と衣笠大神、庚申塔(北群馬郡吉岡町北下)。
 左から衣笠大神、久那度神、庚申塔群だが、鎮座している場所を考えると境の神である久那度神が主なのかな。

青面金剛(中央区大戸三丁目)

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 大戸氷川神社から80m程西の道端に鎮座する青面金剛(さいたま市中央区大戸6-1)。
 大戸公民館前には「庚申坂」と書かれた板が立てられていたが、この青面金剛に由来するものであるのだろうか。
 また、向い側の民家入口前には馬頭観音も鎮座しているのだが、個人宅の敷地内かどうかわからなかったからパス。
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 青面金剛の側面には「奉庚需供養之處」「文化八年四月吉辰」と刻まれている。文化八年は1811年。

 以上で7月30日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA15mm、DA20-40mm、DA10-17mm Fish Eye、50-150mm II。X30。
 ウォーキングカウンターは20,393歩。小まめに水分補給をしていたのだが、暑さの為に全て汗で出て行ってしまったようだ。帰りの電車内が涼しくて極楽だった。

大戸氷川神社(中央区大戸三丁目)

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 大戸公民館脇に鎮座する氷川神社(さいたま市中央区大戸3-14)。
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『経緯
平成参年壱月四日午前零時半頃、不審火により拝殿が全焼本殿並びに三峯神社が半焼する被害を蒙った。その後日増に再建を望む声が高まり地元有志及び、氏子総代が相図って再建を決定、再建委員会を組織し大戸全域に広く浄財を募った結果多くの協賛を得るに至った、平成四年七月弐拾六日起工以来工事も順調に推移、同五年五月拾五日めでたく竣工した。
よってこれを記念し、この碑を建立せるものである』
 由緒書きは見当たらなかったので詳細は不明。
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 狛犬。
 台座には「昭和二年二月十七日」と刻まれている。昭和二年は1927年。
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 拝殿。
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 本殿。
 瑞垣の 隙間 狭い。
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 八雲神社。
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 末社群。
 左から稲荷社、神明社。阿夫利神社、八幡社、天神社、稲荷神社、榛名神社、古峯神社。御嶽神社、三峯神社。
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 御嶽神社・三笠山神社・八海山神社。
 天照皇大神と伊勢参宮記念碑。
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 力石。

御嶽神社(中央区大戸三丁目)

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 お聖さまの北60m程、民家の入口脇に鎮座する御嶽神社(さいたま市中央区大戸3-1)。
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 大神宮と稲荷社。

お聖さま(中央区大戸一丁目)

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 埼玉県道57号の脇、道路側に背を向けて鎮座するお聖さま(さいたま市中央区大戸1-31)。
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 二の鳥居と祠。
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『民俗資料 大戸のお聖さま
 所在地 さいたま市大戸一丁目三一番
 時 代 江戸時代末期
 お聖さまの御身体は、男性の生殖器を形どった石棒です。高さ五六cm、胴部径二六cm。お聖さまは安産の神、出産に立会う神です。また、災を除去する呪力の源泉としても崇拝されました。あるいは良縁や子宝を得る願掛や下の病の治療を願ったりするむきもありました。願掛は絵馬をもってしました。願いが成就すると木製の男根を奉納する人もいました。
 周辺の地からは縄文時代の石棒、石剣、土偶などの呪術具が出土し、お聖さまの生まれた理由もこの土地がらにあります。現在の御身体は江戸時代末期のものと伝えられます。
 平成九年(一九九七)市指定文化財となる』
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 扉が中途半端に開いていたので、ちょっと失礼しますねと呟いて御神体に拝謁。
 撮影後には閉めておいたけど。
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 祠の中には他にも多数の金精様が。
 包茎の金精様って初めて見た気がする。

庚申塔(桜区西堀九丁目)

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 城北信用金庫西堀支店の西側に設置された庚申塔などの石造文化財(さいたま市桜区西堀9-26)。
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『日向鎌倉街道の石造文化財
 この前を通っている道は鎌倉街道と呼ばれてきた古道です。ここにある四基の石造塔は、右から馬頭観音(宝暦五年-一七五五)、庚申塔(宝暦七年)、庚申塔(文化十年-一八一三)そして二十三夜塔(嘉永二年-一八四九)です。農耕や運搬に使う馬の保護、庚申信仰、月待供養など当時の人々の様々な民間信仰を知ることができます。
 そしてもう一つ大切なことは、右側の一基以外は全て道標になっていることです。最初の場所から動いているものもありますが、石塔は旅人に道案内をする役目も持っていたのです。特に一番大きな石塔の背面には、よのい(与野)道、はやそ(早瀬)道、とうまん(道満)道、わらひ(蕨)道、江戸道というように、行先の地名が刻まれています。
 これらの石造塔は、この地域の歴史や文化を知る上で欠かせない大切なものであり、このたび、将来にわたって保存を図るために日向地区の多くの方々の浄財を募って整備が行われました。
 平成二十五年二月吉日』
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 青面金剛と馬頭観音。

柊稲荷大明神(桜区西堀十丁目)

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 株式会社柊建設の脇に鎮座する柊稲荷大明神(さいたま市桜区西堀10-12)。
 名前や鎮座地から見るに、元来はこちらの家の屋敷神であるお稲荷様を他の人でもお参りできるようにしているのだろうか。由緒書きが無いので詳しいことはわからない。
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南元宿氷川神社(桜区南元宿一丁目)

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 埼玉県道57号さいたま鴻巣線の南側、南元宿自治会館脇に鎮座する氷川神社(さいたま市桜区南元宿1-8)。
 鳥居の柱には「奉納 高野重正 昭和三十三年一月日」と刻まれたプレートが埋め込まれている。
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西堀氷川神社(桜区西堀八丁目)

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 須黒稲荷神社の北西300m程、西堀ひかわ幼稚園の隣に鎮座する氷川神社(さいたま市桜区西堀8-26-1)。
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 両部鳥居。
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 参道右手側に八千矛神社と天照皇大神。
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 参道左手側に三峯神社。
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 日本武尊かな。
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 狼。
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 三峯神社。
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 丸山稲荷神社。
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 神楽殿。
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 拝殿。
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 狛犬。
 台座には「寛政十一年己未十月吉日」と刻まれているので、1799年の造立。
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『西堀氷川神社 御由緒
  さいたま市桜区西堀八-二六-一
  電話(048)(852)(1680)
● 御縁起(歴史)
 西堀の開発は鎌倉時代と伝えられ、畠山重忠がこの地を領した時、真鳥山城を築き、家臣の真鳥日向守を代官としてこの居館に居住させたという。
 社蔵の「武蔵国一宮氷川大明神社縁起」(元禄十二年)によれば、当社は西堀の鎮守として応永年間(一三九四-一四二八)に武蔵一宮の氷川神社を勧請した社とされる。また、「風土記稿」は当社について「氷川社一宮の男神女神を移し祀れり、本地は観音なり、当社を上の宮といひ、隣村田島村の氷川社を下の宮と称す、慶安元年(一六四八)社領十石の御朱印を附す」と記し、江戸時代の状況を知ることができる。なお、現在の本殿は、江戸中期から後期に建造された二間社流造り杮葺きの優美な建築で、市指定文化財となっている。なお、「算額」(関流)も市指定文化財である。
 明治十三年の古図には当社と調神社(現浦和区)の二社が軍事道路とともにスケッチで残っている。
 氏子区域は、明治四十一年から西側に隣接する町谷(町屋)村から神明社・御嶽社・稲荷社の三社を合祀し、現在の氏子区域として運営されている。境内には天神社・御祖霊社・宮比社・榛名社・八千矛社・三峰社・七福神を祀った宝船・山車祭器・神輿庫等がある。
 他にお伊勢さま参拝記念の碑や日露戦争凱旋記念額並び記念樹も現在も残っている。
● 御祭神と御神徳
 ・須佐男尊・・・武運長久、家内安全、厄除け、商売繁盛、交通安全
 ・奇稲田姫命・・縁むすび、安産、子育て
● 御祭日
 ・元旦祭(一月一日)    ・節分祭(二月三日)  ・建国祭(二月十一日)
 ・春祭り(三月第一日曜日) ・大祓式(六月三十日) 
 ・神幸祭(七月十五日に近い日曜日)
 ・例大祭(十月七日)    ・天神・神楽殿祭(十一月三日)
 ・新穀感謝祭(十一月二十三日)』
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 さいたま市指定有形文化財である西堀氷川神社本殿と関流算額の案内板。
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 鳥居の脇に御嶽神社。
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 左奥から天満宮、祖霊社。右手前は不明。
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 七福神。
 その隣には以前は末社が建てられていたようなので、現在は再建中なのだろう。
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 西の鳥居。

須黒稲荷神社(桜区西堀一丁目)

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 中浦和駅の北西300m程の位置に鎮座する須黒稲荷神社(さいたま市桜区西堀1-16)。
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 一の鳥居。
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 二の鳥居。
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 三の鳥居。
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 五の鳥居。
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 社殿。
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 お狐さま。

風の神(南区別所四丁目)

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 別所沼公園内に設置された「風の神」ことエヘーカトル・ケッツアルコアトル像(さいたま市南区別所4-15)。
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『エヘーカトル・ケッツアルコアトル
 この像は、トルーカ盆地のカリストラワカで発掘された石像の複製品であり、エヘーカトル・ケッツアルコアトル、即ち風の神を現わしています。
 この風の神は、健康、豊作及び知恵を市民にもたらす恵みの神といわれています。
 兄弟である埼玉県民の皆様、我々の祖先の文化を象徴するこの像を、埼玉県民とメキシコ州民の絶えざる友好と親善の願いをこめてここに贈ります。
 1980年10月2日
 メキシコ州知事
 ホルヘ・ヒメネス・カントウ』
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別所沼弁財天(南区別所四丁目)

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 別所沼の小島に鎮座する別所沼弁財天(さいたま市南区別所4-12)。
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『別所沼弁財天由来記
落羽松が沼の周囲を巡るこの島は、古くから弁天島と呼ばれるように「別所沼弁財天」が奉祀されている。昭和二年この島を構築した小島長次郎氏によって東京、深川の洲崎神社から分祀された。その後、昭和四十年に氏子・有志により覆屋・向拝宮を改築、手水舎も建立し現在に至る。
御祭神は「市杵島姫命」で、仏教との習合により弁財天として祀られている。福徳財宝の神として親しまれている七福神のなかの女神で「妙音天」ともいわれている。
その起源を遡れば、インドの河川神「薩羅薩伐底」であり水辺に多く祀られている。
「金光明最勝王経」によれば、「弁財天を信奉する者は、弁舌、知恵を授けられ、その庇護により長寿と繁栄を得て福徳の山を築き、技芸に熟達するであろう、さらに弁財天の主誓願は転禍為福であるから、一切の苦難も鎮められよう」と説かれている。
この向拝宮内には、八本の御手の左に槍、輪、弓、宝珠、右に棒、鍵、矢、刀を持し荘厳さの中にも慈悲をたたえた八臂弁財天座像が安置されている。
 例大祭 五月三日 午前十時より』
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 狛犬。
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 橋。
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 その脇でなにやら除幕式の準備をしていたが、なんだったんだろうコレと思いググってみたら、「浦和うなこちゃん」という石像のお披露目式だったようだ。昨年十一月に盗まれたものが発見されないので新たに設置したとのことだが、こんなの盗んでどうするんだろうなぁ。
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鹿嶋神社(浦和区高砂四丁目)

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 埼玉県庁前交差点から西へ120m程、高砂四丁目公会堂脇に鎮座する鹿嶋神社(さいたま市浦和区高砂4-9-1)。
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 祠の脇に置かれたコレはなんだろう?
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稲荷社(南区別所三丁目)

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 別所公会堂の東側、さいたま市消防団別所分団車庫脇に鎮座する稲荷社(さいたま市南区別所3-7)。
 鳥居の柱には「別所農家組合建之」「昭和五十三年初午」と刻まれている。
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まんざらく(南区別所五丁目)

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 別所公民館の敷地端に鎮座するまんざらく様(さいたま市南区別所5-21-13)。
 「まんざらく」とは聞き慣れない名だが、ググってみると地震除けのまじない文句と言うものが出てきた。雷除けの「くわばら」のようなものだろうか。まぁこちらの「まんざらく」様が地震除けと関係あるのかどうかも定かではないのだが。
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『縁起
此の祠は農家共有の通称一本杉と呼ばれる総面積一八四坪の灌漑用溜池の辺りに祀られていたもので古老の口伝によれば「まんざらく」様と称し一時は信仰の対象として隆盛を極めたとのことである
今回近隣の発展に伴い市の公民館建設用地に提供し一角を分筆してここに祭祀した
昭和五十三年四月』
 石碑の隣にも石祠のような物があるが、なんだかわからない。
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稲荷社(南区別所一丁目)

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 国道17号別所坂上交差点脇に鎮座する稲荷社(さいたま市南区別所1-21)。
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 由緒とかはワカリマセーン。
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起志乃天神(浦和区岸町五丁目)

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 岸町公民館の西側に鎮座する起志乃天神社(さいたま市浦和区岸町5-8-9)。
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 由緒書きはあるにはあるのだが、大部分が薄くなっていたり消えていたりしてわかりにくい。とは言えまぁ大まかなことはわかるか。
 当社は青山家の祖先である藤原朝臣忠勝が京都より移り住む際、永仁六年(1298)に北野天満宮より勧請したものであり、明治四年(1871)に名主である青山貞勝により石祠が建立された。昭和二十一年(1946)には高砂小学校にあった旧奉安殿を当地に移築し、石祠は新社殿に内蔵された。さらに境内地は浦和市児童遊園地に指定され、昭和五十五年(1980)社屋の修築と周辺の整備が行われたとのこと。
 藤原朝臣忠勝の名は先の神明社のプレートにも記されていたなぁ。どのような功績のある人だったのかはググってみてもさっぱりわからないけど。
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 社殿。
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 左から青面金剛塔、少彦名命、不明、天満宮、猿田彦大神。
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神明社(浦和区岸町二丁目)

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 調神社から南東へ400m程、青木医院のそばに鎮座する神明社(さいたま市浦和区岸町2-6-8)。
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 鳥居。
 柱には「昭和十三年五月建之」と刻まれている。
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 拝殿。
 その前には福だるまとやらが設置されているが、なんだろうこれ。
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 本殿。
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『神明社 御由緒
□ 御縁起(歴史)
 岸町三丁目の中山道沿いに鎮座する調神社は、社伝によると崇神天皇の御代の創建で、勅命により伊勢神宮の斎主倭姫命が当地に来て、この岡を選び調物を納める倉を建て、武蔵野の初穂米や調の収納所と定めたとされ、主祭神は伊勢の内宮と外宮と同一の天照大御神と豊受比賣命の二柱で素盞嗚命を配祀する。
 当社はこの調神社の南東に当たる岸町二丁目に祀られており、祭神は天照大御神の別称である大日孁貴命である。口碑に「当社は調神社の末社である」ということから、その創建には調神社とのかかわりがあったと考えられる。「郡村誌」に当社は「永仁年中(一二九三-九九)の勧請」とのみ記され、その経緯については明らかでない。調神社にかかわる社であるとするならば、同社の創建の古さから推して、当社の創立も鎌倉期の永仁年中にまでさかのぼるのは至当であろう。
 別当は「風土記稿」によると、浦和宿玉蔵院末の真言宗福寿寺であった。「郡村誌」に既に見えないことから、明治初年に廃寺になった模様である。
 古老の記憶によれば、昭和初めの当社境内は雑木林や身の丈ほどの笹薮で覆われていて、その中に数本の老杉の大木がそびえていた。この老杉の根元に祀られていた石祠が当社で、氏子から「神明様」と呼ばれていた。昭和十年の社殿建設を機に本格的な整備が進められた。
□ 御祭神
 ・天照大御神 ・豊受比賣命 ・素盞嗚命
□ 御祭日
 ・例祭…八月第三日曜日』
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『当神明社は今を遡る六百七十余年前の永仁六年藤原朝臣忠勝がここに一宇本堂を建造し伊勢皇大神宮(御祭神大日孁貴命)を奉斎せられたのが抑々の由来である
時移り社は全く荒廃せるを昭和十年地域の敬神先覚有志は多くの浄財を得て社殿を創建し鳥居を築く
今や三十周年を迎えるに当り吾々は先輩の志を継ぎ斜面に盛土し境内を拡め社殿を移築修復す 更に雨覆殿を新築するなど益々神徳を奉仰し神威の昂揚に努める又神苑を子供遊園として整備し広く庶民の福祉を祈念するものである
 昭和四十年八月十九日』
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