くえすちょーん

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 秋葉原のとらのあなでMISLIARの新譜「Questions」、あきばお~でAuteCoutureの新譜「Blanc noir meteoroid」を購入。
 「Questions」が二枚あるが片方は友人に頼まれた分。とは言え、その友人は今日はM3で「Questions」を買っている筈。インストアイベントの参加券目当てなのよね。
 さて、CDを聴きながら今日参拝した神社の写真整理でも始めるか。
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石塚稲荷神社(柳橋一丁目)

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 東京文具販売健保会館脇に鎮座する石塚稲荷神社(台東区柳橋1-1-15)。
 鳥居の額には「火伏神 石塚稲荷神社」と刻まれているので、火災除けの神様なのだろう。玉垣には柳橋藝妓組合と柳橋料亭組合に属する店の名が朱字で刻まれている。
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 お狐様。
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 二葉と刻まれた石碑のようなものがあるが、はて、なんだろう。二葉の名は玉垣石にも刻まれていたが、他は無くこれだけと言うのもよくわからない。
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 以上で4月22日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA16-85mm、DA FISH-EYE 10-17mm。X30。
 この後は秋葉原のとらのあなでMISLIARの新譜を予約してから帰宅。
 ウォーキングカウンターは22,610歩。

川上稲荷神社(東日本橋二丁目)

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 両国橋西交差点の南側のビルの間に鎮座する川上稲荷神社(中央区東日本橋2-25-5)。
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川上稲荷神社
祭神 宇迦之御魂神
由緒 寛永五辰年七月鎮座創建と傳ふ 古来川上稲荷神社と稱す 旧幕府の乗舩場に在りしが明治二年四月 乗舩場も新開の街となるに及び 神域を此の地に移して遷祠す 明治六年一月 神田明神の附社となる 昭和二十年戰禍により烏有に歸せるを以て 近隣町民有志等相據り整域社殿瑞籬等を再建せしものなり
祭日 四月十七日
昭和二十七年七月竣成

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 手水鉢の上にも由緒書きが設置されているが、内容は上記のものとほぼ同じ。

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 5月3日追記。

清正公寺(日本橋浜町二丁目)

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 日本橋浜町公園の端に位置する日蓮宗六条門流肥後本妙寺別院清正公寺(中央区日本橋浜町2-59-2)。
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 本堂。
 由緒書きが見当たらないのでググってみると、熊本藩第十代藩主細川斉護が文久元年(1861)に肥後本妙寺から加藤清正公の分霊を勧請して当地にあった下屋敷に創建。その後明治維新の際に加藤神社と称したが明治九年に閉社、明治十八年に仏式に戻し浜町清正公堂と改称。同時に経営管理を熊本県の日蓮宗肥後本妙寺に委託したとのこと。
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 横から。
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 清正公寺の近くには「浜町高虎」と言う染物屋があった。
 加藤清正と共に築城の名人と言われた藤堂高虎を思い出す屋号だが、それとはまるで関係無く、初代の高橋虎雄氏に由来するのだそうだ。

濱町神社(日本橋浜町三丁目)

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 トルナーレ日本橋浜町脇に鎮座する濱町神社(中央区日本橋浜町3-3-3)。
 御祭神は倉稲魂命。
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 拝殿。
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 陶栄神社。
陶栄神社
御祭神  埴安大神(はにやすのおおかみ)
     加藤四郎左衛門景正命
     加藤民吉命
社 殿  住吉造り(模略)
     総釉彩陶器製(常滑秘色焼)
台 座  平安期、鎌倉期、江戸初期の古窯より発掘の陶欠を以って飾る。
作 者  愛知県常滑市 秘色焼 柴山 三郎
            製 作 柴山東一郎
            設計者 池田 利一
落 成  昭和四十四年四月二十七日(再建)

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濱町神社 再建記念碑
維時 安政丁巳歳島津家徳川幕府よりこの附近一
円の地渡しを受く因て一堂を建立し土地發展のた
め大いに寄與す爾來島津稻荷として人々の崇敬篤
かりき偶々関東大震災の危に遇ひ神殿を鉄筋とし
て再建す此の時無格社浜町稻荷神社と改稱超えて
大東亞戰争の戰火に依り不幸再度焼失故に昭和二
十七年発起人有志多数の協賛を得町内各位の浄財
喜捨に依り神社を再建し永楽土地株式會社より敷
地の寄贈を得名稱を浜町神社と改む茲に小碑を建
立して各位の協力を感謝し社歴と共に永く後世に
傳えんとす
昭和二十八年三月十五日
     浜町神社再建発起人總代
           高須常三郎

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佐賀稲荷神社(佐賀二丁目)

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 隅田川大橋の傍に鎮座する佐賀稲荷神社(江東区佐賀2-4-8)。
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佐賀稲荷と佐賀町
 江戸時代初期の深川は小島の点在する遠浅の海であったが寛永六年(一六二九)永代島付近の埋立許可を得て、次郎兵衛、藤左衛門、他六人の者に依って猟師町、八ヶ町が出来上り上之橋の方を次郎兵衛町、中之橋より南を藤左衛門町とした。
元禄八年(一六九五)検地の際、次郎兵衛町、藤左衛門町を合併し佐賀町と改めた。町名は地形が肥前之国(佐賀長崎)佐賀湊に似ていたことに因むと云われる。
 干泻を埋め町造りの基礎を固め、漁村から海上運送の起点として繁栄をたどる。通りの両側は各地の産物を集めた。各種の問屋の暖簾がはためき川筋には倉庫が建並び、舫った大小の船の間を忙しくたち働く人々の声が終日行き交った。
 先人相諮り、佐賀町に住む人々の除厄招福を願い永世鎮護の祠を穿ち佐賀稲荷神社の額を掲げた。時に寛永七年(一六三〇)、祭神は生成発展を司る稲の霊である所の宇迦之魂命である。
 明治以降は正米市場がたち米問屋が集い、当社は商売繁盛の稲荷として栄えた。倉庫業に携わる人々の余技として生まれ伝承された深川の力持は、まさに佐賀町の特性を活した伝統技能である。
境内には 力持技芸者 の奉納した力石 明治初期に米問屋で出来た米仲間が寄進した 鉄製の 天水桶が現存している
 代々尊栄奉仕の心怠りなく、平成八年の春を迎え茲に社殿を修復、境内を整備し碑を建てる。後人永くこの町佐賀町を愛し佐賀町に住む誘いを失わざることを切に願うのみである。
 平成八年五月吉日
 佐賀稲荷神社世話人代表 町会長 桑畑喬彦 書
平成七年十一月七日 修復報告祭
平成八年二月十五日 復興報告祭

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 お狐様。
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 本殿。
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 本殿前のお狐様。
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 力石。
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紀文稲荷神社(永代一丁目)

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 大島川西支川に架かる御船橋の傍に鎮座する紀文稲荷神社(江東区永代1-14-14)。
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 一の鳥居には昭和四十五年六月吉日、二の鳥居と三の鳥居には昭和五十一年六月吉日と記されている。
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紀文稲荷神社縁起
 江戸中期(元禄時代)の豪商紀国屋文左衛門が京都伏見稲荷神社より御璽を拝受しこの地にお祀りしたのが当紀文稲荷神社です。
 紀国屋文左衛門は第五代将軍徳川綱吉の側用人柳沢吉保荻原重秀等と結び風浪を冒して紀州よりミカンを江戸に運びまた材木商として明暦の大火に木曽の木材を買い占め数年で巨万の財を築き豪遊して紀文大尽と称せられてことはあまりにも有名です。
 紀国屋文左衛門の店は八丁堀にありその下屋敷が現在の第一勧業銀行深川支店あたりにありました当時この付近一帯は運河が縦横に走り此処に紀国屋文左衛門の船蔵があり航海の安全と商売の繁盛を祈ってこの地にお稲荷様を祀ったものです。
 以前この付近一帯は窪田家の所有地でありましたが窪田家の没落とともに祀る人もなく荒れるがままに放置されておりました。
 昭和の始め頃この付近に疫病が流行し行者にその平癒をお願いしたところ何処かに放置されたお稲荷様があるはずでそのお稲荷様を祀れば疫病は平癒すると言うご神示を戴き当時草原と化していたこの付近を捜索した結果荒れ果てた祠を発見し肥料商人中田孝治が発起人となり現在の社殿を建立お祀りしたところ疫病は平癒し商売も大繁盛しました。
 爾来商売繁盛家内安全のお稲荷様として広く信仰を集めて参りました。
 富士浅間神社 龍神様 は中田孝治が富士講の講元をしていたことから富士浅間神社の御璽を拝受してお祀りしたものです。
 元の境内は現在地より北西約三十米の奥まったところにありましたが、昭和六十二年大和永代ビルディング建設に伴い三菱倉庫株式会社の深い信仰心に基づく真摯な移転作業により昭和六十二年三月三十一日遷座祭を執り行い現地に移転しました。
 又境内にある石はこの付近にあった米問屋肥料問屋等で働く力自慢の人達が差し上げることが出来た大石に自分の名を刻み記念としたものです。現在でも当神社総代鶴岡秀雄氏が会長をされている深川力持睦会がその伝統を受け継ぎ東京都から無形民俗文化財に指定されております。
 昭和六十三年五月吉日 

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 社殿。
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 冨士浅間神社と龍神。
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 ずらりと並ぶ力石。
 石の表面には千鳥や大判 宗平 正平、山水、寿、王子石、つる乃子、飛龍、虎石、紀文などの文字が刻まれているのが見える。「飛龍」石には「箱崎 飯虎」、「虎石」石には「大正十年八月 飯田虎」とも刻まれているが、これは同じ人が差し上げた石なのかな。
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出世稲荷神社(永代二丁目)

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 江東区立臨海小学校の西側に鎮座する出世稲荷神社(江東区永代2-26-7)。
 玉垣に括り付けられた案内板には、
  正一位 永代出世稲荷神社
  例祭日程
   平成二十九年五月二十日(土)
         五月二十一日(日)
  「式典は五月二十一日午後一時より実施いたします。」
 と記されている。しかし永代出世とは縁起の良い名前でありますな。
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 お狐様。
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於芳神社(永代二丁目)

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 越中島橋の北側、住宅地域の中に鎮座する於芳神社(江東区永代2-22-4)。
 ググってみてもこちらの由緒等はわからなかったが、この社名はどのような理由でつけられたものなのだろう。女性名っぽい感じだけど、この神社の創祀に関係する人物なのだろうか。「およし」ではなく「おほう」と読むようなので、まったく関係無い理由かも知れないけど。
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徳壽神社(永代二丁目)

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 巽橋と越中島橋の中間辺りに鎮座する徳壽神社(江東区永代2-18-2)。
 由緒書きは見当たらないのでググってみると富岡八幡宮のサイトにこちらの神社の記述があり、それに依ると、嘗て当地には高津家(鰹節のにんべん)の長屋があり、その掘割に流れ着いた稲荷大神の御神像を長屋の人達が祀るようになったのが徳壽神社の創祀であると伝えられているのだそうだ。それが何年のことなのかは記されていないが、にんべんの本店を構えたのが享保五年(1720)であるそうだから、それ以前ということはないだろう。現在は所有者であった高津伊兵衛氏が富岡八幡宮に寄進したことにより、その境外末社となっている。
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 石鳥居の柱には「昭和四十三年十月吉日建」「干場惠次郎納」と刻まれている。
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 北側の鳥居。
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伏見稲荷神社(永代一丁目)

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 王子稲荷から30m程南西に鎮座する伏見稲荷神社(江東区永代1-10-14)。
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 ここから20m程西側に福寿船玉稲荷大明神と言う神社があるようだ。わりと小さい神社でも表示されているGooマップでさえわからない神社があるとは……無念○刀乙

王子稲荷神社(永代一丁目)

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 大島川西支川右岸に鎮座する王子稲荷神社(江東区永代1-10)。
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兜神社(日本橋兜町)

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 江戸橋ジャンクションの下、日証館の西隣に鎮座する兜神社(中央区日本橋兜町1-12)。
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 鳥居の柱には「昭和二年六月八日建之」と刻まれており、石燈籠には「証券百年記念 昭和五十三年四月一日 兜神社世話人一同」と刻まれている。
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兜神社の由来
一、御社号   兜神社
二、鎮座地   中央区日本橋兜町一番十二号
三、御創立   明治十一年五月(一八七八年)
四、御祭神   主なる祭神は商業の守護神とたたえまつる倉稲魂命である。
        合祀の神は右に大国主命 左に事代主命をまつる
五、御例祭   毎年四月一日
六、御由緒   明治十一年ここ兜町に東京株式取引所(東京証券取引所の前身)が設
       けられるに当たり同年五月取引所関係者一同の信仰の象徴および鎮守と
       して兜神社を造営した。
        御社殿に奉安してある「倉稲魂命」御神号は時の太政大臣三條實美公
       の揮毫になるものである。
        当社は御鎮斎後一度換地が行なわれたが昭和二年(一九二七年)再度
       換地を行ない兜橋々畔の現在地約六十二坪(約二〇五平方米)を卜して
       同年六月御遷座を行ない鉄筋コンクリート造りの社殿を造営した。
        昭和四十四年(一九六九年)五月高速道路の建設に伴ない御影石造り
       の鳥居を残して旧社殿を解体し、同四十六年(一九七一年)三月現在の
       鉄筋コンクリート・一間社流造・向拝付きの社殿を造営した。
        屋根は銅板葺とし玉垣・参道敷石などは御影石をもちいた。
七、兜岩の由来 境内に安置してある「兜岩」についてはその昔前九年の役(一〇五〇
       年代)のころ源義家が東征のみぎりこの岩に兜を懸けて戦勝を祈願した
       ことに由来すると伝えられ兜町という町名はこの「兜岩」に因んで付け
       られたといわれている。
 昭和四十六年六月

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 兜石。

大榮稲荷神社(新川一丁目)

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 日本橋川の畔、湊橋と霊岸橋の間に鎮座する大榮稲荷神社(中央区新川1-2-14)。
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 水盤の側面には「維時昭和四十三年四月吉祥日 第一區十番組組頭 納主 山口重次郎」と刻まれている。

永久稲荷神社(中央区日本橋箱崎町)

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 箱崎ジャンクションの傍、首都高速6号向島線の下に鎮座する永久稲荷神社(中央区日本橋箱崎町22-11)。
 御祭神は倉稲魂命と猿田彦神であるのだそうだ。
 地図で先に確認していなかったらここが神社であるとは気付かずに通り過ぎていただろう。なお、後でググって知ったのだが、左奥に見える電柱脇の柵の先に末社が祀られているのだそうだ。まったく気付かなかったよ○刀乙
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 鳥居の柱と思われる石柱には「明治四十二年五月吉辰 神社主任 田中荷徳」と刻まれている。

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 5月3日追記。
 永久稲荷裏手のお稲荷様。

八大龍王社(中央区日本橋箱崎町)

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 久松警察署箱崎交番から70m程北東に向かった所に鎮座する八大龍王社(中央区日本橋箱崎町41)。
 こちらは大星教会と言う宗教法人の神社であるようだ。
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 社殿右側の立看板には「八大龍王神 東都龍神 隅田川龍王神 四海海神 三猫大明神」と祭神の名が記され、その下には「天下泰平 諸難消滅 萬福即生 航空安全 商売繁栄」と御神徳が記されている。
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四海海神様 八大龍王様 隅田川龍王様 御祭祀の縁起
昭和二十年二月大東亜戦争の末期、八大龍王御神霊大星教会の本義とする眞運妙法蓮華經のお題目に御感應御降臨ありたるを開祖宇津木先生御感得ありて、因縁に依り來る可き空襲の災害より箱崎町並に佃島石川島を救わせ給ふ御託宣あり。大星教会御本尊大極明王星大世尊様の御神意に基き、中州橋橋畔並に佃島に供養塔を建立し祈願す。
同年三月九日夜半より生じたる空襲に依る下町一帶の大災害は基より八月十五日終戰に至る迄日毎夜毎の空襲に依り全都廢虚と化せし中に在り乍ら前記の御託宣の地域は勿論その周辺を含め完全に被害より救われ数多の人命と多額の財を御守護賜りたる大いなる御神徳に対し有志相寄り土州橋際に一社を建立し昭和二十三年八月十日開祖先生鎮座式を修せられ、爾來風水害その他一切の災難除の御守護神として奉載す
昭和三十六年三月八日 宗教法人大星教会
        信徒總代 須合鎌司 謹書

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 箱崎五社稲荷大明神、金比羅大権現、大聖歓喜天。

 この時は知らなかったのだが、ここから130m程東に元宮があるのだそうで、いつもながら事前調査不足だなぁ○刀乙

水天宮(日本橋蛎殻町二丁目)

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 新大橋通り脇に鎮座する水天宮(中央区日本橋蛎殻町2-4-1)。公式サイト有り。
 階段の途中には豊磐間戸神と奇磐間戸神もあり、この建物はさながら巨大な随神門と言ったところか。
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御由緒
御祭神 天御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)
    安徳天皇 第八十一代
    建礼門院 高倉天皇の中宮 安徳天皇の母君 御名 徳子
    二位ノ尼 平清盛の妻 御名 時子 安徳天皇の祖母 建礼門院の母
当社は文政元年(一八一八)港区赤羽に在った有馬藩邸に当時の藩主第九代・有馬頼徳公が久留米城下に鎮座していた水天宮の御分霊を藩邸内に祀ったことに創まります。
壇之浦の戦で敗れた平家の女官の一人が源氏の目を逃れ筑後川の河畔に落ちのび、一門と共に入水された安徳天皇、建礼門院、二位の尼の御霊を、ささやかな祠をたててお祀りしたのが、水天宮の創めです。
江戸時代の当社は藩邸内に在った為、庶民は普段参拝できず門外より賽銭を投げ入れて参拝したと伝えられます。ただし毎月五日の縁日に限り、殿様の特別な計らいによって藩邸が解放され、参拝が許されました。
その当時、ご参拝の妊婦の方が鈴乃緒(鈴を鳴らす晒の鈴紐)のお下がりを頂いて腹帯として安産を祈願したところ、ことのほか安産だったことから、人づてにこの御利益が広まりました。その当時の当社の賑わいを表す流行り言葉に、「なさけありまの水天宮」という洒落言葉があった程です。
明治維新により藩邸が接収され、有馬邸が青山に移ると共に青山へ、更に明治五年十一月一日に現在の蛎殻町に御鎮座致しました。
関東大震災では神社も被災しましたが、御神体は隅田川に架かる「新大橋」に避難し難を逃れました。その後復興も相成り、昭和五年に流れ造りの社殿が完成し、昭和四十二年には権現造りの社殿となりました。
現在の社殿は平成三十年の江戸鎮座二百年を迎えるに当たって、有馬家十七代当主・当代宮司の有馬頼央の念願により、平成二十八年に境内地全面免震構造の建物として完成致しました。
平成二十八年四月五日

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 逞しい狛犬。
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 拝殿。
 以前の社殿の方が面白い形で好みなのだが、地震対策的には新社殿の形の方が良いということなのかな。うむぅ、五年くらい前にお参りしておけば良かったか。
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宝生辨財天
祭礼日 五月第二巳ノ日
御祭神 市杵島姫大神
久留米藩第九代藩主有馬頼徳公が加賀藩第十一代藩主前田斉広公と宝生流能楽の技を競われた際辨財天に願をかけ、見事に勝利を収めた
それ以来、宝生辨財天と敬われ芸事をはじめ学業・金運のご利益が名高いと現在に至るまで篤く信仰されている
毎月五日と巳の日には御社殿の扉が開き宝生辨財天のご神像を拝観できる

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 子宝いぬ。
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 安産子育河童。
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 平成二十五年三月から二十八年四月まで仮社殿のあった場所は、現在はこのようになっていた。

身延別院(日本橋小伝馬町)

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 大安楽寺の西隣に位置する日蓮宗身延別院(中央区日本橋小伝馬町3-2)。
 公式サイト有り。
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 光明稲荷大明神と浄行菩薩。
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 鰻供養塔と油かけ大黒天。
油かけ大黒天由来
 そもそも身延別院に安置する油かけ大黒天の由来を尋ぬるに、現代の名優長谷川一夫氏は京都伏見の出生にしてそこに油かけ町あり、昔油を売る商人道端の石像に間違って油をかけて以来商売が大繁盛せりと。同しげ夫人は神仏に厚く帰依し、戦後間もなく、偶々この油かけ天神が夢に出て、帝都に祀り衆人と結縁せしめよとの霊夢を蒙り早速身延別院の住職藤井日静上人(後の身延山八十六世法王)に相談すると、上人膝を打ちて喜ぶ。
 上人亦幼少の時、藤井家正に火災発生せんとするや大黒天神が槌を以て幼児を撃たんとす。驚いて目覚め裏に逃げて発火地点に至る。火防の大黒天として祀って来たれり 長谷川一夫同しげ夫人施主となり、油かけ天神を祀る由来なり。
 日蓮大聖人弘安二年の『大黒天神御書』に云く、大黒天神は釈迦如来の後身、上行菩薩の垂迹(衆生を救うために仮の姿をとって世に出現す)なり。然れば寂光の都を出でて慈雲三千(世界)をおほい、福徳を恒沙の刹土に満て、慈悲を塵数の世界に布く。然れば無量の寿福円満せざるということなし。故に大黒という。亦大暗夜叉と云ひ、或は闘戦塚間浴油神とも云う。油を以て灰身を浴して所求を成ずるが故に、凡そ尊高の宝冠を改めて卑下の烏帽子を著し、珂雲の玉体を秘して塗炭の黒身を現す。右の手には一実中道の槌を捧げ法報応の三身を知らしむ。左の手には円教の袋を執て肩にかけて万法円備の真諦を顕す。極位の宝座を下りて道祖の草鞋を履いては浴諦常住の理を知らしむ。如説而修行其福不可限、受持法華名者福不可量、所願不虚亦於現世得其福報。
  弘安二年四月十日                      日蓮 花押
 祭日 甲子の日 殊に年の始めと終りの甲子を大切にして参詣すべし。開運、安産、商売繁昌、福徳円満ならしむ

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大安楽寺(日本橋小伝馬町)

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 東京メトロ日比谷線小伝馬町駅エレベーター出口を出るとすぐ目の前、十思公園南側に位置する高野山真言宗新高野山大安楽寺(中央区日本橋小伝馬町3-5/a>)。
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準別格本山 江戸第五番札所 新高野山大安楽寺縁起
宗旨 宗祖弘法大師を仰ぐ高野山真言宗に所属
教義 凡聖不二 即身成仏を以て立教開宗の根本教義とする。
縁起 抑も此の地伝馬町は 江戸時代 徳川幕府の牢獄の所在せし
   所なり。当山開基山科俊海大僧正 明治初年 高野山より
   錫を六本木の五大山不動院に留め 化を十万に布く、時 偶々
   此の地伝馬町牢 処刑場跡に燐火の燃ゆるを見 大悲禁ずる能
   はず 幾万余の知られざる無告の霊 鬼哭愁々として寄辺なき
   を弔ひ、又安政の大獄で知られる吉田松陰等 当地で処刑され
   た勤王の志士の霊を慰め 又一つには 牢跡を以て浄地となし
   一宇を建立。高野山より弘法大師を勧請し本尊となす。又処刑
   場跡には延命地蔵菩薩を建立し 堂塔 伽藍を整備(現十思公
   園を含む) これを当山の濫觴とす、爾来 尊崇の信仰を聚め
   都心に輪喚の美を競うも 大正十二年の大震火災にかゝり 昭
   和四年今日の規模となり 現在に及ぶ。昭和廿九年都史蹟指定
本尊 弘法大師     廿一日  不動明王   廿八日 護莩供
   十一面観音菩薩  十八日  弁財天    巳の日
   延命地蔵菩薩   四の日  大黒天    子の日
   大日如来     一 日  稲荷大明神  午の日
   維時 昭和五十一年四月吉祥   題 第四世中山弘之

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 四国八十八所霊場、インドの四大聖地、中国陝西省西安市の青龍寺、ネパールのルンビニ村、中国福建省寧徳市の赤岸鎮、陝西省西安市の大興善寺、甘粛省敦煌市の莫高窟……の砂がこの下に納められているのだそうだ。
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 延命地蔵尊。
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 辨財天の神使と宝安稲荷大明神。
化石、神居古潭、白蛇
辨財天使神
北海道、石狩川神居古潭峡の石
古来アイヌの酋長のシンボルとされ「撫で石として厄除、息災、招福の石として」信仰された。
化石の白蛇は己が辨財天の使であることから築地和田久より寄贈された。

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 江戸八臂辨財天。
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 境内側には百度石、外側には江戸伝馬町処刑場跡と刻まれている。

福田稲荷神社(日本橋本町四丁目)

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 両社稲荷神社から90m程東に鎮座する福田稲荷神社(中央区日本橋本町4-5-13)。
 こちらには五年程前にもお参りしており、今回は別にいいかなと思っていたのだが、両社稲荷神社の由緒書きを読むとなんとなくこの二社はセットでお参りした方がいいかなと言う気がしたので立ち寄ってみることに。
 こちらの由緒書きは前回参照で。
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 五年くらいではそう変化は無いが、右側の建物が少しだけ変わっていた。

両社稲荷神社(日本橋本町四丁目)

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 JR総武本線新日本橋駅6番出口から150m程北、永井ビルの脇に鎮座する両社稲荷神社(中央区日本橋本町4-4)。
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両社稲荷神社 由緒書
 両社稲荷神社の縁起は定かではありませんが、京都伏見稲荷大社の流れを汲み正一位の神階を授けられ、江戸時代初期より福田稲荷神社と共に当地「日本橋本町」界隈の商人、町人の「家内安全、商売繁盛」の守り神として、深い崇敬を集めている稲荷神社でございます。
 平成五年、御社の老朽化が進んだため改築することとなり、これを機に両社稲荷神社奉賛会は設立され、以来、尚一層のご神徳を奉斎してまいりました。
 平成二十五年十二月、隣接するビル建替工事のため御社を一旦取り壊すこととなり、再建まで御霊は江戸総鎮守・神田神社(神田明神)にお移りいただき、その間、例大祭は神田明神にて斎行いたしました。
 平成二十八年十一月、奉賛会員はじめ広く当地崇敬者から寄進を募り、新たな御社の造営が行われました。御宮は従前同様の束立向拝宮、鳥居は朱塗りの明神鳥居といたしました。
 平成二十九年三月、遷座祭を斎行し、御霊を再び神田明神から当地にお迎えし、現在に至っております。
       平成二十九年三月吉日 両社神社奉賛会

 旧社殿は平成二十五年(2013)十二月に取り壊されたと書かれているが、ググると平成二十六年(2014)三月末頃に撮影された動画がYouTubeにUPされているのだが、はて? 取り壊しが決まったのが平成二十五年十二月で、実際に取り壊されたのは平成二十六年四月以後と言うことなのだろうか。
 ストリートビューを見ると、旧社殿は現在地から5m程西側にあったようだ。
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芳林寺(岩槻区本町一丁目)

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 岩槻駅の200m程南側に位置する曹洞宗太平山芳林寺(さいたま市岩槻区本町1-7-10)。
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 山門。
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 台湾産っぽい獅子。
 台座には以下のことが刻まれている。
     三十三回忌
   勝徳院浄雲保善居士
   宝泉院二雲慈光大姉
    施主 勝田 修
         葉子
    平成五年十月吉日
     寒山寺性空書
 ググってみると寒山寺性空なる人は中国江蘇省蘇州市にある臨済宗寒山寺の住職であるようだが、そうするとこの獅子は台湾産ではなく蘇州から運ばれたものなのだろうか。
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 実は芳林寺に来るのはこの日二度目。
 一度目は八雲神社にお参りする前にこちらに立ち寄っていたのだが、門が閉じており入れなかったので、時間が早すぎたのかと思い一旦スルーしてこの日最後にもう一度来てみたのだが、やはり門が閉じられていて入れない。さてどうしたものかと思っていたら、脇の引戸から出て来る方々がいたので、あぁそっちかと。
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曹洞宗 太平山 芳林寺 由緒
 当寺は、釈迦如来を本尊とし、静岡県藤枝市にある龍池山洞雲寺の末寺にして、覚翁文等禅師(洞雲寺四世)を開山とする禅刹である。
 境内墓地から応永、享徳年号の墓石が発見されていることから、古くから当地に寺院が存したものと思料されるが、所伝によると、比企郡松山城に在った太田道灌公が延命地蔵尊を尊信し、松山城を築くにあたり堂宇を建てこれを祀り太平山地蔵堂と称したが、その後、文明十八年(一四八六年)七月二十六日道灌公が主君・扇ヶ谷上杉定正に謀殺されるや、その遺骨(遺髪とも云う)を堂側に埋葬して、香月院殿苑道灌大居士と諡したのであった。
 しかし、永正十七年(一五二〇年)八月火災に罹り烏有に帰したため、その後、曾孫・太田三楽斎資正公は居城であった太田道真公・道灌公父子が築城した岩槻城下の当地にこれを移し、再建全く成って大鐘を掛け宝殿が空にそびえたという。そして五十石を寄進され常住の資に充てられた。
 なお、道灌公の養子・太田資家公(岩槻城主)が、道灌公の遺髪や分骨をもらい受け、越生町の龍穏寺と岩槻の芳林寺に埋葬したとの言い伝えもある。
 資正公の正室であり、岩槻城主・太田氏資公の母公が生前に禅門に帰依して芳林妙春尼と号していたが、永禄十年(一五六七年)三月八日逝去するにおよび陽光院殿芳林妙春大姉と諡し、開基となしてその法号に因み、寺号を芳林寺と改めたのであった。
 また氏資公は北条氏康の娘(長称院)を妻に迎え、小田原北条氏に属していたが、永禄十年八月二十三日里見氏との上総三船山の合戦で、殿軍を努め討死したので、その亡骸を当寺に埋葬し太崇院殿昌安道也大居士と諡した。
 天正十八年(一五九〇年)徳川家康公関東入国に伴い、高力清長公が岩槻城主に封ぜられるや、当寺の荒廃しているのを嘆き大修理を加え復興した。
 そして、嫡男・高力正長公が慶長四年(一五九九年)三月二十二日卒したとき当寺に葬り、快林院殿全室道機大禅定門と諡したのである。この間いくばくもなくして火災に遭い堂宇悉く灰燼に帰したが、高力忠房公がこれを再び復興造営した。
 それ以来年月を歴てまたも文化八年(一八一一年)二月二十八日焼失し、現在の本堂は天保十二年(一八四一年)五月再建したものといわれる。
 明治四年(一八七一年)県庁が一時岩槻に置かれた際、一部仮庁舎として使用されたとも伝えられている。
 昭和五十三年十月
 平成二十年八月盂蘭盆再建

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 道標。
 北面に「京 三条大橋百四十二里」、東面に「白鶴城本丸半里」、南面に「江戸日本橋九里」と刻まれており、西面には何も刻まれていない。
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 本堂。
 手前の看板には「東日本大震災による芳林寺本堂復興補強工事」と書かれた完成予定図が設置されてる。
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埼玉県庁が最初に設置された芳林寺
 明治四年(一八七一年)十一月十四日、埼玉県・入間県の設置が太政官布告で令達された際、県庁の位置は埼玉県は岩槻とされ、ここ芳林寺に最初の県庁舎が設置されました。
 当時の岩槻は城下町として賑わっていましたが、岩槻で県庁の事務を執ったのはわずかの間、まもなく浦和に移転してしまいました。
 その当時の逸話が、北條清一氏の著書に記されています。
   「廃藩と剣客の悲哀」
岩槻町長秋葉保雄氏の話
 廃藩置県となって、「埼玉県庁を埼玉郡岩槻町に置く」ということになって、県庁の仮庁舎は岩槻町芳林寺内に置かれたものです。その頃は、南埼、北埼に分かれていなくて埼玉県埼玉郡と呼んでいた。岩槻藩は二万三千石大岡司膳正の城下町であった。
 明治四年、芳林寺に仮庁舎が置かれ、初代の県令(知事)は鹿児島県士族野村盛秀が任命され、大書記官が白根多助、大参事が吉田清秀という人だった。大岡藩からも平野正信児玉親廣などという人材が県吏に採用された。
 当時の話として、岩槻町は県庁を邪魔者扱いにして追っ払ったので、県庁が浦和に移されたように伝えられているが、これはとんでもない間違いで、事の真相はこうなんです。
 藩士で家老格の家柄──名前は憚るが剣道の達者な男があった。旧幕時代は剣道ができれば立派に家門が立っておったのであるが、廃藩置県の後は剣術では飯が食えない。この男が県庁へ仕官したい希望を抱いていたが、頭が出来ないので採用されない。それを遺恨に思って、芳林寺の仮庁舎へ長刀の落し差しかなんかで出かけて、さんざん嫌味を並べて毎日のように暴れたのですな。藩中で相当精力があったし、うるさく暴れるので、こんなうるさいところへ県庁は置かなくてもよいとついに移転となったものです。この男が嫌味を並べて暴れさえしなかったら、岩槻は県庁所在地として、今頃は県の首都で大いに発展していたろうと思うのです。そう思うと、この没常識漢の仕打ちがうらめしくも思われる。
『武州このごろ記』 北條清一著      日本公論社   昭和十年七月刊

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 白山堂と寶聚稲荷大明神。
 寶聚稲荷大明神の鳥居には表側に「志納金百三十万円也 賛京建設株式会社 代表取締役会長 勝田修」「賛京建設株式会社 代表取締役社長 勝田充彦」、裏側に「平成二十年八月吉祥日 當山三十二世 道龍裕幸叟代」と刻まれている。
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 白山堂の標石には金刀比羅大権現、白山大権現、三峯大権現と刻まれているので、この三神が合祀されているのだろう。
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 太田氏資公像と地蔵堂位牌堂。
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 弁天堂。
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 芳林妙春禅尼像。
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 太田道灌公鷹狩之像。
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 不動堂。
 朝に来た時は門が閉じていたので入れないと思っていたのだが、もしかしたらこちらも入れたのかも知れない。昼過ぎに再び来た時には、今度は門に布団が掛けられていたので入れなかった。変わった所で布団を干すものだなぁ。
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 太田道灌公騎馬武者像。
 案内板によると、東京都葛飾区柴又在住の彫刻家である冨田憲二氏と山本明良氏の両名によって作られたものであるのだそうだ。
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 以上で4月2日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA16-85mm、DA FISH-EYE 10-17mm。X30。
 ウォーキングカウンターは18,694歩。

三峯神社(岩槻区本町四丁目)

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 埼玉県道324号蒲生岩槻線を挟んで日蓮宗大法山眞浄寺の向かい側に鎮座する三峯神社(さいたま市岩槻区本町4-9)。
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 靖国鳥居。
 柱には「御大典紀念」「昭和三年十一月吉日」と刻まれている。
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 拝殿のような覆屋のような。
 先の秋葉神社は覆屋の上に本殿の屋根が出ている覆っていない覆屋であったが、こちらは本殿の屋根に部分的に被せるようにして繋げている。こう言うのは何と呼ぶのだろう。
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 斜めから。
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 本殿。

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 三峯神社北西の交差点傍にて見かけた祠。
 ここにあったなにかが取り壊された後も祠だけが残されていると言った様子だが、なんだろうね。ストリートビューを見ると半年前もこんな感じではあるが。
 そしてマップを見ていたら近くに新町自治会館があることに気付き、結構こう言う所に小さい神社があったりするんだよなとか思いストリートビューを見てみたら、本当に神社があった……オーゥ○刀乙。ぐぬぬ、事前に気付いていればお参りして行けたのになぁ。まぁ、また後でこちらの方に行った時にでもお参りしてこようか。

学蔵寺(岩槻区本町四丁目)

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 日蓮宗恵光山学蔵寺(さいたま市岩槻区本町4-8)。
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 七面大明神。
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 稲荷大明神と浄行菩薩。
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 本堂。

秋葉神社(岩槻区仲町一丁目)

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 曹洞宗慈眼山千手院の東側に鎮座する秋葉神社(さいたま市岩槻区仲町1-1-12)。
 鳥居の柱には「大正拾壹年七月吉日」と刻まれている。
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 文政十三年(1830)九月十四日造立の石燈籠。
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秋葉神社 御由緒
 さいたま市岩槻区仲町一-一-一七
□ 御縁起(歴史)
 当社は江戸時代、秋葉社と称し、杉並町に鎮座され杉並町、各町等の秋葉講を主体に永井家家中等の助力に由り、正徳元年(一七一一)~享保十二年(一七二七)に遠江国周智郡犬居(現・静岡県浜松市春野町)の秋葉寺から火防鎮護の神、秋葉三尺坊大権現を祀り創建されました。
 秋葉信仰の発祥は永禄十二年(一五六八)頃、家康と信玄との関係悪化により上杉謙信と好を結ぶ過程で謙信配下、越後長岡の蔵王堂三尺坊院主周国を連れ帰った。信濃の戸隠宝光院出自で飯縄信仰を堅持していた周国は遠州秋葉山にて死後、飯縄権現が三尺坊として信仰の対象となりました。貞享二年(一六八五)四月十八日、貞享秋葉祭の村送りを機に東西に広く伝わり貞享二年十一月に幕府より新規祭礼の禁止令が出されましたが、全国に爆発的に広まり最盛時には秋葉社は二万七千社を数えたと言います。
 江戸時代は隣の千手院が別当を勤め祭礼等、管轄されていました。慶応四年(一八六八)三月十三日神仏判然令等の太政官布告により当社祭神秋葉三尺坊大権現は廃止され浄火の神・火産霊命(火之迦具土神)と水の神・河菜姫命の兄弟神に替えられ社名も秋葉神社となりました。昔の秋葉寺は明治六年廃寺とされ秋葉三尺坊大権現像は本寺の可睡斎へ移されました。廃寺となった秋葉寺は明治十三年十一月復興。また火之迦具土神を祭神とする神道の秋葉山本宮秋場神社が創建されました。
 当社本殿は、大正十四年改修により瓦葺から銅板葺に替えられました。
 秋葉町自治会氏子有志として隔年、可睡斎で法要、秋葉山本宮秋葉神社へ参拝して現在に至っています。
□ 御祭神(火防・火伏)
 ・火産霊命  ・河菜姫命
□ 御祭日
 ・元旦祭(正月元旦) ・初午祭(三月初午日)
 ・例 祭(四月十八日)・お面様(七月十八日)

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 狛犬……と言うか獅子。両方とも阿形だし。
 台座には「天保三壬辰年九月吉祥日」と刻まれている。天保三年は1832年。
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 別角度から。
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 本殿。
 覆屋の隙間から撮影をしていたら、こちらの管理をされている方が扉を開けて下さったので中に入って撮影。それでも16mmでは狭いので魚眼ズームを使用。ペンタックスから超広角ズーム出ないかなぁ……。
 この扉を開けて下さった方からは他にも色々な話を聞かせていただいたり、神社のリーフレットや火防神璽、江戸時代の秋葉社の位置を記した絵図のプリントなどもいただいたりと、とても親切にして下さり有難いことです。
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 本殿に施された彫刻の一部。
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 伏見稲荷社とお面様。
 こちらの二社は自治会の方々の手によって平成二十六年に建て替えられたものであり、お面様の屋根瓦は嘗て秋葉神社の屋根に使われていたものの中から破損していない使えるものだけを選んで流用したものだと教えていただいた。先に瓦の数が決まっているので、そこから計算して祠の大きさを決めて作られたのだそうだ。
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 大天狗の面が祀られているからお面様。
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水屋建設記念
秋葉神社の略縁起
御祭神 火之迦具土大神と申し上げ火を司り給う神様である
御神徳 私達の生活に一日もかかせない火を守護し幸せを与え又悪火を鎮め悪火から生
    ずるいろいろな災を祓い下さる火防の神である
祭礼日 毎年四月十八日
建 立 享保十二年四月十八日(今から二四八年前)
    貞享から享保の時代(一六八四年~一七三六年)は全国的に火災が多かったの
    で火防の神を建立するため、当時の杉並横町の人たちの合議により、代表者を
    秋葉山本宮(静岡県周智郡春日町)に代参させ、御神体をいただき現在地に建
    立し、守護者として地域の火防と幸せな生活を願ひ数々の変遷を経て、現在に
    至っている

    岩槻市観光協会指定
       昭和五十二年四月十八日
                  岩槻市教育委員長 田中寿徳書

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 手水舎。
 手水鉢は破損防止の為に透明な板で覆われている。
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 天神宮と稲荷大明神(寛延三年(1750))、天神様(安政六己未年(1859)六月)。少し離れて庚申塔(文化三丙寅(1806)四月)。

鶴姫神社(岩槻区真福寺)

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 岩槻消防署から450m程南下した所に鎮座する鶴姫神社(さいたま市岩槻区真福寺)。
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鶴姫神社
祭神 岩槻城主太田氏の娘鶴姫様
   縁結びの神 子孫繁栄の神 下の神

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稲荷堂(岩槻区本町二丁目)

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 真言宗智山派光岩山釈迦院弥勒密寺の境内に鎮座する稲荷堂(さいたま市岩槻区本町2-7-35)。
 弥勒密寺の公式サイトあり。
 本堂などにもお参りはしたのだが、うっかり本堂を撮影するのを忘れていた。

稲荷神社(岩槻区加倉四丁目)

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 曹洞宗加倉山洞雲寺へ至る道の脇に鎮座する稲荷神社(さいたま市岩槻区加倉4-18)。
 鳥居の貫に打ち付けられているプレートには「奉納 橋本正治 2007.6.1」と記されている。
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久伊豆神社(岩槻区加倉四丁目)

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 加倉連合自治会館の隣、国道122号線に北面して鎮座する久伊豆神社(さいたま市岩槻区加倉4-19-37)。
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久伊豆神社
久伊豆神社の御祭神は、国土開発・生成化育・子孫繁栄を掌る大己貴命(大国主命)です。
天文年間(一五三二~一五三三年)頃勘解田盛之という人が当地に来て田圃を拓き農人となりこの地に留まるようになったのがこの村の祖といわれています。元亀年間(一五七〇~一五七三年)、時の岩槻城主太田資正は、岩槻城の西方箕輪郷の一部向原を分け、村高八百七十五石を以って加倉村と改めました。その頃農人が祀っていた久伊豆大明神を村の鎮守「久伊豆神社」として神璽を奉じて中島の地に遷し祀られました。
明治五年に村社となり、翌明治六年十一月十一日本殿の落成を見、同二十九年十一月に拝殿が再建されました。
正面の扁額に久伊豆神社・稲荷社・宗像社・籠神社・水神社と掲げられており、いくつもの神様が祀られていることが分かり、それぞれの神様がこの加倉地区・加倉の人々をお守りくださっております。久伊豆神社は加倉の鎮守様(氏神様)であります。
 御祭礼日 毎年十月十九日

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 上記の由緒書きには久伊豆神社には稲荷社と宗像社、籠神社、水神社が合祀されていると書かれているが、扁額に刻まれているのは籠神社ではなく龗神社である。神社合祀碑には八大龍王社とも記されているので、やはり龗神社の方が正しいのだろう。
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 拝殿。
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 斜め後ろから。
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 稲荷社。
 石燈籠には「寛政四壬子歳二月初午日 浄国寺三十一世泰譽代」と刻まれている。寛政四年は1792年。
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 何神社なのかわからなかったが、ググってみたら太子堂であるのだそうだ。
 奥に見える石碑は明治三十年(1897)六月に建てられた拝殿新設之記。
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 明治四十二年(1909)十二月に建てられた神社合祀碑。
 先の拝殿新設記念碑もそうだったが、崩し字が多くてわかりにくい。とりあえずわかる部分をまとめると、埼玉県武蔵国南埼玉郡柏崎村大字加倉の地に祀られていた無格社辨天社、八大龍王社、水神社、稲荷社は長い時を経て社殿が朽ち神地も荒れ、神の威光が衰えるのを憂えていた折に神社合祀の勅令が出されたので、明治四十年三月二十一日に村社久伊豆神社に合祀したというようなことが記されている。
 また、背面には以下の文も刻まれている。
  明治十六年十一月二十日本社遷宮式
  仝三十六年三月十六日手水屋上棟式
  仝四十一年十二月吉日敷石新設
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 鈴木源吉頌徳碑と青面金剛二基。
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 嘉永七年(1854)十一月奉納の力石。

琴平神社(岩槻区加倉一丁目)

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 国道122号と埼玉県道2号さいたま春日部線が合流する加倉(北)交差点の傍に鎮座する琴平神社(さいたま市岩槻区加倉1-33)。
 鳥居の柱には「平成二年六月吉日建之」と刻まれている。
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 二の鳥居。
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 拝殿。
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 昭和四十五年二月に建てられた神社移転碑。碑には「金昆羅神社」とあるので、それよりも後に「琴平」と文字を改めたのだろうか。
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プロフィール

梁瀬

Author:梁瀬
無駄な徘徊でCO2を増やす、
方向感覚に不案内なヒト

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