福徳神社(日本橋室町二丁目)

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 福徳の森に鎮座する福徳神社(中央区日本橋室町2-4-14)。
 公式サイトに依ると、御祭神は倉稲魂命で、配祀神に天穂日命と大己貴命、少彦名命、事代主命、三穂津媛命。また太田道灌、徳川家康、弁財天を合祀しているとのこと。
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『福徳神社由緒
 当社伝来の稲荷森塚碑文によれば、九世紀後半、当地は福徳村と呼ばれ、穀物、食物を司る稲荷神が鎮守の森に懐かれて鎮座していた。福徳村の稲荷は往古より源義家、太田道灌ら武将の尊崇を受け、ことに最初の江戸城を築いた道灌との縁は深く、彼の神霊は当社に合祀されている。徳川家康は天正十八年江戸入部直後に当社を参詣、二代将軍秀忠も慶長十九年に参詣し「福徳とはめでたい神号だ」と称賛し、また当時の福徳稲荷の椚の皮付き鳥居(黒木鳥居)から春の若芽が生えているのを見て「芽吹稲荷」の名を与えた。秀忠は江戸城内の弁財天を合祀し、社地を三百三十坪と公定するなど当社を篤く尊崇した事跡が伝わっている。
 その後、江戸の町の発展と度重なる火災や社家の事情などにより境内地をほとんど失い、一時は消滅の危機に瀕した。それでも氏子有志が福徳神社の祭祀を継承してきた結果、平成二十六年秋、日本橋地域諸氏の尽力により往時の姿を彷彿とさせる境内・社殿が再興されるに至った』
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 拝殿。
 参拝者がひっきりなしに並んでおり、人気のある神社なのだろう。
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 西側の小広場にはガラスケースに納められた祠があるが、こちらはなんだろう?
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 中央通りに面した参道入口。

 以上で2月4日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA16-85mm、DA FISH-EYE 10-17mm。X30。
 ウォーキングカウンターは16,707歩。
 この後はヨドバシAkibaでPENTAX KPのカタログを貰ってから帰宅。KPいいなぁ欲しいなぁとは思うものの、そう遠くないうちにK-3IIの後継機が出て来るだろうからそれまで様子見かな。
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薬祖神社(日本橋室町二丁目)

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 福徳の森に鎮座する薬祖神社(中央区日本橋室町2-5-8)。
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『薬祖神社(ご由緒)
 御祭神
  大己貴命(おおなむじのみこと)
  少彦名命(すくなひこなのみこと)
 御利益
  無病健康・病気平癒

 わが国で医薬の祖神と言われているのは、大己貴命(おおなむじのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)の二神で、共に国土経営に尽力され、薬の術や医道、酒造諸々を教えたと「古事記」や「日本書紀」「風土記」等に述べられています。
大己貴命は須佐之男神(すさのおのみこと)の子孫で、大国主命と同じ神様です。神話や童謡でも親しまれ、特に「因幡の白兎」の神話は有名です。(いなば:現在の鳥取県)
 少彦名命は神産巣日神(かみむすびのかみ)の御子で蛾(が)の皮の着物に豆の実のさやの舟に乗っていたという大変小さな神であったようです。
 日本橋本町の薬業界では、昔からこの二柱を祭神とする水戸の大洗磯前(いそさき)神社、酒列磯前(さかつらいそさき)神社や東京上野の五條天神社に参詣して崇敬の念を表 してきました。明治四十一年(1908年)からは、東京薬種貿易商同業組合(現公益社団法人東京薬事協会)が、東京上野の五條天神社から薬祖神(やくそしん)の御霊を迎え大祭を執行し、昭和四年(1929年)には事務所建物の屋上に薬祖神社(初代社殿)が造営され、昭和五十八年には昭和薬貿ビル屋上に第二代目の社殿が造営されました。さらに平成二十八年(2016年)九月に現在地に第三代目の薬祖神社が遷座し今日に至っています』

寳田惠比寿神社(日本橋本町三丁目)

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 東京メトロ日比谷線小伝馬町駅とJR総武本線新日本橋駅の中間辺りに鎮座する寳田惠比寿神社(中央区日本橋本町3-10-11)。
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 御祭神は事代主命、少彦名命、大國主命、大己貴命、素盞嗚命の五柱。また宇迦之御魂神を御祭神とする寳田稲荷神社も合祀されているようだ。

『宝田神社・恵比寿神御縁起と大伝馬町の由来
 宝田神社は慶長十一年の昔三百六十余年前江戸城外宝田村の鎮守様でありました。徳川家康公が江戸城拡張により宝田、祝田、千代田の三ヶ村の転居を命ぜられ(現在宮城内楓山附近)ましたので馬込勘解由と云う人が宝田村の鎮守様を奉安申上げ住民を引率してこの地に集団移轉したのであります。馬込勘解由と云う人は家康公が入府の時三河の国から随行して、此の大業を成し遂げられた功に依り、徳川家繁栄御祈念の恵比寿様を授け賜ったので平穏守護の御神体として宝田神社に御安置申上げたのが今日に至ったのであります。作者は鎌倉時代の名匠運慶の作と伝えられます。
 其の後村民の生活は金銀為替、駅伝、水陸運輸、それぞれ重要な役を賜り馬込勘解由は名主となって三伝馬取締役に出世し御役名に因んで大伝馬町の町名を賜って、伊勢、駿河、遠江、美濃、尾張、家康公ゆかりの国々より商人を集めて、あらゆる物資の集散地として大江戸開発と商賣発祥の地として大変賑ったのであります。現在も周辺の老舗大小商社が軒を並べて今尚盛んな取引が続いて居ります。宝田恵比寿神は商売繁昌、家族繁栄の守護神として崇教者は広く関東一円に及び毎年十月十九日「べったら市」、二十日の恵比寿神祭が両日に亘り盛大に執り行われます。べったら市は「年またあらたまる」今年も年末が近づきお正月を迎える心構えをする商家にとって大切な年中行事として旧家は今日でも恵比寿講をお祝いするのであります。
 昭和四十五年十月吉日」
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 寳田惠比寿神社前のえびす通りを西へ向かい昭和通りに出た所には寳田惠比寿神社への標石と馬込勘解由の碑が建てられている。

『馬込勘解由の碑(べったら市の由来)
 徳川家康による江戸城築城のおり、寶田村が城の拡張により移転のやむなきに至った。譜代の家臣である馬込勘解由が寶田村の鎮守の御本尊を奉安して住民と共に現在地に移転した。
 この大業を成し遂げた功により、勘解由は江戸の筆頭名主となり年間役料は、二百十両の最高であった。後に三伝馬取締役に出世し、徳川家繁栄を祈願された恵比壽神を授けられ、寶田神社に安置して江戸の平穏を祈願した。
 御神体は鎌倉時代の名匠運慶の作と伝えられ、以来商業の守り神として十月二十日の恵比壽講の前夜に市が開かれるようになった。
 恵比壽講に使う鯛や神棚などと共に江戸名物の浅漬大根が売られ、売り子が大根に付いた糀を若い女性の着物に近づけ「ほら。べったら、べったら、買わないで通ると着物にくっ付くよ。」と戯れたことからべったら市の名がついた。
 徳川家康公江戸出府四〇一年を壽き、ここに馬込勘解由の功績を讃え碑を建立するものである』

常盤稲荷神社(日本橋本町一丁目)

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 小舟町交差点の北西80m程の位置に鎮座する常盤稲荷神社(中央区日本橋本町1-8-11)。
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『常盤稲荷神社由緒
 鎮座地 東京都中央区日本橋本町一丁目八番地
 祭 神 倉稲魂命(稲荷大神)相殿 罔象女神

 当社は室町中期長禄元年(一四五七年)に太田道灌が江戸城を築城の際、京都伏見稲荷大神の御分霊をいただき、常盤稲荷と名づけ、同城の守護神として勧請された。後に、徳川家康公開府により、江戸城廓拡張工事が行われ現在の常盤橋(もともと大橋と称されていたが、当社がこの地に移ってより社名をもって常盤橋に改称された)辺りに社地が移された。
 宝暦(一七五一年~)の頃まで、社殿に掲げられていた太田道灌の額面に
    名に高き蘆のなぎさの葭原に
         鎮めまします常盤の神
の歌が記されていたと伝えられる。
 その後更に、長浜町の日本橋魚市場内に移り、市場の守護神水神大神(罔象女神)を相殿に祀り鎮座された。
 当時は、大市場交易神と称され盛大な水神祭が行われ、神田祭・三大王祭と共に、大江戸の名物行事でもあった。
 この水神大神は、明治三十四年に神田神社境内に遷され水神社と改称し、築地市場の守護神として祀られ今日に至っている。
 合祀されている末社産千代稲荷神社のご祭神は倉稲魂命・三穂津比売命二柱の大神が祀られている。古来より安産の守護神として厚い信仰があり参詣者が極めて多かったと伝えられる。そのお礼参りに桜の若木が奉納される習わしがあり、当時は魚市場中桜花爛漫の景観であったといわれている』
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橘稲荷神社(日本橋人形町三丁目)

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 人形町駅A4出口の北側に鎮座する橘稲荷神社(中央区日本橋人形町3-8-6)。
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『橘稲荷神社由来
 このあたり江戸期には新和泉町といわれたが、将軍家御典医・岡本玄冶の邸があったことから、一帯を玄冶店と俗称した。
 当稲荷ははじめ御殿山にあったものが、のちに江戸城内へ移り、さらに玄冶に賜って当地へ移された。
 稲荷名の橘は岡本家の姓に因んだとされる。
 安政六年の尾張屋清七板古地図では、現在地よりやや北側に記されている。
 数百年に亘り、素朴な信仰の対象として土地の人々により守り継がれて来た。特定の個人や企業の所有ではなく、町のお稲荷さんとして親しまれている。
 大正以降、運よく震災・戦災を免れて来たが、老朽化の為このほど地元町民多数の浄財により再建された。
 平成二年八月吉日
     橘稲荷御造営奉賛委員会』
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松島神社(日本橋人形町二丁目)

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 中央人形町二郵便局の隣、松島ビル一階に鎮座する松島神社(中央区日本橋人形町2-15-2)。
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 本殿。
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『松島神社由緒
 江戸時代の国学者賀茂馬淵翁が元文二年(一七三七)十一月十四日より松島稲荷社に寄宿され、当社に於いて神の道を説かれたと「賀茂馬淵翁伝新資料 九十一頁」に記されているが、社記類は大震災と戦災によってすべて灰燼に帰してしまっているので、創立年月日は詳らかではないが、口伝によると鎌倉時代の元享(一三二一)以前と推定される。
 昔この辺りが入り海であった頃小島があり、柴田家の祖先が下総の国からこの小島に移り住み、邸内に諸神を勧請し、夜毎揚げる燈火を目標に舟人が航海の安全を得たと伝えられる。
 正中元年(一三二四)三月二日夜刻三男柴田権太に百難救助すべしとの神示があり、霊験自在円満の感応あり其の奇得を遠近の諸人が信仰し、これにより正一位稲荷大明神の位記を奉られる。
 天正十三年(一五八五)二月十三日住民の希望に従い、邸宅を公開し参拝の自由を許容せり。島内松樹鬱蒼たるにより人々松島稲荷大明神と唱え、又、権太の木像を安置し権太大明神とも俗称された。
  (神社本庁「神社明細帳」)
 正徳三年(一七一三)新町が開設される時に社号に因んで町名を松島町と称した。当時付近を埋め立て武家屋敷を造営するために、日本各地から技をもつ人々が集められそのまま住居を構え、町の中心に位置した松島稲荷にそれぞれの故郷の神々の合祀を頼んだために他社に比べ御祭神が十四柱と多い。
 明治七年四月二日松島稲荷神社の名称を以て村社に列格される。
 大正五年六月十日松島神社と改称。
 昭和八年二月一日都市計画法の実施に伴い蛎殻町四丁目に改称せられ為に松島町は消滅する。

御祭神
 稲荷大神・伊邪那岐神・伊邪那美神・日前大神(天照大神)・北野大神(菅原道真公)・手置帆負神・彦狭知神・淡島大神・八幡大神・猿田彦神・琴平大神・天日鷲神(大鳥大神)・大宮能売神(おかめさま)・大国主神(だいこくさま)』
(「松島神社由緒」リーフレットより抜粋)

末廣神社(中央区日本橋人形町二丁目)

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 末廣神社(中央区日本橋人形町2-25-20)。
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『末廣神社
一、祭 神 宇賀之美多摩命
一、例大祭 五月
一、氏 子 人形町二丁目浪花会
      人形町二丁目二之部町会
一、沿革
 末廣神社は、江戸時代の初期に吉原(当初葭原と称した)がこの地にあった当時(元和三年から明暦三年まで)その地主神産土神として信仰されていました。明暦の大火で吉原が移転してからは、その跡地の難波町・住吉町・高砂町・新和泉町の四ヶ所の氏神として信仰されていました。
 社号の起源は、延宝三年社殿修復のさい年経た中啓(扇)が発見されたので氏子の人たちが悦び祝って末廣の二字を冠したものです』
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 拝殿。
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 狛犬。
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 「は組」碑。
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 なんだろうこれ。

笠間稲荷神社東京別社(日本橋浜町二丁目)

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 久松警察署の向かい側に鎮座する笠間稲荷神社東京別社(中央区日本橋浜町2-11-6)。
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 拝殿。
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 金座通りに面して建てられた北の鳥居。
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富沢稲荷神社(日本橋富沢町)

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 三光稲荷神社の北東120m程の位置に鎮座する富沢稲荷神社(中央区日本橋富沢町7-18)。
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 拝殿。
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 初姫稲荷神社。

三光稲荷神社(日本橋堀留町二丁目)

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 サンクス日本橋堀留町店の西20m程の位置に鎮座する三光稲荷神社(中央区日本橋堀留町2-1-13)。
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 鳥居と狛犬。
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『三光稲荷神社 御由来
祭神 三光稲荷大神
   田所稲荷大明神
  大正十三年区画整理にて旧長谷川町と旧田所町が合併して現在の堀留町二丁目になっていますので、田所大明神さまも当神社に奉祀されています。

創建
 中村座に出演していた大阪の歌舞伎役者 関三十郎が伏見より勧請したと伝わる当神社は「江戸惣鹿子」元禄二年(1689年)には記載があるところから、それ以前と推測される。

拝殿
 右上の額「日本橋區長谷川町守護神 三光稲荷神社」は神田神社社司 平田盛胤氏の揮毫である。

江戸時代
 近隣には吉原や歌舞伎小屋の中村座、市村座、更には操り人形や人形浄瑠璃の小屋等があり、それを背景とした(江戸落語)に「三光新道」や「三光神社」が登場するところとなった。

 古くから娘、子供、芸妓等の参詣するものが多く、ことに猫を見失ったとき立願すれば霊験ありと云う。「三光稲荷神社参道」と銘ある石碑や境内にある猫の置物は猫が無事に帰ったお礼に建立、奉納された』
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 拝殿。
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 獅子頭。
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 由緒書きは30円であるとのことなので、30円入れて一枚頂いて来た。
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 招き猫が多数あるが、そんなにも猫探しの祈願に来る人が多いのだろうか。
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出世稲荷神社(日本橋堀留町一丁目)

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 パレドール日本橋と言うマンション脇の狭隘なスペースに鎮座する出世稲荷神社(中央区日本橋堀留町1-6-11)。
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 拝殿。
 岩代稲荷神社と出世稲荷神社の額が掛けられている。
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 拝殿内部。
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 「は組」と大きく刻まれた水盤。
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 「は組 木遣り塚 奉納 中西良之助 昭和五十七年九月吉日」
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 やきとり屋の壁に設置された由緒書き。
『出世稲荷の由来
 江戸時代は当稲荷屋敷地は新材木町十六、十七、十八番地稲荷です。其の昔徳川家康入城天正八年(一五九〇)頃此の附近は芝原宿という村落でした。杉の森林の多い所です。江戸城拡張以来江戸町割当地慶長九年(一六〇四)頃材木置場が多い所から新材木町と町名が出来た由。尚元和三年(一六一七)親爺と呼ばれた北条家浪人庄司甚右衛他数名の仮家敷内に有り京都伏見稲荷より祭神を戴き守護神として祭りし後当地世話人一同が現在迄守護致して居ります。
 当社は明暦三年(一六五七)江戸大火振袖火事、安政(一八五四)大地震、明治六年(一八七三)大火、関東大震災大正十二年(一九二三)近くは昭和の太平洋戦争まで本尊災禍を免れました。関東大震災のとき社殿焼失致し現在掘畄町一丁目十番地椙森神社の拝殿取毀し材料(杉の木)削り直し昭和六年(一八七四)に落成し現在まで数多くの信仰者があります。
 江戸時代初代市川団十郎が日参し名をあげた由。尚当地より出世致した商店、芸能関係各個人等数多く出て祈ります。初午毎年三月岩代稲荷と合同で掘畄町一丁目町会応援にて執行致します。
 応長見聞集寛永図経、先祖の言い伝えとの事。
  昭和五十六年五月吉日(一九八一)
          出世稲荷世話人一同』

椙森神社(日本橋堀留町一丁目)

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 東京商品取引所の南側に鎮座する椙森神社(中央区日本橋堀留町1-10-2)。
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 狛犬。
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 拝殿。
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『椙森神社
 所在地 中央区日本橋堀留町一‐一〇‐二
 椙森神社の創建は、社伝によれば平安時代に平将門の乱を鎮定するために、藤原秀郷が戦勝祈願をした所といわれています。
 室町中期には江戸城の太田道灌が雨乞い祈願のために山城国(京都府)伏見稲荷の伍社の神を勧請して厚く信仰した神社でした。そのために江戸時代には、江戸城下の三森(烏森・柳森・椙森)の一つに数えられ、椙森稲荷と呼ばれて、江戸庶民の信仰を集めました。
 しばしば江戸城下等の火災で寺社が焼失し、その再建の費用のために、有力寺社で当たりくじである富興行が行われ、当社の富も人々に親しまれていました。
 明治維新後も、東京市中の古社として盛んに信仰されましたが、惜しくも関東大震災で全焼し、現在の社殿は昭和六年に耐震構造の鉄筋造りで再建されました。
 境内には富塚の碑が鳥居の脇に立ち、当社で行われた富興行をしのんで大正八年に建てられたもの(昭和二十八年再建)で、富札も残されており、社殿と共に中央区民文化財に登録されています。
 平成八年三月』
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 御祭神は五社稲荷大神(倉稲魂命、素盞嗚尊、神大市比売命、大己貴命、四大神)。そして恵比寿神を配祀しているとのこと。
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 富塚。
『当椙森神社は、遠く一千年の昔、未だ江戸が武蔵野の原と言はれた時代の創建です。
 江戸時代には、江戸三森の一つであり、又江戸商人の発祥の地としても栄えて来ましたが、神社が街の中心にあるため、江戸三富の一つにも数えられる程数多くの富籤が興行された事が記録に、残されています。
 この富籤興行は、江戸庶民の楽しみの一つであり、庶民の泣き笑いが今に思い浮かべることができます。
 この富塚は庶民の心の祈念として大正九年に建立されましたが、関東大震災に依って、倒壊してしまいました。その後、富塚の話を知った氏子の人々は有志を募って、昭和二十八年十一月に再建されたのがこの富塚です。
 この富塚は、他に類を見ないと言はれ、日本で唯一の物です。今日では、宝くじの元祖としれ多くの人々が、心中祈願をしている様です』
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 神楽殿。
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 東の鳥居。
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池洲神社(日本橋堀留町二丁目)

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 大伝馬町二之部町会会館の脇に鎮座する池洲神社(中央区日本橋堀留町2-4)。
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『池洲神社ノ歴史
 昔時 喜久井大納言ガ池ノ洲ニ一宇ヲ建立サレテ以來天保二年改築セラレタル社殿モ關東大震災ニテ焼失シ大正十四年社殿ヲ建設其後補修セシモ昭和廿年二月戰災ヲ蒙リ全部烏有ニ歸セリ
 昭和廿四年五月同志相集ヒ由緒アル神社ノ保存ヲ志シ再建奉賛會ヲ組織シ浄財ノ寄捨ニヨリ神域一圓ノ新築ニ事ヲ施行シ同年十月竣工ス
 昭和廿四年十月吉日建

 昭和三十一年四月有志相寄り戰災に依る社務所の再建を計り敬神の誠を盡さんとす
 瀧富太郎氏の篤志と町会員一同の寄進とに依り茲に神殿の改修並に社務所の新築を施行し昭和三十二年十月竣工す
 昭和三十二年十月吉日
  大傳馬町二丁目
    町会長美濃部五三郎
    施工 株式会社林組』
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千代田神社(小伝馬町)

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 東京メトロ日比谷線小伝馬町駅の北側に鎮座する千代田神社(中央区日本橋小伝馬町9-1)。
 小伝馬町二の部町会会館と合体している為か、なんともけったいな外観である。
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『千代田神社由来
 千代田神社は 長禄年間神靈に依り 太田持資道灌が御靈を千代田の御城に祭り鎮守とす 徳川綱吉の時太田の旧臣長野亦四郎氏詞を奉じて小傳馬町に遷座す 是後奉仕せる社人窮困して他に社地を譲る 時に屢々異變あり 神慮なりと畏れ天明年間旧地に建立し現在に至る 大正十二年九月震災にて焼失す 昭和二年區劃整理に依り 當所に替地を得て安鎮す然るに昭和二十年二月戰禍にて再度焼失す 漸時再建せしも今度諸人の力を致し浄財を受け更に新殿を造立せり茲に沿革を記す
 昭和三十三年十一月吉日
     大傳馬町二丁目町會』
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竹森神社(小伝馬町)

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 龍閑児童遊園の隣に鎮座する竹森神社(中央区日本橋小伝馬町19-4)。
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『小伝馬町三丁目の守護神である「竹森神社」は、江戸時代よりこの付近に竹やぶが多く、竹につながる町、竹職人の町ともいわれ、竹薮にちなんで竹森神社としたといわれている。
神体は伏見稲荷からもらいうけ、俗に「江戸七森」の一つに数えられて、江戸市中、数多い稲荷神社の中で由緒深いものとされている。
  江戸七森
 「椙 森」すぎのもり  堀留
 「烏 森」からすもり  新橋
 「初音森」はつねのもり 馬喰町
 「柳 森」       柳原土手
 「あずまの森」     向島
 「笹 森」ささのもり  谷中
 「竹 森」       小伝馬町』
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亀嶋神社(東神田一丁目)

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 都立一橋高校の南東に鎮座する亀嶋神社(千代田区東神田1-14)。
 鳥居の脇には平成五年十月に建てられた鳥居建立者芳名碑があるが、由緒等を記したものは見当たらない。
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 本殿。
 稲荷系の神社であるようだ。たぶん。
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 時間貸し駐車場の裏手にあるため、ぱっと見にはわかり難い。
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清水扇稲荷神社(東神田二丁目)

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 美倉橋南交差点の120m程東に鎮座する清水扇稲荷神社(千代田区東神田2-9)。
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 実にシンプルな境内。
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草分稲荷神社(神田佐久間町三丁目)

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 金綱稲荷神社から120m程南下すると、佐久間公園の端に草分稲荷神社(千代田区神田佐久間町3-21)が鎮座している。
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 本殿とお狐さま。
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『草分稲荷社大神由来
 この社は元、板倉主計頭邸内に祭られていましたが、明治維新の後、武家屋敷が取りはらわれて町家と変り祠のみが残っていました。
 廃れゆく稲荷を惜しんだ町内の有志が蓄財を出し合い保存と祭社の策を講じていたもので昭和三十六年佐久間公園東北隅に遷座されました。
 現在も佐久間町三丁目町会を中心に連合町会にてお祭りを行っています。
  御祭神 宇迦之御魂命』
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金綱稲荷神社(神田和泉町)

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 和泉公園と日本通運の間に鎮座する金綱稲荷神社(千代田区神田和泉町2-3)。
 こちらにお参りするのは九年ぶりか。結構変ったなと言う印象だったが、見直してみたら全然変っていなかった。前回は夜明け前のほぼ真っ暗な状態だったせいで、周囲のことなどがあまり記憶に残っていなかったのだろう。
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 お狐さま。
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 本殿。
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『金綱稲荷大神由来
 ここに鎮座まします神様は、お位では正一位の極位格式本大斉祀式の最高「金綱稲荷大神」と申される神様でおわします。
 この神様の親神様は、伏見稲荷大神であらせられまして、五穀豊穣を守る農耕の神、衣食住の神と仰いで崇敬され、更に商売繁盛の神、産業護の神、道中を守護する神と信じられ、今日的には生活守護の神、交通安全の神と崇め奉られているのであります。然して、金綱稲荷大神様が、この地和泉町に外まつりとして奉祀されるに至りました経緯は、遠く三七九年の昔に遡及することになりますが、それを要約いたしますと、日本通運の先祖に当る飛脚問屋京屋弥兵衛という方が、徳川幕府から免許をうけて、大阪(浪花)、京都(京)、東京(江戸)間の運送事業を開始することになりましたものの、当時の世相は未だ物情騒然として治まらず、人様から頼まれた大切な信書や金銭それに貨物などを、安全正確に送り届けるにはどうすればよいか、ということについて苦慮されたのであります。そのとき、京屋弥兵ヱの脳裏をかすめ閃めいたのは、伏見稲荷大神様が、中世のころ、熊野信仰がさかんになるにつれ、熊野参詣の道中を守護された道中安全の神様であらせられることを想起し、これは伏見の親神様にお縋りし、ご助力を祈願するに如かずとし、京屋は常日頃から伏見稲荷大社に参拝、同神様を信仰していたものの、これでは信心が足りないとして、同神社から大神様の"みたま"を勧請し、日夜自店にあって修行されたのであります。ところが或る夜の夢枕に王冠白衣のご神霊が立ち給い「汝の篤信のためで、汝に黄金の綱を授けるものなり、ゆめゆめ疑ごうことなかれ」とのご託宣がありましたので、恐懼再拝、感激極まりなく、早速自店で奉祀している神様に「金綱」の名前をつけ、これが金綱稲荷大神と称えるようになった由来であり、前にも増して信仰に励んだのであります、尓来、金綱様のお導きにより、京屋の飛脚は、道中における山賊や護摩の灰からの人災は皆無となりましたが、これは"厄除け""交通安全"につながり、従って無事故は信用を倍化し、顧客が増えれば"商売繁昌"につながるとして店栄えるに栄え、なおかつ誠心誠意、人間性的な事業経営は信仰に繋がるものとして、これを「業即信仰」と称え、これを金言として子孫に伝え、子孫またこれを実践躬行しましたので、京屋飛脚問屋は明治四年陸運元会社に吸収統合されるまでの二七一年もの長い間、連綿と続いた老舗となったのであります。続いて統合の結果金綱稲荷神社の祭主は時代の変遷に伴い、京屋から陸運元会社、内國通運、国際通運、日本通運と移り変りましたが、その祀り方におきまして、内まつりから現在の外まつりと変ったのであります、その理由は定かではないが、推測するに、大正初期の内國通運神田支店(現在の秋葉原支店)は、聖なるところに畄まれるという観点からと、地域社会一般の人が参拝するに過した地点をということで、現在の場所を選ばれたと思うのであります。その結果は、毎年の初午祭には盛大な祭典が行われ、地元町家一般の参拝は日に月に激増し、神田一帯の信仰を集めるようになりましたが、これもご利益を授け給う灼かな神様であることが理解されたからであります。その灼かさにあやかりたく、日本通運では新造船に「金綱丸」と命名し、航海の安全を祈ったところこの金綱丸に限り就航以来一度の海難事故はなく、全く以って奇跡といわれているのであります。また、外まつりとなられた金綱稲荷大神は地域住民社会一般の方々に対しましても、人によって差別をつけられることなく祈願によってご利益を授けて下さるものでありまして、あの大正十二年九月一日の大震災のとき、猛火は殆ど神田一面をなめつくし、今にも和泉町に延焼しようとしたその刹那、俄かに神田川沿いの屋上に霊狐が現われ、頻りに炎上する火焔に立向い、それを追い拂う所作をされていましたがその神々しいお姿を、自分はこの目でまざまざと見上げたものだとは、当時穀商の鈴木四郎氏という方の話として、今に残っている逸話でありますが、これは神様は平等にご利益を垂れ給う好い一例であるのであります。このように、金綱稲荷大神様にまつわる話は、枚挙に遑ありませんが、要するにこの神様は、ご利益を祈願して成就せざることなしとの灼かな神様であらせられますので、この神様を礼拝され、広大なご神恩を鑽仰されますこと祈念する次第であります。恐惶謹言
  昭和五十五年二月三日 初午に当り
             日通金綱稲荷奉賛会』

 由緒書き設置されたんだなと思っていたが、前回の写真を見直してみたらこの由緒書きも写っていた。あの時は全然気付いていなかったんだなぁ。
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千代田稲荷神社(台東一丁目)

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 秋葉原駅昭和通り口から400m程北東に鎮座する千代田稲荷神社(台東区台東1-13 )。
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『千代田稲荷縁起
 千代田稲荷祭神は宇賀御魂神と申し、その昔、長禄元年(一四五七)太田道灌が千代田城を築城の折、武蔵国千代田郷に古くから祀られていた千代田神社を城内に遷座し守護神としたのがはじまりである。その後、徳川家康が慶長八年(一六〇三)入城して千代田稲荷を城内紅葉山に移し江戸城の守護神とする一方、江戸城拡張に当り、渋谷村宮益坂に遷宮し、神領を寄進したので江戸城守護および万民斉仰の神社として広く参詣を集めた。以後徳川家代々の崇敬あつく、江戸幕末の文久元年(一八六一)には公武合体の犠牲となって徳川家茂に降嫁した皇女和宮が、中山道を東下する宮の行列を守護した功により、石の大鳥居と桜樹一本を寄進したといわれる。これを契機に千代田稲荷が俄かに殷賑をきわめ庶民の参詣が絶えなかったことが「武江年表」に記されている。
 折柄、江戸は物情騒然として物価高騰し、世相は暗く、猿若町三座の顔見世狂言もとりやめになったため、千代田稲荷分社を勧請して、一陽来復と繁昌を祈願するに至った。江戸下町における唯一の分社である。その後、明治二十五年、最後まで猿若町に留まっていた市村座が下谷二長町に移転、二十七年近代建築に再建され、千代田稲荷も座の守護神として正面表口に祀られた。以後、市村座と興亡を共にしたが、昭和七年市村座の焼失時に奇しくも類焼をまぬがれたため、千代田会有志により現在地に再建され今日に至った。
 昭和五十六年五月』
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 境内めっさ狭い。まさか初っ端から魚眼レンズの出番が来るとは。
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 二の鳥居と本殿。
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 参道左手側からお狐さまが見てる。
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飯玉神社(飯塚町)

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 飯塚町第一公民館脇に鎮座する飯玉神社(高崎市飯塚町544)。
 鳥居の台座には「鳥居建替 昭和四十八年七月一日竣工」、玉垣には「昭和九年十一月 特別大演習記念」、社号標石には「昭和四十六年四月吉日」、石燈籠には「文化二乙丑八月吉日」と刻まれている。
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 拝殿。
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『飯玉神社由来
 祭神 宇気母知神
 例祭 十月十九日
 この社は慶長六年(一六〇一)僧勝山全最によって開基創建された飯玉山最勝院長泉寺の屋敷稲荷として建立され、後に享保十三年七世春芳大秀和尚の時、飯塚村の産土の神飯玉神社となった。当時は茅ふき屋根のお宮であったが万延元年(一八六〇)焼失してしまった。
 文久元年(一八六一)飯塚村の総鎮守として復興再建することとなり氏子の奉賛金及び用材の献木により越後の宮大工政五郎という名工の作であるが幕末乱争の時代で思いに任せず完成迄に十有余年を要し明治初年に完工した。社殿の形態彫刻の美は近郷稀に見る立派なもので郷土の貴重な文化財として他に誇り得るものである。市の一所一勝運動に認定されたことに当りここに記す。
 昭和六十三年二月吉日』
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 斜めと横から。
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 力石。
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 末社群。

(2017年2月26日追記)
 上野国神社明細帳によると、八坂社(祭神 素盞嗚命)、菅原社(祭神 菅原道真公)、大山祇社(祭神 大山祇命)、榛名社(祭神 素盞嗚命)、赤城社(祭神 豊城入彦命)、諏訪社(祭神 建御名方命)、白山社(祭神 菊理姫命)の七社が祀られているようだ。
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 左から秋葉三尺坊、御嶽山座王大権現、富士浅間大菩薩、猿田彦大神、黒髪山。
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 なんだろうこれ。道祖神かな?
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 飯玉神社の北側に並ぶ天王宮。
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『飯塚の天王様
 ここに並んだ四基の天王様は、飯塚町の各所にあったものを、交通事情などから昭和四十五年に移設したものです。
 天王様は八坂神社のことで、祭神である牛頭天王を祀る石宮が二百年を超える歴史を刻んでいます。悪疫退散の民間信仰として広まり、七月二十七日・二十八日に天王祭りが行われていましたが、現在は二十七日に行灯を飾り花火を配る子供の祭りとして、引き継がれています。
 石宮は左奥から西方、南方、北方、東方の順に並び、西方には「文化四年(一八〇七)卯六月」、南方には「天王宮」の文字と「享和三癸亥年(一八〇三)六月吉日」、北方の基壇部には「長野山鳳凰霊、常黙庵智覚、未六月吉日」などの文字が刻まれています。西方の石宮には、魔除けを祈願して塗ったベンガラの赤色が一部に残っています』
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 弁財天と……んー? 神輿のように見えるが、中には小さなお狐さまが置かれているので稲荷社なのだろうか。
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 以上で1月28日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA20-40mm、DA15mm、DA35mm Macro、DA70mm。X30。
 ウォーキングカウンターは幾つだったっけかな。確か7,000歩ちょいくらいだったような覚えが。

琴平神社(新後閑町)

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 城南大橋の東側に鎮座する琴平神社(高崎市新後閑町270)。
 参道の右手側には高野山真言宗飯玉山荘厳寺、左手側には地蔵菩薩を祀る真如堂がある。飯玉山の山号は琴平神社境内に鎮座する飯玉神社に由来するものだろうか。
 ちなみに社号標石はここから北東220m程の位置にあり、鳥居の台座跡も残っているのがストリートビューで確認できる。そう言えば鳥居が無いんだな、この神社。
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 随神門。
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 豊磐間戸神と奇磐間戸神。
 豊磐間戸神は豊石窓神、或いは矢大神、矢大臣などとも呼ばれ、奇磐間戸神は櫛石窓神、或いは左大神、左大臣などとも呼ばれる。どちらがどうだったか忘れることもしばしばあるが。
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 表から見ると随神門だが、内側から見ると仁王門になっていると言う珍しい門である。
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 金剛力士像。
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 神楽殿。
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 天満宮。
 賽銭箱には「大蔵大臣 福田赳夫」の名が記されている。
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 拝殿。
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『琴平神社
 古来、お稲荷様が祀られていたこの地に、高崎藩士寺田宗有が一昼夜で讃岐から分霊を勧請したと伝えられる。宗有は、文政八年(一八二五)没したと言うから文化年間のことと思われる。
 「多中のこんぴらさま」として毎月一〇日の縁日は参詣者で賑わい、正月には達磨市がたつ』
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 石段前には小天狗と大天狗。
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 大天狗の裏には溶岩で造られた洞窟があり、その中に和田稲荷大明神が祀られている。
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 石段左側には御嶽神社があり、その周囲に三笠山大神、八海山大神、中央不動明王なども見える。
 その下には琴平神社の石額も置かれているが、右側の額は何故か琴の字が鏡文字になっている。
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 こちらの石祠は社名が記されていないので、何神社なのかわからない。
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 石祠が四基並んでいるが、おそらく稲荷社なのだろう。
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 狛犬。
 随神に仁王に天狗に狛犬と、随分と守護者の多いことだ。
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 拝殿前から見る境内。
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 社殿横と斜めから。
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 本殿裏の奉拝所。
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 社殿北面の壁に取り付けられた天狗面と南面の壁に取り付けられた天狗面。
 北面の方は嘴や鼻が切り落とされており、まるでハイエロファントグリーンやオルメカの巨石人頭像のようになってしまっている。
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 拝殿脇に大黒天社。
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 絵馬殿。
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 絵馬。
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 飯玉神社。
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 狛犬。
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 拝殿内には本殿の他に大黒天と恵比寿神、そして金精様らしきものが見える。
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 飯玉神社の裏手に弁財天。
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 飯玉神社の左手側に猿田彦大神。その後ろに並ぶ六基の石塔も全て猿田彦大神。
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常世神社(上佐野町)

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 定家神社の250m程北に鎮座する常世神社(高崎市上佐野町496)。
 地図で見た時は「とこよ」と読むのかと思い、黄泉関係の言い伝えのある神社だろうかと中二心を期待させていたのだが、いざ来て見たら架空の人物である佐野源左衛門常世を祀る「つねよ」神社であった。佐野源左衛門常世は「いざ鎌倉」の言葉で有名な話の人ですネ。
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 拝殿。
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 本殿。
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『謡曲「鉢木」と常世神社
 一族の不正のために領地を横領され、窮迫の生活をしていた武人佐野源左衛門常世が、大雪の日に宿を頼んだ修行者(実は鎌倉幕府の執権北条時頼)のために、秘蔵の盆栽”鉢の木”を焚いてもてなしたのが縁で、表彰されたという謡曲「鉢木」の物語は有名で、戦前は学校の教材になっていました。
 これは出家して、最明寺と名乗った時頼の廻国伝説に基づいてつくられたものであるが、常世神社は、常世が佐野の領地を横領せられてのち、住み着いた所といわれる「常世屋敷」で、墓は別に栃木県佐野市葛生町の願成寺境内にあります』
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 拝殿前には「鉢木」のワンシーンを描いた絵が設置されている。扉を開けて自由にご覧下さいとのことなので開けて見てみる。
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 扉の内側に貼られた上佐野町の伝承と歌碑の説明書き。
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 歌碑。
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 拝殿の脇には「實践躬行」と刻まれた石があるが、なにこれ。
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 ここから少し北西に向かうと佐野橋の近くに靖国鳥居があるが、神社ではなく奥都城であるようなのでパス。

太天神天満宮(上佐野町)

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 市営住宅上佐野団地の傍に鎮座する太天神天満宮(高崎市上佐野町3)。
 定家神社から常世神社に向かうつもりが、何故か太天神天満宮に着いていた。
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『太天神天満宮(天神様)
 神社の由緒は不詳ですが、佐野源左衛門常世が父の境遇と似ていることから菅原道真の霊を祀ったと伝えられています。常世は鎌倉時代の御家人で、雪の日に執権北条時頼を秘蔵の盆栽を燃やしてもてなした能「鉢木」の登場人物として知られます。
 明治後期に国が推進した神社統合により、当社は下佐野町の定家神社に合併されました。ところが、上佐野の人々にとって由緒ある神社であり合併後も毎年祀りを続けていました。昭和二十五年に遷宮され、春三月二十五日、秋十月十九日に例祭が行なわれています。
 境内裏に他の場所にあったと思われる馬頭観世音の石塔があります。文政三年庚辰(一八二〇)に建立され、台座正面に「右 やまな ふぢおか ちゝ婦 上佐野上組」と刻まれています。この辺りは鎌倉街道が通っていたと言われ、秩父巡礼の道しるべであったと思われます』
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 拝殿。
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 本殿。
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 左から馬頭観世音、御嶽山座王大権現、石祠、如意輪観音、眞河大権現。
 馬頭観音に隠れて見えないが、庚申供養塔もある。

薬師堂(上佐野町)

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 太天神天満宮の南50m程の位置に鎮座する薬師堂(高崎市上佐野町7)。
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定家神社(下佐野町)

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 放光神社の100m程西側に鎮座する定家神社(高崎市下佐野町873)。
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 鳥居の脇に道祖神。
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 拝殿。
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 中を覗き込むと天井絵ならぬ天井歌? が並んでいる。
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『高崎市指定重要文化財 定家神社社宝(縁起一巻ほか)
 定家神社は、鎌倉時代初期に活躍した歌人藤原定家(一一六二~一二四一)を祭神とする。定家は「新古今和歌集」「新勅撰和歌集」の二つの勅撰集の撰者を務めるなど、当時を代表する歌人である。一般に「ていか」と呼ばれることが多い。
 定家神社に伝わる社宝のうち以下の四点が高崎市の重要文化財として指定されている。
一、定家大明神縁起一巻
 定家大明神の由来を記したもので、筆者は冷泉為茂。奥書に元禄七年(一六九四)の年号がある。為茂は藤原定家の子孫にあたる。
一、伝藤原定家筆「在原業平歌集」一冊
 八丁の鳥子紙に在原業平の和歌四七首が書写されており、藤原定家の筆と伝えられている。在原業平(八二五~八八〇)は平安初期の歌人。六歌仙の一人で、「伊勢物語」の主人公とされる。
一、宮部義正独詠短冊一巻
 宮部義正により詠まれた和歌が記された短冊三一枚を巻物一巻に装丁してあるもので、各短冊には義正の記名がある。宮部義正は享保一四年(一七二九)に高崎藩の名家に生まれ、藩の要職を歴任した。歌道を冷泉為村に学び、三藻と号した。寛政四年(一七九二)没。なお、女流歌人として有名な万女は義正の妻である。
一、源武邨奉納和歌一首
 源武邨は坂上(井上)武之のことであるという。坂上武之は高崎藩士で。烏涯または柳窩主人と号した。和歌・漢詩にすぐれ、漢詩集に「山野春光」がある。天明四年(一七八四)に八三歳で没した。
 所 在 地 高崎市下佐野町(定家神社)
 指定年月日 昭和六三年二月一七日』
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 斜めから。
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 本殿。
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 古峯神社。
 石祠の背面には「明治百年記念 昭和四十三年十一月二十三日」と刻まれている。後ろの石塔にも文字が彫られているのだが殆ど読めない。小さく眠柳とも刻まれており、歌碑であるようにも思える。
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 仁王堂、万葉歌碑、石祠。
 歌碑には「佐埜山に 打つや斧音の 遠かども 寝もとか児ろが 面に見えつる」と刻まれている。石祠は何神社なのか不明だが、背面に「昭和三十五年七月十五日建納」と刻まれている。
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 何を祀っているものなのかはわからないが、「明暦三年霜月吉日」と刻まれているので1657年の造立であるのだろう。
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 稲荷社なのか大師堂なのか東郷神社なのかさっぱりわからない。そして三基の石祠もやはり不明。

放光神社(下佐野町)

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 下佐野第一公民館脇に鎮座する放光神社(高崎市下佐野町845)。
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 「史蹟 放光寺・放光明神址」と刻まれた石碑。
 でもここ放光寺跡じゃないそうです、ええ。
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 支那事変・大東亞戦 戦歿者墓石建立記念碑。
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