両国稲荷神社(東日本橋二丁目)

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 両国橋西交差点の北側、日本橋CETビルとNビル、ヴェルドミール柳橋の間と言うとてもわかり難い場所に鎮座する両国稲荷神社(中央区東日本橋2-28)。
 何年か前には鳥居や案内板もあったそうなのだが、現在はどちらも無くなっている。
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 以上で4月30日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA20-40mm、DA16-85mm、DA FISH-EYE 10-17mm。X30。
 ウォーキングカウンターは17,841歩。
 今回は4月22日の神社巡りで見落としていた所を主として巡って歩いたのだけど、見落としすぎだろう自分○刀乙
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矢之庫稲荷神社(東日本橋二丁目)

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 薬研堀不動院の西側に鎮座する矢之庫稲荷神社(中央区東日本橋2-6)。
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 ググってみたところ、現在の社殿は平成二十三年(2011)十月に新築されたものであるそうだ。
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縁起
 今日隣接する東日本橋一丁目あたりが谷野と呼ばれていた頃 正保二年(一六四五)幕府が米蔵を建て谷野蔵矢之倉と称されていました その庭中に御蔵の鎮神として三社を合殿した三社稲荷神社をまつりました三社は中央に「谷野蔵稲荷」左に「福富稲荷」右には「新左衛門稲荷」からなりたっておりましたが五十年程経て元禄十一年(一六九八)に御蔵を鉄砲洲に移転すると共に三社稲荷を一緒に移されました 御蔵の後地に居住する人達がその名を惜しんで そこに三社稲荷を残し今も尚東日本橋一丁目に「矢の倉三社稲荷」として祭られております後年明治六年(一八七三)に「新左衛門稲荷」が昭和七年(一九三二)には「福富稲荷」が当町にある「初音森神社」に遷座合祀されたと伝えられ残る「谷野蔵稲荷」は幾多の変遷場所を変え現存地にその社を構えるに至りました その名称に使われている文字もいつの頃から「矢の庫稲荷」と特に「庫」の文字を強調した呼称に改められました祭神は「三社稲荷神社」と同様「宇賀魂命」と考えられ御神躰は勿論現存しないわけですが翁の形で手に鎌と稲穂を持つと伝えられております
 昭和五十三年 二月
        矢の倉稲荷世話人

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 「信為本 昭和三十年秋吉日 黒川武雄謹書」と刻まれた石碑。
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 矢之庫稲荷神社からぐるっと東側に回り込むと薬研堀不動院(中央区日本橋2-6-8)。
 その脇には聖徳太子が祀られている。

久松稲荷神社(日本橋久松町)

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 久松町会館の入口脇に鎮座する久松稲荷神社(中央区日本橋久松町6-6)。
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 お狐様。
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 首だけになってしまっているが、先代だろうか。
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明治座稲荷神社(日本橋浜町二丁目)

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 浜町センタービルの脇に鎮座する明治座稲荷神社(中央区日本橋浜町2-31-1)。
 額には「正一位笠間出世稲荷大明神」と刻まれており、正しい社名は笠間稲荷神社明治座分社であるそうなのだが、長いせいか明治座稲荷神社と呼ばれる方が多いようだ。
 由緒書きは見当たらないが、ここから200m程西北に鎮座する笠間稲荷神社東京別社からの分社である。明治座内に祀られたのがいつなのかはわからないが、明治座の創建は明治六年(1873)であり、また笠間稲荷神社東京別社が現在地に遷座して来たのも明治六年十二月なので、それ以前と言うことはないだろう。
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 お狐様。
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元徳稲荷神社・綱敷天満神社(日本橋浜町二丁目)

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 清洲橋通りと新大橋通りが交わる浜町中ノ橋交差点の北西、日本橋浜町パークホームズの脇に鎮座する元徳稲荷神社・綱敷天満神社(中央区日本橋浜町2-3-5)。
 神田祭間近と言う時期が悪かったのか、飾り付けで鳥居が見えない。いや、逆に考えよう。この時期だけのレアなのだと。……また後で機会があれば参拝して来よう。
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元徳稲荷神社と綱敷天満神社の由来記
江戸時代上期千五百石を領した川村徳エ門が伊勢神宮の外宮、豊受大神宮より分け御霊を受け、小石川の自分の屋敷内に祀った、後に屋敷替えとなり今の墨田区立川三丁目の三ツ目通り三ノ橋の袂に遷宮して一般市民の参拝が出来るように開放しました。豊受大神宮は瑞穂の神として国魂の神になって居たので庶民が豊作をもたらす神として祀る場合は稲荷神社の神名で祀るようになったようです。
川村徳エ門が再度屋敷替えをした跡に民家が建ち、この町を「元徳エ門町」といい、稲荷神社は元徳稲荷神社と名づけられました。
細川公という大名屋敷が今の浜町二丁目西部町会(以前は元徳町会と呼ばれていた)内にあり、細川公が懇請して元徳稲荷神社の分け御霊を受けて祀ったのが、元徳稲荷神社の由来であります。
元徳稲荷神社に、同じ町内に祀ってあった学問の神である天神様(綱敷天満神社)を合社いたしました。
進学の神、産業、商売繁昌、火伏せの神としてのご利益も伝えられています。

神紋は稲荷神社の抱き稲紋と天神様の梅鉢紋を組み合わせた抱き稲に梅鉢です。

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 由緒書きの前にスタンプが置かれているが、御朱印と言うか参拝記念スタンプなのかなこれ。御朱印集めはしていないから確認しなかったけど。

八大龍王社元宮(日本橋箱崎町)

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 八大龍王社から東へ130m程、箱四町会防災器具置場の隣に位置する八大龍王社元宮(中央区日本橋箱崎町44-8)。
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 磐座かな? 右上の方に八大龍王元宮と刻まれている。
 その左側に波切不動明王、右側に千人塚無縁之霊と刻まれた石塔が建てられている。あれ、水神様はどこだ?
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茶ノ木神社(日本橋人形町一丁目)

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 水天宮前交差点のやや北西に鎮座する茶ノ木神社(中央区日本橋人形町1-12-11)。
 こちらの神社を参拝するのも六年ぶり。
 由緒書きは前回参照
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明星稲荷神社(日本橋小網町)

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 日本橋川に架かる茅場橋の北東、日本橋小網町町会会館前に鎮座する明星稲荷神社(中央区日本橋小網町4-9)。
 鳥居の柱には紀元弐千六百の文字が見えるので、昭和十五年(1940)に建立されたものだろう。
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 由緒書きが無いのでググってみたら中央区の町会・自治会ネットと言うサイトにこちらの由緒が記載されていた。
 それによると、明星稲荷神社は当初江戸城内に祀られていたが徳川家康公入府の際、地頭職にあった小網町の浜口家に下げ渡され浜口家の屋敷神として祀られるようになったが、大正十二年の関東大震災の後仮殿が建立され、昭和八年に復興。その後戦災により焼失したが昭和四十三年に再建されたとのこと。また瑞垣の脇に設置された銅板製の神社新築御奉納芳名碑には平成二十五年四月吉日と記されているので、現在の社殿等は四年前に新築されたばかりであるようだ。
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純子稲荷神社(日本橋茅場町三丁目)

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 亀島川に架かる新亀島橋の西側、日本橋消防団地域活動センターの隣に鎮座する純子稲荷神社(中央区日本橋茅場町3-13-6)。
 神社の名前から東方なんちゃらの純狐と言うキャラが脳裏に浮かんだがまぁ何の関係も無いのでそれはおいといて。と言うかググったら「じゅんこいなり」ではなく「すみこいなり」と読むらしいですしここ。
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純子稲荷神社御由緒
本   社   東京都中央区日本橋茅場町三丁目
御 鎮 座   元和二年十一月二十日
再建立御鎮座  昭和四十八年四月二十日
神   璽   伏見稲荷大社
御 神 名   純子大神
御 祭 神   豊受大神
         宇迦之御魂大神
         佐田彦大神
         大宮能売大神
         田中大神
         四之大神
御 神 徳   精神、生命、生活、生業、生産
御 神 威   心身健全、家内安全、五穀豊穣
        商売繁昌、福徳円満、芸能成就
        往来安全
御 祭 日   二月初午の日
        四月、十一月御鎮座の日
         元文二年十一月二十日
           (一七三十七年)

 元和二年(1616)なのか元文二年(1737)なのか、どっちだろう。
 ちなみに鳥居には「奉納 昭和四十八年二月吉日 濱田金太郎 神林清作」と記された金属板が取り付けられているので、神社再建の完成前に既に奉納されていたようだ。
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鳥居稲荷神社(日本橋兜町)

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 首都高速都心環状線に架かる新場橋の90m程南東に鎮座する鳥居稲荷神社(中央区日本橋兜町20-2)。
 こちらに参拝するのはおよそ六年ぶりか。
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 草が茂っていて由緒書きの三分の一くらいが見えなかったので、由緒書きは前回参照
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於満稲荷神社(日本橋三丁目)

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 八重洲大飯店と酒席いづみやの間の僅かなスペースに鎮座する於満稲荷神社(中央区日本橋3-3-3)。
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於満稲荷神社縁起
此の神社の於満とは、徳川家康公の奥御前で養珠院様(於満の方 一五八〇~一六五三)といわれています。養珠院様は二人の男児に恵まれました。徳川御三家紀州家の開祖となった徳川頼宣公と、水戸家の開祖徳川頼房公の御生母です。また八代将軍吉宗公や徳川光圀公(水戸光圀公)も子孫に当たります。一六五七年の「明暦の大火」で江戸城をはじめ、このあたりも記録とともに消失しました。その後復興し、寛文(一六六一~七三)の記録に、この於満稲荷神社が記されています。 言い伝えでは、此の地に幕府のご休憩所があり、信心深い養珠院様御一行が神仏寄進のために日本橋界隈に物資調達にお立寄り、商業に多大な貢献をした養珠院様ゆかりの地として、商人達によって神社が建てられたとされています。 またそれから百年あまり後の寛延(一七四八~五一)には於満稲荷ゆかりの「於満すし」が江戸中の名物となり、この地の賑わいが記されています。
以来約三百五十年間、この稲荷神社は関東大震災など数々の試練を乗り越え、この地の商売繁盛五穀豊穣の稲荷神社として崇められ信仰され続けています。

平成十七年、中央区により「養珠院通り」となった通り名の由来にもなりました。
平成十七年七月吉日
 於満稲荷神社世話人一同

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 都内には敷地の狭い神社が多数あるが、こちらは輪をかけて狭い。
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 現代の地図と江戸時代の地図が並んで設置されている。ただ、この左側の地図の赤印が付いている所は実際の場所より北に1ブロックずれているような気がするのだが、もしかしたら江戸時代にあった場所が現在ではその位置に当たると言うことなのだろうか? わからんけど。
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