武州御嶽神社(上十条五丁目)

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 環七通り上十条第2歩道橋脇に鎮座する武州御嶽神社(北区上十条5-8-3)。
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 狛犬。
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 祠の中には大口真神の御符が納められているのが見えた。
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『記念碑
御嶽神社ハ今ヨリ二百餘年前現東京府西多摩郡三田村ニ 大名持神 少彦名神 ヲ奉祀シタル御嶽神社ノ分祠ニシテ武藏國内ノ農民ハ家内安全五穀豐穣ノ守護神トシテ崇拜ス殊ニ當地ノ農民ハ崇敬ノ念篤ク分社當時ヨリノ講社ヲ經續シ毎年代參ヲシテ參詣シツゝアリ古來ノ社祠ハ現王子第三國民學校ノ門前ニ在リ偶々東京府第七號環状線新設ニ當リ移祠ノ止ムナキニ至レリ是ニ於テ各町關係者協議ノ上換地下附申請ニ努メ新ニ該敷地下附及ビ社殿竝ニ樹木補償料交付トナレリ依テ古昔遷宮當初ヨリ深キ信仰關係アル地元傳來ノ舊西町住人二十四名ハ工事完成ノ爲ノ建築費ノ一部ヲ奉納シ且ツ設計及ビ工事一切ノ責ニ當リ百八十餘人ノ勤勞ヲ奉仕シ以テ竣工ヲ告ゲ昭和十六年七月三日遷宮式ヲ擧行シタルモノナリ茲ニ移祠新築完成ヲ記念シ其ノ由來ノ梗概ヲ石ニ刻シ之ヲ後昆ニ遺ス
 昭和十六年七月三日』

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 国威宣揚碑。
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 以上で1月21日参拝分終了。
 この後はDA16-85mmを点検してもらう為に新宿センタービル内のリコーイメージングスクエア新宿へ。DA16-85mmを買った時からズームリングを回すと特定の位置で何かを弾くような音がするのが気にはなっていたものの、特に写りなどに影響が無いのでそのまま使っていたのだが、やはりどうにも音が気になるので点検に出したら修理送りへと相成りまして、二月の頭頃には送られて来るとのこと。
 この日の使用機材はK-5IIsにDA16-85mmとDA20-40mm。X30。
 ウォーキングカウンターは21,743歩。
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日枝神社(十条仲原二丁目)

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 八雲神社の200m程西、環七通り傍に鎮座する日枝神社(北区十条仲原2-6-5)。
 鳥居の柱には「明治廿一年子四月新築」と刻まれているので1888年の造立。
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『日枝神社
 この神社は、古い記録によれば、元禄二年(一六八九年)に創建されたとされ、祭神は大山咋神です。
 かつて、山王塚と呼ばれたこんもりした草地の上の小さいお宮は、字割子沢の何軒かの農家に囲まれ、静かに祀られていました。

 十条仲原庚申
 この庚申塔の主尊は、青面金剛です。
 青面金剛は、人間の体内にひそむ「三戸」という悪い虫のたたりを防ぎ、病魔を退散させると信じられ、人びとは庚申の夜は一睡もしないで祈ったといいます。
 この石塔は、刻文によれば、延宝四年(一六六七年)武州豊島郡十条村の人たちによって建てられています。
 以来、この土地の人びとは、永くこの庚申様を信仰し、守られて生活してきました。
 昭和の初めごろまで続いたという庚申講は、昭和五十一年、塔の造立三百年に因んで再び結成され、先祖の人びとの心を継いでお祀りをしているのです』
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 日枝神社と青面金剛。
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冨士神社(中十条二丁目)

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 北区立荒川小学校の西側に鎮座する冨士神社(北区中十条2-14-18)。
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 石階段脇の狛犬。
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 小御岳神社。
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 冨士神社石宮。
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『北区指定有形民俗文化財 十条冨士塚
 北区中十条二‐一四‐一八
 十条冨士塚は、十条地域の人々が、江戸時代以来、冨士信仰にもとづく祭儀を行って来た場です。
 現在も、これを信仰対象として毎月六月三十日・七月一日に十条冨士神社伊藤元講が、大祭を主催し、参詣者は、頂上の石祠を参拝するに先だち線香を焚きますが、これは富士講の信仰習俗の特徴のひとつです。
 塚には、伊藤元講などの建てた石造物が、三十数基あります。銘文によれば遅くとも、天保十一年(一八四〇)十月には冨士塚として利用されていたと推定されます。
 これらのうち、鳥居や頂上の石祠など十六基は明治十四年(一八八一)に造立されています。この年は、冨士講中興の祖といわれた食行身禄、本名伊藤伊兵衛の百五十回忌に当りました、石造物の中に「冨士山遥拝所再建記念碑」もあるので、この年、伊藤元講を中心に、塚の整備が行われ、その記念に建てたのが、これらと思われます。
 形状は、古墳と推定される塚に、実際の富士山を模すように溶岩を配し、半円球の塚の頂上を平坦に削って、富士山の神体の分霊を祀る石祠を置き、中腹にも、富士山の五合目近くの小御岳神社の石祠を置いています。また、石段の左右には登山路の跡も残されており、人々が登頂して富士山を遥拝し、講の祭儀を行うために造られたことが知られます。
 平成四年三月』
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八雲神社(中十条三丁目)

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 東京都道460号中十条赤羽線と東京都道318号環状七号線が交わる馬坂交差点の脇に鎮座する八雲神社(北区中十条3-33-12)。
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 拝殿。
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 狛犬。
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『八雲神社略由緒記
 八雲神社は近世には、真言宗智山派無量山龍谷院西音寺持ちであった。江戸時代、文化文政期編纂の「新編武蔵風土記稿」に「牛頭天王社 西音寺持」とある。その後、王子神社の末社として旧宿町(中十条二、三、四丁目辺り)の村持ちの神社となったが、現在は「八雲講」組織の管理運営により祭礼が執り行われている。太平洋戦争以前は環状七号線の真ん中辺りにあったが、昭和十六。七年頃現在の地に遷座となる。社地提供の高木家が代々講元を務める。
 八雲神社は、牛頭天王・須佐之男尊を祭神とする祇園信仰の神社で、総本社は京都の八坂神社である。社名は、須佐之男尊が詠んだ歌「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣を」に因む。江戸時代までは牛頭天王社と称していたが、明治期の神仏分離令により現社名となる。この地でも昭和十四年以前は、テンノウサマ(天王様)として庶民の崇敬を集めていた。牛頭天王とは、日本の神仏習合における神様であり、元々はインドの祇園精舎の守護神であると言われている。疫病除け、病気平癒、また内緒で賽銭をあげると縁が結ばれるい縁結びの御利益あり。昔は諸願成就の丑三つ詣りが盛んに行われていた。北区岩淵町にも日光御成道第一の宿場、岩淵宿鎮守社の八雲神社がある』
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若宮八幡神社(中十条四丁目)

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 八幡山児童公園の上に鎮座する若宮八幡神社(北区中十条4-15)。
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 恵比寿と大黒天。
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『若宮八幡神社
一、御祭神 誉田別命(応神天皇)
一、御神格 文武の神
 ここは八幡山と呼ばれております。古老からの聞き伝えに依りますと、この八幡神社は享保年間(一七一六~一七三六)に鎌倉の鶴が岡八幡宮から分祀して、創建したとのことです。(現存の記録は明治十八年六月が最古のものです。)それで「若宮八幡神社」と言います。以来地元の有志が代々お祀りをして参りましたが、平成八年に新たに「八幡山の会」と云う組織に改め、この神社を「心のふるさと」として、その周辺を含めて、護持、整備を行っております』
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『清水坂
 十条の台地から稲付の低地に下る岩槻街道(旧日光御成道)の坂である。昔はけわしく長い坂道だったので十条の長坂などとも呼ばれた。切り通しの崖からはたえず清水が湧き出ていたので、清水坂の名が付けられた。現在は崖が削りとられて、その跡に児童公遊園が設けられているが、そこは貝塚遺跡でもあった』

香取神社(赤羽西二丁目)

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 日蓮宗稲付山法真寺の東に鎮座する香取神社(北区赤羽西2-22-7)前の石段。
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 石段を上ると両脇に狛犬。
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 台座には「嘉永三庚戌歳九月吉日」と刻まれているので1850年の造立。
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 鳥居。昭和二十八年九月造立。
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 狛犬。
 台座には「嘉永五壬子年二月吉祥日」と刻まれているので1852年の造立。
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 拝殿。
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 斜めから。
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『北区台帳登載文化財(有形文化財 建造物) 香取神社本殿
 北区赤羽西二‐二十二‐七 香取神社境内
 香取神社本殿は、境内東側に位置する拝殿の後ろに設けられた本殿覆屋の中に安置されています。朱塗りの三間社流造で、屋根は杮葺きです。石の亀腹の上に土台が据えられ、その上に高さ約一〇尺、奥行約八・三尺の社殿が建てられています。
 香取神社は、経津主神・大山咋神・建御名方神を祭神としています。「新編武蔵風土記稿」には「村の鎮守とす、長二尺六寸許の石を神体となせり」と記述され、旧稲付村の鎮守でした。稲付村は十七世紀半ばの郷帳(「武蔵田園簿」)に「御神領」と記され、東叡山寛永寺領に属していました。また、当社とも関係の深い法真寺(赤羽西二丁目)の開山證道院日寿は、東照宮の造営にも深く関与した南光坊天海の弟だったとも言われています。このため、香取神社の本殿は、この近辺に暮らす人びとに、上野東照宮の本殿(内陣)を移築したものだと古くから信じられています。上野東照宮の本殿とは、徳川将軍家が東叡山寛永寺を造営した際に藤堂高虎(津藩初代藩主)が建てたもので、その事業には徳川御三家が協力し、寛永四年(一六二七)に落成したことが知られています。
 平成二十四年三月』
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『稲付村の力石
 北区赤羽西二‐二二‐七 香取神社境内
 ここにある七つの石は、その一つに「さし石」と刻まれている力石です。
 江戸時代後期から明治時代にかけて、稲付村では、春の彼岸がすぎるころ、少しの間、農作業に暇ができましたので、村の鎮守である香取神社の境内に、村内の力自慢の若者たちが集まって、石の「サシアゲ」などして、力くらべをしたといいます。
 七つある力石のうち、五つの石に重さが刻まれています。軽いものでも十九貫目(約七十一キログラム)、重いものでは五十五貫目(約二百六キログラム)もあります。また、六つの石には、「小川留五郎」と名前が刻まれています。留五郎さんは、稲付村一里塚跡付近にある根古屋の小川家の人で、力が強く、村相撲の大関を勤めたといいます。石鳥居の脇にある明治三十九年(一九〇六)五月建立「日露戦役記念碑」の有志者連名中にもその名がみられます。明治四十年(一九〇七)六月十三日に五十一歳で亡くなりましt。力石は小川家に保管されていましたが、昭和四十年(一九六五)頃に香取神社へ奉納され、現在に至っています。
 力石は、鎮守の祭礼などで、これを持ち上げて、神意をはかるための石占に用いられ、後には、若者たちの力くらべをするための用具ともなっていきました。この力石は往時の稲付村の風俗・習慣を示す貴重な文化財です。
 平成八年三月』
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 神楽殿。
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 正一位伏見稲荷神社。
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 お狐さま。
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 末社殿。
 榛名神社、古峰神社、御嶽神社、大山阿夫利神社の四社が祀られている。
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 富士登山記念碑と関西中国九州巡覧記念碑、そして鳥居の残骸。
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青面金剛

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 真正寺坂の入口に鎮座する青面金剛(北区赤羽西2-19)。
『真正寺坂
 岩槻街道沿いの赤羽西派出所から西に登る坂です。坂の北側(赤羽西二‐一四‐六付近)に普門院末の真正寺がありましたが、廃寺となり坂名だけが残りました。坂の登り口南側にある明和六年(一七六九)十一月造立の庚申塔に「これより いたはしみち」と刻まれていて、日光御成道(岩槻街道)と中山道を結ぶ道筋にあたっていることがわかります。かつて、稲付の人びとは縁起をかついで「しんしょう昇る」といって登ったそうです』

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 オーケーストア十条店の南側、東京都道318号環状七号線傍に鎮座する青面金剛(北区十条仲原2-15)。

道観山稲荷社(赤羽西二丁目)

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 真言宗智山派妙覚山蓮華寺普門院の山門脇に鎮座する道観山稲荷社(北区赤羽西2-14-20)。
 扁額には「陀枳尼天」と書かれているが、鳥居の柱には「道観山稲荷講 講元 講員一同」「建立平成十七年二月吉日」と書かれている。
 こちらもお参りする予定は無かったと言うか存在自体知らなかったのだが、面白い形の山門があるなと思い近寄ってみたら傍に稲荷社があったのでお参りすることに。
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 普門院の山門。
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 なんだかわからないのでググってみたら、共同墓地であるのだそうだ。
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『東京都北区指定無形民俗文化財 稲付の餅搗唄
北区赤羽西二‐一四‐二〇 道観山稲荷社地内
 江戸時代、ここは稲付村と称されていましたが、この先右側の社地でうたわれる餅搗唄は、住民が昔から餅を搗くときにうたった作業唄で、現在は、毎年二月の初午祭のときに道観山稲荷講の人達によってうたい継がれています。
 餅は正月を祝って鏡餅として神棚にそなえるとともに、これを雑煮にして食べたり、祝い事や保存食に使うためにも搗かれました。稲付の地域では、餅を搗く際に、臼にまわりに何人もの若者が集まり、唄をうたいながら小さい杵を次々と振りおろして餅を練ったり搗いたりします。餅を練るときにうたったのが稲付千本杵餅練唄、餅を搗くときにうたったのが稲付千本餅搗唄です。唄は、大正十二年(一九二三)九月の関東大震災の前後まではズシ(=辻子)と呼ばれる小地域共同体の若衆がモヤイ(=催合)と呼ばれる相互扶助的な慣行によって家々をまわり、一晩かけて餅搗の手伝いをするときにうたわれました。しかし、米屋が餅の注文をとるようになると餅を搗く機会が次第に失われ、モヤイによる餅搗唄も姿を消していきました。
 昭和四十年前後、赤羽西二丁目町会の役員が稲荷講の役員を兼ねていたのが契機となって、静勝寺の参道下から清水小学校までの街道沿いを氏子地域とする道観山稲荷講の人々が初午祭に際して餅搗唄を伝承するようになり、今日に至っています。
 平成八年三月』

静勝寺(赤羽西一丁目)

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 稲付城跡に位置する曹洞宗静勝寺(北区赤羽西1-21-17)。
 石段脇の標石には「都旧跡 稲付城跡」と刻まれている。
 当初こちらにお参りする予定は無かったのだが、鳥居が見えたので立ち寄ってみた。
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 石段の脇には稲荷社が鎮座している。
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『東京都指定文化財(旧跡) 稲付城跡
 北区赤羽西一‐二一‐一七
 稲付城跡は現在の静勝寺境内一帯にあたり、太田道灌が築城したといわれる戦国時代の砦跡です。
 昭和六十二年(一九八七)、静勝寺南方面で行われた発掘調査によって、永禄年間(一五五八~一五六九)末頃から天正十年(一五八二)頃に普請されたとみられる城の空堀が確認されました。
 また、静勝寺に伝存する貞享四年(一六八七)の「静勝寺除地検地絵図」には境内や付近の地形のほか、城の空堀の遺構が道として描かれており、稲付城の城塁配置を推察することができます。
 この付近には鎌倉時代から岩淵の宿が、室町時代には関が設けられて街道の主要地点をなしていました。稲付城は、その街道沿いで三方を丘陵に囲まれた土地に、江戸城と岩槻城を中継するための山城として築かれたのです。
 道灌の死後、この城は孫の資高が居城し、後に後北条氏に仕えました。その子康資は後北条氏の家臣として岩淵郷五ヶ村を所領しました。
 明暦元年(一六五五)に道灌の子孫太田資宗は静勝寺の堂舎を建立し、道灌とその父資清の法号にちなんで寺号を自得山静勝寺と改めました。その後も江戸時代を通じて太田氏は、太田道灌の木造を安置する道灌堂や厨子を造営するなど静勝寺を菩提寺としていました。
 平成十三年三月』
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 出土した遺構。
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 参道。
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 道灌堂。
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『東京都北区指定有形文化財(歴史資料) 木造太田道灌坐像
 北区赤羽西一‐二一‐一七 静勝寺
 右手の道灌堂の厨子内には、太田道灌の坐像が安置されています。像は、道灌の命日である七月二十六日にちなんで毎月二十六日に開扉されます。道灌堂は道灌の二百五十回忌にあたる享保二十年(一七三五)七月に建立され、厨子は三百五十回忌にあたる天保六年(一八三五)七月に製作されました。
 太田道灌(一四三二~一四八六)は室町時代の武将で、扇谷上杉家に仕えて三十余度にも及ぶ合戦に参加したといわれますが、長禄元年(一四五七)四月に江戸城を築いたことで知られています。
 像は頭を丸めており、道灌が剃髪した文明十年(一四七八)二月頃から同十八年に没するまでの晩年の姿を映しています。体には胴服を着けており、左脇には刀一振が置かれています。正面を向き、右手で払子を執って、左手でその先を支え、左膝を立てて畳座に坐しています。像高は四四・五センチ、構造は檜材の寄木造です。頭部は前後二材矧ぎで玉眼を嵌入し、差首としています。胎内に納入されていた銘札によると、元禄八年(一六九五)静勝寺第六世の風全恵薫によって造立され、以後、六回の修復が施されました。現在の彩色は、昭和六十二年(一九八七)四月に行われた修復によるものです。
 像は、道灌が没してから二百年以上も後に造立されたものではありますが、その風貌を伝える唯一の木像として大変に貴重で、平成元年(一九八九)一月に北区の指定有形文化財に指定されました。
 平成八年三月』
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 静勝寺本堂。
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 本堂前の狛犬。
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 辯天堂。
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 南山門。
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『東京都指定旧跡 稲付城跡
所在地 北区赤羽西一‐二一‐一七 静勝寺
指 定 昭和三六年一月三一日
 稲付城跡は、武蔵野台地北東端部の標高二一m程度の舌状台地先端上に立地する自然地形を利用した中世の城館跡です。文化・文政期の地誌「新編武蔵風土記稿」にも「堀蹟」として登場します。
 現在静勝寺が所在する平坦面に主郭があったと考えられています。北面と東西面は崖面で、南側は台地が続き平坦な地形になっています。周辺からは、発掘調査によって幅約一二m、深さ約六mの空堀の跡等が検出され、その際に一六世紀前半頃の遺物が出土しました。
 静勝寺には室町時代の武将、太田道灌の木像坐像が所蔵されています。寺伝によれば、城はこの道灌による築造とされています。今のところ築城した人物を特定する明確な根拠はありませんが、荒川を前面にひかえ北方の防御を重視した城の構造と、発掘調査の成果などから、南側に勢力をもった扇谷上杉氏にかかわりのある城館であったと推測されます。道灌が扇谷上杉氏の家宰であったことから、道灌築城の可能性もあったと考えられます。
 平成二五年三月 建設』

 後で知ったのだが、静勝寺の西側に亀ヶ池辨財天があるようだ。先に知っていればそちらにもお参りできたのだが、そもそも静勝寺自体予定外だったのだから仕方が無いか。まぁまた機会があればその時にでも。

赤羽八幡神社(赤羽台四丁目)

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 JR赤羽駅の北側、東北・上越新幹線と埼京線の上に鎮座する赤羽八幡神社(北区赤羽台4-1-6)。
 公式サイト有り。
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 一の鳥居。昭和二年四月造立。
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 参道脇には日露戦役記念碑が二基と石坂碑が一基建てられている。
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 二の鳥居。昭和六年五月造立。
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 拝殿。
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 本殿。
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 由緒書き。長いので書き写す気にならない。
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 末社殿の鳥居。
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 狛犬。
 台座には「昭和六十三年一月移築」と刻まれている。以前はこの二基が八幡神社拝殿前に並んでいたようだ。
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 末社殿には大国主神社、疱瘡神社、稲荷神社、住吉神社、大山神社、阿夫利神社、御嶽神社、北野神社の八社が祀られている。
 周りには兎と大黒天と狐と牛が並んでおり、なんとも賑やかなことだ。
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 古峯神社。
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 因幡の白兎と大国主。
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 お狐さま。
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 なで牛。
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 神楽殿。
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 天祖神社・春日神社合殿と稲荷神社。
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 赤羽招魂社。
 隣に並ぶ倉庫は山車庫だろうか。
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 社務所下に並ぶ石祠。大塚稲荷大明神や笠間稲荷神社の名が記された札も見える。
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 社務所。
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 裏参道と鳥居。
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 境内側から。

稲荷神社(赤羽西一丁目)

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 猿田彦神社の東側、大坂の途中に鎮座する稲荷神社(北区赤羽西1-41-5)。
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 詳細は不明。
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 坂の上から。
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『大坂
 この坂は、赤羽根駅西口から赤羽台団地へ登る坂で、古くから往来の多い坂です。昔は、赤羽から上の台(うえんだい)に登り、旧板橋街道に抜ける坂でした。大坂の名は、その昔「小坂」と呼ばれた清瀧不動(きよたきふどう)の石段に対するものとして付けられました。ここは、狸(たぬき)にまつわる民話が残っているところで、狸坂とも呼ばれます。また、政右衛門坂(まさえもん)坂と呼ぶ人もいます』

 この標柱の左側に小さな不動祠と稲荷社があるのだが、それらを囲う壁に赤羽幼稚園と書かれている。とすると、このお不動様とお稲荷様は幼稚園の守護神であるのだろうか。

赤羽台猿田彦神社(赤羽台一丁目)

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 JR赤羽駅の西側、赤羽台団地の中に鎮座する猿田彦神社(北区赤羽台1-4)。
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 案内板があるが、大きく書かれている部分は猿田彦神と道祖神、庚申信仰の説明。
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 こちらの神社について書かれている部分を拡大。
『ここに祀られている庚申塔・道祖神は、旧赤羽台東小の北にあるうつり坂を登ったところにありましたが、大正八年旧陸軍被服廠が赤羽に移転したとき、旧板橋街道の坂道のうつり坂は本廠通用門の坂となり、関係者以外通行できなくなりました。そこでこの坂を登った所に祠を造り、江戸時代から明治中期頃までに造られた板橋街道沿の近場の石物を集めて祀ったようです。
 昭和三七年、赤羽台団地造成の時、現在地に再移築されました。

  この大連縄は2003年12月から福島県会津本郷町の赤塚さん一家のおばあちゃんを中心に家族全員で力を込めて編れた力作です。
 毎年新しい連縄を飾っていましたが、小祠にはもったいないため1~2年毎に取り換えようと考えています。

 屋根瓦修復は平成16年11月(2004年)浄財と160名の方のご寄進により完成しました』
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 青面金剛。
 案内板によると、左の青面金剛は享保五年(1720)十一月の造立で、右の青面金剛は享保七年(1722)十一月の造立。
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 頭部が狐っぽくも見える青面金剛。
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 表面には「猿田彦大神講中 当所廿七人」と刻まれており、案内板によると嘉永四年(1851)の造立である。
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 上を見ると神棚があり、豊受大神の神璽が納められている。
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 以前は狛犬があったのだろうかと思ったが、案内板を見ると庚申塔の台石であると書かれている。台石に刻まれた菱形の渦巻き(雷紋)は柴又帝釈天題経寺の寺紋であるのだそうだ。
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 香取神宮の榊と書かれた札が立てられているが、この榊はここから900m程南にある香取神社から移植したものなのだろうか。
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 祠の裏手に倉庫。
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天満宮(小俣町)

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 鶏足寺の東側に鎮座する天満宮(足利市小俣町2764)。
『天満宮
主祭神 菅原道真命
例 祭 四月二五日(現行は四月第四土曜日)
由 緒 創立年・由緒などは不詳。安政二(一八五五)年九月八日に類焼し、その後本社
   を再建した。昭和二六年、本殿雨覆・幣殿・拝殿を新築し、同年一〇月二五日に遷
   座祭を行なった』
(「栃木県神社誌」より抜粋)
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 参道。
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 拝殿。
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 末社。
 社名等は記されていない為、何神社なのかは不明。
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 末社。
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 以上で1月14日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA16-85mm、DA FISH-EYE 10-17mm、50-150mm II。X30。
 ウォーキングカウンターは7,896歩。

鶏足寺(小俣町)

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 真言宗豊山派仏手山金剛王院鶏足寺(足利市小俣町2748)。
 参道入口の石柱には「別格本山 鶏足密寺」とある。
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 山門。
 駐車場は寺の東西に二箇所あるが、山門前にある城山町自治会館の駐車場に停めさせてもらった。
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『仏手山金剛王院鶏足寺
 當山は、開創一千二百年に及ぶ大本山で釈迦如来を本尊とし、また五大尊(不動明王など)の寺院として天慶(九四〇)以来著名である。
 はじめ天台・真言兼帯の寺院であったが、文永六年(一二六九)下野薬師寺の長老・慈猛上人を迎え、真言宗慈猛流全國総本寺となり、末流はその数三千といわれ、遠く四國の善通寺までその教線は及んだ。
 天皇祈願寺として、又、修行道場の基盤を古くからととのえ密教文化の聖地として栄えていたが、天文二十二年(一五五三)上杉謙信関東鎮定の折り兵火にかかり勅使門を除く堂舎はみな焼失する。江戸期再建され、やゝ旧観に復したが十分の一程度の規模に縮小されたのは惜しまれる。
 現在、不動尊の霊験弘布をめざし正五九の各月参拝者で賑わいをみせている』
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 参道。
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 勅使門。
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『足利市重要文化財(建造物) 鶏足寺勅使門 一棟
 紅梁蟇股で棟を支え、各柱上は出三斗の組物で桁を受けている。控柱(方柱)の面取りは少なく、軒廻りは二重疎垂木で、板蟇股の曲線も複雑で、その他細部に後補の分が多い。修理によって屋根の柿葺が銅板で覆われているが、正和年間(一三一二~一三一六)の築造という寺伝のとおり鎌倉時代末期の面影を残している古建築である。
  昭和四十五年三月二日指定』
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 本堂。
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 別角度から。
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『仏手山金剛王院鶏足寺
 大同四年(八〇九)東大寺の定恵上人が世尊寺という寺を建てたのが鶏足寺の始まりです。その後、比叡山の円仁上人(慈覚大師)により寺域が拡大・整備されました。
 天慶二年、平将門の乱平定に際し、常裕法印は、秀郷の請いをうけ将門調伏の修法を行いました。功により秀郷は将門を倒し、寺も鶏足寺と改められ、寺領をふやし、寺の基礎を不動のものとしました。
 鎌倉時代文永年間、下野薬師寺の慈猛上人をむかえ真言宗にかわり、慈猛流の全国総本山として山内に二十四院・四十八僧房をもち全国に三千十余の末寺があったと伝えられています。室町時代天文年間、兵火にかかり寺の堂宇は焼失し、古くからの什宝も多く失われました。今に伝わる次のような文化財に寺の盛時をしのぶことができます。
  ○ 重要文化財
   銅印   (平安時代)
   太刀銘力王(室町時代)
   梵鐘   (鎌倉時代)
  ○ 県指定文化財
   両界曼荼羅図
   絹本著色 五大明王像
  ○ 市指定文化財
   銅造 釈迦牟尼仏坐像、紋織物(山藤の錦)
   鶏足寺勅使門
 その他未指定の不動明王坐像、五大尊像、などの仏像、鶏足寺文書、梵鐘、仏画、陶磁器など多数あります。
  昭和六十二年四月』
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 布袋尊。
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 不動尊堂。
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 唐破風に施された彫刻。
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 斜めから。
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 閻魔天堂。
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 延命観音。
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 七福神。
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 猿田彦大明神と不動明王。
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 サルスベリの木。
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『足利市重要文化財(天然記念物)鶏足寺のサルスベリ 四本
 それぞれの目通りの太さ(胸囲幹囲)は一m以上あり、高さはいずれも八mを超える。花は紅色で七月から九月下旬ないし十月初旬まで咲いている。太さに多少の差はあるが、配置から見て同時期に植えられたと考えられる。寺の記録には残されていないが、樹齢は二〇〇~三〇〇年のものと推定される。
 サルスベリは中国南部原産の樹木で、寺院等に多く植えられている。別名百日紅といわれるように花期が長く、およそ三ヶ月にわたって花を咲かせる。
 市内では他にも寺社や公園等によく植えられているが、これほど太いものがそろって健在しているのは珍しい、また、太さが一mを超えるものは今のところ見当たらない。四本ともそろって大切に保管されたいものである。
  平成十四年十一月十四日指定』
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 赤門。
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 城山町自治会館の南側にある五大明王像を安置した蔵……で、いいのかな。
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「足利市指定重要文化財 五大尊付不動明王頭部」と書かれた案内板が設置されているのだが、本文は判読できないほどに薄くなっており詳細は不明。
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 宝篋印塔。
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 庚申塔。
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 タブノキ。
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『足利市重要文化財(天然記念物)五尊教会のタブノキ 一本
 目通りの太さ(胸囲幹囲)二・五m、高さ約十五m。枝は東西に十四m、南北に十六m張り出している。新芽と花梗は赤色を帯びる。花は五月に咲き、果実は八月頃紫黒色に熟す。
 タブノキは元来暖地海岸生のものであるが、関東地方の内陸部にも点在する。県内では太平町の太平山に、群馬県では館林市や板倉町、千代田町でその存在が確認される。
 この木が自然に根付いたものなのか、人為的に植えられたものかは不明であるが、この地が山裾で冬の北西風から守られ、適度な水温にも恵まれていることから、古い時代に分布したものの子孫が生き残った可能性も考えられる。市内の両崖山頂のホソバタブとともに希少なもので、樹齢は二〇〇年を超えるものと思われるが、樹勢もよく大切に保存されたいものである。
  平成十四年十一月十四日指定』

石尊宮(小俣町)

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 石尊山に鎮座する石尊宮(足利市小俣町)へ向かう為、まずは登山口へ。
 入口傍の道端には崩れた石祠がコンクリートブロックでそれっぽく整えられており、額部分にはうっすらと「山神」らしき文字が見える。
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 義倉跡の案内板。
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 石燈籠。
 奥の石柱には「石尊山不動尊」と刻まれている。この先に駐車場があり、六~七台くらいは置けるスペースがある。
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 水垢離場。小さな川から水が流れ込むようになっており、角には石造の龍頭と不動明王がある。
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『足利市重要文化財(民俗文化財) 小俣石尊山の梵天祭り
 この行事は、標高四八六メートルの石尊山に地元叶花の住民が、毎年八月十四日の早暁、梵箭と約十五メートルの杉丸太を下の沢から一気に直線的に担ぎ上げ、それぞれを結び付け組み立てて、日の出とともに山頂にうち立てる。山頂では予め炊いて担ぎ上げておいた赤飯と御酒が配られる。近在から老若男女が登拝してくる。やがてこの杉丸太の頂上に付けた梵天を若者が登り競って名板、帝釈天、幣串を抜き取り、それぞれ家内安全、商売繁昌、五穀豊穣を願って家に持ち帰り飾るという祭りである。
 昭和五十七年四月二十一日指定』
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 自然環境保全区域案内板。
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 石尊山不動尊
 石段脇の丁目石には「三丁」の文字が見える。
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 不動堂から奥へ向かうと登山道になっているが、道は整備されていてとても登り易い。
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 八丁目の丁目石と不動明王。
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 女人禁制と刻まれた石柱と十三丁目の丁目石。
 ここまでは楽なのだ。が、少し先からは傾斜が強くなり、また途中から岩山へとなる為少々足場も悪くなる。とは言え、まぁそれほどきついわけでもない。
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 奥の方に石尊山の頂が見えてくる。この辺りは周囲の木々が少ない為、風を遮るものが無くて寒い。岩場になるまでは少し暑いくらいだったのに、一転して寒い。
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 南に目を向けると採石場が見える。その向こうの山は彦谷湯殿山だろうか。
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「山の神様がむこうの尾根にいる」
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 釈迦岩。
 お釈迦様と言うよりも観音様のように見えるのだが、別の方角からならお釈迦様に見えるのだろうか。
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 見晴らしはとても良いのだが、やっぱり寒い……。
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 少し登ると石尊宮。
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 拝殿の前はすぐ崖になっている。
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 東側から。
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 石尊宮の扁額の両脇には小天狗と大天狗の面が設置されている。
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 崩れた石祠。

 この後は隣の深高山まで行き、山頂の石祠にお参りする予定だったのだが、雪が降ってきたので撤退。しかし下りている途中で雪は止み晴れ間も出てきた。ガッデム。
 まぁ、また後で登ることにしよう。寒くない時期に。

織姫神社(西宮町)

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 この日最後にお参りしたのは織姫神社(足利市西宮町3889)。まぁ、スタート地点が織姫公園駐車場だったからなんだけど。
 織姫神社の過去ログはこちらから
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 歩道橋の上から。
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 七日ともなれば参拝者は少ないだろうと思っていたのだが、結構いた。
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 前回の時はまだ建設途中で、なんだっけこれとか言っていたのは「愛の鐘」となっていた。鳴らしたい人は社務所に申し出てくださいとのことだが、うーん、神社にはいまいちそぐわない物のような気がする。まぁ神前式には良いイベントになりそうではあるが。
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 あまり落ち着けなさそうなテーブルと椅子。

 以上で1月7日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA16-85mm。X30。
 ウォーキングカウンターは15,580歩。大して歩いてないな。

不明(通三丁目)

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 通三丁目児童公園の端に鎮座する小祠(足利市通三丁目)。
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 背面に宝珠型の穴があるのでおそらく稲荷社だろうとは思うのだが、社名を記したものが見当たらないので確証は無い。
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 公園端の螺旋階段を上るとすぐ前に「渡良瀬橋」の歌碑がある。
 ……どういう曲だっけ。YouTubeで聞いてみるかな。

日限稲荷(今福町)

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 今一会館の南側に鎮座する日限稲荷(足利市今福町704-3)。
 鳥居の柱には「明治四十四年三月之立願」と刻まれている。参道脇の石碑は石鳥居寄附連名碑と石段奉納金碑。
 こちらに来るのは八年半ぶりくらいか。前回よりも周囲がすっきりとしており、今回は参拝できるかなと思ったのだが……
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 えーっと、どこ、かな? 地図を見る限りではここから左手側へと続いているはずなのだが、前回同様にどこへ入って行けばいいのかわからない。おそらくここから登って行けばいいのだろうとは思うのだが、先程下りて来たばかりでまた登るのかと思ったらどうにも面倒臭くなり、しばし考えてからまた後でいいかと先送りすることに決定。
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 日限稲荷の鳥居から東へ120m程の位置にある平和の塔なるオブジェ。
 自分が生まれるよりも前からあったようだが、このような物があるなんて初めて気付いたわ。

子安辨財天(西宮町)

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 日蓮宗本経寺の隣に鎮座する子安辨財天(足利市西宮町3833)。
 鳥居の柱には「昭和七年六月吉辰」と刻まれている。
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 辨財天堂。
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 稲荷社。
 鳥居の柱には「大正十二年十二月吉日」とある。
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山神社(大岩町)

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 両崖山から天狗山へ向かって歩き始めて2分程でこちらの標識へ。天狗山の先にかわら山、須永山、観音山の名が記されているが、そちらまで行くつもりは毛頭無い。
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 天狗山まで0.7kmの標識。逆方向に行くと紫山に向かうことになるようだ。
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 左奥に見える禿山が天狗山。ここから山頂まではおよそ二十数分と言ったところか。
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 先程の標識から10分程歩くとこちら。ここまでわりと緩やかな道が続いていたので楽勝楽勝と思っていたのだが、この先の直登ルートと巻道ルートの分岐点からちょっとしんどくなる。
 遠回りとは言え巻道の方が楽だろうと思いそちらの方を選んだのだが、いやはやこちらも山歩きに慣れていない身としては地味にしんどい。途中小休止も取ったのだが、足場が狭くあまり落ち着けないので、これは一気に登ってしまった方がマシ。直登ルートとの合流点で息を整え、後もう少し! ……と思ったら岩場キター○刀乙
 ここまでは歩くだけで来られたのだが、最後の岩場はトラロープを使って身体を引き上げたり岩をよじ登ったりと、これ帰りはここを下らなきゃならないんだよなと考えて軽く後悔したりもしつつ、なんとか山頂に到着。でも下りの時は足元に気をつけていればそれほど苦も無かったり。ちなみに、どこの学生なのかは知らないが野球部員らしき集団が直登ルートを登っていた。
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 山神社。
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 近くのテーブルに置かれた「天狗山と山神社」と言うパウチ加工された案内書きに、「文政十年(一八二八)に足利本町、新上町、栗竒、五十部村、大岩村の主な人々により建立された」と記されている。
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 遠くに浅間山が見える。
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 かわら山方面には向かわず、両崖山方面へと戻る途中に本経寺への標識があるので、これに従って天狗谷を下るルートへ。次の目的地である子安辨財天は本経寺の隣にあるので、このルートが一番早い。まぁ、この道も細いわそこそこ傾斜があるわ積もった枯葉で滑り易いわと少し不安になったものの、少し下れば広い道に出るのであとは気楽に。途中でガサガサと音がするのでそちらに目を向けると、二頭の猪が逃げて行くところだった。そこそこ距離が離れていたので、「おー、猪だ。本当にいるんだなー」とかのんびり考えていられたけれど、すぐ近くに出られていたらテンパってたかも知れない。
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木曽御嶽神社(本城一丁目)

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 織姫神社の北に聳える両崖山。その頂に鎮座する御嶽神社を目指して出発。標識によればここから1.3km。
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『両崖山城跡
○前期古城
 平安時代、天喜2年(1054)藤原秀郷の子孫、伊勢崎淵名城主藤原成行が足利に入部、両崖山に築城したと伝えられます。以来、130年間足利地方を治めました。
 丁度その頃、奥州に乱が起こり、天喜4年、源頼義、義家父子が平定に出発しました。源氏の軍勢は、足利浅間山の南麓を中継基地としました。これがもととなり、源姓足利氏が発生したのです。
 藤原成行の足利進出は、この源氏の面倒を見るためだったとも考えられるかも知れません。
 治承4年(1180)源平合戦が始まると、源姓足利氏の棟梁源義兼は挙兵、頼朝の側近として活躍しました。義兼は頼朝と同じ八幡太郎義家4代の後裔で、母方の従兄弟でした。
 両崖山の藤姓足利氏は立場上、時の政権の平氏の従っていました。源平合戦の時、両崖山城主藤原俊綱の嫡男、足利又太郎忠綱は、京警護のため、平家の軍中におりました。源三位源頼政の軍勢と平家の軍勢が宇治川で合戦となりました。この時、足利忠綱は17歳でしたが、藤原足利氏を率いて宇治川を渡る一番乗りの功名を立てました。この様子は[平家物語]に橋合戦として詳しく書かれて、世に広く知らせています。両崖山の藤姓足利氏は、中立を守ろうとしましたが許されず、治承5年9月、三浦義茂率いる源氏の軍勢が渡良瀬川まで押し寄せてきました。総攻撃の前日、城主藤原俊綱(60歳)の首が源氏の本陣に届けられ、攻撃は中止されました。[吾妻鏡]には、家来の桐生六郎に謀殺されたと書かれています。しかし城主俊綱が自分の首一つで戦いを回避したとも考えられます。藤姓足利氏は消滅し、足利地方は源姓足利氏に統一され治められました。
○後期古城
 戦国時代、足利は古河の公方軍と上野の上杉軍の戦場となりました。
 文正元年(1466)上杉方の武将、長尾景人が代官として足利に入部、岩井山に勧農城を築きました。足利長尾三代政長が両崖山城に移り、再建しました。
 両崖山で戦いが行われたことはありませんでしたが、堅固な城砦として両毛地方に睨みを効かしました。戦国末期、関東は小田原北条氏の支配下となり、北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされると、足利長尾氏も滅亡しました』
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 少し登るとすぐに展望広場。
 ここまで来たことは何度かあるのだが、これより先に進むのは今回が初めて。足利で生まれ育って何十年と経つのになんだかなぁと言う気がしないでもない。
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 道はごつごつとした石が多く起伏もそれなりにあるがわりと歩き易い。この日は天気が良く風も無い為、寒さを感じずにいられたのも気楽に歩けた理由の一つかも。
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 両崖山山頂の標識と注連柱が見えてきたら、山頂まではあとほんの少し。
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 参道入口。
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 石祠が並んでいるが、何を祀っているのかは不明。左奥の石祠には「霊神」と刻まれていたので、御嶽教かなにかの中の偉い人が祀られているのかも。山頂の石碑には神習教の文字があったから、そちらかな?
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 一の鳥居。
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 両脇にずらりと並ぶ石祠群。こちらにも○○霊神と刻まれたものがある。
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 権大教正信重霊神。
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 石段の脇に案内板と尾曳稲荷社。
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 斜めから。
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 尾曳稲荷社の由緒を記した石碑と、その奥に正一位大比喜稲荷。
『稲荷の由来
茲に鎮座する社は正一位尾曳稲荷大明神と稱し霊験あらたかな稲荷です 本社は上州館林尾曳城の本丸にあり古来よりすべての願事も叶へられ一家を守護すると傳へられています 明治廿五年父石井清吉は紋織ジャカード機械の製作に頭を悩まし心身共に進退極まった時 尾曳様の話を聞き三七、二十一日の願をかけました 一夜靈夢を見ると身体も直り機械も完成をしました 感激した父は御宮を自ら作り特に尾曳様より分社し仲間斎藤栄吉他五名と語らい同廿七年春浜野先達に先導して貰い苦心難行して此山上に奉納したものです 此の度各所修理し幔幕を奉納し後日の為石碑を作りました
  昭和五十一年四月一日』
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『足利市重要文化財(史跡) 足利城跡
 足利城は、足利成行が天喜二年(一〇五四)に築城し五代一二〇年間使われ、その後、室町時代に至り足利長尾氏三代目の景長が修築したが、天正十八年(一五九〇)に北条氏に味方した六代目顕長の没落とともに廃城となった。
 城は山頂部の本丸跡、三方の尾根に作られた段郭と掘切等からなっている』
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 二の鳥居。
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 案内板と石碑。
 石碑には「勧請百五十年記念碑 両崖山 木曽御嶽神社 平成六年四月吉日 足利神習教丸信支教会」と刻まれている。
 平成六年は1994年だから、そこから150年遡ると1844年となるので天保十五年に勧請されたことになるのかな。栃木県神社誌にはこちらの神社の記述が見当たらないので、詳細はわからない。
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 山頂に並ぶ神社。
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 中央には御嶽神社。
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 左側には月讀命 三日月神社、日本武尊、日野大神。
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 右側には大黒天と天満宮。
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 社殿側から見た二の鳥居。
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 天狗山の山頂には山神社があるとのことなので、次はそちらへ。
 両崖山頂からハイキングコースを北へ向かうと白鬚神社があるそうなのだが、それはまぁまた後でお参りすることにしよう。
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のぶ湯呑

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 WonderGOO Winterコミックフェアで30ポイント溜まったので、グッズと交換して来た。一番実用性があるし漫画も読んでいるということで、これ。
 そう言えばアニメ化企画も立ち上がったそうだけど、楽しみですね。まぁ最近は魔法使いの嫁とか生徒会役員共とかドリフターズのようにコミックに付属しているアニメDVDしか見ていないのだけだけれど。

戦力補強

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 フジヤの初売り出しに行き、HD PENTAX-DA 16-85mmF3.5-5.6ED DC WRをマルミ光機のEXUS CIRCULAR P.L 72mmと一緒に購入。このDA16-85mmはアウトレット品なので安い安い。
 smc PENTAX-D FA Macro 100mm F2.8 WRも新春特売でかなりお安くなっており、懐的にも買えないことはなかったのだがとりあえず今回は見送り。以前から欲しいなぁとは思っているのだが、今のところ必須と言うほどでもないのでまあいいかな、と。
 そして籤引きはやはり外れ、参加賞のオリンパス瑞光月餅を頂いて来た。
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 DA16-85mmとDA20-40mmを並べて見ると、大きさの違いがよくわかる。まぁズーム倍率5.3倍と2倍だから当然と言えば当然。でもカメラに装着すると大して気にならない。
 帰り道に何枚か撮ってみたりしたのだが、かなりシャープに写るのねコレ。いやシャープな写りをするレンズだということはレビューなどを見て知ってはしたのだが、うん、想像以上だった。
 DA16-85mmはDA20-40mmと同様にDCモーターを使用しているが、DA20-40mmよりも静かで合焦速度が早くなっていた。後発である分、改良されているのだろうか。
 ただこのレンズ、ズームリングを望遠側へ回すと鏡胴が結構伸びるので、50mm辺りまで回した状態のまま歩き回るのはちょっと怖いかも。DA20-40mmはズーム倍率が低いこともあって鏡胴の長さはさほど変らない為、スナップ撮影にはDA20-40mmの方が使い易い感じだ。
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 帰り際に新宿のCOMIC ZINに寄り、カメラ関係の同人誌を数冊購入してみたり。
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