聰敏神社(結城)

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 城跡公園の西側に鎮座する聰敏神社(結城市結城1484)。
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 鳥居の柱には「文政二己卯歳六月吉祥日」「奉獻 上總御領分邨=百姓共」と刻まれている。文政二年は1819年。
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 拝殿。
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 東側から。
IMGS5957s.jpg IMGS5974s_2017041121175135d.jpg 表面。
聰敏神社由来記
 聰敏神社は旧結城藩水野家初代水野日向守勝成公(一五六四~一六五一)を祭神として祀る所である
 勝成公は徳川幕府誕生の時期に於て親藩 譜代切っての勇将として関ヶ原の役 大阪冬の陣 同夏の陣 島原の乱に参戦してそれぞれ大功あり 特に夏の陣にあっては主要なる攻め口であった大和口の主将として采配を振い 本多忠政 伊達政宗らと相率い 大阪方の城主後藤基次 薄田隼人らを破り徳川方の勝利を決定的たらしめた その功により大和郡山六万石に封ぜられ その後 備後福山(現広島県福山市)十万石に封ぜられた
 さらに寛永十五年(一六三八)には七十五歳の高齢をもって島原の乱に出陣 水野軍一番槍の功を挙げ 島原の乱を平定した しかし 島原の乱平定以後は平和の時世となるを達観し 治山治水の事に専念し 領主としてひたすら領国経営に精進し今日の福山の基礎を揺ぎなきものとした なかでも水道事業は江戸神田上水と共に日本最古のものと稱せられる それ故をもって武将としての勝成よりも裃姿の銅像が福山市に設置され市民に尊敬されている由縁である
 勝成公は当時としては稀に見る長寿であり慶安四年(一六五一)行年八十八歳で他界 生前の業績を偲び聰敏大明神と稱せられた
 その後水野家は累代福山に在卋したが元禄年間五代勝岑二歳にして逝去 後嗣無きにより一時水野家廃絶の運命となったが 勝成公の戦功と公が家康の母(伝通院)方の従兄弟であった縁故に依り元禄十一年下総結城に一万八千石をもって再封された その後伝統連綿 明治を経て二百九十余年今日に到った
 文化十三年結城聰敏神社は福山聰敏神社より分霊勧請せられた
 なお結城城址たるや古来臥牛城の稱あり 古くは鎌倉時代結城朝光公の本拠たりしが 結城家福井移封の後は多年交配に帰した その間は天領として伊奈代官の治むる所であった
 水野家再封の後は城館を建設したるも明治維新期における戊辰の役で燒亡したと云う
 ここに聰敏神社の由来記に併せて臥牛城の今昔を回顧するものである
  平成二年十一月二十三日
              鈴置一郎 謹識
              光岡三省 謹書
 裏面。
聰敏神社建立・改修記
 この聰敏神社は 文化十三年 当時の結城藩十二代城主水野勝愛公が 初代勝成公の遺徳を慕び 今の広島県 福山市の 聰敏神社より勧請(神佛の来臨を請い 分霊を移し祀ること)し建立された
        左 水野日向守源勝成公
宗源 聰敏明神
        右 水野美作守源勝種公
右■奉勧請     備後國福山
神靈者神祇管領   聰敏明神 神主道師
長上卜部之家傳受如件 池田上総介  藤原宗イ竒
 文化十三年丙子三月廿五日   (一八一六年)
●神社建立
  文政元年六月起工 文政三年三月二十九日完工
  鳥居建立     文政二年六月
  御門燈建立    文政十年五月
●戊辰戦争            (一八六八年)
 旧結城藩水野家居城臥牛城は戦火により燒亡せしも神社は残された
●神社合併            (一九〇八年)
  白峯神社
  稲荷神社
  八幡神社  以上の四神社が聰敏神社に合併された
  十二天神神      村社聰敏神社ヘ合併ノ件聞届
 明治四十一年十二月十二日 茨城県知事  坂 仲輔
●神殿大修繕工事         (一九〇九年)
 明治四十二年五月起工  十月十七日    落成
 募金戸数 二三二戸   募金額八百七十八円五十銭
●社殿修築及附帯工事       (一九七二年)
 昭和四十七年六月起工 十一月二十四日   竣工
 募金戸数 一八七戸   募金額壱百四十三万円五千円
●神社大改修工事         (一九九〇年)
 平成二年一月起工   十一月二十三日   竣工
 募金戸数 二六六戸   募金額千百二十二万円六千円
 社殿屋根瓦葺き替え 由来記。鳥居額。建具類新調
 御門燈建立及修復 水屋修復 外柵製作

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篆刻師三卋號士人
無量壽庵三木常正作詩書

 偲水野勝成公
鞆浦巖頭偲注賢
勝成公悉利天然
巍然天守名城譽
三萬頃田遺徳傳

福山城主・水野勝成公・マコトニ名君ナリ・連戰連勝・敗ヲ知ラザル勇将ナリ・三萬ノ頃田=三萬町歩(三万ヘクタール)開拓シ今尚傳ウ・福山ヲ尋ネ聰敏本社ニ詣デ賢忠寺ニ於テ勝成公ノ法要ニ参列墓前ニ結城ノ櫻ヲ植樹・鞆浦ニ泊シ注古ヲ偲ンデ作詩ス・古稀記念ニ建碑(吟詠詩集日本之四季ヨリ)
 裏面。
 結城城址ニ過年水野勝邦公ヲ御迎エシテ聰敏神社ニ詣デ舊臣ト本町氏子総出デ御本丸ノ櫻ノ花ヲ賞シ和氣靄々樂シク時ヲ過ゴシタ折リニ城址之櫻花ノ詩ヲ作ル

 賞城址之櫻花
訪花無酒興難伸
有酒看花歌啓唇
紅雪放香葩亂舞
吟詩樂酒讃花人

 水野城主ハ往時・桐ノ植樹ヲ成シ領民ノ福祉ヲ計ッタノデ今日デモ福山市ニ次グ桐製品ノ産地トナル・尚・水野城主ハ結城政勝公ノ遺風ヲ継ギ・御朱印堀内ノ地子税ヲ免除シテ・城下町ノ繁榮ヲ計リ明治維新ニ至ル 献上品ハ饂飩ト牛蒡也
 私ノ著書・吟詠詩集・日本之四季・還暦記念ニ出版・茲ニ古稀ヲ迎エ江戸時代ヲ偲ブ・日本詩人連盟会員三木常正謹書
   昭和五十八年十一月二十三日建之
         紺屋町中村石材店吉雄刻


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 城跡公園入口。
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結城市指定史跡 結城城跡
 結城城は治承年間(一一七七~一一八〇)に結城朝光が築いたとされるが確証はない。むしろ南北朝動乱期に築城されたと見るべきであろう。
 その後、結城家は室町時代に関東八家の一に列して勢力をふるい、戦国時代には宇都宮・佐竹氏らと伍して生き残り、天正十九年(一五九一年)徳川家康の二男秀康を十七代晴朝の養子にもらい受け、慶長六年(一六〇一年)越前福井への国替えまで関東の雄として栄えた。
 結城氏の転出後、結城城は廃城となったが、元禄十三年(一七〇〇年)水野勝長(一八〇〇〇石)の入部によって再興され、明治に至るまで水野家の居城となった。
 結城の名を不朽にしたのは永享十二年(一四四〇年)の結城合戦である。関東公方足利持氏が将軍義教と争って滅ぶと結城家十一代氏朝(一四〇二~一四四一年)は、持氏の遺児春王丸と安王丸を奉じて兵を挙げた。
 幕府は諸将に氏朝らの討伐を命じたが、結城落城まで一年余の歳月を費し、結城の名を天下に轟かす結果となったのである。
  結城市教育委員会
          平成四年四月四日 建立

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 こちらも結城百選の一つ。
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 与謝蕪村句碑。
 「ゆく春やむらさきさむる筑波山」
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 水野家顕彰碑。
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 公園の中にぽつんと建てられた鳥居。柱には「昭和五年三月」「結城町有志」と刻まれている。
 鳥居の奥に見える石を祀っているのかと思ったが、石には結城ライオンズクラブの25周年と40周年の記念樹と刻まれており、どう見ても御神体のようには見えない。なんなんだろう、この鳥居。

 以上で3月25日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA16-85mm、FA28mm、FA43mm。X30。
 ウォーキングカウンターは18,787歩。
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玉日姫の墓(結城)

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 結城城跡公園の西北に位置する玉日姫の墓(結城市結城)。
 玉日宮とは聞き覚えの無い名前の神社だなと思い立ち寄ってみたら、神社ではなくお墓だった。そう言えば結城駅前の観光案内板に、玉日姫の墓と言うのが城跡公園の近くに書いてあったな。そうかあれここか。などと思い出し、神社じゃないけど折角来たのだからと見て行くことに。
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 この宝篋印塔が玉日姫の墓であるそうだ。
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史跡 玉日姫の墓
 結城城の北に、玉日という地名が今も伝わります。この地名は、ここに眠ると伝わる玉日姫にちなんだものです。
 墓所に建つ碑は、浄土真宗の篤学の高僧・島地黙雷により綴られ、次のようなことが記されています。
 玉日姫は、関白・九條兼実の七女として誕生し、浄土真宗の開祖・親鸞聖人の妻となりますが、越後に流された聖人が、赦されて関東に向かったとの知らせを聞いて、侍女の白河の局を伴ない関東に下りました。
 玉日姫は、この地方一帯で布教を続ける聖人を助け、自らも剃髪します。やがて、聖人が京に戻ることになる際も、その教えを広めんがために結城に留まり、ここに草庵を結び生涯を送ったということです。
 現存する、石の玉垣に囲まれた宝篋印塔は、近世になってから、江戸の講中(玉日講)により再建されたものです

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能荘厳院尼公之碑
能莊嚴院惠信襌尼碑     従三位九條道實公篆額
襌尼法諱惠信諡能莊嚴院始名玉日關白九條兼實公第七女也建仁三年
爲眞宗開祖鸞師配承元元年宗祖遷謫時畱在京都後假稱兵部太輔三善
為教女與侍女白川局等東下追随共助道化當此時結城朝光深歸宗祖執
師資禮是以宗祖歸洛後猶住結城落飾改名専任遺教扶護蓋關東法苗被
襌尼培養居多云建長六年九月二十九日歿享年六十九歳先于宗祖遷化
八年也遺訓懇切使人感泣所以後世景慕益加焉今茲遠近門侶協同建碑
以擬報恩請銘於余余乃爲銘曰
 法本一理 機有利鈍 攝化無量 方便千萬 夙爲韋堤 怨恨臨刅
 今成玉女 綢繆相勸 眞俗扶翼 宗基由建 何周引導 共乘悲願
  明治四十一年歳次戊申九月 龍谷勸學島地黙雷譔竝書
                         宮田九靍刀
 九条兼実の娘である恵信禅尼(玉日姫)が兵部太輔三善為教の娘と称して東へ下ってきたとあるが、ググってみると恵信禅尼は九条兼実の娘ではなく越後国の豪族である三善為教の娘であることが大正十年(1921)に判明しているそうで、この碑が建てられた明治四十一年(1908)の時点では九条兼実の娘であると思われていたのだろう。
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 ここも結城百選の一つである。

羽黒熊野神社(大谷瀬)

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 大谷瀬児童会館の裏に鎮座する羽黒熊野神社(結城市大谷瀬512)。
 社殿改築記念碑の裏面には以下の碑文が刻まれている。
羽黒神社祭神倉稲魂命    応永九年桐ヶ瀬基光に依り創建 
熊野神社祭神家都美御子大神 同年代に創建された口傳なるも創建不詳
      素戔嗚尊    弘化戊申年に再建
明治四十三年神社統合令により両社合併
昭和二十七年八月二十二日宗教法人設立
 応永九年は1402年で室町幕府第四代将軍足利義持の時代。弘化戊申年は1848年(弘化五年)で江戸幕府第十二代将軍徳川家慶の時代。
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 大祖参神。
 なんだろうそれと思いググってみると、扶桑教の奉ずる三柱の神で、天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神のことであるそうだ。つまり造化三神なのね。
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 大谷瀬児童会館。
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