芳林寺(岩槻区本町一丁目)

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 岩槻駅の200m程南側に位置する曹洞宗太平山芳林寺(さいたま市岩槻区本町1-7-10)。
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 山門。
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 台湾産っぽい獅子。
 台座には以下のことが刻まれている。
     三十三回忌
   勝徳院浄雲保善居士
   宝泉院二雲慈光大姉
    施主 勝田 修
         葉子
    平成五年十月吉日
     寒山寺性空書
 ググってみると寒山寺性空なる人は中国江蘇省蘇州市にある臨済宗寒山寺の住職であるようだが、そうするとこの獅子は台湾産ではなく蘇州から運ばれたものなのだろうか。
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 実は芳林寺に来るのはこの日二度目。
 一度目は八雲神社にお参りする前にこちらに立ち寄っていたのだが、門が閉じており入れなかったので、時間が早すぎたのかと思い一旦スルーしてこの日最後にもう一度来てみたのだが、やはり門が閉じられていて入れない。さてどうしたものかと思っていたら、脇の引戸から出て来る方々がいたので、あぁそっちかと。
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曹洞宗 太平山 芳林寺 由緒
 当寺は、釈迦如来を本尊とし、静岡県藤枝市にある龍池山洞雲寺の末寺にして、覚翁文等禅師(洞雲寺四世)を開山とする禅刹である。
 境内墓地から応永、享徳年号の墓石が発見されていることから、古くから当地に寺院が存したものと思料されるが、所伝によると、比企郡松山城に在った太田道灌公が延命地蔵尊を尊信し、松山城を築くにあたり堂宇を建てこれを祀り太平山地蔵堂と称したが、その後、文明十八年(一四八六年)七月二十六日道灌公が主君・扇ヶ谷上杉定正に謀殺されるや、その遺骨(遺髪とも云う)を堂側に埋葬して、香月院殿苑道灌大居士と諡したのであった。
 しかし、永正十七年(一五二〇年)八月火災に罹り烏有に帰したため、その後、曾孫・太田三楽斎資正公は居城であった太田道真公・道灌公父子が築城した岩槻城下の当地にこれを移し、再建全く成って大鐘を掛け宝殿が空にそびえたという。そして五十石を寄進され常住の資に充てられた。
 なお、道灌公の養子・太田資家公(岩槻城主)が、道灌公の遺髪や分骨をもらい受け、越生町の龍穏寺と岩槻の芳林寺に埋葬したとの言い伝えもある。
 資正公の正室であり、岩槻城主・太田氏資公の母公が生前に禅門に帰依して芳林妙春尼と号していたが、永禄十年(一五六七年)三月八日逝去するにおよび陽光院殿芳林妙春大姉と諡し、開基となしてその法号に因み、寺号を芳林寺と改めたのであった。
 また氏資公は北条氏康の娘(長称院)を妻に迎え、小田原北条氏に属していたが、永禄十年八月二十三日里見氏との上総三船山の合戦で、殿軍を努め討死したので、その亡骸を当寺に埋葬し太崇院殿昌安道也大居士と諡した。
 天正十八年(一五九〇年)徳川家康公関東入国に伴い、高力清長公が岩槻城主に封ぜられるや、当寺の荒廃しているのを嘆き大修理を加え復興した。
 そして、嫡男・高力正長公が慶長四年(一五九九年)三月二十二日卒したとき当寺に葬り、快林院殿全室道機大禅定門と諡したのである。この間いくばくもなくして火災に遭い堂宇悉く灰燼に帰したが、高力忠房公がこれを再び復興造営した。
 それ以来年月を歴てまたも文化八年(一八一一年)二月二十八日焼失し、現在の本堂は天保十二年(一八四一年)五月再建したものといわれる。
 明治四年(一八七一年)県庁が一時岩槻に置かれた際、一部仮庁舎として使用されたとも伝えられている。
 昭和五十三年十月
 平成二十年八月盂蘭盆再建

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 道標。
 北面に「京 三条大橋百四十二里」、東面に「白鶴城本丸半里」、南面に「江戸日本橋九里」と刻まれており、西面には何も刻まれていない。
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 本堂。
 手前の看板には「東日本大震災による芳林寺本堂復興補強工事」と書かれた完成予定図が設置されてる。
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埼玉県庁が最初に設置された芳林寺
 明治四年(一八七一年)十一月十四日、埼玉県・入間県の設置が太政官布告で令達された際、県庁の位置は埼玉県は岩槻とされ、ここ芳林寺に最初の県庁舎が設置されました。
 当時の岩槻は城下町として賑わっていましたが、岩槻で県庁の事務を執ったのはわずかの間、まもなく浦和に移転してしまいました。
 その当時の逸話が、北條清一氏の著書に記されています。
   「廃藩と剣客の悲哀」
岩槻町長秋葉保雄氏の話
 廃藩置県となって、「埼玉県庁を埼玉郡岩槻町に置く」ということになって、県庁の仮庁舎は岩槻町芳林寺内に置かれたものです。その頃は、南埼、北埼に分かれていなくて埼玉県埼玉郡と呼んでいた。岩槻藩は二万三千石大岡司膳正の城下町であった。
 明治四年、芳林寺に仮庁舎が置かれ、初代の県令(知事)は鹿児島県士族野村盛秀が任命され、大書記官が白根多助、大参事が吉田清秀という人だった。大岡藩からも平野正信児玉親廣などという人材が県吏に採用された。
 当時の話として、岩槻町は県庁を邪魔者扱いにして追っ払ったので、県庁が浦和に移されたように伝えられているが、これはとんでもない間違いで、事の真相はこうなんです。
 藩士で家老格の家柄──名前は憚るが剣道の達者な男があった。旧幕時代は剣道ができれば立派に家門が立っておったのであるが、廃藩置県の後は剣術では飯が食えない。この男が県庁へ仕官したい希望を抱いていたが、頭が出来ないので採用されない。それを遺恨に思って、芳林寺の仮庁舎へ長刀の落し差しかなんかで出かけて、さんざん嫌味を並べて毎日のように暴れたのですな。藩中で相当精力があったし、うるさく暴れるので、こんなうるさいところへ県庁は置かなくてもよいとついに移転となったものです。この男が嫌味を並べて暴れさえしなかったら、岩槻は県庁所在地として、今頃は県の首都で大いに発展していたろうと思うのです。そう思うと、この没常識漢の仕打ちがうらめしくも思われる。
『武州このごろ記』 北條清一著      日本公論社   昭和十年七月刊

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 白山堂と寶聚稲荷大明神。
 寶聚稲荷大明神の鳥居には表側に「志納金百三十万円也 賛京建設株式会社 代表取締役会長 勝田修」「賛京建設株式会社 代表取締役社長 勝田充彦」、裏側に「平成二十年八月吉祥日 當山三十二世 道龍裕幸叟代」と刻まれている。
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 白山堂の標石には金刀比羅大権現、白山大権現、三峯大権現と刻まれているので、この三神が合祀されているのだろう。
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 太田氏資公像と地蔵堂位牌堂。
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 弁天堂。
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 芳林妙春禅尼像。
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 太田道灌公鷹狩之像。
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 不動堂。
 朝に来た時は門が閉じていたので入れないと思っていたのだが、もしかしたらこちらも入れたのかも知れない。昼過ぎに再び来た時には、今度は門に布団が掛けられていたので入れなかった。変わった所で布団を干すものだなぁ。
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 太田道灌公騎馬武者像。
 案内板によると、東京都葛飾区柴又在住の彫刻家である冨田憲二氏と山本明良氏の両名によって作られたものであるのだそうだ。
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 以上で4月2日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA16-85mm、DA FISH-EYE 10-17mm。X30。
 ウォーキングカウンターは18,694歩。
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三峯神社(岩槻区本町四丁目)

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 埼玉県道324号蒲生岩槻線を挟んで日蓮宗大法山眞浄寺の向かい側に鎮座する三峯神社(さいたま市岩槻区本町4-9)。
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 靖国鳥居。
 柱には「御大典紀念」「昭和三年十一月吉日」と刻まれている。
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 拝殿のような覆屋のような。
 先の秋葉神社は覆屋の上に本殿の屋根が出ている覆っていない覆屋であったが、こちらは本殿の屋根に部分的に被せるようにして繋げている。こう言うのは何と呼ぶのだろう。
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 斜めから。
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 本殿。

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 三峯神社北西の交差点傍にて見かけた祠。
 ここにあったなにかが取り壊された後も祠だけが残されていると言った様子だが、なんだろうね。ストリートビューを見ると半年前もこんな感じではあるが。
 そしてマップを見ていたら近くに新町自治会館があることに気付き、結構こう言う所に小さい神社があったりするんだよなとか思いストリートビューを見てみたら、本当に神社があった……オーゥ○刀乙。ぐぬぬ、事前に気付いていればお参りして行けたのになぁ。まぁ、また後でこちらの方に行った時にでもお参りしてこようか。

学蔵寺(岩槻区本町四丁目)

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 日蓮宗恵光山学蔵寺(さいたま市岩槻区本町4-8)。
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 七面大明神。
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 稲荷大明神と浄行菩薩。
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 本堂。

秋葉神社(岩槻区仲町一丁目)

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 曹洞宗慈眼山千手院の東側に鎮座する秋葉神社(さいたま市岩槻区仲町1-1-12)。
 鳥居の柱には「大正拾壹年七月吉日」と刻まれている。
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 文政十三年(1830)九月十四日造立の石燈籠。
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秋葉神社 御由緒
 さいたま市岩槻区仲町一-一-一七
□ 御縁起(歴史)
 当社は江戸時代、秋葉社と称し、杉並町に鎮座され杉並町、各町等の秋葉講を主体に永井家家中等の助力に由り、正徳元年(一七一一)~享保十二年(一七二七)に遠江国周智郡犬居(現・静岡県浜松市春野町)の秋葉寺から火防鎮護の神、秋葉三尺坊大権現を祀り創建されました。
 秋葉信仰の発祥は永禄十二年(一五六八)頃、家康と信玄との関係悪化により上杉謙信と好を結ぶ過程で謙信配下、越後長岡の蔵王堂三尺坊院主周国を連れ帰った。信濃の戸隠宝光院出自で飯縄信仰を堅持していた周国は遠州秋葉山にて死後、飯縄権現が三尺坊として信仰の対象となりました。貞享二年(一六八五)四月十八日、貞享秋葉祭の村送りを機に東西に広く伝わり貞享二年十一月に幕府より新規祭礼の禁止令が出されましたが、全国に爆発的に広まり最盛時には秋葉社は二万七千社を数えたと言います。
 江戸時代は隣の千手院が別当を勤め祭礼等、管轄されていました。慶応四年(一八六八)三月十三日神仏判然令等の太政官布告により当社祭神秋葉三尺坊大権現は廃止され浄火の神・火産霊命(火之迦具土神)と水の神・河菜姫命の兄弟神に替えられ社名も秋葉神社となりました。昔の秋葉寺は明治六年廃寺とされ秋葉三尺坊大権現像は本寺の可睡斎へ移されました。廃寺となった秋葉寺は明治十三年十一月復興。また火之迦具土神を祭神とする神道の秋葉山本宮秋場神社が創建されました。
 当社本殿は、大正十四年改修により瓦葺から銅板葺に替えられました。
 秋葉町自治会氏子有志として隔年、可睡斎で法要、秋葉山本宮秋葉神社へ参拝して現在に至っています。
□ 御祭神(火防・火伏)
 ・火産霊命  ・河菜姫命
□ 御祭日
 ・元旦祭(正月元旦) ・初午祭(三月初午日)
 ・例 祭(四月十八日)・お面様(七月十八日)

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 狛犬……と言うか獅子。両方とも阿形だし。
 台座には「天保三壬辰年九月吉祥日」と刻まれている。天保三年は1832年。
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 別角度から。
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 本殿。
 覆屋の隙間から撮影をしていたら、こちらの管理をされている方が扉を開けて下さったので中に入って撮影。それでも16mmでは狭いので魚眼ズームを使用。ペンタックスから超広角ズーム出ないかなぁ……。
 この扉を開けて下さった方からは他にも色々な話を聞かせていただいたり、神社のリーフレットや火防神璽、江戸時代の秋葉社の位置を記した絵図のプリントなどもいただいたりと、とても親切にして下さり有難いことです。
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 本殿に施された彫刻の一部。
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 伏見稲荷社とお面様。
 こちらの二社は自治会の方々の手によって平成二十六年に建て替えられたものであり、お面様の屋根瓦は嘗て秋葉神社の屋根に使われていたものの中から破損していない使えるものだけを選んで流用したものだと教えていただいた。先に瓦の数が決まっているので、そこから計算して祠の大きさを決めて作られたのだそうだ。
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 大天狗の面が祀られているからお面様。
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水屋建設記念
秋葉神社の略縁起
御祭神 火之迦具土大神と申し上げ火を司り給う神様である
御神徳 私達の生活に一日もかかせない火を守護し幸せを与え又悪火を鎮め悪火から生
    ずるいろいろな災を祓い下さる火防の神である
祭礼日 毎年四月十八日
建 立 享保十二年四月十八日(今から二四八年前)
    貞享から享保の時代(一六八四年~一七三六年)は全国的に火災が多かったの
    で火防の神を建立するため、当時の杉並横町の人たちの合議により、代表者を
    秋葉山本宮(静岡県周智郡春日町)に代参させ、御神体をいただき現在地に建
    立し、守護者として地域の火防と幸せな生活を願ひ数々の変遷を経て、現在に
    至っている

    岩槻市観光協会指定
       昭和五十二年四月十八日
                  岩槻市教育委員長 田中寿徳書

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 手水舎。
 手水鉢は破損防止の為に透明な板で覆われている。
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 天神宮と稲荷大明神(寛延三年(1750))、天神様(安政六己未年(1859)六月)。少し離れて庚申塔(文化三丙寅(1806)四月)。

鶴姫神社(岩槻区真福寺)

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 岩槻消防署から450m程南下した所に鎮座する鶴姫神社(さいたま市岩槻区真福寺)。
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鶴姫神社
祭神 岩槻城主太田氏の娘鶴姫様
   縁結びの神 子孫繁栄の神 下の神

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稲荷堂(岩槻区本町二丁目)

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 真言宗智山派光岩山釈迦院弥勒密寺の境内に鎮座する稲荷堂(さいたま市岩槻区本町2-7-35)。
 弥勒密寺の公式サイトあり。
 本堂などにもお参りはしたのだが、うっかり本堂を撮影するのを忘れていた。

稲荷神社(岩槻区加倉四丁目)

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 曹洞宗加倉山洞雲寺へ至る道の脇に鎮座する稲荷神社(さいたま市岩槻区加倉4-18)。
 鳥居の貫に打ち付けられているプレートには「奉納 橋本正治 2007.6.1」と記されている。
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久伊豆神社(岩槻区加倉四丁目)

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 加倉連合自治会館の隣、国道122号線に北面して鎮座する久伊豆神社(さいたま市岩槻区加倉4-19-37)。
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久伊豆神社
久伊豆神社の御祭神は、国土開発・生成化育・子孫繁栄を掌る大己貴命(大国主命)です。
天文年間(一五三二~一五三三年)頃勘解田盛之という人が当地に来て田圃を拓き農人となりこの地に留まるようになったのがこの村の祖といわれています。元亀年間(一五七〇~一五七三年)、時の岩槻城主太田資正は、岩槻城の西方箕輪郷の一部向原を分け、村高八百七十五石を以って加倉村と改めました。その頃農人が祀っていた久伊豆大明神を村の鎮守「久伊豆神社」として神璽を奉じて中島の地に遷し祀られました。
明治五年に村社となり、翌明治六年十一月十一日本殿の落成を見、同二十九年十一月に拝殿が再建されました。
正面の扁額に久伊豆神社・稲荷社・宗像社・籠神社・水神社と掲げられており、いくつもの神様が祀られていることが分かり、それぞれの神様がこの加倉地区・加倉の人々をお守りくださっております。久伊豆神社は加倉の鎮守様(氏神様)であります。
 御祭礼日 毎年十月十九日

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 上記の由緒書きには久伊豆神社には稲荷社と宗像社、籠神社、水神社が合祀されていると書かれているが、扁額に刻まれているのは籠神社ではなく龗神社である。神社合祀碑には八大龍王社とも記されているので、やはり龗神社の方が正しいのだろう。
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 拝殿。
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 斜め後ろから。
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 稲荷社。
 石燈籠には「寛政四壬子歳二月初午日 浄国寺三十一世泰譽代」と刻まれている。寛政四年は1792年。
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 何神社なのかわからなかったが、ググってみたら太子堂であるのだそうだ。
 奥に見える石碑は明治三十年(1897)六月に建てられた拝殿新設之記。
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 明治四十二年(1909)十二月に建てられた神社合祀碑。
 先の拝殿新設記念碑もそうだったが、崩し字が多くてわかりにくい。とりあえずわかる部分をまとめると、埼玉県武蔵国南埼玉郡柏崎村大字加倉の地に祀られていた無格社辨天社、八大龍王社、水神社、稲荷社は長い時を経て社殿が朽ち神地も荒れ、神の威光が衰えるのを憂えていた折に神社合祀の勅令が出されたので、明治四十年三月二十一日に村社久伊豆神社に合祀したというようなことが記されている。
 また、背面には以下の文も刻まれている。
  明治十六年十一月二十日本社遷宮式
  仝三十六年三月十六日手水屋上棟式
  仝四十一年十二月吉日敷石新設
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 鈴木源吉頌徳碑と青面金剛二基。
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 嘉永七年(1854)十一月奉納の力石。

琴平神社(岩槻区加倉一丁目)

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 国道122号と埼玉県道2号さいたま春日部線が合流する加倉(北)交差点の傍に鎮座する琴平神社(さいたま市岩槻区加倉1-33)。
 鳥居の柱には「平成二年六月吉日建之」と刻まれている。
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 二の鳥居。
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 拝殿。
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 昭和四十五年二月に建てられた神社移転碑。碑には「金昆羅神社」とあるので、それよりも後に「琴平」と文字を改めたのだろうか。

八雲神社(岩槻区本町一丁目)

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 国道122号線を挟んで岩槻郷土資料館の向かい側に鎮座する八雲神社(さいたま市岩槻区本町1-15)。
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 鳥居前の瑞垣脇に設置された市宿通り観光マップ。
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 一部アップで。
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八雲神社由緒
当神社の創建と由緒は、当地に旧家勝田氏祖先の勝田佐渡守が永禄三年(一五六〇年)正月に市を開設した折に市の守護神として鎮座し市を開いたのが最初には必ず市場の祭文を読みいる習わしだったと伝えられています。
江戸時代は牛頭天王社と称され明治時代になると八雲神社と改称されました。天王様の名称で人々に親しまれております。祭神は素戔嗚尊で商の神火防の神として霊験あらたかです。神殿は昔、県道の中央に鎮座し神社から下に向って背中合せに市が立ち近郷近在からの人出で雑踏いたしました。現在の社殿は明治十七年(一八八四年)十一月二十八日に落成し明治二十一年(一八八八年)に現在地に移されました。境内地に現在緑の広場として子供や市民の皆さんから親しまれております。
 例大祭日 七月七日 七月十五日
    平成六年   八雲神社氏子中
           第一区自治会
           第二区自治会

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 拝殿。
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 獅子山。
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 狛犬をアップで。
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 扁額には市神社と記されている。
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 本殿。
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 本殿の彫刻の案内図。
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 力石。
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 神輿・四神収納庫と末社殿(猿田彦大神と鹿島大神)。収納庫の左脇には従軍記念碑。
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 享保十一年に奉納された手洗場石。

稲荷社(岩槻区本町三丁目)

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 埼玉りそな銀行岩槻支店の東側、駐車場の端に鎮座する稲荷社(さいたま市岩槻区本町3-12)。
 社名は記されていなかったが、宝珠紋らしきものがあるので稲荷社だろう、たぶん。

愛宕神社(岩槻区本町三丁目)

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 東武野田線第50号踏切の傍に鎮座する愛宕神社(さいたま市岩槻区本町3-21-25)。
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 参道。
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 岩槻城の土塁跡の上に愛宕神社。
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 狛犬。
 台座には「昭和六年十月再建」と刻まれている。
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愛宕神社
 所在地 岩槻市本町三-二十-二十五
 愛宕神社の祭神は迦具土命であり、境内には松尾神社(祭神 大山咋命・伊弉諾命・伊弉冉命・徳川家康)、稲荷神社(祭神 倉稲魂命)、天神社(祭神 菅原道真)がある。迦具土命は火防、盗難除、安産の神、子育の神として知られ、近年は、進学・就職の神として信仰を集めている。
 神社の創建は明らかではないが、江戸時代初期の「武州岩槻城図」に愛宕神社が記されている。いい伝えによると、長禄元年(一四五七)に太田資清(一説には道灌)が岩槻城を築くにあたり城郭として外堀と土塁(土居)を造った。するとその傍らに小さな祠一社があり、風雨に曝された小板に幽かに迦具土命と言う字が見えた。これは火防の神(愛宕大神)であるので土塁上に移し祠った。その日が現在の七月二十四日であるので、今でも祭礼日として祭典を行っている。
 昭和五十九年三月

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 拝殿。
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 記念碑と天満宮。
本殿境内修復 愛宕会館建設記念碑
 今から五百数十年前の長禄元年三月太田道灌公岩槻城を築き 次子資家公初代城主となるや 六年後の寛正三年に外敵防禦 防風 風致に意を用い 城と町を圍む堅固な土居と深き濠をつくり 土居に欅 杉 椎等大木となる数種の樹木を植えた
 いつの世か この土居の最高所に火難除けの神 迦具土命を祭神とする愛宕神社が創建された 時は新暦七月二十四日に当り この日を祭祀の日と定め毎年の祭りを行っている
 時移り 人代ってここに幾星霜 本殿 石段 境内 参道等著しく荒廃して見るに忍びず 氏子総代しばしば会合し その善後策を講じて修復に決し 集会所新設と併せて工事の速進に踏み切ったのである
 かくて建設委員会は九町自治会の氏子に諒解を得て準備に着手し 事業計画 資金調達に努め工事推進に鋭意協力し 遂に昭和四十九年二月見事完成を見るに至ったのである
 昭和四十九年七月吉日
  撰文並書 八十翁 原口扁舟

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 末社。
 稲荷社、芳名碑、稲荷大明神、合祀社。右端の祠の中には複数の神の名が記された板があり、それには水神、阿■大菩薩、弘法大師、穴森稲荷、猿田彦大神、鬼子母神、権七菩薩、妙件大神、辨天大神、諏訪大神とあるが、いずれも下に消滅と書かれている。
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岩槻城大構
  指定年月日  昭和四十九年九月二十六日
  指定の種別  記念物(史跡)
  所有(管理)者 岩槻市本町三丁目二一番二五号 愛宕神社
 戦国時代の末から江戸時代の岩槻城下町は、その周囲を土塁と堀が囲んでいた。この土塁と堀を大構(外構・惣構・土居)という。城下町側に土塁、その外側に堀が巡り、長さは約八kmに及んだという。
 この大構は、天正年間(一五八〇年代頃)、小田原の後北条氏が豊臣政権との緊張が高まる中、岩槻城外の町場を城郭と一体化するため、築いたものとされ、城の防御力の強化を図ったほか、城下の町場の保護にも大きな役割を果たした。
 廃城後は、次第にその姿を消し、現在は一部が残っているにすぎず、愛宕神社が鎮座するこの土塁は、大構の姿を今にとどめる貴重な遺構となっている。

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 こちらが松尾神社なのかなと思ったら、明治十六年十二月に奉納された扁額には三社祠と記されていた。松尾神社・稲荷神社・天神社の三社を合祀しているとも考えられるが、稲荷社と天満宮は別にあったしなぁ。
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庚申尊(岩槻区本町三丁目)

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 東武野田線岩槻駅の北東、国道122号線に面して鎮座する庚申尊(さいたま市岩槻区本町3-4)。
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 庚申堂に掛けられた扁額には庚申尊、堂の中に掛けられた扁額には猿田彦大神と書かれている。
 右側の祠には社名を示すものは見当たらなかったが、中を覗きこんだら三方の上に油揚げが置かれていたのでおそらく稲荷社なのだろう。
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聰敏神社(結城)

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 城跡公園の西側に鎮座する聰敏神社(結城市結城1484)。
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 鳥居の柱には「文政二己卯歳六月吉祥日」「奉獻 上總御領分邨=百姓共」と刻まれている。文政二年は1819年。
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 拝殿。
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 東側から。
IMGS5957s.jpg IMGS5974s_2017041121175135d.jpg 表面。
聰敏神社由来記
 聰敏神社は旧結城藩水野家初代水野日向守勝成公(一五六四~一六五一)を祭神として祀る所である
 勝成公は徳川幕府誕生の時期に於て親藩 譜代切っての勇将として関ヶ原の役 大阪冬の陣 同夏の陣 島原の乱に参戦してそれぞれ大功あり 特に夏の陣にあっては主要なる攻め口であった大和口の主将として采配を振い 本多忠政 伊達政宗らと相率い 大阪方の城主後藤基次 薄田隼人らを破り徳川方の勝利を決定的たらしめた その功により大和郡山六万石に封ぜられ その後 備後福山(現広島県福山市)十万石に封ぜられた
 さらに寛永十五年(一六三八)には七十五歳の高齢をもって島原の乱に出陣 水野軍一番槍の功を挙げ 島原の乱を平定した しかし 島原の乱平定以後は平和の時世となるを達観し 治山治水の事に専念し 領主としてひたすら領国経営に精進し今日の福山の基礎を揺ぎなきものとした なかでも水道事業は江戸神田上水と共に日本最古のものと稱せられる それ故をもって武将としての勝成よりも裃姿の銅像が福山市に設置され市民に尊敬されている由縁である
 勝成公は当時としては稀に見る長寿であり慶安四年(一六五一)行年八十八歳で他界 生前の業績を偲び聰敏大明神と稱せられた
 その後水野家は累代福山に在卋したが元禄年間五代勝岑二歳にして逝去 後嗣無きにより一時水野家廃絶の運命となったが 勝成公の戦功と公が家康の母(伝通院)方の従兄弟であった縁故に依り元禄十一年下総結城に一万八千石をもって再封された その後伝統連綿 明治を経て二百九十余年今日に到った
 文化十三年結城聰敏神社は福山聰敏神社より分霊勧請せられた
 なお結城城址たるや古来臥牛城の稱あり 古くは鎌倉時代結城朝光公の本拠たりしが 結城家福井移封の後は多年交配に帰した その間は天領として伊奈代官の治むる所であった
 水野家再封の後は城館を建設したるも明治維新期における戊辰の役で燒亡したと云う
 ここに聰敏神社の由来記に併せて臥牛城の今昔を回顧するものである
  平成二年十一月二十三日
              鈴置一郎 謹識
              光岡三省 謹書
 裏面。
聰敏神社建立・改修記
 この聰敏神社は 文化十三年 当時の結城藩十二代城主水野勝愛公が 初代勝成公の遺徳を慕び 今の広島県 福山市の 聰敏神社より勧請(神佛の来臨を請い 分霊を移し祀ること)し建立された
        左 水野日向守源勝成公
宗源 聰敏明神
        右 水野美作守源勝種公
右■奉勧請     備後國福山
神靈者神祇管領   聰敏明神 神主道師
長上卜部之家傳受如件 池田上総介  藤原宗イ竒
 文化十三年丙子三月廿五日   (一八一六年)
●神社建立
  文政元年六月起工 文政三年三月二十九日完工
  鳥居建立     文政二年六月
  御門燈建立    文政十年五月
●戊辰戦争            (一八六八年)
 旧結城藩水野家居城臥牛城は戦火により燒亡せしも神社は残された
●神社合併            (一九〇八年)
  白峯神社
  稲荷神社
  八幡神社  以上の四神社が聰敏神社に合併された
  十二天神神      村社聰敏神社ヘ合併ノ件聞届
 明治四十一年十二月十二日 茨城県知事  坂 仲輔
●神殿大修繕工事         (一九〇九年)
 明治四十二年五月起工  十月十七日    落成
 募金戸数 二三二戸   募金額八百七十八円五十銭
●社殿修築及附帯工事       (一九七二年)
 昭和四十七年六月起工 十一月二十四日   竣工
 募金戸数 一八七戸   募金額壱百四十三万円五千円
●神社大改修工事         (一九九〇年)
 平成二年一月起工   十一月二十三日   竣工
 募金戸数 二六六戸   募金額千百二十二万円六千円
 社殿屋根瓦葺き替え 由来記。鳥居額。建具類新調
 御門燈建立及修復 水屋修復 外柵製作

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篆刻師三卋號士人
無量壽庵三木常正作詩書

 偲水野勝成公
鞆浦巖頭偲注賢
勝成公悉利天然
巍然天守名城譽
三萬頃田遺徳傳

福山城主・水野勝成公・マコトニ名君ナリ・連戰連勝・敗ヲ知ラザル勇将ナリ・三萬ノ頃田=三萬町歩(三万ヘクタール)開拓シ今尚傳ウ・福山ヲ尋ネ聰敏本社ニ詣デ賢忠寺ニ於テ勝成公ノ法要ニ参列墓前ニ結城ノ櫻ヲ植樹・鞆浦ニ泊シ注古ヲ偲ンデ作詩ス・古稀記念ニ建碑(吟詠詩集日本之四季ヨリ)
 裏面。
 結城城址ニ過年水野勝邦公ヲ御迎エシテ聰敏神社ニ詣デ舊臣ト本町氏子総出デ御本丸ノ櫻ノ花ヲ賞シ和氣靄々樂シク時ヲ過ゴシタ折リニ城址之櫻花ノ詩ヲ作ル

 賞城址之櫻花
訪花無酒興難伸
有酒看花歌啓唇
紅雪放香葩亂舞
吟詩樂酒讃花人

 水野城主ハ往時・桐ノ植樹ヲ成シ領民ノ福祉ヲ計ッタノデ今日デモ福山市ニ次グ桐製品ノ産地トナル・尚・水野城主ハ結城政勝公ノ遺風ヲ継ギ・御朱印堀内ノ地子税ヲ免除シテ・城下町ノ繁榮ヲ計リ明治維新ニ至ル 献上品ハ饂飩ト牛蒡也
 私ノ著書・吟詠詩集・日本之四季・還暦記念ニ出版・茲ニ古稀ヲ迎エ江戸時代ヲ偲ブ・日本詩人連盟会員三木常正謹書
   昭和五十八年十一月二十三日建之
         紺屋町中村石材店吉雄刻


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 城跡公園入口。
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結城市指定史跡 結城城跡
 結城城は治承年間(一一七七~一一八〇)に結城朝光が築いたとされるが確証はない。むしろ南北朝動乱期に築城されたと見るべきであろう。
 その後、結城家は室町時代に関東八家の一に列して勢力をふるい、戦国時代には宇都宮・佐竹氏らと伍して生き残り、天正十九年(一五九一年)徳川家康の二男秀康を十七代晴朝の養子にもらい受け、慶長六年(一六〇一年)越前福井への国替えまで関東の雄として栄えた。
 結城氏の転出後、結城城は廃城となったが、元禄十三年(一七〇〇年)水野勝長(一八〇〇〇石)の入部によって再興され、明治に至るまで水野家の居城となった。
 結城の名を不朽にしたのは永享十二年(一四四〇年)の結城合戦である。関東公方足利持氏が将軍義教と争って滅ぶと結城家十一代氏朝(一四〇二~一四四一年)は、持氏の遺児春王丸と安王丸を奉じて兵を挙げた。
 幕府は諸将に氏朝らの討伐を命じたが、結城落城まで一年余の歳月を費し、結城の名を天下に轟かす結果となったのである。
  結城市教育委員会
          平成四年四月四日 建立

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 こちらも結城百選の一つ。
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 与謝蕪村句碑。
 「ゆく春やむらさきさむる筑波山」
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 水野家顕彰碑。
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 公園の中にぽつんと建てられた鳥居。柱には「昭和五年三月」「結城町有志」と刻まれている。
 鳥居の奥に見える石を祀っているのかと思ったが、石には結城ライオンズクラブの25周年と40周年の記念樹と刻まれており、どう見ても御神体のようには見えない。なんなんだろう、この鳥居。

 以上で3月25日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA16-85mm、FA28mm、FA43mm。X30。
 ウォーキングカウンターは18,787歩。

玉日姫の墓(結城)

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 結城城跡公園の西北に位置する玉日姫の墓(結城市結城)。
 玉日宮とは聞き覚えの無い名前の神社だなと思い立ち寄ってみたら、神社ではなくお墓だった。そう言えば結城駅前の観光案内板に、玉日姫の墓と言うのが城跡公園の近くに書いてあったな。そうかあれここか。などと思い出し、神社じゃないけど折角来たのだからと見て行くことに。
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 この宝篋印塔が玉日姫の墓であるそうだ。
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史跡 玉日姫の墓
 結城城の北に、玉日という地名が今も伝わります。この地名は、ここに眠ると伝わる玉日姫にちなんだものです。
 墓所に建つ碑は、浄土真宗の篤学の高僧・島地黙雷により綴られ、次のようなことが記されています。
 玉日姫は、関白・九條兼実の七女として誕生し、浄土真宗の開祖・親鸞聖人の妻となりますが、越後に流された聖人が、赦されて関東に向かったとの知らせを聞いて、侍女の白河の局を伴ない関東に下りました。
 玉日姫は、この地方一帯で布教を続ける聖人を助け、自らも剃髪します。やがて、聖人が京に戻ることになる際も、その教えを広めんがために結城に留まり、ここに草庵を結び生涯を送ったということです。
 現存する、石の玉垣に囲まれた宝篋印塔は、近世になってから、江戸の講中(玉日講)により再建されたものです

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能荘厳院尼公之碑
能莊嚴院惠信襌尼碑     従三位九條道實公篆額
襌尼法諱惠信諡能莊嚴院始名玉日關白九條兼實公第七女也建仁三年
爲眞宗開祖鸞師配承元元年宗祖遷謫時畱在京都後假稱兵部太輔三善
為教女與侍女白川局等東下追随共助道化當此時結城朝光深歸宗祖執
師資禮是以宗祖歸洛後猶住結城落飾改名専任遺教扶護蓋關東法苗被
襌尼培養居多云建長六年九月二十九日歿享年六十九歳先于宗祖遷化
八年也遺訓懇切使人感泣所以後世景慕益加焉今茲遠近門侶協同建碑
以擬報恩請銘於余余乃爲銘曰
 法本一理 機有利鈍 攝化無量 方便千萬 夙爲韋堤 怨恨臨刅
 今成玉女 綢繆相勸 眞俗扶翼 宗基由建 何周引導 共乘悲願
  明治四十一年歳次戊申九月 龍谷勸學島地黙雷譔竝書
                         宮田九靍刀
 九条兼実の娘である恵信禅尼(玉日姫)が兵部太輔三善為教の娘と称して東へ下ってきたとあるが、ググってみると恵信禅尼は九条兼実の娘ではなく越後国の豪族である三善為教の娘であることが大正十年(1921)に判明しているそうで、この碑が建てられた明治四十一年(1908)の時点では九条兼実の娘であると思われていたのだろう。
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 ここも結城百選の一つである。

羽黒熊野神社(大谷瀬)

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 大谷瀬児童会館の裏に鎮座する羽黒熊野神社(結城市大谷瀬512)。
 社殿改築記念碑の裏面には以下の碑文が刻まれている。
羽黒神社祭神倉稲魂命    応永九年桐ヶ瀬基光に依り創建 
熊野神社祭神家都美御子大神 同年代に創建された口傳なるも創建不詳
      素戔嗚尊    弘化戊申年に再建
明治四十三年神社統合令により両社合併
昭和二十七年八月二十二日宗教法人設立
 応永九年は1402年で室町幕府第四代将軍足利義持の時代。弘化戊申年は1848年(弘化五年)で江戸幕府第十二代将軍徳川家慶の時代。
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 大祖参神。
 なんだろうそれと思いググってみると、扶桑教の奉ずる三柱の神で、天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神のことであるそうだ。つまり造化三神なのね。
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 大谷瀬児童会館。

香取神社(結城)

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 国道50号結城バイパス小森北交差点北東の畑の中に鎮座する香取神社(結城市結城4151)。
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 石碑や末社などは見当たらない。
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こもり観音堂(小森)

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 大桑神社の東隣に位置するこもり観音堂(結城市小森)。
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 地名が小森だから小森観音堂なのだろうと思うのだが、ひらがなで書かれていると子守観音堂であるかのようにも思える。
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 撮影時には気付かなかったのだが、この下段部分の謎ポーズをとるオッサンはなんなのだろう。
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 左奥から大日如来堂、薬師如来堂、地蔵菩薩。
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 如意輪観音、如意輪観音、青面金剛、如意輪観音。

諏訪神社(久保田)

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 慶福公民館の80m程北東に鎮座する諏訪神社(結城市久保田)。
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 本殿覆屋。
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 五首の歌が書かれた板がある。
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 石祠と庚申塔。
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大桑神社(小森)

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 茨城県道15号脇に鎮座する大桑神社(結城市小森1)。
 社号標石の裏には「大正十一年一月建之」、鳥居の柱には「昭和四十八年四月吉日建之」と刻まれている。
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 こちらも結城百選の一つ。
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結城市指定文化財
 有形文化財〈建造物〉大桑神社本殿(平成四年三月三十一日指定)
 天然記念物     大桑神社の欅(昭和五十一年二月五日指定)
 流造、銅板葺、三面を彫刻で荘厳化した本殿は、千七百二十二年(享保七)に建てられ、当初は桧皮葺で、数回の葺きかえの後、千八百四十八年(嘉永元年)に銅板葺になったことが、棟札により確認されています。
 彫刻は、東西二面が中国の故事(東・虎渓三笑、西・光子甕割)、北面は日本神話(天の岩戸)を題材にしています。また、棟札には建造にあたった小森村の彫物大工や番匠、この地方の棟梁の名等が記されています。
 大桑神社の成立については、古代、東国に養蚕・織物を伝えたとされる阿波斎部が、養蚕・農業の神、稚産霊尊を祭神
として、北方の大水河原に創建、この辺り一帯を大桑郷と名付けたことに始まり、その後、洪水により流失、千四百七十九年(文明十一)今の地に移ったと伝わります。
 そして、南北朝時代には、結城家七代直朝が、関城攻略に際し、戦勝を祈願した結城七社の一つに数えられています。
 小森という地名は、阿波斎部の伝えた養蚕を守り、養蚕・織物が盛んであったことから、いつとはなしに、この辺りは「蚕守(こもり)」と称され、中世結城氏の時代には合戦に備えてこの地に兵を篭らせたことから、「篭(こもり)」と称されたことに由来すると伝わります。
 また境内の欅群は、大きいものは、目通り直径一・七メートル根まわり八メートルを超え、樹齢三百五十年以上と推定される、市内でも最大級の欅で、天然記念物に指定されています。

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 拝殿。
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 斜めから。
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 丸っこい狛犬。
 台座には「大正十四年六月吉日」と刻まれている。
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 少し角度を変えると、あらそんなに太くは見えないな。
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大桑神社の由來
火の神軻遇突智と土の神埴山姫とにより誕生の稚産霊の神は頭の上に蚕と桑が生じ臍の中には五穀が生えて農蚕業の神として尊崇さる 時元明天皇の和銅年代に現在の大水川原に創建 文明十一年と享保八年の大洪水のため社殿流出し延享二年現在地に再建す
天富命の命を受けた阿波の斉部なる者この地を通り大桑の木が茂りその部落の人の欲するまま蚕を与え養蚕の仕方を教え稚産霊尊を祀り部落を大桑郷と名付く 中世の結城家時代には不意の合戦に備える時の鐘あり軍兵交替に社に篭り篭と称され養蚕盛んとなり蚕守に転訛し現在の小森の称となる
結城七社の一に数えられ明治時代迠別当寺大桑山恵勝寺浄福院が在り
享保六年浄福院沙門元映誌に依る
昭和四十八年十一月十五日 孝顕英文書
 小森の名の変遷が鳥居脇の案内板の記述とは少し順序が違っているが、まぁ時代と共に当てる字が変わっているということでは概ね一緒か。
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 本殿。
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 本殿東側には大きな石が置かれている。
 蚕種石……ではないな。なんだろう。
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 天満天神宮。
 右側の石碑は凱旋記念之碑。
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小林儀八問壽臧碑
   正三位松田正久篆額
小林儀八君資性任侠重義輕財趨人之急如渇是
以信義顯郷黨頑強之徒亦拱手服従敦厚成風矣
君下總國結城郡絹川村小森人天保八年十二月
三十日生父久四郎母小林氏家世務稼穡冨冠閭
里君不好農耕注意商事兼業漕運見時察變處辨
不錯機冝得竒利不爲少人皆稱其敏慧凢有築校
修道架橋之事則率先出資且利衆益人之舉大小
莫不與之者初當自由民權説起籍於自由黨奔走
誘導大喚起人心毎見黨員窮者扶助補給以成其
志揮其囊資亳無所顧焉若君真可謂善聚善散也
君娶山中氏舉三子男半藏類父好義有令名女二
人倶孝順一家輯睦靄靄如春君今茲六十七歳郷
人念平生功徳胥謀欲建壽碑記事使余撰文余嘗
聞君名及見其状益服爲人即作之銘曰
 載聚載散 克柔克剛 義聲振衆
 徳化遍郷 絹川之湄 結城之陽
 有屹貞石 侠名長香
明治三十六年四月
    栗原亮一撰
    野口勝一書 宮田九鶴刻

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 結城市指定文化財(天然記念物)の欅の脇に……なんだったかなこれ。末社などではなかったと思うが、神庫かな。
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 境外の道端に馬頭尊。
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八幡神社(久保田)

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 鬼怒川に架かる栄橋の結城市側に一里塚があり、そこから170m程南西に鎮座する八幡神社(結城市久保田40)。
 鳥居の柱には「昭和十八年十一月竣工」と刻まれている。
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 拝殿。
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 狛犬。
 台座には「昭和十二年八月吉日」と刻まれている。
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 斜めから。
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 本殿。
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 庚申塔や青面金剛、十九夜塔など。
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十二天宮(久保田)

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 田川に架かる十二天橋の傍に鎮座する十二天宮(結城市久保田)。
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十二天宮の由来と祭神
十二天宮は十二人の天部神にして、伊舎那天 火天 羅刹天 風天 帝釋天 炎魔天 水天 毘沙門天の八方天に、梵天 地天 日天 月天の四天部を加いた尊なる祭神と云う。此の十二天宮は結城城主十一代氏朝の子窪田太郎が当地の地頭として任ぜられし昔に城に祀られてあった八幡宮と共に此処に鎮座し更に久保田の地名も窪田氏より起りしものと思料される
 昭和五拾八年拾二月吉日
 結城氏朝の子は持朝(結城氏十二代当主)、朝兼、長朝、成朝(十三代当主)の四人であるそうだが、窪田太郎って誰さ。御落胤なのかな。
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十二天宮社の再造営のあしあとの記
大正二年四月当字主神八幡神社に慶福の諏訪神社並びに天満宮、水神社とこの十二天宮が明治三十九年八月勅令によって合祀され十二天宮は関城町分中の地に譲與されて以来廃社となりしが戦後此の荒屋敷坪を始めとして十件以上の火災あり、当字古老の話しに十二天宮を粗略にした、ための神罰であるとの事で昭和四十四年九月に祠堂宇を建築せるも今回旧神地の造成を地元工野建設に宮城県北上郡珂北町■榊工務店に神殿の発注を依頼して今回その再建造営をみた次第である。米とお酒と木綿の布を、久保田河岸からお江戸の町に運ぶ白帆の高瀬舟と、唱われた鬼怒川の舟運によって開かれた久保田河岸の隆盛はその面影をとどめ得ないが温故知新古きよき時代を偲んで永く久保田の歴史を■と後世に伝いるためにも十二天宮の再建立は喜ばしきものである。
 大字久保田区長 古嶋通三郎
 「加いた」とか「伝いる」とか、「え」が「い」になっているのはこの辺りの特徴なのかなと思いググってみたら、やはり茨城弁の特徴であるようだ。
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 本殿覆屋。
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 本殿。
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白山大権現(久保田)

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 田川と鬼怒川の合流地点の近く、久保田児童会館の北東100m程の位置に鎮座する白山大権現(結城市久保田102)。
 額には「白山大権現 乙亥年夏日 剣山併刻」と記されている。平成七年(1995)、昭和十年(1935)、明治八年(1875)などが乙亥年に当たるが、割と新しい感じのものなので平成七年だろう。
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 本殿。
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赤城神社(小森)

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 結城市立絹川小学校の脇に鎮座する赤城神社(結城市小森364)。
 鳥居の額には「正一位赤城大明神」と記されている。
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 拝殿。
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 向拝蟇股には象の彫刻が施されている。
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 木鼻。
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 拝殿斜めから。
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 本殿。
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 左から青麻神社、庚申塔、二十三夜供養塔、庚申供養塔、石祠、馬頭尊。
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青麻神社縁起
奥州宮城郡岩切村に鎮座まします中風根切■霊験あらたかな守護神なり永く無病息災壽命延命子孫長久の神徳を仰ぎ度く明治十二年初冬一月吉辰社主発起人永井■■赤城神社社頭周■■■下総国結城群小森村■■赤城神社に借地し遥拝のため間社として勧請の上祠を建立し萬世■昂の亀鑑に備えたるものなり
平成四年四月吉日
  神社総代 福■■■

峯崎遺跡(鹿窪)

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 鹿窪運動公園の北東端に位置する峯崎遺跡(結城市鹿窪1)。
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峯崎遺跡
 峯崎遺跡は、縄文・古墳・奈良・平安時代にかけて、大字鹿窪字峯崎一帯に営まれた遺跡です。鹿窪総合運動公園の拡張などにより、一九九〇~九三・九六・九七年度にかけて、六次にわたる発掘調査が行われ、竪穴式住居跡一五〇軒以上、鍛冶工房跡一軒、掘立柱建物跡四九棟などの建物跡が見つかったほか、「公人」や「寺」という文字の書かれた墨書土器や奈良三彩、さらには、皇朝十二銭(長年大宝)や螺髪(仏像の頭髪)なども出土しました。
 本遺跡には、奈良時代から平安時代前半にかけての建物跡が多く、この時期の竪穴式住居跡は一四〇軒を超え、奈良時代の八世紀前半と平安時代の九世紀後半の二つの時期を中心に数多く建てられていました。また、掘立柱建物跡は四九棟見つかりましたが、これらは倉庫として使われたものと考えられ、数多く建てられていることから、本遺跡が一般的な集落ではなく、古代の役所である郡衙や、主要な街道沿いにおかれた駅家など、何らかの公的な施設であったと考えられます。また、同時期の遺跡として、本遺跡の北側約二〇〇メートルのところには、竪穴式住居跡三二軒が見つかった油内遺跡や、約三〇〇軒の竪穴式住居跡のほか、二体の小型銅造仏や四枚の皇朝十二銭が出土じた下り松遺跡がありますが、これらは、本遺跡を中心として関連したものであり、本市の歴史を紐解くうえでも、重要な遺跡群であることが判りました。
 復元された第六八号竪穴式住居跡は、九世紀中頃に建てられたもので、大きさが五・六×六・一五メートルで、北側にはカマドが造られています。

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峯崎遺跡の掘立柱建物群跡
 峯崎遺跡からは四九棟の掘立柱建物跡が見つかっています。これらは、食料や特産物などを保管した高床式の倉庫と考えられますが、一般的な集落では数棟の倉庫しか建てられていないため、数多くの倉庫を必要としたことは、本遺跡が、郡衙や駅家などの公的な施設であることを物語っています。
 これらの掘立柱建物は、奈良時代の八世紀中頃から平安時代の一〇世紀前半までに建てられており、もっとも整備されていた九世紀代には、建物がL字型に配置されていたことが判りました。また、建物の柱間が判るものでは、三間×二間が二七棟と最も多く、七・二×四・八メートルが標準的な大きさでした。そのほか二間×二間が五棟、四間×二間および三間×一間が各一棟で、ほとんどが側柱式ですが、総柱式も二棟建てられました。
 ここに建てられた休憩所は、高床式ではありませんが、四間×二間の側柱式の掘立柱建物をイメージしたもので、当時は、このような建物が十数棟建ち並んでいました。

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保戸塚古墳(鹿窪)

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 鹿窪香取神社の明神鳥居から170m程南東に位置する保戸塚古墳(結城市鹿窪851)。
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 結城市指定文化財(史跡)であることを記した案内板。
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 墳頂には石祠が一基鎮座しているが、何神社であるのかは不明。
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 石祠の側面には「天保三年壬申九月吉日  願主  赤萩市之丞 同 真平 宮田五兵エ」「宮田源兵エ 小林清八 山嵜徳右エ門」、前面に「鹿窪村中」と刻まれている。
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 古墳前からも結城筑波が見える。
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香取神社(鹿窪)

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 結城市生きがいふれあいセンターの北側に鎮座する香取神社(結城市鹿窪513)。
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 南の鳥居。
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 参道左手側に七社宮。
香取神社境内社改築の碑
 明治四十一年に明治天皇より「一字一社」の勅令が発令された。それまで大字鹿窪地内に数社が祀られていた。勅令後大正二年四月に疱瘡除神社、浅間神社、弁天社、白山神社、他不明神社三社、合計七社を鹿窪鎮守香取神社へ合祀し、境内末社七宇を置き手厚く祀られていたが平成二十三年三月十一日に東日本大震災(マグニチュード九・〇)が発生し、境内鳥居、灯籠、狛犬、末社悉く倒壊損傷し、此の度氏子の総意を以って復興修復奉賛金を募り、被害工作物の修復と末社を建設し、七宇を一宇に合祀し、七社宮とし本社香取神社と合わせて四季折々の祭祀怠る事なく未来永劫に伝えるものである。
 平成二十五癸巳年三月吉日
   3・11震災復興委員会委員長(区長) 小林光一
    撰文   鹿窪香取神社 宮司 小貫隆嗣

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 参道。
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鹿窪香取神社社殿造営記念之碑
鹿窪香取神社由来記
 当鹿窪鎮守香取神社の創建は古く詳らかでないが、我が遠祖がこの鹿窪の村を拓かんとする時、下総国一の宮香取神宮の大神「経津主大神」を勧請し、政を行い、社殿を建立したものと思われる。
 明治六年には村社に列格し、今日まで鹿窪に住む人の心の拠り所として祭祀されている。香取大神は鹿島大神と共に出雲の国譲りの大業を成し遂げられ、国内の平定、東国の開発を導かれた神である。即ち、鹿窪の開発、発展に大恩恵を賜った神であり、初詣、桜の花咲く春祭りの太々御神楽、夏祭りの神輿渡御、神恩に感謝する秋祭り等々、文字通り鹿窪の鎮守であり住民の心の安らぎを与えてくれる聖域でもある。
 今回、社殿の朽廃著しく、氏子二百十数戸、一念発起致すと共に、皇孫敬宮愛子内親王殿下御誕生を慶祝し、拝殿の建設、御本殿の大修復、神楽殿、神輿庫の建設を致し、神威無窮に輝き、未来永劫に亘り、鹿窪の安寧と更なる発展を茲に祈念するものである。
    平成十五年四月吉日
       結城市鹿窪鎮守
        撰文 香取神社宮司 小貫隆嗣

(神社概要)
 鎮座地  結城市鹿窪五一三番地
 祭 神  経津主大神
 祭 礼  元旦祭    一月一日
      春季例祭   四月吉日
      夏季例祭   七月吉日
      秋季例大祭 十一月吉日
 境 内  四九五二、六六平方米
 氏 子  二百十数戸

(社殿造営建設概要)
 本 殿  手水舎       造営工期 着手 平成十四年六月一日
 拝 殿  玉 垣            竣工 平成十五年三月二十日
 神楽殿  境内参道敷石工事  費用総額 一金 四千八百万円  也
 神輿庫

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 拝殿。
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 狛犬。
 台座には昭和十二年四月吉日と刻まれている。
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 後ろから。
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 拝殿前の狛犬。
 台座には平成十五年四月吉日と刻まれている。
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 本殿。
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 東面の彫刻。
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 西面の彫刻。
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 北面の彫刻。
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 西の鳥居。柱には「昭和十二年四月吉日」と刻まれている。
 こちらの香取神社もまた結城百選の一つ。

子育観世音(鹿窪)

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 子育観世音堂(結城市鹿窪)。
 扁額には「奉納 子育観世音 昭和十年九月吉日 當村民謡大會紀念」と記されている。
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 観音堂の裏の石塔には「青龍■ 明治四十五年四月三十日建立 鹿窪中」と刻まれている。

宗七神社(鹿窪)

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 宮田家前の四つ角脇に鎮座する宗七神社(茨城県結城市鹿窪405)。
 鳥居の柱には「昭和十六年十一月」と刻まれている。右側の石祠は何神社なのか不明。
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 祠の中には「嗚呼 義勇哉宗七之霊」と刻まれた石塔が納められている。
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 こちらも結城百選の一つであり、説明を見ると、こちらの神社は寛政年間の年貢増強令に反発して起された農民一揆の指導者であった宮田宗七を祭神としているようだ。
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宮田翁の碑   農林大臣森幸太郎題額
宮田氏名は國三郎茨城縣結城郡鹿窪村の人先考五兵衛の二男天保九年十
一月その地に生れた 人と為り明敏謹儉にして公共の志に篤く夙に地方
農蠺業開發の為に盡瘁せられた 即ち安政五年率先上毛より多数の枽苗
を購入して居村に植付けこれら生産増殖の技術を村民に傳授しこれより
近郷枽苗の業大いに振興した 氏はなお蠺種の改良秋蠺飼育の創案桑摘
器の發明等幾多當業者を裨益する所多かった 氏は又測量製圖等の技術
に長じ傍見習生を養成志その益を受けたるもの百餘名の多きに達した
氏はかくの如く終始一貫尊き全生涯を地方蠺枽發展のために捧げられ以
て今日當地方蠺業者悉く發達し桑苗の名聲を博するに至った事は全く氏
の偉大なる功績であって洵に敬仰に堪えぬものである 乃ち有志茲に相
議り頌徳碑を祥地に建て永く後世に傳うるものである
昭和廿四年五月  茨城縣知事友末洋治撰文  長塚緑堂書

 ……宗七神社の由来や宮田宗七に関する碑かと思ったらまるで関係無かった。
 崩し字もちらほらと使われていて判読に困るが、電子くずし字字典データベース検索サービスという便利なサイトのおかげでなんとか読めた。
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愛宕神社(鹿窪)

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 浅間大神から70m程南下した道端に鎮座する愛宕神社(結城市鹿窪)。
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