真言宗智山派妙覚山蓮華寺普門院の山門脇に鎮座する道観山稲荷社(
北区赤羽西2-14-20)。
扁額には「陀枳尼天」と書かれているが、鳥居の柱には「道観山稲荷講 講元 講員一同」「建立平成十七年二月吉日」と書かれている。
こちらもお参りする予定は無かったと言うか存在自体知らなかったのだが、面白い形の山門があるなと思い近寄ってみたら傍に稲荷社があったのでお参りすることに。
普門院の山門。
なんだかわからないのでググってみたら、共同墓地であるのだそうだ。
『東京都北区指定無形民俗文化財 稲付の餅搗唄
北区赤羽西二‐一四‐二〇 道観山稲荷社地内
江戸時代、ここは稲付村と称されていましたが、この先右側の社地でうたわれる餅搗唄は、住民が昔から餅を搗くときにうたった作業唄で、現在は、毎年二月の初午祭のときに道観山稲荷講の人達によってうたい継がれています。
餅は正月を祝って鏡餅として神棚にそなえるとともに、これを雑煮にして食べたり、祝い事や保存食に使うためにも搗かれました。稲付の地域では、餅を搗く際に、臼にまわりに何人もの若者が集まり、唄をうたいながら小さい杵を次々と振りおろして餅を練ったり搗いたりします。餅を練るときにうたったのが稲付千本杵餅練唄、餅を搗くときにうたったのが稲付千本餅搗唄です。唄は、大正十二年(一九二三)九月の関東大震災の前後まではズシ(=辻子)と呼ばれる小地域共同体の若衆がモヤイ(=催合)と呼ばれる相互扶助的な慣行によって家々をまわり、一晩かけて餅搗の手伝いをするときにうたわれました。しかし、米屋が餅の注文をとるようになると餅を搗く機会が次第に失われ、モヤイによる餅搗唄も姿を消していきました。
昭和四十年前後、赤羽西二丁目町会の役員が稲荷講の役員を兼ねていたのが契機となって、静勝寺の参道下から清水小学校までの街道沿いを氏子地域とする道観山稲荷講の人々が初午祭に際して餅搗唄を伝承するようになり、今日に至っています。
平成八年三月』