諏訪神社(高関町)

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 江木団地の南側に鎮座する諏訪神社(高崎市高関町185-1)。
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 諏訪神社石宮。
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 末社群。
 いずれも何神社なのかは不明だが、右から二つ目の石祠に陽刻されたこれは一猿、だろうか。
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 少し下がった所にも石祠があるが、何神社なのかは不明。
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 以上で12月17日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA15mm、FA31mm、FA43mm、FA77mm、DA20-40mm、DA FISH-EYE 10-17mm。X30。
 ウォーキングカウンターは18,103歩。
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黒髪山神社(江木町)

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 群馬県道27号線北側、すみれ幼稚園の隣に鎮座する黒髪山神社(高崎市江木町1109-1)。
 名前から察するに、榛東村にある黒髪山神社からの分霊であろうか。
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 こちらは黒髪山古墳と呼ばれる円墳であるのだそうだ。
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 黒髪山神社。
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 末社。何神社なのかは不明。
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 おそらくは地蔵堂と大日堂。
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 庚申の文字がびっしりと刻まれた百庚申塔。
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江木神社(江木町)

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 江木町北公民館の隣に鎮座する江木神社(高崎市江木町1174)。江木神社と公民館の間に高野山真言宗雀宮山真楽寺がある。
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 拝殿。
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 斜めから。
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 狛犬。
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『一、御祭神 少彦名ノ命
   御相殿 譽田別命
       大山守命
 一、境内神社
   名称    祭神
   菅原社  菅原道眞公
   諏訪社  建御名方神
   八坂社  素盞嗚尊
   猿田彦社 猿田彦命
 一、由緒
 勧請年月不詳上野國神社明細帳に從五位上日置(ヘキ)明神ト記せるは當社なるべし 村老曰く本社もとは雀の宮と号し少彦名命を祭れりしを字若宮より八幡宮を合併して新に江木神社と稱す 此説に因りて考ふるに若宮なりし八幡宮は譽田別命はもとよりなれども主としてその皇子大山守命を祭れるなるべし 姓氏録に曰日置朝臣は大山守命の後也と見たり 尚按ずるに江木ヒ言へる
 村号は社号日置より轉せし語なりや相殿に坐すは明治十年九月二十三日合祭せり

 右は昭和九年十月十九日村社江木神社の標札を建つる示しより高崎神社並に当神社々掌高井東一氏の調書に因るものなり
 昭和六十年十一月吉日』
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 猿田彦社。
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 鳥居奥の石塔は秋葉大神。
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 末社群。
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 道祖神。
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『江木神社の由来について
 武田信玄の弟順良が天正十年(一五八二)三月十一日現在地に村社を造営、村営村社雀神社とし鎮座四百十二年の年月流れり。
 明治十年八幡宮を合祭し江木神社と神名、現在百拾年の年月氏子加護載くなり。
 平成六年六月吉日』
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『経過碑 群馬県告示第三五号
昭和二年四月一日ヨリ群馬郡塚澤村ヲ廃シ其ノ区域ヲ 高崎市ニ編入スルニ付 関係アル市村会ノ意見ヲ徴シ 県参事会ノ議決ヲ経テ高崎市有ノ財産(一切ノ権利義務)ハ之ヲ変更セス 依然高崎市属セシメ 塚澤村所有ノ財産(一切ノ権利義務) 之ヲ句括シテ 高崎市ニ帰属セシム
  七周年記念
   平成九年三月吉日 春』
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 社殿再建記念碑。
 裏面には「昭和三十一年三月十九日」と刻まれている。

諏訪神社(江木町)

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 雀宮神社の200m程南、長野堰用水路に架かる行人橋の傍に鎮座する諏訪神社(高崎市江木町419)。
 ググってみたところ、こちらの神社は永禄年間(1558~70)に真田昌幸により創祀され、昭和二十九年に石宮を建立して諏訪大社から御神体を勧請したものであるとのこと。
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 境内。
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 狛犬。
 顔面部が破損していたり目と口元が赤く塗られていたりでどうにもクリーチャーっぽい感じに。
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 諏訪神社石宮。
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 えーと、神輿庫だったかなこれ。その隣には行人之霊と刻まれた供養塔らしきものとお地蔵様がある。
(2017年2月26日追記)
 村人ではなく行人だった。「新編高崎市史資料編14 社寺」によると、地中に入り即身成仏した行人(修行者)を供養しているものであるそうだ。

雀宮神社(芝塚町)

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 群馬県道27号高崎駒形線と県道12号前橋高崎線が交わる芝塚町交差点の南東、芝塚町公民館に隣接して鎮座する雀宮神社(高崎市芝塚町1963)。
 向拝柱には「祭神 少彦命」「祭神 天神様」と書かれた木札が打ちつけられている。
 ここから600m程東に鎮座する江木神社は古くは雀の宮と称し少彦名命を祀る神社であることから、こちらの神社は江木神社からの分霊なのだろうと推測。図書館で調べている時間が無かったので合っているかどうかはわからないが。
 鳥居の柱には「平成十二年十月吉日建之」と書かれている。
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 神社裏手に並ぶ石造物群。
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『芝塚に伝わる石造物について
1 祠(向かって左)
  祠の起源は諸説あって、一つに菅原道真の乳母が道真の没後自宅に祠を建てて祀った
 と伝えられる。ここの祠は造立年代は不明だが江戸時代後期だろうと推定される。
2 宝篋印塔(左から二番目)
  この塔を礼拝供養すれば生きている間は災害から免れ、死後は必ず極楽に生まれ変わ
 るとの信仰から作られた。
  原型では下から反花座・基礎・塔身・笠・相輪の五つの部分からなるが、ここに残さ
 れているのは塔身・笠のみである。
  塔身に寛政四子年(一七九二)十一月吉日下飯塚村芝塚女人神と刻まれている。
3 五輪塔(左から三番目)
  仏教の宇宙観の地・水・火・風・空の元素をもとに構成されて、下から地輪・水輪・
 火輪・風輪・空輪で成り立っている。
  造立年代不明。
4 板碑(左から四番目)
 追善供養や逆修のために建てられる石製の塔婆の一種で、ここの物は一部欠け落ちてい
 るが残っている部分から判断すると巾四〇〇高さ一〇〇〇位の物だったと思われる。
 完全な形であれば高崎市の文化財になったかもしれない。
  上部に二線の切込みがあり、梵字の深い薬研彫でその文字は阿弥陀如来を意味してい
 る。造立年は不明だが鎌倉又は南北朝時代の作と確実に思われる。
5 石彫り仏像(左から五番目)
  阿弥陀如来像と思われるが、造立年は不明。
6 双体道祖神(一番右にあった)
  双体の物は珍しく旧市内には発見されていない程の物なのでマニアによる盗難にあっ
 てしまったか。
  平成二十三年三月に盗難届は提出してあるが芝塚の宝の紛失は残念。
  造立年代は明和年間頃(江戸時代中期)と思われる』

浅間神社(山田町)

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 高崎市文化会館の東南に鎮座する浅間神社(高崎市山田町44)。
 ググってみたところ、高崎城内に祀られていた富士浅間神社からの分霊であるとも、或いは高崎城内の富士浅間神社を移設したものだとも伝えられているのだそうだ。
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 周囲をパイロンと連結バーで囲われているので工事中なのかと思ったのだが、ストリートビューを見ると二年程前もこの様であるので、特に工事をしていると言うわけでもないようだ。

高崎神社(赤坂町)

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 群馬県道29号あら町下室田線堰代町交差点傍に鎮座する高崎神社(高崎市赤坂町94)。
 公式サイト有り。
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 狛犬。
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 拝殿。
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 高崎市指定重要文化財である鰐口の案内板。
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 美保大國神社。
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 大国主神と事代主神。
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『美保大國神社由来記
御祭神 事代主神(えびす様)
      本社 旧国幣中社美保神社
         島根県八束郡美保関町美保関
    大國主神(だいこく様)
      本社 旧官幣大社出雲大社
         島根県簸川郡大社町宮内
 高崎美保大國神社の創祀は、昭和初期にさかのぼります。昭和二年に始まる世界的大不況のなかに我が国の経済は疲弊し、商工業は不振をきわめ、倒産が相次ぎました。その際、高崎の商工業者の間に美保神社の御祭神事代主神の御分霊を迎えて、商工業の信仰をはかりたいという計画が立てられ、当時の高崎市長及び商工業者の努力に依り、昭和四年九月二十二日美保神社の御分霊をいただき、既にお祭りしていた大國主神と共に、奉斉式を行ったのが当神社の始まりであります。以来毎年十一月十九日、二十日の両日を(近年は十一月第四土曜日、日曜日に変更)大祭日と定め、氏子、崇敬者をはじめ参拝者の家内安全、商売繁昌、五穀豊穣、交通安全、良縁結び等を祈願し、今日の隆盛をみるに至っております。特に当神社の恵比寿講祭は有名で、その賑わいは関東全域に広く知れ渡っております。
 恵比寿様、大國様の二神は福徳円満な神様で、農業商工業をはじめ、あらゆる生業及び学芸向上、交通安全をお守りくださる福神様として、最も敬い親しまれている御神徳の高い神様であります。
 昔からどこの家庭でも神棚を造り、恵比寿、大國様をお祭りしてきました。先祖以来のこの麗しい風習は必ずや子々孫々に至るまで受け継がれていくことでしょう。毎月一日、十五日の月参り、正月三ヶ日、十一月の例大祭には霊験あらたかな美保大國神社に御参拝、御神徳をお受けなされますよう御すすめ申し上げます』
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 五社稲荷大神。
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 大正四年一月造立の花崗石鳥居碑。
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 道祖神祠。

得利稲荷神社(赤坂町)

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 曹洞宗赤坂山長松寺の北側に鎮座する得利稲荷神社(高崎市赤坂町105-1)。
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 入口脇の柱には得利稲荷眞心講と刻まれている。

神明宮(並榎町)

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 並榎町神明会館脇に鎮座する神明宮(高崎市並榎町364)。
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『神明宮由緒
 明治十二年に制定された上野國神社明細帳には、
村社 神明宮
一、祭神 天照皇大神
一、由緒 勧進年月不詳、上野國神社明細帳

 從四位下、榎本於神と、載たるは当社なり、
 按ずるに社号は、並榎の村号より興るか、
 尚、近地高崎町に榎本明神々社あるも、亦一の
 因由とすべし、    今、神明社と称するは
 何年度より斯なるを知らず。
         という記述がなされています。

このように、神明宮となる以前は榎本於神明神であり、「榎本」は並榎に関連する名前であり、「於神」とは水の神を指す呼び名です。
それが、中世以降の神明信仰の高まりによっていつの頃からか、神明宮となりました。
上野國神社明細帳「永仁六年(一二九八)總社神社蔵」に旧名が記録されているということは、当社は平安時代には既に存在し、この地が古墳だったことを考え合わせると、その起源は相当古いものと考えられます。
明治四十三年、神明宮は高崎神社に合祀され、一時期社はなくなりましたが、その後町民の強い願いにより、昭和四年に再建されました。
「お神明様」と慕われ、毎年四月二・三日に執り行われる春の例祭には、「明應三年(一四九四)に始まったとされる」獅子舞が奉納され、神明宮は町内の人々にとって、心のよりどころであります。
 平成二十一年六月吉日』
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『神明宮
 当社は、「上野国神名帳」に従四位下、榎本於明神とあるのが、いつの頃からか、神明信仰(天照大神を主祭神とする伊勢神宮内宮が総本社)に変ったと思われます。
 明治四十三年(一九一〇)、神明宮は高崎神社に合祀され、一時期社はなくなりましたが、その後町民の強い願いにより、昭和四年に再建されました。「お神明様」と慕われ、毎年四月二・三日に執り行われる春の例祭には、明応三年に始まったとされる獅子舞が奉納されます。
舞のときに四股を踏むように地面を踏みつける動きは並榎独特のものと伝えられ、高崎市の重要民俗文化財に指定されています。
 境内には、村上鬼城の揮毫による並榎橋の親柱のうち、二本が狛犬の台座として残されています』
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 狛犬の台座には「なみえはし」の文字が見える。
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 拝殿。
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 本殿。
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『大雨に獅子をふりこむ祭可南 鬼城
 O-ame ni shishi o furi-komu matsuri kana kijo
高崎市並榎町には、後世に残したい文物がいろいろあります。なかでも伝統的郷土芸能として、並榎獅子舞と、村上鬼城の事績はぜひ語り伝えたいものです。
上州・高崎をこよなく愛し、上毛三山や遠望する浅間山の四季を写し、小動物・植物を慈しみの心をもって写生し、数多くの名句を吟じました。
「心耳の俳人」として先師を顕彰し、永久に残す句碑を並榎町住民の総意と賛同者の基金によって、神明宮の境内に建立しました』
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 社名を示すものは見当たらないが、二猿が陽刻されているので庚申関係の祠であると思われる。また隣の小さな石塔には猿田彦大神と刻まれている。
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 二猿。
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 御嶽山座王大権現。
 背面には「慶應二年丙寅十二月吉辰」と刻まれている。
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 境内端の……稲荷社かな。
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 道祖神。

城峯神社(住吉町)

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 長野堰用水路新井堰傍に鎮座する城峯神社と庚申塔(高崎市住吉町13)。
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『住吉町の庚申
 庚申塔には正徳元年辛卯十一月吉日(一七一一)の年号と、梵字の下には「奉造立庚申塔供養攸」とあって、裏面にはこの庚申塔を建てた六名の名前がある。基部には青面金剛の神使である、見ざる、聞かざる、言わざるの三猿が彫ってあり、庚申待の夜はこのような謹慎態度をとるように示している。
 庚申の信仰は中国の道教の教えからきたもので、人の体の中にいる三尸の虫が庚申の夜、人が眠っている間に天に昇って天帝にその人の罪を告げるという。
 庚申信仰が盛んになり、庚申塔は江戸時代に盛んに建てられ、いつ頃ここに祀られたか、はっきりしないが、この庚申塔は香華が絶えない。
 お祭りは毎年五月五日で、この日には火伏の神といわれる城峰神社の祭典も行われる。毎年町内の当番が神社に参籠して御札を請けてくる』
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 左端が城峯神社。あとは猿田彦大神と庚申塔。
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 城峯神社と言うことは、御祭神は大山祇命ですかね。
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 稲荷社。
 後ろの石碑には「昭和八年五月 庚申塔敷地改築 昭和十六年五月 御手洗所及鳥居新築記念」と刻まれている。
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 新井堰案内板。
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稲荷神社(一ノ割一丁目)

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 一ノ割駅の東350m程、一ノ割デンタルクリニックの脇に鎮座する稲荷神社(春日部市一ノ割1-4)。
 鳥居の柱には「平成二十一年五月吉日」と刻まれている。

 以上で12月10日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA15mm、DA70mm、DA20-40mm、50-150mm II。*ist DsにDA35mm Macro。
 ウォーキングカウンターは29,231歩。

藤塚香取神社(藤塚)

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 大落古利根川に架かる藤塚橋の180m程東に鎮座する藤塚香取神社(春日部市藤塚429)。
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 二の鳥居。
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 境内では既に正月の飾り付けの準備が始まっていた。あと三週間ほどもあるのに気が早いなあ。とりあえずできるだけ邪魔にならないように参拝と撮影をば。
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 拝殿。
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 由緒書きとその下に力石。
『香取神社記
御祭神 経津主命
御神徳 武の神 国土開発の神であり心願成就
    産業(農工商)健康の守護神でもあります。
御由緒 桃山時代の天正六年(一五七八年)現在の千葉県砂原市の香取大神を五穀能成万民
   豊楽の神として東国寺開山の光誉上人がここに勧請したものです。その後江戸時代
   享保十三年(一七二八年)七月社殿を造営し同年十一月神社管領より宗源の宣旨を以
   って正一位香取大明神の神位を授けられました。現在の社殿は昭和四十九年十月二
   十四日氏子崇敬者の御奉賛により新たに造営され同年十一月三十日奉祝祭が執り行
   われました。
    昭和五十七年一月一日』
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 狛犬。
 台座には「昭和十一年二月吉日」と刻まれている。
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 天満宮。
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『天満宮記
御祭神 菅原道眞公
    天之手力雄命
御神徳 菅原道眞公は平安時代の人(八四五年~九〇三年)で学問の道に秀れ古くから学問
   の神、受験就職の幸運を導く神として崇敬されています。
    又合祀されている天之手力雄命は天の岩屋にお隠れになった天照大神のお手をと
   って再び外界に引き出し奉った雄々しい神です。
御由緒 昭和五十二年十月二十一日東京文京区の湯島神社より勧請したものです。
     昭和五十七年一月一日
       香取神社氏子総代会
(尚此の社記は旧社記を基にして、平成六年に作り替え、又此の社殿は旧地盤の悪化の為
平成六年十二月旧地より南に約七、五米移築したものです)』
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 稲荷社。
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 石疱大明神、不明、不明、不明、雷電社、辨財天神、小御岳石尊大権現、小御嶽大神、浅間大神。
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『玉垣造営記念碑
 天皇御在位六十三年の時にあたり、先人がこの地を拓き、大水害、台風、大震災、また数度に亘る国難にも耐え、経験した幾多の困難と努力によって、今日、昭和年代の最も成熟した文明、豊かな生活文化時代となった。この時、氏子中相集い、千年の森、御神木の棚石、玉垣の築造、鳥居建立などの神域づくりに奉仕する次第となった。
 当神社の近年史に、又、今日あるは初代細川寅末、島村泰市、日向凞、金子政蔵、各歴代会長、宮司吉田清丸、総代、地区長、各位の貢献、氏子中の奉仕協力の賜物であります。
 この地の自然、住民の営みにあって、明治以来豊野村として栄え、時代の発達は鉄道に始まり付近駅の開設、国県道の改良、昭和八年藤塚橋の開通は交通利便の地となった。
 時の進展は昭和二十九年春日部市となりその一員となった。農村都市から四十年代に入り、武里公団住宅に始まり、この地藤塚にも木下工務店により文化村の開発、指導者を得て六軒地区、本田上、新川など土地区画整理事業による広範な新しい街づくりが行われた。学校、病院、銀行、消防署、公民館など整い面目一新、自然と人と人との融和と文化は日一日と高まり新ふる里へと進んだ。
 時代の技術革新は未知の世界を拓き、テレビ、コンピューター、マイカー、新幹線、ジェット機、家電製品など驚きと喜びと幸せを与えてくれた。物質文明の時代にも、先人の素朴で力強く、扶け合って生きぬき、家と村を興し心豊かな里として引き継がれた心と御神徳は最高無限のものであり、いつも神社はその中心にあった。
 今回の神域づくり事業に際して、氏子中、各団体、施工関係者各位の格別なるご協力によって見事立派な完成を見ることができ最高の喜びであり深く敬意と感謝の意を表する次第であります。
 氏神のご加護によりこの地の限りない発展と氏子中の幸せを祈念し碑文といたします。
          昭和六十三年十月二十三日』
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 北側鳥居脇の青面金剛。
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 北側の鳥居。
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 西側の鳥居。
 何年か前までは金色だったようだ。

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 藤塚橋の傍に設置された石碑。
『藤塚橋の由来
徳川時代以来江戸運河を中心とする舟運にたよつていたこの地方も 明治三十二年夏 東武鉄道が開設され 新らしい陸運時代が展開されることになつた しかし大落古利根川に隔てられた豊野地区は依然交通に恵まれず 渡船を唯一の交通機関としなければならなかつた 大正十五年秋 一の割駅が開設され 当入会地区は直接駅に通ずる要衝の地となり 架橋を要望する声が俄かに高まることとなつた 昭和八年に到り 坂巻治平氏を中心とする十名の有志により藤塚𣘺組合が結成され 資金八百円をもつて有料橋を架設 一般の交通に便ならしめた 爾来昭和二十九年春日部市制施行に伴つて買収されるまで二度にわたる水害にも耐えて長期間よく地方交通の便に資した功は誠に大なりというべきである  戰後急速な産業の発展 自動車の急増による交通革命が進むにつれ 東日本を縦断する四号国道の完成を見る等 この橋の重要性は年とともに高まり 一方木造であるこの橋は 老朽甚だしい実状に鑑み 昭和三十八年市当局の英断により根本的改築の議定まり 最近の技術と方式をもつた新𣘺が本日ここに開通を見るに到つたのである 思えば 地区民の永年にわたる熱望がここに達成せられたことであつて 將に地区の黎明ともいうべく 今日地区民の喜びはもとより 今後の発展に寄与することは はかり知れないものがあると思われる依つて ここに碑を建て由来を遺す所以である
昭和四十年一月一日 日向凞撰 石原儀平書』

淡嶋神社(藤塚)

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 藤塚香取神社の100m程南、墓地の傍らに鎮座する淡嶋神社(春日部市藤塚444)。
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 普門品供養塔……かな?
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天満宮(銚子口)

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 セブンイレブン春日部銚子口店の東側に鎮座する天満宮(春日部市銚子口)。
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銚子口香取神社(銚子口)

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 埼玉県道10号線を挟んで春日部市立豊野小学校の西に鎮座する銚子口香取神社(春日部市銚子口551)。
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 参道右手側に猿田彦大神×3、青面金剛文字塔、青面金剛、太■神。■は囗の中に皇で、国の異体字。つまり太国神。
 右の三基は稲荷大明神、天神社、不明。梵字が円を描いているようにも見えるがはっきりとはわからない。
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 二の鳥居。
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 拝殿。
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 斜め後ろから。
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『銚子口香取神社由來書
 当神社は経津主神命を祭り神として居ります
 江戸時代三一三年前享保元年十月再建と伝えられ今から二六四年前の享保十七年十一月宗源の宣旨を以って正一位香取大明神の神位を授けられ五穀豊穣万民豊楽の祈願奉告祭を執行されました。
 明治四年一月寺社領没収同年十月神佛分離令によって明治六年四月に村社に許可され明治三十九年十二月各部落の神であった雷電社、八坂社、稲荷社を合せて祀られています。
 尚獅子舞は江戸時代三百年前の元禄十年七月現在の越谷市下間久里より伝授されました、昭和四年四月十八日には内閣総理大臣官邸の新築落成の奉祝祭には天下泰平と日本国民の平和を願い伝統ある銚子口獅子舞が奉納されました。
 平成五年氏子皆様方の御奉賛により奥の院改修工事がなされ平成六年十月吉日宮司吉田清丸様の祝詞奏上中心に遷座式が行われました
 霊験は健康、生活、火防の守り神として広く神仰を集めております』
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 富士塚。
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 右の祠の中には小さな木の祠とお狐さまが見えたので、たぶん稲荷神社。
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 左から雷神宮、疱瘡神宮、不明、不明、水神。
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 銚子口の獅子舞案内板。
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 神社裏手の有料駐車場脇に鎮座する青面金剛。
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赤沼香取神社(赤沼)

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 埼玉県道10号春日部松伏線と埼玉県道80号野田岩槻線が交差する赤沼(南)交差点の西北300m程の位置に鎮座する赤沼香取神社(春日部市赤沼770)。
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 拝殿。
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 狛犬。
 台座には「昭和三十五年十月十九日」と刻まれている。
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 拝殿斜めから。
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 横から。
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 西側入口の脇に稲荷大明神と猿田彦大神。そして東側入口の脇にも猿田彦大神。
 西側の猿田彦大神は文化七年(1810)、西側の猿田彦大神は文政九年(1826)の造立。
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 富士塚。
 塚の頂には浅間神社・磐長姫命、麓には大山石尊大権現。浅間神社は天保十二年(1841)四月、大山石尊大権現は天保九年(1838)七月の造立。隣の建物には社名を記したものは見当たらないが、中にはお狐さまと首の無い石像(菅原道真公かも?)が見えたので、稲荷社と天神社が合祀されているのかも知れない。
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 水盤に挟まれた水神宮。
 水神宮の側面には「寛政三亥(1791)九月」と刻まれており、右側の水盤には「天保五甲午年(1834)六月十五日」と刻まれている。
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 赤沼の獅子舞案内板。

正一位稲荷大明神(平方)

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 新国道4号越谷春日部バイパス平方(北)交差点の150m程東、大落古利根川右岸に鎮座する稲荷神社(越谷市平方846)。
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 左奥から大小宮浅間・小御岳神社・大本宮、不明、青面金剛文字塔。文字塔の側面には「文化四丁卯年(1807)正月吉祥日」と刻まれている。
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 拝殿。
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 斜めから。
 脇の小祠は社名が記されておらず、不明。
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 薬師堂。
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 稲荷神社へと至る道の入口脇に戸崎不動尊。

香取神社(平方)

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 鹿島神社の東南550m程の位置に鎮座する香取神社(越谷市平方685)。
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 参道脇には庚申塔と青面金剛がある。
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 天保十三年寅(1842)十一月造立の庚申塔と安永六丁酉(1777)八月造立の青面金剛。
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 拝殿。

鹿島神社(平方)

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 大落古利根川の畔に鎮座する、この辺りでは珍しい鹿島神社(越谷市平方489)。
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 拝殿。
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 斜めから。
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 青面金剛文字塔と庚申塔。
 左から寛政十午天(1798)十二月吉日、天保九戊戌年(1838)八月吉祥日、安政二卯(1855)十一月穀且。
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 水神宮。
 側面には嘉永四亥(1851)十一月吉日と刻まれている。
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 普門品供養塔。
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 神社の裏を流れる大落古利根川。

不動祠(平方)

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 鹿島神社へ向かう途中、越谷市消防団桜井分団第5部(越谷市平方373)の建物前にある祠がふと目についたので、なんだろうと思って見てみたら不動明王だった。
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不動祠(備後東四丁目)

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 先月、備後東四丁目の稲荷神社を参詣した際に見落としていた祠があったので、今回はしっかりと。
 で、どうやらこちらは不動明王を祀る祠であるようだ(春日部市備後東4-6-81)。
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 不動明王の左の石造は菅原道真公だろうか?
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 祠の前には青面金剛文字塔と六地蔵塔。

稲荷神社(平方)

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 浄土宗林西寺の120m程南に鎮座する稲荷神社(越谷市平方)。
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浅間神社(平方)

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 平方公園の西側に鎮座する浅間神社(越谷市平方3604)。
 鳥居の柱には「平成二十八年三月吉日」と刻まれているので、今年新築されたばかりであるようだ。
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『浅間神社 御由緒
 越谷市平方三六〇四
□ 御縁起(歴史)
 越谷市の北端に位置する平方は、その名が示す通り、北と東を大落古利根川、西を利根川旧河道跡(会の川)に囲まれた平坦な地である。
 この平方の地内には、当社のほかに香取神社(二社)・女帝神社・鹿島神社・稲荷神社などの諸社や、呑竜上人を中興開山とする浄土宗の林西寺などの寺院がある。村の開発の年代は明らかでないが、林西寺に宛てた天正十九年(一五九一)の徳川家康朱印状には「武蔵国崎西郡平方郷」と見え、寛永十九年(一六四二)の徳川家光朱印状には「武蔵国崎西郡平方村」とある。
 当社は平方の鎮守とされ、そのほぼ中央に位置し、社殿は小丘の上に建立されている。浅間山と呼ばれるこの小丘は、かつて古墳ではないかということで県によって調査がなされたが、なにも出土せず、古墳ではないことが確認された。したがって、この小丘は、時代は定かではないが、当社を勧請する際に築造されたものと推測される。なお、かつてはこの小丘はもう少し低いものであったが、大正八年に社殿再建を行った際に、氏子が周囲の土を盛って一メートルほど高くしたという。
 『風土記稿』には「浅間社 崇源寺持」とあり、林西寺の末寺の崇源寺が別当であったことがわかる。同寺の中興開山の円誉は元和二年(一六一六)に没している。明治初年の神仏分離により別当から離れた当社は、明治四年に村社となった。
□ 御祭神・・・木花開耶姫神
□ 御祭日
 ・祭礼(六月三十日) ・新穀感謝祭(十二月第三日曜日)』
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 拝殿。
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 小御岳石尊大権現。
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 石鳥居供養塔。
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伏見正一位稲荷大明神(平方)

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 越谷平方郵便局の200m程北西に鎮座する伏見正一位稲荷大明神(越谷市平方)。
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 奥に見える道を歩いて行くと女帝神社前に出るようだ。

山谷香取神社(平方)

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 埼玉県道80号野田岩槻線の脇に鎮座する山谷香取神社(越谷市平方1275)。
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 拝殿。
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 末社。
 石祠は左から天満宮、木宮大権現、辯才天宮十五童子。右側の赤い祠は稲荷神社。
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 青面金剛文字塔。

大泊香取神社(大泊)

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 浄土宗安国寺の北東に鎮座する大泊香取神社(越谷市大泊19)。
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『大泊香取神社(越谷市大泊字北十九‐一)
歴史について  埼玉県神社庁調査
 当地は会の川右岸の沖積地に位置し集落は自然堤防上に東西に連なる。戦国期までは下総国葛飾郡下川辺庄に属したと伝えられ慶安元年(一六四八年)の安国寺宛徳川家光朱印状には武蔵国葛飾郡大泊村と見えることから、江戸前期までには武蔵国に編入された事がわかる。地名地内の浄土宗安国寺を開山(中興)したと伝わる誠誉専故が故郷の紀伊熊野大泊から名付けたと伝わる。しかし一説には、かつて当地は会の川の渡し場で湊町としてにぎわったことから大泊と称されたともいわれる。当社は村の徴高地に位置し、かつては当社のすぐ裏の低地に水田が広がり他の三方は畑であった。
 当社の由緒は伝わらないが、下総国に属していた時代に下総国一之宮香取神宮を勧請したものであろう。風土記稿〔大泊村の項には〕香取社二字村の鎮守なり(一は東光院持)(一は村民持と載る)これに見るように当地は上組と下組に分かれ、上組で祀られたのが(東光院持)と載る当社である。当社は明治四年に東光院の管理を離れて村社となった。同四十年には下組で祀られた香取社をはじめ地内の雷電社・権現社を合祀した。なお本殿には神仏習合時に香取社の本地仏であった木造十一面観音像〔高さ三十一センチ〕が厨子に納めて安置されている。と共に香取神社(経津主命)を祀られている』
 会の川と書かれているが、これ正しくは会之堀川じゃないですかね? 会の川ではまた別の場所になってしまうのだけど、会之堀川の略称として会の川と書いているのかな。
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 拝殿。
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 稲荷大明神。
 右側の石祠三基は左から不明、不明、雷電宮。中央の石祠には本■■願成就らしき文字が見える。
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 成田山不動明王、石燈籠、水神宮、石祠。
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 御嶽神社。

水神明王(大泊)

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 新方川に架かる念佛橋から北西に180m程、住宅街の中にひっそりと鎮座する……なんだろう? 社名を示すものが見当たらないので何神社なのかはわからない。たぶん稲荷社だろうとは思うのだけど、確証が無いのでエントリー名は祠の脇にある水神明王としておこう。場所はこちら
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 水神明王。
 側面には「昭和二十三年五月森田軍治」と刻まれている。
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香取神社(千間台東一丁目)

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 東武伊勢崎線せんげん台駅東口から350m程南東に鎮座する上間久里香取神社(越谷市千間台東1-23-2)。
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 一の鳥居。
 柱には「慶應二丙寅九月吉日」と刻まれている。慶応二年は1866年。
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 二の鳥居。こちらも慶応二年九月の造立。
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 拝殿と狛犬。
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 斜めから。
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 後ろから。
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『香取神社改築記念碑
御祭神 經津主命
経緯
 明治6年4月村社香取神社として申立済、明治40年10月30日上間久里八反田に鎮座する天神社を合祀す
 平成11年11月地方自治法の規定により町名が千間台東1丁目に変更される
 氏子地域の上間久里一帯が千間台及び間久里土地区画整理事業に依って整理されたことを契機に天神社旧地(境外地)の一部を売却し、本殿、幣殿、拝殿及び末社の建築並びに境内整備を施行した
 平成14年12月吉日』
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 末社。
 左から御嶽社、天満宮。天照皇大神、良公神、■神宮、稲荷大明神、稲荷大明神。
 天照皇大神の背面には「■治三十七年(1904)第十月奉祀之吉岡重太郎」、良公神の側面には「天明六午(1786)三月吉日」、■神宮の側面には「■■■■子十二月吉日」、稲荷大明神は二基とも側面に「延享元甲子天(1744)六月吉日」と刻まれている。
 ところで良公神ってなんだろう? ■神宮は天神宮か水神宮あたりだろうか。

 国道4号線上間久里交差点近くのランドロードUA棟駐車場内に稲荷神社があるようだが、事前に気付いていればそちらにもお参りできたのに……○刀乙

久国神社(六本木二丁目)

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 赤坂氷川神社の200m程東、東京都道412号霞ヶ関渋谷線六本木二丁目交差点近くに鎮座する久国神社(港区六本木2-1-16)。
 乃木神社、赤坂氷川神社と人が多かったが、こちらは二人しか見かけなかった。嗚呼、なんか落ち着く……。
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 鳥居。
 柱には「奉 皇紀二千六百年紀念 海軍大將 山本英輔 謹書」「獻 昭和十五年五月 麻布區簟笥町 文明堂 宮崎甚左衛門」と刻まれている。
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 狛犬。
 鳥越神社や吉原神社の狛犬に似た雰囲気だが、こちらの方がシンプルな造形か。
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 後ろから。
 台座には「昭和十八年二月竣工」と刻まれている。
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 拝殿。
 東京都神社庁のサイトによると、御祭神は倉稲魂命。創建時期は不詳ながら、古くはもと千代田村紅葉(現皇居内)にあり、久国神社の名は太田道灌が粟田口久国の刀を寄進したことに由来するとのこと。
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 猿田彦神社。
 鳥居には「昭和三十七年七月吉日」と記されたプレートが埋め込まれている。

 以上で12月3日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA20-40mm、DA15mm、DA70mm。
 ウォーキングカウンターは20,850歩。
 この後は秋葉原で新刊を購入してから帰宅。
 この日修理に出したX30は一週間後の10日に送られて来たが、各設定は初期値に戻っていたので再設定しなければならないのがちと面倒。修理費用は23,760円に送料と代引き手数料を合わせた850円で計24,610円。ちょっと懐が痛いけど、新たに買うよりは安上がりではあるし、そもそもコンデジの現行機種でX30から買い換えたくなるようなものも無いからまあいいか、と自分に言い聞かせてみる。

赤坂氷川神社(赤坂六丁目)

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 東京十社の一つに数えられる赤坂氷川神社(港区赤坂6-10-12)。公式サイト有り。
 乃木神社も参拝者が多かったが、こちらはそれよりも多かった。もう撮影しないで次に行っちゃおうかなとか思ったくらい。
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 氷川神社案内板。
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『東京都指定有形文化財(建造物) 氷川神社社殿
 所在地 港区赤坂六‐一〇‐一二
 指 定 昭和二七年一一月三日
 この社殿は、本殿・幣殿・拝殿の三つの建物
が一体となった、いわゆる権現造の形式です。
 江戸時代の第八代将軍である徳川吉宗によって享保一五年(一七三〇)に建てられました。吉宗は「享保の改革」と呼ばれる倹約政策をとったことで有名で、社殿にも当時の質実簡素な気風を見ることが出来ます。通常は将軍の寄進するような社寺であれば、軒下の組物を何重にも重ねたり、彫刻や彩色などで飾り立てたりするのですが、この社殿の組物は簡素で、彫刻も目立ちません。しかしただ質素なだけではなく、大きな雲形組物や吹寄せ垂木など軽快な意匠を取り入れる工夫も見られます。また全体は朱漆塗としながら、部分的に黒漆塗や黒色金具を用いることで引き締まった印象となっています。
平成二二年三月 建設』
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 二の鳥居。
 鳥居の両脇に狛犬があるのだが、撮るの忘れてた。
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 台石部分には彫刻が施され、
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 その下には几号水準点もあった。
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 楼門。
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 その左右に石燈籠。
『港区の文化財 氷川神社の石燈籠 四基
 門の内外に立つ二対四基の石燈籠です。門内の本殿前に立つ二基は、赤坂表伝馬町・裏伝馬町・元赤坂町(現在の元赤坂一~二丁目)の講中が、享保九年(一七二四)間四月に奉納したものです。氷川神社が徳川吉宗の産土神として信仰され、現在の地に遷座したのは同十五年であり、それ以前は「古呂故が岡」(現在の赤坂四丁目一辺り)にありました。この燈籠はその時代のもので、遷座に際し移されたものと考えられます。
 門外の二基は、遷座の年に岡崎城主水野忠之が奉納したものです。水野忠之は吉宗が行った享保の改革の前半を主導した老中です。幕府財政の建て直しに尽力した人物で、吉宗との強いつながりをこの石燈籠からも伺うことができます。岡崎藩水野家は吉良邸討入後の赤穂浪士九人を三田の中屋敷に預かった家としても知られています。
平成七年三月二十七日 港区文化財総合目録登録』
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 石燈籠の傍に狛犬。
 台座には「延宝三乙年卯六月吉日」と刻まれているので1675年の造立。頭頂部の凹みは燭台のように使われていたのだろう。
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 拝殿。
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 境内西端の稲荷社。
 左の水盤には羽団扇紋が陽刻され、側面に「嘉永四辛戌秋」、右の水盤には「文化十癸酉年初秋造之」と刻まれている。が、嘉永四年は辛亥で、戌がつくのは嘉永三年庚戌なのだよね。そもそも干支に辛戌って無いし。ちなみに嘉永四年は1851年で文化十年は1813年である。
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 狛犬。
 台座には「文政八乙酉年六月吉日」と刻まれている。文政八年は1825年。
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 稲荷社の隣には祭器庫。
 公式サイトの境内案内図を見ると、この北側にも稲荷社があるようなのだが、あったかなぁ? まるで気付かなかった。
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 九神社。
 天祖神社・春日神社・鹿嶋神社・八幡神社・諏訪神社・秋葉神社・厳島神社・金刀比羅神社・塞神社の九社を合祀したものであるそうだ。
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『東京都指定史跡 浅野土佐守邸跡
 所在地 港区赤坂六の一〇・一九
     氷川神社他
 標 識 昭和一八年三月一六日
 指 定 昭和三〇年三月二八日
 元禄の頃、この地は備後国三次藩浅野家の下屋敷でした。三次藩は、寛永九年(一六三二)に安芸国広島藩から五万石を分知され立てられた支藩です。初代藩主は、安芸国広島藩二代藩主光晟の庶兄因幡守長治で、娘には、播磨国赤穂藩主浅野内匠頭長矩の正室となった阿久里(阿久理、阿久利とも)がいます。
 元禄一四年(一七〇一)三月一四日、浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央を切りつけた元禄赤穂事件が起きました。長矩は即日切腹を命じられ、領地没収の上、家は断絶となりました。そのため、長矩の正室阿久里は、出家し揺泉院と称し、生家である三次浅野家に引き取られました。以後、正徳四年(一七一四)に死去するまで、ここに幽居しました。この事件が起こった時、藩主が土佐守を称した三代藩主長澄であったことから、「浅野土佐守邸跡」として標識されました。
 三次浅野家はその後、四代藩主、五代藩主ともに早逝したため享保三年(一七一八)に断絶となり、遺領は広島藩へ還付されます。享保一五年(一七三〇)、現在の赤坂四丁目からこの地へ氷川神社が遷宮され、今日に至っています。
 平成二五年三月 建設』
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 氷川坂に面する東の鳥居。
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 狛犬。
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 東の二の鳥居と狛犬。
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 狛犬。
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 四合稲荷神社。
 鳥居の柱には「大正五年九月吉辰」と刻まれている。大正五年は1916年。
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『四合稲荷神社
 ※毎年四月十五日例大祭
・御祭神
 宇迦之御魂神─食物の神、殊に稲の神
・御縁起
 1 古呂故稲荷 (赤坂一ッ木二番地、古呂故天神社境内に鎮座)
 2 地頭稲荷  (氷川神社遷座以前より拠の地に鎮座)
 3 本氷川稲荷 (本氷川神社隣接、別当盛徳寺の境内に鎮座)
 4 玉川稲荷  (赤坂門外の御堀端、現弁慶橋のあたりに鎮座)
 以上、四社を明治三十一年、遷座合祀し、赤坂在住の勝海舟翁により
「四合(しあわせ)稲荷」と称えられる。
 大正十四年に、鈴降稲荷神社(赤坂一ッ木町に鎮座)及び、縁起稲荷
神社(赤坂丹後坂下に鎮座)二社を、また昭和九年に、明徳稲荷神社
(赤坂新町に鎮座)を、遷座合祀し、現在に至る。
 勝海舟翁筆の「四合稲荷社」という扁額が、現存する。
・附記
 古呂故稲荷神社は、古呂故天神社境内、氷川旧社地(氷川御旅所)に祀られていた稲荷社であって、明治十七年、氷川旧社地を売却した際、現氷川神社境内へ遷座、のちに四合稲荷に合祀された。
 地頭稲荷神社は、享保年間、現氷川神社遷座以前より祀られていた稲荷社である。
 本氷川稲荷神社は、本氷川神社(昔は溜池付近にあり、のち承応三年に、現氷川神社の隣地へ遷座、今井の総鎮守として、住民から尊崇を受けていた)境内の稲荷社で、本氷川神社と共に明治十六年、現氷川神社境内に遷座、のちに四合稲荷に合祀された。
 玉川稲荷神社は、水道方玉川庄右衛門の邸内社だったとする説もあるが、御神体が玉川上水に流れ来た故に、玉川稲荷と称したものと推定される。明治二十一年、現氷川神社境内に遷座、のちに四合稲荷に合祀された』
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 拝殿とお狐さま。
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 西行稲荷神社。
 鳥居の柱には「文久二壬戌歳二月初午」と刻まれている。文久二年は1862年。
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『正一位 西行稲荷神社縁起
 文政(一八一六~一八三〇)年間、町方書上の赤坂田町四丁目より録写したところによれば、町内自身番屋敷地内に古来からあった祠堂で本社は六尺に七尺五寸、拝殿二間四方で前方に三尺に六尺の向拝がありました。
 勧請の由来は、年代不詳(享保年間ともいう)、田町五丁目に西行五兵衛と異名をもつ男あり、榎坂を通行中、甲冑を帯し弓箭を携え、狐の形をしている三寸程の鉄像をひろいとったが、稲荷の御神体らしいと云ふので、これを勧請し、五兵衛の異名を以って、西行稲荷と唱えられました。
 明治以後、町の発展に伴い、大正十年(一九二一)九月氷川神社境内に移し、別名「火伏の稲荷」ともいい、火災除の御神徳があると称されております。
平成七年九月吉日建之』
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 本殿とお狐さま。
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 西行稲荷社下の穴稲荷と布袋尊像と石祠。
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 太鼓橋。
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『苗村翁頌徳碑
赤坂氷川神社ハ享保年間ノ創建ニ係リ神徳無限結構雄大古来
江都ノ名祠タリ維新中興ニ當リ神領官ニ歸シ社頭癈頽シテ昔
時ノ如クナラズ然モ幾バクナラズシテ舊觀ニ復シ今日ノ盛ヲ
致ス是レ固ヨリ神慮ノ致ス所ナリト雖亦以テ産土民戸ノ奉賽
ニ依ルニアラズンバ焉ンゾ能ク斯ノ如クナルヲ得ンヤ特ニ氏
子總代苗村又右衛門翁ノ功沒スベカラザルモノアリ翁ノ家世
世刀劍ヲ鬻ギ翁ニ至ツテ典舗ヲ業トス拮据經營産ヲ積ミ富ヲ
重ネ聲望漸ク加ハル屢區會議員同議長東京府會議員同商工會
議所議員等ニ推サル常ニ當社ヲ景仰シ明治十三年當社氏子總
代トナリ率先資ヲ捐テ専ラ力ヲ神社基金ノ増額神域ノ擴張ニ
致ス任ニ在ルコト五十余年敬神ヲ以テ念トナシ終始渝ラズ神
域内外ノ施設一トシテ翁ノ力ニ依ラザルナシ大正六年東京府
神職會其勞ヲ旌シ客年五月全國神職會大會更ニ之レヲ表彰ス
榮譽大ナリト云フベシ翁齡既ニ八秩ヲ過グルモ尚矍鑠トシテ
壮者ノ如ク後生ヲ誘掖指導シテ倦マズ其精力ノ絶倫ニシテ氣
力ノ旺盛ナル眞ニ驚嘆ニ値スルモノアリ豈徳ヲ頌セズシテ可
ナランヤ嘗テ聞ク神ハ人ヲ俟ツテ徳ヲ尚ヘ人ハ神ニ倚ツテ慶
ヲ受クト神人合一ノ美徳焉ニ見ハル翁ノ如キソレ斯人乎余夙
ニ翁ノ聲名ヲ耳ニス今人ノ来リテ文ヲ嘱スルアリ遭テ辭セズ
乃チ梗慨ヲ叙スト云爾
昭和十二年九月』
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 苗村又右衛門翁像。
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 見下ろしてみたり。
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 包丁塚。
『趣意
そもこの地赤坂青山は、古くより包丁の冴えに世人をして味覺の境地におそばしむる店多しために、今日が日まで破れ損いし刃物は和洋を問わず數多なり、そを情あつき人々相つどい組合設立二十五周年を期に、この因りの地氷川の神域に「包丁塚」を建立、以ってとこしえに感謝の誠を捧げるなり』
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『港区の文化財 氷川神社の力石
「三十五貫」と切符があるこの力石は、神社境内の土中から発見されたものです。この力石にまつわる話は特に伝わっていません。力石は、腕力や体力を鍛えるために重い石を持ち上げて「力競べ」、あるいは「曲持ち」を行った際に使用した石で、江戸時代には、神社の祭礼などに奉納のため盛んに行われました。区内の力石は全部で十四点確認されていますが、ほとんどが海岸沿いの神社に残されているのに対し、この一点だけが海岸から遠く離れたこの地にあり、興味深い例です。
平成七年三月二十七日 港区文化財総合目録登録』
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