中尾神社(緑区中尾)

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 埼玉県道1号を挟んでセブンイレブンさいたま中尾緑島店の東南に鎮座する中尾神社(さいたま市緑区中尾2506)。 
 鳥居の柱には「文政四辛巳年正月吉日建之」「坂東西國秩父百ヶ所 當所願主 會場与左衛門」と刻まれている。文政四年は1821年だから、196年前か。
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中尾神社
 さいたま市緑区中尾二五〇六
□ 御縁起(歴史)
 いにしえの武蔵野を思わせるような、閑静な雑木林の中に当社は鎮座している。この辺りは周囲よりも標高が少し高くなっており、遠望すると緑色の島がぽっかりと浮かんでいるように見えるため、緑島と呼ばれる。
 当社は、同じ緑島の地内にあり、延暦九年(七九〇)の創立と伝える本山派修験の古刹玉林院が支配していた模様で、『風土記稿』中尾村の項には玉林院の境内社の一つとして「鹿島明神社」と載せられている。創建の年代は明らかでないが、鹿島信仰が民衆の間に浸透した近世初頭には既に玉林院によって祀られていたものであろう。
 明治初年の神仏分離により玉林院の管理下から離れた当社は、鹿島社と称し、明治六年に村社となった。その後、明治四十一年に、同じ大字内の字駒形から無格社駒形神社と同境内社の第六天社・須賀社、字不動谷から無格社稲荷社と白山社、字駒前から無格社稲荷社と同境内社の第六天社、無格社稲荷社と同境内社の第六天社・八雲社の計一〇社を合祀し、社名を中尾神社と改めた。しかし、これらの合祀は、実際は書類上のことにとどまり、対象となった諸社は、現在も旧地に社殿が残っている。このほか明治三年に字緑島内の榛名神社を当社境内に移したとの記録があるが、これも実際は昭和二十年代になってから行われた。
□ 御祭神
 ・建御雷之男神・・・武運長久、厄除け
□ 御祭日
 ・元旦祭(一月一日) ・夏祭り(七月二十六日)
 ・秋祭り(十月九日)

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 二の鳥居。
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 拝殿。
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 後ろから。
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 稲荷社。
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 その脇に■■■王と稲荷社。
 ■■■王はおそらく牛頭天王だろう。
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 左の石祠は稲荷社、右の石祠は白山大権現。
 稲荷社の側面には「稲荷社再建願主 當所 饗庭喜蔵 昭和九年三月吉日」と刻まれており、白山大権現の側面には「寛政十二庚申正月吉日」「武州足立郡木崎領 中尾村不動谷戸 金剛寺持」と刻まれている。世話人の名も刻まれてはいるのだが、少々読み取り難い。ちなみに昭和九年は1934年で寛政十二年は1800年。

 以上で3月18日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA16-85mm、DA FISH-EYE 10-17mm、DA15mm。X30。
 ウォーキングカウンターは25,821歩。
 この後は浦和駅まで歩き、途中の八雲神社や榎戸稲荷はお参りしている時間的余裕が無かったので残念ながらスルー。新刊を購入するため大宮に立ち寄り、それから帰宅。
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大谷口氷川神社(緑区大谷口)

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 埼玉県道1号さいたま川口線に面して鎮座する大谷口氷川神社(さいたま市南区大谷口2285)。
 鳥居の柱には「明治四十三年一月吉日建之」「大谷口 廣ヶ谷戸 氏子中」と刻まれている。
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氷川神社 御由緒
□ 御縁起(歴史)
 当社は大宮台地浦和支台の北端に祀られており、その北方の低地にはかつて湿地帯が広がっていた。
 『風土記稿』によれば、大谷口村は、中尾・広ヶ谷戸・道祖土・柳崎の四か村も含んで一村をなしていたが、元禄年間(一六八八-一七〇四)にそれぞれ分村したという。当社はこの五か村の鎮守として崇敬され、慶安二年(一六四九)には朱印地一〇石を拝領していることから、分村以前から祀られていたことがわかる。本社である武蔵一宮氷川神社は、正保期(一六四四-四八)の古図を見ると、広大な見沼を望む高鼻と呼ばれる高台の鬱蒼とした杜の中に鎮座しており、当社もこれに倣って湿地帯と望む高台の地に奉斎されたことは想像に難くない。
 『風土記稿』大谷口村の項には「氷川明神社 中尾・広ヶ谷戸・道祖土・柳崎四村の鎮守なり、御朱印十石は村内及び柳崎村にて賜れり末社三神社、天神社、別当安楽寺 天台宗、仙波中院の末、養寿山観明院と号す、本尊は弥陀を安ず」と記されている。安楽寺住職の末裔である野口吉明家所蔵の文書によれば、安楽寺は文久二年(一八六二)に無住となり、本山の学僧であった徳王房順盛を留守居とし、同四年(一八六四)に住職とした。順盛は神仏分離後、還俗して名を野口耀と改め、当社の祀職となり、当社は明治四年に村社に列した。
□ 御祭神・・・素戔嗚尊
□ 御祭日
 ・新年祭・・・一月六日 ・塞祭・・・五月十五日
 ・例 祭・・・八月一日 ・秋祭・・・十一月二十三日

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 拝殿と獅子山。
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 狛犬。
 右側の獅子は頭部が破損しており、なにか別のクリーチャーのような見た目になっている。
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 臀部側から。
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 本殿。
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 天満宮・古峯神社。
 鳥居の柱には「大正十一年二月」「伊勢参拝記念」と刻まれている。
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 左から無し、春日大神・天照大神・八幡大神、疱瘡神・天満宮・稲荷大神、石神井社、第六天。
 左端だけなにも無いのはどう言うことだろう?
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 雷電神社と十二所権現社。
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 社名が記されていない為、不明。
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 中を覗き込んでみてもやはりわからないが、左の祠には「氷川社」と書かれた額と「八紘一宇従軍記念」と書かれた額があるのが見え、右の祠の中に掛けられた絵馬には狐のようなものが描かれているのが見える。
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 春日大神・天照皇大神・豊受姫大神奉拝碑と境内地譲与記念碑。
氷川神社地沿革誌
當社ハ古來安樂寺別當ニヨリ齋祀サレテオリ 明治元辰年ノ十一月浦和県役所ニ復飾ヲ願出姓名モ野口主計耀ト稱シ 同二巳年ノ六月神祇官ヨリ少講義祠掌ノ御許状ヲ戴キ神明ニ奉仕ス同三庚午歳十一月十九日県庁ニ届出セシ 氷川神社明細書 ニヨレバ
社領元朱印地 高拾石七斗 此田畑藪山合反別 三町四反六畝拾四歩 伹除地及ニ境内地 五反弐畝参歩 ヲ有ス
明治五申歳大政官ノ達旨ニヨリ 境内地ノ内 参反四畝ニ拾六歩ヲ引裂キ 上地官林ニ編入サル 同九子歳地租改正法 被 仰出サレ殘餘ノ境内地 六百参拾九坪ノ土地ヲ上ニ奉ロ 以后官有地第一種地トシテ当社ニ貸付ラレタリ 明治丗三庚子歳六月一日当社ノ社掌野口耀氏子總代野口義平同順平同利兵衛連署ノ上上地林境内編入願乎提出ス 同四十丁未歳四月丗日(社掌死亡欠員)總代野口義作松本彦吉大熊長五郎連署ヲ以テ編入之義ニ付追願セシ処同四十一年三月二日付時ノ知事嶋田剛太郎閣下ノ名ヲ以テ 上地林境内編入ノ件實測面弐反五畝八歩ニ限リ聞届ラレ 大正ヲ経テ昭和ノ御代ニ及ビタリ 昭和二十乙酉歳八月十五日 大戰終了 同年十二月十七日國家神道廢止令ヲ受ケ 同廿一丙戌二月國家管理ノ基ヨリ全ク離ル同年二月二十日神社本廳所属ノ神社トシテ立 同年七月廿日 勅令第七十號ヲ以テ改正セラレタル宗教法人令附則第二項ニ該当スル神社ニテ右附則第三項ノ規定ニヨリ主管者宮司吉田栄一氏子總代峯岸伊平次松澤芳一國谷夛吉野口夘之助野口義盛星野岩次郎大熊清光栗原縫次等連署ヲ以テ登記所ニ法人登記ス
同廿三戊子歳四月一日國有境内地無償讓與方ニ關シ而
一本殿拜殿末社附属建物工作ノ敷地ニ供スル土地 六百参拾九坪
二宗教上ノ儀式又ハ行事ヲ行フ爲ノ必要ナル土地 八百九拾六坪六合参勺
宮司氏子總代野口富吉松本芳彦野口利八野口考治冨田問吉大熊喜作野口一郎星野亥四等連署ヲ以テ申請ス 同年十月廿日浦和市大谷口字向二二八五 二二八六ノ二
指令社第三〇五號 神社境内地千五百參拾五坪六合參勺 伹シ立木共東京財務局長湯地謹爾郎殿ノ名ヲ以テ讓與ノ許可書受納ス
明浄正直ノ瑞光照合ス 茲ニ氏子奉讃會員一同談合シ社殿屋根改修並各箇所之修繕ヲ行ヒ壽祝ノ誠ヲ表シテ永久ニ記念シ奉ル次第ナリ
 昭和廿四己丑歳十月二十日   明階二級宮司 吉田栄一 謹書

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 伊勢太々神楽之碑。
 背面には「明治十五年五月廿五日」と刻まれているので、1882年に建てられたもののようだ。
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熊野社権現神社(緑区東浦和二丁目)

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 明神社から西へ100m程、サミットストア東浦和店の脇に鎮座する熊野社権現社(さいたま市緑区東浦和2-51)。
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熊野社 御由緒
 さいたま市緑区東浦和二-五一-一
□ 御縁起(歴史)
 鎮座地の井沼方は、正保年間から元禄年間(一六八八-一七〇四)にかけて、柳崎村・中尾村と共に大谷口村から分村した。一部の沼地を除いて、村の大半が台地のため、用水の便が悪く、農業は天水に頼っていた。そのためにしばしば旱損に悩まされたという。
 口碑によれば当社の創建は、東京都北区の王子神社を勧請したものであるという。王子神社は元亨二年(一三二二)領主豊島氏が紀州熊野権現を勧請し、江戸期は将軍家の祈願所として知られた社である。その信仰は江戸と浦和宿を結ぶ中山道を通じてもたらされたものであろう。一方、親村である大谷口村にも熊野権現社が鎮座していることから、分村ぶ際して、その分霊を祀ったとも考えられる。隣村中尾村の熊野神社の別当玉林院が天文二十二年(一五五三)に聖護院から下足立伊勢熊野先達衆分檀那職を安堵されていたことも当社の創立を考える上で参考になろう。
 当社の鎮座地は、かつて村の西端に広がっていた沼地のほとりに当たり、境内は沼に向かって緩やかに傾斜していた。また、境内の一角からは清水が湧き出て、沼へ注いでいた。用水の確保に苦心していた村人らは、常に水をたたえる沼に神霊を感得し、天水の確保を祈念して当社を祀ったのであろう。沼は、いつのころからか水田として利用され、更に昭和六十年に実施された区画整理で埋め立てられた。
□ 御祭神
 ・家津御子神 ・速玉男神 ・熊野夫須美神
□ 御祭日
 ・初詣(一月一日) ・宮薙(七月十五日)

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 鳥居の柱には「平成十四年三月吉日建之」と刻まれている。
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明神社(緑区東浦和二丁目)

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 武蔵野線沿線に鎮座する明神社(さいたま市緑区東浦和2-48-2)。
 鳥居の柱には「昭和六十年四月吉日建之」と刻まれている。
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明神社 御由緒
 さいたま市緑区東浦和二-四八-二
□ 御縁起(歴史)
 平安中期の武将である平将門は相馬小次郎とも称した。下総を本拠として関東各地に勢力を伸張し、中央派遣の国司を次々に追放して一族を国司に任命し、自ら新皇と称して関東の自立を図った。『将門記』によると、将門は侠気に富む人物であり、皇胤の自覚をもちながら武芸によって身を立てようとしたつわものであったという。このような将門の行動は関東の民衆に大きな影響を与え、将門を英雄として仰ぐ気風は時とともに強まり、死後の霊魂説話や子孫説話も作られていった。
 当社は平将門公を祀り、その創建は将門にかかわる伝説に基づいている。ある時、将門の家来が戦に敗れて落ち延び、この地の国谷家にしばらくの間かくまわれた。このような縁で、後に、将門の末裔に当たる奥州相馬氏が祀った相馬の相馬小高神社(福島県南相馬市小高区鎮座)から分霊を当地に勧請したという。
 『明細帳』には「往古ハ神明社ト唱ヘシガ、イツノ頃カ明神社ト改称ス」と載せられている。明治初年には無格社とされた。
 昭和四十一年の武蔵野線開通に伴い、境内地に神明社と二社の稲荷社が移され、本殿も一〇メートルほど南東の現在地に引き移された。また、昭和六十年に鳥居を再建し、同六十二年には本殿を再建し、更に翌六十三年には境内の神明社と二社の稲荷社を再建、本殿の覆屋を新築した。
□ 御祭神
 ・平将門公・・・武運長久、除災厄除
□ 御祭日
 ・おびしゃ(三月初午) ・例祭(十月十五日)

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 青面金剛。

稲荷社(柳崎五丁目)

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 柳崎氷川神社北側のマンション脇に鎮座する祠(川口市柳崎5-20-15)。
 社名は記されていなかったが、宝珠紋らしきものがあったので稲荷社であろう。

柳崎氷川神社(柳崎五丁目)

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 埼玉県道235号大間木蕨線の脇に鎮座する柳崎氷川神社(川口市柳崎5-20-1)。
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氷川社 御由緒
 川口市柳崎五-二〇-一
□ 御縁起(歴史)
 柳崎は八木崎とも書き、見沼に突き出た台地上にある。戦国期に見える地名で、永禄七年(一五六四) の太田氏資判物写に「柳崎之内原分」とある。更に『風土記稿』によれば、元は大谷口・井沼方・中尾・柳崎の四か所で一村をなしていたといい、元禄年間(一六八八-一七〇四)のころに分村したとされる。
 本社である武蔵国一宮氷川神社は、正保期の古図を見ると、広大な見沼を望む高鼻と呼ばれる高台の鬱蒼たる杜の中に鎮座しており、当社もこれに倣って見沼を望む台地上に祀られたものであろう。
 『風土記稿』には 「氷川社 当村及び井沼方等二村の鎮守なり、観音院の持、社内に慶安二年(一六四九)の棟札があり、表面の中央に奉新造氷川大明神云云と書し、左右に武州足立郡木崎領八木崎村、同郷之内八木崎云云、御代官熊澤彦兵衛と記し、左傍の下に野口左京・小嶋金彌と並べ書し、其外に外記といへるをも並べ記したれど、名のみにて姓氏の所は消て読得ず(以下略)」とあるが、その棟札の所在は不明である。また、別当観音院は大慈山東光寺と号する天台宗の寺院で、本尊の子安観音は元亀二年(一五七一)の織田信長による比叡山焼き打ちの際、坂本の地から難を逃れた僧恵海がこの像を背に東国に霊地を求め巡錫に出て、この柳崎の地が、坂本の旧地に似ていたのを見て喜び、尊像を奉安したとの由来が伝えられている。
□ 御祭神
 ・須佐之男命・・・災難除け、安産・縁結び、家内安全
□ 御祭日
 ・元旦祭(一月一日) ・お日待(十月十五日)

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 一の鳥居。
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 二の鳥居。
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 拝殿。
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柳崎氷川神社
 本社の草創は明らかではないが、江戸時代の『新編武蔵風土記稿』によると、当時、柳崎及び井沼方二村の鎮守であったとの記載が見られる。本殿の建立年代は、棟札の記述から慶安2年(1649)頃と伝えられるが、その後、明治6年(1873)村社となり、同41年(1908)には、字後町の稲荷神社及び白山社、字西ヶ原の稲荷社を合祀し現在に至っている。なお、現在本殿は、拝殿付覆屋の中に納められている。
 現本殿の形式は、一間社流れ見世棚造、屋根は目板葺で、桁行1.305m(4.31尺)梁間1.180m(3.89尺)の身舎に0.970m(3.20尺)の向拝を付ける。身舎は、切石上に井桁を組んだ土台に円柱を立て、内法長押で結び、舟肘木で桁を支える。妻飾りは猪子扠首組で、破風拝みの装飾は猪の目懸魚。向拝は、面取りの方柱上に舟肘木、軒桁が渡されており、身舎と直線的な繋虹梁で結ばれている。また、向拝柱前面に七段の木階が付く(これはこの地域の見世棚造の特徴である)。本建築は江戸時代中頃のものと考えられるが、見世棚造の原型を思わせる簡素な構造と意匠を持ち、当地域における同建築様式を知る上で、大変貴重な例である。
(平成6年8月18日 市指定)

見世棚造
 神社本殿建築様式の一つ。比較的小規模な建築で、井桁に組んだ土台上に建てられ、身舎の前面から向拝柱にかけて床板が貼られている特徴を持つ。その様相が店舗の陳列棚に似ていることから、その名が付けられたともいわれている。
 古くは、平安時代の『信貴山縁起絵巻』や江戸時代初頭の『洛中洛外図屏風』等の絵巻物や屏風絵中に、しばしばその姿が見られる。鎌倉時代から江戸時代にかけて造られたものが全国各地に現存する。
 この柳崎氷川神社本殿は、組物に舟肘木を用いることや、繋虹梁に施されている簡略化された眉彫等、全体的に見て簡素な見世棚造の典型ともいえ、僅かに、三芳野神社末社蛭子社、大黒社(川越市/県指定文化財)、愛宕神社本殿(上尾市/市指定文化財)等に類例がうかがえるのみである。また、木階の数も7段と多く、当地域の木階付見世棚造として大変珍しい存在である。

周辺の見世棚造神社建築
 近年の調査研究の結果、全国的にみても、埼玉県、特に本神社の周辺地域(主に見沼低地以西)には、板葺屋根で向拝柱前面に木階を設け、猪子扠首の妻飾を有する見世棚造本殿が数多く分布することが明らかにされた。
①柳崎氷川神社本殿 :江戸時代(川口市:市指定)
②前川神社本殿   :桃山時代(川口市:市指定)
③搗島氷川女体社本殿:江戸時代初期(浦和市:市指定)
④大牧氷川女体社本殿:寛永13年(1636)(浦和市:県指定)
⑤太田窪氷川神社本殿:桃山時代(浦和市:市指定)
⑥大谷場氷川神社本殿:寛文6年(1666)(浦和市:市指定)
⑦本太氷川神社本殿 :慶安3年(1650)(浦和市:市指定)
⑧片柳沖郷弁天社本殿:桃山時代(大宮市)
 (社殿の規模は、大谷場氷川神社のみ三間社、他は一間社)

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 氷川天神社。
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 その奥には稲荷社と第六天。
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 白山神社、桜稲荷社、三峰神社。

伏見稲荷大明神(柳崎五丁目)

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 ヨークマート柳崎店北西の駐車場奥に鎮座する伏見稲荷大明神(川口市柳崎5-2)。
 狛犬は金網の中に入れられており、少し見え難い。
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 二の鳥居を境内側から。
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 本殿覆い屋とお狐さま。
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 本殿と石祠。
 石祠には宝珠紋があるので、こちらも稲荷社であろう。
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 馬頭観世音と馬頭観音、青面金剛。

朝日神社(木曽呂)

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 見沼代用水東縁を挟んで神根グラウンドの東側に鎮座する朝日神社(川口市木曽呂193)。
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朝日神社 御由緒
 川口市木曽呂一九三
□ 御縁起(歴史)
 当社は元来氷川神社と号し、応永三年(一三九六)に創建したと伝えられる。
 その後、江戸期に入るまでの事歴は不明で、社記によれば、享保七年(一七二二)神祇管領吉田家から正一位に叙せられると共に本地仏の十一面観音像が本殿に安置された。更に、文久二年(一八六二)社殿大破につき、神階叙位にかかわる宗源宣旨・宗源祝詞・幣帛が破損したため、吉田家に願い出てこれらの品々を改めて拝受したという。先の享保七年の宗源祝詞には、氏子の間で禁忌とされていた「四間半の家作る事」「蕎麦蒔事」を尊神に許しを乞うた一文が見える。
 慶応三年(一八六七)の社殿再建の棟札写しには発願主として「名主石井忠左衛門」、奉幣使として「別当薬王寺住貞祐」の名が見える。
 神仏分離により薬王寺の管理下を離れた当社は明治六年に村社となり、更に同三十年に十一面観音像が薬王寺に移されて名実共に神仏分離がなされた。
 明治四十年から同四十四年にかけて木曽呂・東内野・源左衛門新田・神戸・安行領在家・道合の六大字の各神社を当社に合祀し、大正二年に至り、社号を朝日神社と改めた。社名の由来は、御遷宮(合祀祭)を執り行った十月十日にちなみ、「十月十日」の四文字を組み合わせて「朝」の字を冠し、朝日のごとき隆盛を祈ったものである。
□ 御祭神と御神徳
 ・須佐之男命・・・災難除け、安産・縁結び、家内安全
□ 御祭日
 ・元旦祭(一月一日)       ・小 祭(四月十五日)
 ・天雲神社祭(七月十四・十五日) ・例 祭(十月十日)

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 二の鳥居。
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 拝殿。
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 斜めから。
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鬼瓦
 屋根の頂きにある両端や、降り棟の端を飾る瓦で、七〇〇年以降建築物の安泰を祈り、鬼面を飾ったものが主として用いられたため、鬼瓦の名称が一般的となった。
 また、鬼面がなくても、前途の場所に飾られてある瓦も鬼瓦と呼ばれている。
 ここに安置してある鬼瓦は、大正十年(一九二一)に当神社の屋根が、茅葺きから銅板に葺き替えると同時に、この鬼瓦を使用したものである。その英姿は威風堂々として、誠に他に類を見ないものである。
 平成五年(一九九三)社殿建て替えによってその務めも終わり、古色蒼然、永年の労を偲び設置した次第である。
 平成十八年十月吉日

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 稲荷社。
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 左は天照皇大神。中央は歌碑かな。「やくもたつ いつもやえかきつまこみに やえかきつくる ■のやえかきを」と刻まれているが、これは素盞嗚尊が詠んだ「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」を平仮名で記したものだろう。右端は氷川神社と刻まれているが、なんだか社号標石のように見えなくもない。
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 諏訪社。
 こちらを撮影している時、いきなりAFが作動しなくなり、フォーカスモードレバーはAF.Sなのにファインダー内の表示はMFになっているという現象が発生。電源Off→Onでも直らないが一度レンズを外して付け直すとAFが作動したので安心したのだが、しかし一枚撮るとまた同じ状態になり、何度かレンズを外したり付けたりしながら撮影。修理に出したばかりなのにまた故障かよと少し気分が落ち込んだものの、この諏訪社以外を撮ろうとすると普通にAFが作動し、以後一度もその現象が発生しないと言うちょっと不思議な体験。なんだったんだろうなぁ、接触不良でもなさそうだし。
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 天雲社。
 こちらについては特に由緒書きには記されていないが、ググってみたら木曽呂にあった天神社及びその境内社である稲荷社と神明社、八雲社を合祀したものであると猫の足あとさんのところに書かれていた。
 Google先生に訊くと猫の足あとさんのヒット率が高くてしばしば御世話になっておりますね。有難いことです。
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 拝殿と本殿。
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浅間神社(東内野)

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 厳島神社の北側に位置する「木曽呂の富士塚」脇に鎮座する浅間神社(川口市東内野594)。
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国指定有形民俗文化財 木曽呂の富士塚
 昭和五十五年四月二十四日指定
 富士塚は、富士山を模して築造した塚で、江戸高田の行者藤四郎が、老若男女だれでも心やすく、富士に登山できるようにと、安永九年(一七八〇)、高田水稲荷(みずいなり)の境内にこれを築いたのが始まりである。
 木曽呂の富士塚は、地元で”ふじやま”または”木曽呂浅間”と呼ばれ、寛政十二年(一八〇〇)に、富士講の一派である丸参講(まるさんこう)の信者蓮見知重(はすみともしげ)の発願によって、見沼代用水と通船堀(つうせんぼり)の連結点の縁に築造されたもので、高さ五・四m、直径約二〇m、塚全体が盛土で築かれている。頂上には、お鉢めぐりができるよう火口が掘ってあり、又、今日では入口が埋没しているが、塚を貫いて胎内くぐりの穴を設けている。
 富士塚の麓には、文化二年(一八〇五)造立の蓮行知道居士(蓮見知重)の碑があり、富士塚築造の由緒が刻まれている。この他、塚ならびに周囲には、享和四年(一八〇四)の石燈籠天保四年(一八三三)の石鳥居等丸、参講によって造立された石造物が多く残されている。
 富士塚の中でも古い築造で、特に埼玉県下のものでは最も古く、庶民信仰の様相を示すもので、貴重である。

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 社殿が塚の麓にあるのは珍しいような気がする。
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 なんでしょうかねこれ。
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 伊勢太々碑、鹿嶋太々記念碑、登山隔年修行碑、登山三十三度碑。
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 富士塚。
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 塚頂上。
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 富士嶽神社。
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 塚の南側には石碑らしきものがあるが、案内板の配置図にシモガミと書かれているのがこれなのだろうか。碑文は殆ど判読できないが、「文化六己巳」くらいは読み取れた。
 この後ろに胎内くぐりの穴があり、そして穴のほぼ真上に先に富士嶽神社がある。
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 富士塚西側。左上に浅間神社が見える。
 胎内くぐりの穴は閉じられているが、南側の穴と繋がっているのだろう。西側の口の上には浅間神社があり、南側の口の上には富士嶽神社があることになるが、どちらが入口でどちらが出口などの決まりはあったのだろうか。

厳島神社(緑区下山口新田)

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 見沼代用水東縁の傍に鎮座する厳島神社(さいたま市緑区下山口新田78)。
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 拝殿。
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大熊志水居士之碑
志水居士諱元吉字明道姓大熊氏號志水居士又號化陽庵武
藏國北足立郡大間木邨人父大熊五郎右衛門朝祝母大熊氏
名美喜子以文化四年生家世郷望族居士天資温良謹敏夙夜
勉作業及居士之世大起家産重義軽財好施與先鰥寡天保四
年癸巳及七年丙申歳荐饑輙發金穀救濟數千百人生平守儉
素痛斥奢侈凢遇有當費曾不恡情有餘暇則學文演武就稻垣
玄節翁學天経皇典及撃劍精力絶人學通和漢旁渉天文地理
兼善詩文及和歌以至俳諧圍棊之細皆莫不究其妙事親純孝
與兄弟友惟樂其志片言隻行無悖父母之意與人交信而敬赴
人緩急風雨疾病不爽晷刻小事如是况於大事乎故隣里郷黨
景慕如神天保十三年壬寅九月二十一日罹病而卒享年三十
有六卒之日吊者數千人無不哭泣者葬于本邨先塋之次如居
士之才之徳假令立於廟堂則為蒼生霖雨以澍天下矣嗟夫天
烏優其徳而嗇其壽乎哉配石關氏擧二男二女長曰正名克紹
先業不墜家聲頃者將鐫先考之遺徳於貞珉以之下山口里厳
島神祠傍以傳不朽作状索余銘之正名第三子駿二有才學幼
遊余之門義不可辤為之銘曰
高雅丰釆 嚝達器宇 勤儉興家 純孝事父 俛焉治生
欝中興祖 賑窮救饑 甘露膏雨 學通和漢 驗今考古
濟世之才 修文講部 草奔遺賢 郷里規矩 千載徳望
春風和照
明治二十一年十月 神道管長従六位平山省齋譔并書

稲荷神社(緑区下山口新田)

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 見沼代用水東縁に架かる山口橋の脇、下山口自治会館の隣に鎮座する稲荷神社(さいたま市緑区下山口新田18)。
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 拝殿。
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稲荷社 御由緒
 さいたま氏緑区下山口新田一八
□ 御縁起(歴史)
 当地は、江戸中期に開発された見沼新田の内の一つである。『風土記稿』下山口新田村の項に「女体権現御旅所跡 土人の話に此開発の以前、沼中に祭竹と号せるものを立て、三室女体の御旅所とせり、(以下略)」と載るように、まだ沼地であったころには、三室氷川女体神社が隔年の九月八日に行ったという御船祭の御旅所が置かれていた。それを示す祭竹や古銭・磁器片が発掘調査でも数多く発見されている。
 当地の開発は、享保十三年(一七二八)に江戸小田原町鯉屋藤左衛門が入り、六十年余りの難工事の末にようやく成し遂げられたものである。新田名はその功により鯉屋の姓である山口を当てたという。
 本殿内には稲荷大明神像のほかに、勧請の添簡も残されており、それには、寛政三年(一七九一)初春吉辰に関平八・沼口以兵衛両名をはじめとした氏子中の願いにより、京都伏見大社から正一位稲荷大明神を分霊することの許しを受けた旨が記されている。当地が悪水の集まり易い土地であったため、その開発が難航を極めたことから、ようやく農作も安定し始めたと思われる同年に村の繁栄を願い奉斎したものであろう。
 当社は『風土記稿』に「稲荷社 鎮守なり、村民の持、地蔵堂」と載り、やがて明治六年に村社に列した。
□ 御祭神と御神徳
 ・倉稲魂命・・・五穀豊穣、商売繁盛
□ 御祭日
 ・初祈祷(一月第一日曜日) ・初午祭(三月第一日曜日)
 ・宮 薙(七月第二日曜日) ・秋大祭(十月十五日)

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 庚申塔と六地蔵。
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水神社(緑区大間木)

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 芝川に架かる八丁橋の脇、県道103号線に面して鎮座する水神社(さいたま市緑区大間木2395)。
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水神社
 水神社は、見沼通船堀が開通した翌年の享保十七年(一七三二)六月の創建と伝わります。祭神は、水の神である罔象女命をお祀りしています。
 享保十六年、伊沢弥惣兵衛為永によって開削された見沼通船堀が開通し、江戸と見沼代用水路縁辺の村々との物資輸送が可能になりました。船は、代用水路縁辺の河岸で荷物(江戸時代においては年貢米が主でした)を積んで江戸へ行き、帰りは肥料、塩、酒などの商品を積んできました。荷物の積みおろしをする河岸場は、芝川と東西の用水路沿いに五十九カ所あり、ここ八丁にも河岸場がありました。八丁河岸周辺には、河川輸送に携わる人たちが住んでおり、水神社は、そのような仕事につく人たちが、水難防止を祈願して祀ったものです。
 なお、本殿は大正十二年九月一日の大地震により全壊し、同十三年に再建されたものです。また、境内は国の史跡「見沼通船堀」の一部になっています。
 平成二十四年三月

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抑當通船堀者見沼代用水路開掘後享保十五年井澤惣弥兵衛爲永之所設
計也連絡東西代用水路興中悪水路築造閘門於上下各二ケ所宛翌十六年
竣工共得許圖自深谷至東京廻米之便當時此水路之通船権者高田茂右衛
鈴木文平両者之所有而両者被給通船屋敷予江戸神田花房町反武刕尾間
木村文政三年以後髙田氏之支配也隆而明治七年髙田貢平氏受通船堀反
附屬地之拂下于埼玉縣令后一切之権利移於見沼通船會社■後■岡村俊
太郎氏鈴木順太郎氏小嶋藤七氏之盡力大正二年船子之者受之拂下而又
守護神當水神社之鎮座敷地者鈴木順太郎氏外二十五名所有也偶遇大正
十二年九月一日之大震災也社殿全潰八町山口之倒潰家屋■及五十余戸
然救水難神威遂揺諸氏至得恊賛大正十三年起工令十四年落成四月三日
舉行御遷宮式茲記念運河閘門之遺蹟並水神社再建設碑以梗漑傳永久■
 昭和四年十月 髙槁佐平謹書 大工石塚于四郎
 ■の部分はちゃんと文字はあるのだが、読み取り難かった部分。
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 水神社本殿と末社。
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 通船堀大橋から見た水神社。
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古峯神社(緑区大間木)

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 稲荷神社から東へ60m程、八丁集会所(さいたま市緑区大間木1907)前に鎮座する不動堂と古峯神社……たぶん。
 右側の小さな祠の中には古峯神社の神璽が納められていたので、おそらく古峯神社であろう。後ろの建物には八丁集会所の看板がついているが、鰐口紐も垂れているので大聖不動尊の本堂と兼用になっているのだろう……と思っていたのだが、ググってみたらそちらは八丁観音堂で、この不動堂が大聖不動尊であるようだ。
 なお、観音堂兼集会所の方は丁度掃除中のようだったのでそちらはパス。

稲荷神社(緑区大間木)

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 附島氷川女体神社から東へ120m程、県道103号線脇に鎮座する稲荷神社(さいたま市緑区大間木1914)。
 門が閉められており、入って良いのかどうかわからなかったのでとりあえずここからだけで。
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稲荷社 御由緒
 さいたま市緑区大間木一九一四
□ 御縁起(歴史)
 八代将軍徳川吉宗の命により、見沼干拓のために紀州から呼び寄せられた伊沢弥惣兵衛為永は、この難事業を享保十二年(一七二七)に成し遂げた。この事業によって失われた見沼溜井に代わる用水として開削されたのが見沼代用水で、その竣工は享保十六年(一七三一)である。見沼代用水は、農業用水として利用されただけでなく、舟運にも利用され、陸上交通が発達する昭和初期まで、江戸(東京)と用水縁辺の村々との間の物資の輸送に重要な役割を果してきた。
 当社の鎮座する八丁は、この見沼通船の会所が設けられ、重要な荷揚げ場となっていた所で、船頭など舟運にかかわる人々も多く居住し、まさに見沼通船の基地であった。『明細帳』には、当社の由緒について「創立享保十六亥年九月其他不詳」と記されているが、この創立年から、当社は、見沼干拓による新田開発に伴ってこの地に住み着いた人々が勧請した神社であると思われ、本殿には勧請の際に受けた神璽などを納めていたものらしき筥が残っている。
 また、境内には天保二年(一八三一)三月大吉日に氏子中が幟立を奉納していることや、天保六年(一八三五)二月初午に氏子の鈴木粂之助が手水鉢を奉納していることから、このころ境内の整備が図られたことが推測される。更に、拝殿内の額から、明治二十八年に参道の敷石や幟竿及び幟竿置場の奉納があったことがわかる。
□ 御祭神
 ・倉稲魂命・・・五穀豊穣、商売繁盛
□ 御祭日
 ・歳旦祭 ・初午(二月初午)
 ・春禦(三月二十八日) ・お日待祭(十月十五日)

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 青面金剛。
 側面には「安永六丁酉九月吉日」と刻まれているが、この本体部分だけ色が違うのはどうしたことだろうか。継ぎ目は見えないのでここだけ造り直したということも無さそうなのだが、はて。

附島氷川女体神社(緑区大間木)

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 見沼通船堀公園の南側、県道103号線に面して鎮座する附島氷川女体神社(さいたま市緑区大間木1522)。
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 本殿と覆屋。
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 末社。何神社なのかは不明。
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氷川女体社 御由緒
さいたま市緑区大間木一五二二
□ 御縁起(歴史)
 かつて、東京湾が大宮台地の辺りまであったころ、当社の北側の崖の下は入り江であったと伝えられる。搗島という地名も、こうした太古の海の名残の一つで、江戸時代には一村であったが、規模が小さかったことから明治九年に大間木新田と共に大間木村に合併され、その一小字となった。
 この搗島の地に、氷川女体神社が祀られるようになったのは、恐らく三室村(現緑区宮本)に鎮座する氷川女体神社の社領が村内にあったことに関連するものと思われる。見沼溜井の造成によって水没した三室村内の氷川女体神社の社領二〇石分の替地が、搗島村内に与えられたのは寛永六年(一六九二)以降のことであるから、当社の創建は、その時期よりやや降るころと推測される。
 『風土記稿』によれば、当社は江戸後期には「女体明神社」と呼ばれ、村民の持ちであったとされている。搗島は、元来は吉田一家(一族)の集落であったといわれ、今でも住民の三分の一は吉田姓であるが、その本家とされるのが吉田喜蔵家である。したがって、ここでいう「村民」とは、現在の吉田喜蔵家の先祖のことと思われる。なお、江戸時代の中ごろに同家の当主であった治郎左衛門は修験者で、明和年間(一七六四-七二)から安永二年(一七七三)にかけて東北から四国に至る諸国を巡礼しており、その納経帳が現存している。
□ 御祭神
 ・奇稲田姫命・・・五穀豊穣、縁結び、夫婦和合
□ 御祭日
 ・禦(五月十五日) ・村祈祷(七月十六日)

市指定有形文化財(建造物) 搗島氷川女体社本殿
 昭和五六年四月四日指定
 一間社流造りの小本殿です。身舎の間口が六九・〇cm、奥行きが六一・〇cm、向拝の出が五一・〇cmあります。土台上に建ち、身舎柱は円柱で、長押で固められています。柱上は舟肘木造出しの桁がのります。妻飾りは豕扠首です。向拝柱は角柱の大面取りで、柱上は出三斗で桁を受けています。身舎とは繋虹梁です。身舎の正面は板唐戸で、縁板は正面のみに向拝柱まで張られていて、「見世棚造り」となっています。木階はその前面につきます。軒は二重繁垂木で、屋根はこけら葺きとなっています。
 この建物には建立年代を伝えるものは残っていませんが、江戸時代初期と考えられます。
 平成十一年二月

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 本殿脇にも末社。やはり何神社なのかは不明。
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 本殿西側には附島集会所があり、その前の末社の中には「奉納大明神」と刻まれた石塔が納められているが、やはりこれだけでは何神社なのかはわからない。
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正一位稲荷大明神(緑区東浦和五丁目)

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 埼玉県道235号大間木蕨線と県道103号吉場安行東京線が合流する東浦和駅前交差点の南側に鎮座する正一位稲荷大明神(さいたま市緑区東浦和5-2-10)。
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 「稲荷社天王様鳥居新築落成寄附金」芳名額が奉納されている。
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 末社。
 左の祠は名が記されていないので何神社なのかは不明。もしかしたら前述の芳名額に記されている天王宮がこちらであるのかも知れない。
 右側の小さな石塔は疱瘡神。

大間木氷川神社(緑区東浦和五丁目)

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 JR武蔵野線東浦和駅の250m程北に鎮座する大間木氷川神社(さいたま市緑区東浦和5-20-2)。
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赤山街道
 所在地 浦和市大字大間木
 赤山街道は、関東郡代の伊奈氏が寛永六年(一六二九)に陣屋を構えた赤山(川口市赤山)に向かう街道であった。街道の起点は与野市あたりと考えられ、浦和市内の木崎・三室。尾間木地区から八丁堤を通って赤山に通じていた。
 伊奈氏は、成和源氏の流れを汲む武人で、信州伊奈に住んだことから伊奈氏を称した。その後三河に移り松平氏、徳川家康に仕え、家康の関東入国後、伊奈氏は小室(伊奈町)、鴻巣などに一万石を領し、小室や土屋(大宮市)などに陣屋をおいて累代治水事業に力を注いだ。
 三代目半十郎忠治は、関東郡代となり、また勘定奉行も兼ね、赤山領七千石を拝領し、赤山に陣屋を移した。忠治は治水、灌漑、新田開発に力を入れ、特に利根川、荒川の大改修を行い、寛永六年には八丁堤を築き見沼溜井造成に着手した。
 現在、赤山街道は与野市や浦和市内で赤山横町とか赤山通りと呼ばれ、歴史と生活が結びついた道路となっている。
 昭和五十八年三月

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 拝殿。
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 少し斜めから。
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 狛犬。
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浦和市指定有形文化財(建造物) 大間木氷川神社本殿 一棟
 指定年月日 昭和四十七年四月十九日
 この本殿は、「神社明細帳」には、寛文七年(一六六七)、武蔵国一宮氷川神社(大宮市)の造替にあたり、旧本殿を買受けて建立したとある。さらに、平成七年の修理の際、寛文七年二月、氷川大明神一宇を造立した旨が記された棟札が見つかり、この地での建立時期を明らかにすることができた。
 本殿は、一間社流造り、屋根、旧・こけら葺き(現・こけら葺き形銅板葺き)で、桁行二・五六メートル、梁間二・四五メートルの身舎に奥行一・九六メートルの向拝がつく。土台上に立ち、身舎柱は円柱(縁より下は八角形)で、長押、頭貫、腰貫で固め、柱上は連三斗組となる。中備は蟇股で、正面は鳳凰、左右は牡丹の彫刻である。柱間は、正面が幣軸に板唐戸、他の三面が横嵌板となる。正面および両側面は浜縁がめぐり、脇障子、高欄がつく。妻飾りは、虹梁・太瓶束式である。向拝柱は、大面取りの角柱で、身舎柱とは海老虹梁で繋がれている。向拝柱には、絵様木鼻のある水引虹梁を架し、柱上連三斗組、中備は蟇股で、竹に虎の彫刻がある。正面に五級の木階を設け、向拝柱の前面に大床を張る。軒は二重の繁棰で、飛檐棰は先端に反り増しが見られる。
 平成五年七月、拝殿の火災で罹災し、大きく焼損したが、平成七・八年にかけて浦和の補助事業として根本修理を施し、寛文期の姿に復した。
 この本殿は、武蔵一宮の旧本殿と考えられる貴重な遺構であり、建立年代を明らかにし、規模大きく、意匠も優れた建築として、極めて保存価値が高いと言える。
 平成八年十一月

氷川神社 御由緒
さいたま市緑区東浦和五-二〇-二
□ 御縁起(歴史)
 「風土記稿」大間木の項に、当社は「氷川社 当村及び大間木新田・大牧・搗島等四か村の鎮守なり、搗島村民の持、末社 第六天社、牛頭天王、疱瘡神、天神社、八幡社、荒神社、稲荷社、神明社、別当三光院本山派修験、中尾村玉林院配下なり、本尊不動を安ず、長一尺五寸許、智證大師の作と云、什物、笈一、亀井六郎奥州下向の時背負し物なりと云(以下略)」と記されている。
 往時別当であった三光院の末裔である仲田家には「風土記稿」にも挿絵の残る室町期の優れた漆工芸品である椿紋鎌倉堀笈(県指定文化財)が残されている。笈とは、行脚僧・修験者などが仏具・食物・衣類などを入れて背負う箱のことで、「風土記稿」では源義経の家来である亀井六郎重清にちなむものであるとしている。この真偽は定かではないが、亀井六郎の屋敷跡とされる所が三光院の本寺に当たる玉林院が所在した中尾村にあったと伝えられている。この笈を背負った三光院の先祖がこの地に土着して当社の祭祀を司るようになったものと思われ、当社の創建も室町期までさかのぼることが推測される。
 市指定文化財になっている一間流造りの当社本殿は「明細帳」によると、寛文七年(一六六七)三月に武蔵国一宮氷川神社が再建された際、旧本殿を買い受けたものである。
 なお、いつのころか稲荷社二社と石神井社を当社に合祀したという。
□ 御祭神と御神徳
 ・素盞嗚尊・・・武運長久、厄除け、商売繁盛
□ 御祭日
 ・初拝み(一月一日) ・例大祭(七月二十三日)

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 本殿。
 瑞垣でよく見えないが、さいたま市役所のサイトに掲載されている写真で全体を見ることができる。
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 末社群。
 本殿西側に大國主神・少彦那命、八幡皇大神、竈神、年神。
 本殿東側に菅原天神、宇賀神、疱瘡神、香取神・鹿嶋神。
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本殿復興の記
大間木氷川神社本殿は、武蔵一宮大宮氷川神社旧本殿を寛文七年(一六六七)に譲り受け建立したとされる優れた建築で、昭和四十七年に浦和市の文化財に指定された。以来、その保護につとめてきたが、平成五年七月七日、拝殿火災に際し焼損を受けた。しかし、復元可能との判断から、指定解除は免れ、浦和市、神社、氏子が力を合わせ不退転の決意で復興の道を歩むこととなり、平成七、八年度において浦和市の助成と指導を受け解体、復元の工事を進めた。
そして平成八年十一月二十六日見事に竣工、三百有余年前の姿がよみがえった。その際、寛文七年の棟札の発見もあり、文化財としての価値もさらに高まった。なお、本殿の保全と神域の威厳を保つため、引き続いて周辺の整備を行った。
ここに、この本殿が永遠に伝えられることを願い、その概要を記すものである。
大間木氷川神社再建委員会

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 歌碑。
 この地域の方達が詠んだと思われる歌が五首刻まれている。
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健田神社跡地(結城)

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 国道50号結城バイパス健田交差点の傍に位置する健田神社跡地(結城市結城)。
 延喜式内健田神社は現在は浦町の健田須賀神社に合祀されているが、明治三年まではこちらに鎮座していたのだろう。
 右奥には筑波山が見えており、結城筑波と呼ばれているのだそうだ。
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 こちらも結城百選の一つ。
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 延喜式内健田神社舊址の碑。
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 以上で3月11日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA16-85mm、DA FISH-EYE 10-17mm。X30。
 ウォーキングカウンターは15,362歩。

雪光稲荷神社(結城)

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 稲荷通りと国府町通りの交差する脇に鎮座する雪光稲荷神社(結城市結城562
 鳥居の柱には「平成二十三年十月吉日 氏子中」と刻まれている。
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 拝殿。
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『雪光稲荷神社由緒
御祭神 宇迦之御魂神(倉稲魂)
御由緒
正式の社名は稲荷神社。永正年間(一五〇四~一五二一)に稲作に蝗旱(害虫、日照り)の災いおこり近郷の農民驚嘆し孝顕寺住職に懇願する。稲荷大神を勧請、祈誓した甲斐あり収穫を得たり。
この明徳に感激し此の地に稲荷神社を創建したといわれる。明治までの神仏習合時、孝顕寺の境外仏として、いわゆる雪光稲荷と呼ばれ親しく祀られていた。その後神仏分離により無格社稲荷神社となり、戦後、神社本庁包括宗教法人稲荷神社となり、白銀町守り神の内、その一社として、町民十人に清掃輪番等を設け、手厚く崇敬されている。白銀町の町名に雪光稲荷に由来するものと思われる。
平成十七年春雪の暁、不審火により社殿焼失、その後町内氏子一丸となり茲に社殿を創建する。稲荷の大神は生命の根源を司る「いのち」の根の神として、商業、工業、農業の殖産興業神、人々の生活生命すべての守護神であり、広大無辺の御神徳を町内住民、忘れることなく子々孫々未来永劫に伝えるものである。
           撰文 稲荷神社 宮司 小貫隆嗣 謹撰』
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 末社。
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 南側から。
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健田須賀神社(結城)

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 結城七社の内の一之宮とされる健田須賀神社(結城市結城195)。
 公式サイト有り。
 孝顕寺の次は雷稲荷神社の前にこちらにお参りするつもりだったのだが、丁度神前式をしていたので先に雷稲荷神社と釈迦堂にお参りしてからこちらへ。
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『健田須賀神社
御祭神 武渟川別命 タケヌナカワワケノミコト
    須佐之男命 スサノオノミコト
健田須賀神社は明治三年(一八七〇)に健田神社と現在地にある須賀神社が合祀されました。
健田神社は、古代より市内健田の地に建てられ我が国の最古公式記録集「延喜式」に勅撰され東国地方を平定したとされる竹田臣の祖、武渟川別命を祀っています。
須賀神社は牛頭天王ともいい、疫病を祓う神、須佐之男命を祀り、結城家初代朝光公により仁治三年(一二四二)に創建されたと伝えられ、結城家第一の氏神として歴代の城主の崇敬篤く、七代直朝公が結城七社を定め、結城一〇八郷の総社として社地の寄進がありました。また当神社に伝わる古文書によると牛頭天王宮を中心とした中世都市結城の街を知る事ができます。結城家福井移封後も家臣を遣わし崇敬されました。
その後も連綿と市中氏子により結城の氏神、産土神として信仰され今日まで「心のふるさと」として祭祀され、夏季大祭は結城夏祭りとして、市中挙げての祭礼に大御輿が渡御され、氏子の健康、発展が祈願されます。厄除け、方位除け、健康を祈願する氏戸崇敬者は全国から訪れています。
御神徳
 家内安全 厄除 方位除 身体健全 交通安全 病気平癒 合格必勝
宝物
 結城家と当神社に係わる中世古文書(県指定文化財)
 獅子頭、木彫狛犬(市指定文化財)徳川歴代将軍朱印状
年間行事
 一月一日   歳旦祭  七月第三日曜日~第四日曜日 夏季大祭
 一月三日   元始祭
 二月三日   節分祭  七月三十一日  夏越祭
 二月十一日  紀元祭  十一月中    七五三成長祈願祭
 四月十五日 春季大祭  十一月十五日  例大祭(健田祭)
   (太々神楽奉納)  十二月三十一日 大祓式
 月次祭 毎月一日 十五日』
 そして当然結城百選の一つ。
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 参道右手側に戦没者慰霊殿。
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 二の鳥居。
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 狛犬。
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 猿田彦大神。
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 拝殿。
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『健田須賀神社
 健田須賀神社は、明治三(一八七〇)年に、健田神社と現在地にある須賀神社が合祀されました。
 健田神社は、古代より市内健田の地に建てられた延喜式内社で「日本書紀」において東国地方を平定したとされる竹田臣の祖、武渟川別命を祀っています。
 須賀神社は、牛頭天王ともいい、疫病を払う神・須佐之男命を祀り、結城家初代朝光公により創建されたと伝えられ、歴代城主の崇敬篤く、七代直朝公が定めた結城七社では、中心的神社として社地等の寄進がありました。

県指定文化財
 健田須賀神社文書(古文書・室町時代)
 平成八年一月二五日指定
 この文書は、須賀神社に伝えられていたもので、鎌倉時代末から安土桃山時代まで、二巻・一九点あり、なかでも文和元(一三二五)年の「結城直光田地安堵状」は、旧結城郡内に現存する最古の文書です。また、文書の内容は、城下の商人の経済活動や結城氏の領地支配に関することまで含まれており、中世東国結城の神社や十人の様子を究明するうえで貴重な資料です。

市指定文化財
 狛犬 (彫刻・江戸時代) 昭和五二年三月四日指定
 一対が指定され、阿形が高さ五八センチメートル、吽形が高さ五四センチメートルで、江戸時代前期に奉納されたものと伝えられています。
 獅子頭(彫刻・江戸時代) 昭和五二年三月四日指定
 一対が指定され、阿形が高さ五四・四センチメートル、頭上に一本の角を有し、もう一方は高さ五〇センチメートルで、頭上に宝冠をいただいています。
平成一五年一一月』
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 神楽殿と県社昇格記念碑。
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 十二社殿と甲子稲荷神社。
 十二社殿は左から香取神社、白峰神社、三峰神社、足尾神社、羽黒神社、大神宮、鷲神社、八幡神社、松尾神社、大桑神社、高椅神社、住吉神社。甲子稲荷神社には甲子大黒天と倉稲魂命が祀られている。
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『十二社縁起
牛頭天王(浦町現須賀神社)住吉大明神(西の宮)
大桑大明神(小森村)高椅大明神(高橋村)
八幡宮(上簗村)大神宮(中河原村)鷲宮大明神(萱橋村)
この結城七社は結城家七代直朝が関城々主攻略の為北極星を中心にして回る北斗七星に願をかけ破軍星を求め七社に必勝を祈願した。その甲斐あって、関城を攻略し、康永二年(一三四三)七社制を定め篤く信仰し、社地の寄進、社殿の造営をおこなった。また同時にこの須賀神社に六社を合祀したともいわれている。
この七社をお参りすると願い事が叶えられると昔より
伝えられている。殊に七社から破軍星を求め、この破軍星を常に背負い勝負すると必勝が得られるという秘法である。
 他 香取神社(下総国一の宮)松尾神社(酒造の神)
   羽黒神社・三峯神社(火伏盗賊除の神)
   白峯神社(祭神 淳仁天皇・崇徳天皇)
   足尾神社(足腰の悪い方 健脚にご利益あり)
以上十二社を月ごとに十二か月参詣すると必ず霊験あり
 平成十二庚辰年十二月吉祥 撰文 宮司 小貫隆嗣
        社祠奉納 氏子総代  菊池孝一郎』
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『須賀神社之由来
 結城朝光公が仁治三年(一二四二)六月十一日尾張ノ津島ヨリ祇園天王社(祭神・素戔嗚尊)ヲ結城本郷(結城市浦町)ニ遷座シテ祀ッタ「須賀神社」デ以後住民ノ氏神トシテ仰ギ・祇園祭ニ御神輿ノ渡御・阿吽ノ天狗ガ巡回スル神事ハ・全国ニモ珍シク・茲ニ俳句ト俳詩ヲ献詠』
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 祭器具殿。
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釈迦堂(結城)

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 新義真言宗慶福山結城院満福寺釈迦堂(結城市結城312)。
 参道左手側には雷稲荷神社。
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『釈迦堂
 慶福山結城院満福寺釈迦堂という新義真言宗の寺院です。
 十世紀に創建され、十五世紀の永享年間に、久保田村字慶福に中興、間もなく結城城内の西館に移り慶長年間に今の地に移されたと伝わります。
 当寺に伝わる文化財のうち「銅造・虚空蔵菩薩像」「絹本・不動明王像」が市指定を受けています。
 天空のように、広大無量の智恵と功徳を人々に分け与え、諸願を叶えてくれるという虚空蔵菩薩像は、結城家十六代政勝の念持仏と伝わります。
 不動明王像は、足元に二童子を従え、罷索を持つ左手を腰に、右手の利剣を肩に、身を乗り出し、今にも走りだしそうな姿に描かれています。
 また、境内入口の碑(市指定)は、増田遷晁が建立したもので、表に芭蕉の句「八九間 空で雨ふる柳かな」、裏には遷晁が師と仰ぐ人物が、一堂に会し交遊するという、彼の夢が描かれています。
 彼は、谷文晁の流れを汲み、各地を歴訪、日本画を学び、明治二十年六十五歳で永眠しました』

 こちらも結城百選の一つ。
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 市指定文化財である「増田遷晁の文人碑」。
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 本堂。

雷稲荷神社(結城)

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 新義真言宗満福寺釈迦堂の参道南側、茨城県道264号線に面して鎮座する雷稲荷神社(結城市結城306)。
 鳥居の柱には「皇紀二千六百年」「五ケ町實業青年團」と刻まれている。皇紀二千六百年と言うと、昭和十五年(1940)か。
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 こちらも結城百選の一つで、「宮造りの素晴らしい雷さん」の名で登録されている。
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 由緒書きが設置されていないので詳しいことはわからないが、結城百選のサイトには「渇水時には雷神社に雨乞いをした」と言うことが記されているので、元来は雷神社で後から稲荷社を合祀したものなのだろうか。
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 北側から。
 切目縁などは大きく破損しており、大分傷んで来ているようだ。
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 昭和九年三月に奉納された絵馬が掛けられている。

孝顕寺(結城)

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 曹洞宗天女山永正禅林泰陽院孝顕寺(結城市結城461)。
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『孝顕寺
 孝顕寺は、天女山永正禅林泰陽院孝顕寺と称する曹洞宗の寺院です。永正十二(一五一五)年、結城城西側の玉岡の地に、結城家十五代政朝によって、独峰曇聚を開山として建立され、当初は永正寺と称しました。その後、十七代晴朝が弁天島(立町)の地を寄進し、十八代秀康(徳川家康の二男)によって現在の孝顕寺が建立され、政朝の法名が「永正寺殿宗明孝顕大居士」であることから孝顕寺と改称されました。
 また、元禄十三(一七〇〇)年に結城藩主となった水野氏も、本寺を菩提寺とし、境内には幕末の藩主、水野勝知の墓があります。
 なお、境内の西側には、秀康が城の西側に新たに新城下町を建設した際に、周囲にめぐらせた御朱印堀の一部が残されています。

県指定文化財
 紙本着色武者肖像画(結城政朝肖像画)
   絵画・安土桃山時代・昭和三十二年一月十五日指定
 紙本着色結城政朝夫人肖像画
   絵画・安土桃山時代・昭和三十三年三月十二日指定
 紙本着色結城晴朝肖像画
   絵画・江戸時代・昭和三十二年六月二日指定
 結城御朱印掘
   史跡・安土桃山時代・昭和三十三年三月十二日指定
市指定文化財
 孝顕寺三門
   建造物・江戸時代・昭和五十二年三月四日指定
平成二十二年三月』

 こちらもまた結城百選の一つ。結城百選のサイトの解説に依ると福井県にも曹洞宗天女山孝顕寺があるそうだが、さすがに気楽に行ける距離ではないなぁ。
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 泰陽稲荷社。
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『当寺は永正年間 結城家十五代政朝公創建永正寺 慶長年間■■■秀康公移転改行孝顕寺■■■■年間徳川家康公生母■■■■の生家水野氏移封な■■■■その菩提寺となる
三百年來伽藍守護の三稲荷社■■■で永正稲荷を西町へ 雪光稲荷を白銀町へ 初穂料田土地付で差上ぐ このたび境内の泰陽稲荷社を復元建築御真体として笠間稲荷■改新御分霊を奉祀す 当寺内に千年白狐の秘宝 雪光 と名付くる宝珠之玉あるに依りて稲荷大明神を祀り鎮守とす 神徳は五穀豊穣万民富楽家業清栄商売繁昌 身体健全災難消滅 心願成就諸縁如意吉祥ならんことを授くる者也
泰陽院 永正禅林 天女山 孝顕寺
昭和五十七年十月吉日 三十七世室 えつ子 建之
  大工 出山 指首兄弟 鳥居並掲示板寄進』
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 本堂。
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『げだつじぞう(おさとり地蔵尊)
延宝五年(一六七七)代官所武士添野家子息の夭折(早世)を惜しみ佛心を起し解心恵脱禅定門を供養し広く世の愛児の寿命延長を祷り後世に伝う
 昭和六十一年 初春
  発願主 寺族 松浦喜代子
 堂宇建立寄進者
  大工 北南茂呂 指首茂男
          指首 功』
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 昭和十七年十一月十五日に建てられた、結城藩家老小場兵馬自刃之處の碑。
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 御朱印堀。
 こちらは県指定文化財の史跡であり、また結城百選の一つでもある。

一言薬師堂(結城)

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 孝顕寺の参道入口から120m程南に位置する一言薬師堂(結城市結城492-3)。
 御堂の脇の石柱には「薬師堂 天女山飛地境内」と刻まれているので、こちらは孝顕寺の境外仏堂なのだろう。
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 こちらも結城百選の一つ。
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市杵島神社(結城)

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 曹洞宗孝顕寺の西側に鎮座する市杵島神社(結城市結城483-1)。
 こちらも結城百選の一つ。鳥居の柱には「昭和六十一年十一月吉日」と刻まれているが、神社の創建は天正十九年(1591)であるとのこと。
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 拝殿。
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 なんだろう? 神庫かな。
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 左から先亡精霊供養塔、庚申供養塔、如意輪観音、如意輪観音。右端は「奉献上辯才天御寶」と刻まれた石柱。石燈籠だったものの一部だろうか。
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永正稲荷神社(結城)

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 西町児童会館の隣に鎮座する永正稲荷神社(結城市結城1647)。
 孝顕寺の境内に鎮座する泰陽稲荷社の由緒書きを見ると、かつてはこの永正稲荷も孝顕寺の境内に祀られていたようだ。
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 拝殿。
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 本殿。
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 南側から。
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 十九夜観音堂。

神明神社(結城)

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 浅間神社の裏手に鎮座する神明神社(結城市結城138)。
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 拝殿。
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 裏から。
 末社等は見当たらない。
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 神明神社の40m程西に位置する地蔵堂

毘沙門天(結城)

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 茨城県道264号線木町交差点脇に鎮座する毘沙門天(結城市結城1632-2)。
 こちらは真言宗豊山派日高山円蔵院光福寺の境外仏堂であり、本尊の「毘沙門天立像」は結城市の文化財(彫刻)に指定されている。
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 門前の追分道標石燈籠も結城市の文化財(工芸品)に指定されており、また結城百選の一つにも選ばれている。
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 本堂。
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 石仏や庚申塔。

浅間神社(結城)

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 木町交差点のそば、茨城県道264号線に北面して鎮座する浅間神社(結城市結城50)。
 鳥居の柱には「昭和八年四月吉日」と刻まれている。
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 一見変わった形の燈籠かとも思ったが、末社なんでしょうかね? 背面には「平成十年十一月吉日 島田建設(株)」と刻まれている。
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『浅間神社
御祭神 木花開耶姫命
由緒、沿革
創建は詳らかでないが霊峰富士山は大和民族の心のよりどころとして古来より信仰され、江戸時代頃行者、先達等の影響によって富士講が組織され次第に神社の形体が整ったものと思われる。この地より富士山を拝し、富士山の御神体を模し富士塚を形成し、富士浅間神社を祀り、遥拝所(社殿)を造営して、火難消除、安産、機織りの守護神として崇められた。また大町の守護神として今日まで信仰を集め、今回町内挙げて奉賛会を組織して、大改修工事を着工し、無事竣工の秋を見、未来永劫その御神徳を忘れることなく子々孫々に伝えるものである。
 平成十戊寅年十一月吉日
     撰文 浅間神社宮司小貫隆嗣』
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 拝殿。
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 中には三基の石祠が納められている。
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愛宕神社(結城)

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 真言宗豊山派日高山円蔵院光福寺の東隣に鎮座する愛宕神社(結城市結城1395)。
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 拝殿。
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 ちょっと斜め。
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 本殿。
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 狛犬。
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 猿田彦大神。
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精譱會員富澤冏碑
君氏富澤通稱宗伯常陸小塙人世業醫
寓結城丙戌年都鄙惡疫流行勢甚猛結
城傍有村曰小田林患者兩三官命君療
之君則百方盡術忽為所自感病而死實
明治十九年八月九日也嗚呼毉之臨病
猶兵之臨敵兵之沮撓無以制■醫而恇
怯何能奏效若君之死可謂不忝毉道者
也於是官特賜金若干充祭資惠遺族我
等亦以為同會員不堪哀悼相謀立碑記
其由以傳不朽云爾 根本信撰文并書
           宮田九鶴鐫
 ■部分は文字の形自体ははっきりしているのだが、現代の文字で当てはまるものがわからない。
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 歌碑。表面の文字は崩し字の為よくわからないが、裏面の碑文はしっかりしているので読み取れる。
關町大人名彛儀字叔威號雙阜一號茶六稱玄尺
常陸國真壁郡黒子邨人家世業醫大人常陸下館
藩儒醫大隝玄瑜門生也使男玄丈継箕裘焉明治
紀元之冬十二月卜居于下野國都賀郡福良邨纔
三年同四年春三月徒于結城町施醫術殆二十年
兵大人為人簡雅慕蕉翁遺風花晨月夕吟咏未甞
置又學千居士茶道業餘焚香煮泉愛書畫玩骨董
以爲樂也今茲建小碑于結城印遊寓鴻爪訣別東
西好友歸故郷草廬對筑波孱顔谷神保壽亦豈非
有煙霞未了因哉
  明治廿三年秋十月 男關町玄丈謹誌
             宮田九鶴鐫
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