聖観音堂(邑楽町中野)

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 邑楽町立中野東小学校の北側に位置する聖観音堂(邑楽郡邑楽町中野)。
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 聖観世音菩薩。
 奥の石塔には馬頭観音の文字が見える。

 以上で9月9日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA15mm、DA35mm Macro、DA70mm。X30。
 ウォーキングカウンターは8,095歩。移動距離は往復で約40kmだが、これくらいの距離なら自転車でも楽だな。
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八幡宮(邑楽町鶉新田)

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 多々良沼公園の北西に鎮座する八幡宮(邑楽郡邑楽町鶉新田116)。
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 本殿。
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 末社。

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 八幡宮の230m程南の十字路脇に位置する・・・・・・大聖文殊大菩薩(邑楽郡邑楽町鶉新田175)、かな。ちょっと読み取り難い。
 背面には「昭和七年一月吉日 願主 飯塚仁市」と刻まれている。

浮島弁財天(邑楽町鶉新田)

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 多々良沼公園から沼の中に突き出した小島に鎮座する浮島弁財天(邑楽郡邑楽町鶉新田)。
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 現在は改修工事中であるようだ。
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浮島辨財尊天由来
抑 当社は鎌倉幕府没落の時 執権北条高時の弟四郎慧性が、或る夜日頃崇拝する江の島弁財天が夢枕に立ち「汝等の池 上毛の郷に霊地あり、其処え逃れて居住なし、北条家の再興を図るべし」とのお告げに従い、弟荒間五郎友春と重臣三名を伴い主従五名にて多々良沼に辿りつき、恩林寺を建て東林友丘和尚を開山として北条家の菩提寺となし、北条家代々の護り神たる江の島弁財天を恩林寺開山東林大和尚に懇請して勧請し鎮守として建立したものである。
               恩林寺縁起より
平成元年十月三十日建立

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 鳥居。
 柱には「昭和六十年十月 森下隆司 建納」と刻まれている。
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 拝殿。
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 斜めから。

 改修が終わったらまた後で来よう。

鶉古城跡(邑楽町鶉新田)

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 多々良沼公園の中に残る鶉古城跡(邑楽郡邑楽町鶉新田6-1)。
鶉古城跡
 鶉新田字小城にある、多々良沼に突出した「荒間崎」と呼ばれた半島部に築かれた城である。城名については葵下坂といわれた幕府御用鍛冶康継二代の弟が、この地に住み脇差に「鶉古城打」という銘を残しているところから江戸初期、すでにこの名称が使われていたものであろう。
 城跡西南端に当たる入口の道路付近から、半島部を横断するように北に向って直線にのびる、高さ三メートル、長さ二五〇メートルほどの土塁と、その西側に沿って空堀がある。
 元弘三年(一三三三)五月、北条高時が鎌倉に滅ぼされたとき、その弟の僧慧性・荒間朝春らはともに逃れて来て、ここに築城。応永年間(一三九四~四二八)には多々良四郎忠致の居城となり、ならに戦国時代を迎えると、館林城主の重臣で下野国小曽根郷八形(足利市高松町)城主小曽根政義は小田原北条氏の来攻に備え、兼帯で当城を守備した。しかし、天正一八年(一五九〇)館林落城に伴い廃城となり鶉古城二五〇余年の歴史を閉じた。今はわずかに残る塁濠と、先端浮島に安置してある南北朝期と推定される墓石の一部が、辺りの風景とともに往時の繁栄を物語る。
 昭和六十一年三月

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 小さな石祠があるが、何神社なのかは不明。
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大谷神社(成島町)

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 東武小泉線成島駅の400m程東に鎮座する大谷神社(館林市成島町371)。
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 鳥居の根巻部分には狛犬の姿が彫られている。
 柱には「天保五年甲午歳二月吉日」と刻まれているので1834年の造立。
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 二の鳥居。
 「皇紀二千六百年 伊勢参宮記念」と刻まれているので昭和十五年(1940)の造立。
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 参道脇の狛犬。
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 拝殿前の狛犬。
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 拝殿。
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大谷休泊翁合祀記念碑
上毛の地は美しい山水の天恵と偉人の恩沢に浴し隆々栄えて在り、室町時代は天文の頃、大谷休泊翁は渡良瀬川より取水し明和村大輪に至る上休泊堀を、又多々良沼より江黒に流れる下休泊堀を掘削し、水田を拓きて其の配水面積実に一千余町歩に及び、灌水滔々として幾百年今なおその恩恵に浴す、翁は又館野ケ原の荒野を拓き軽鬆の地に松苗を植林す、されど旱魃による枯死木の多きを憂い清浄の地へ草祠を営み山神を祭り植林の完成を祈願す、此れ大谷神社の創建なりという。以来苦節二十年を要し五百八十六町歩に亘る造林を達成し、水源涵養、防風、薪炭林として民生に寄与し、八州に冠たる農耕改良植林の大業をなす、英知を以て天恵を増進し而して東毛を沃野と化す、正に農地改良の始祖として斯界に盛運を授け給へり、
      偉なるかな 其の広遠なる業績、 敬なるかな 其の崇高なる神徳、
郷党等しくその恩徳を崇拝し敬仰おく能はざる所なり、今や「水と緑豊かな郷土造り」、の機運本邦に高からんとする時、氏子一千参百余の総意により大谷休泊翁を大谷神社に合祀し永世敬神の誠を盡さんとす、願はくは悠遠に郷土を守護し賜はらんことを、
 昭和六十一年四月吉日  題字 群馬県知事   清水一郎書
                館林市議会議長 熊倉正一郎撰文
                大谷神社総代表 曽根彦之書

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   合 祀 紀 念 碑     群馬縣知事正五位勲四等神山閏次篆額
夫レ敬神ハ皇國民ノ特徴ニシテ忠孝ハ大和民族ノ獨特ナリ宜ナル哉我カ國 上ハ宗■ヨリ下鎮守ニ至ルマニ國トシ村トシ将タ字トシテ神社ノ建立之レ無キハ莫シ我カ成嶌村内大谷原ニ鎮座セル大山祇神社ハ祭神大山祇命ニシテ永禄二年九月今ヲ距ル凡三百五十餘年ノ昔大谷休伯翁大谷原ニ植林ヲ経營スルニ方リ松苗ヲ隣郡太田金山ヨリ移植セシニ樹半枯死セリ足ニ於テ翁原野中央ノ地ニ草祠ヲ結ヒ以テ山林ノ守護神ト為シ更ニ又稺松數十萼株ヲ栽培繁茂セシメタリト而シテ維新前ニ在テハ館林代々ノ城主ヨリ毎歳祭資料トシテ松材若干本ヲ下賜セラルゝノ例アリ爾来時移リ星易リ明治五年社格ヲ村社ニ列ス之レ本社因起ノ梗概ナリ又小蓋耕地諏訪神社休伯耕地山神社赤土耕地山神社愛宕稲荷神社等祭祀ノ典禮今日ニ亘レリ明治三十八年敕令ヲ以テ社寺ノ合併合祀ヲ發布セラレタリ是ニ於テ乎篤志者令旨ニ鑑ミ氏子ト謀リ村内ノ神社ヲ合祀セント中央便宜ノ地ヲ相シ民有地千三百餘坪ヲ購フテ社地ト為セシハ明治四十年三月ナリ尋テ又社名ヲ大谷神社ト改稱スルノ官ノ認可ヲ得シハ四十一年六月ナリ今茲朙治四十二年一月一日ノ吉辰ヲ以テ社殿建築ノ工ヲ起シ同年三月五日上棟式ヲ舉ク又時ヲ同クシテ社務所ヲ境内ニ造設ス越テ同年十一月十日ヲトシ五社靈璽ノ合祀遷宮式ヲ舉行シ茲ニ創メテ大谷神社ト敬虔スル一大村社ハ出現セリ矣嗚呼此ノ村ニシテ而シテ此ノ舉アリ顯然タル神靈村民ノ幸福ヲ増進ス可シ灼然タル神徳闔村ノ安寧ヲ擁護ス可シ又村民ハ頼テ以テ道ヲ践ミ業ヲ勵ミ大ハ即國家ノ盛運ト繁榮トヲ祈リ小ハ即子孫ノ長久ヲ禱ラン頃日氏子相謀テ合社建設紀念碑ヲ社側ニ樹テ以テ不朽ニ傳ヘ後世子孫ヲシテ長ヘニ皇國ノ特質タル敬神ト忠孝トノ美徳ヲ發揮セシメント有志某々等来テ余ニ文ヲ乞■余固ヨリ不文敕テ中ラスト雖深ク其ノ意ヲ好シ辭セスシテ而シテ之ヲ録ス
  明治四十二年十一月              館林 吉田必於撰
                         仝  岡戸畊瑩書
 永禄二年(1559)九月に大谷休泊が山林の守護神として大山祇命を祀る祠を建てたのが創まりで、大山祇神社として長く信仰されて来たが明治五年(1872)に村社に列格、四十一年(1908)に大谷神社に改称。四十二年に社殿の建立と五社の合祀遷宮式とあるが、これは諏訪神社と山神社、山神社、愛宕神社、稲荷神社の五社と言うことだろうか。上の大谷休泊翁合祀記念碑を見ると昭和六十一年(1986)に大谷休泊も御祭神の一柱として合祀されているので、現在の御祭神は
 主祭神 大山祇命
 配祀神 建御名方命、軻遇突智命、倉稲魂命、大谷休泊
と言うことになるのだろうか。
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 末社。
 中に掛けられた奉名板には富士の文字が見えたので、おそらく富士嶽神社だろう。
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 上部が剥がれてしまっているが、小御嶽神社だろう。下部には磐長姫命と日本健命の名が刻まれている。
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 大黒天。
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 末社。
 神社名を記したものは見当たらなかったので何神社なのかは不明。

竹生島神社分宮(富士原町)

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 国道122号線富士原交差点西南に鎮座する竹生島神社分宮(館林市富士原町1109-2)。
 名前から見て本町三丁目にある竹生島神社からの分社かと思っていたが、由緒書きを見るとまるで違った。
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当社御祭神と弁財天由緒
 当社は古より滋賀県の琵琶湖の北に浮かぶ神の斉く島日本三大弁財天本社竹生島神社の直系分社として御遷宮され、当地に御鎮座されています。
 全国各地に竹生島神社の名称のお宮は数多く御鎮座されていますが当神社は唯一の直系分宮です。
市杵島姫命 (いちきしまひめのみこと) 別名 弁天様
宇賀之御魂命(うがのみたまのみこと)  別名 龍神様
浅井姫命  (あざいひめのみこと)   別名 竹生島地主神

竹生島神社の起源
 総国風土記によると雄略天皇三年(約一五〇〇年前)に御祭礼が執り行われた記録がありその後天智天皇が志賀の宮を御創造になった折この竹生島に市杵島姫命(弁財天)をお祀りになりました。又別の縁起によると聖武天皇が奈良に都を始められた神亀元年甲子三月十五日天照大神様の御神託により都の守護神として当竹生島に市杵島姫命(弁財天)を御祀りになり、天平三年には天皇自ら竹生島にご参拝されました。

弁財天様は万能の功徳を授ける女神
 弁財天は今日七福神の中の唯一の女神として知られているが、大弁功徳天、妙音天、美音天、などとも諭旨され略して弁天、この神への人の気楽さで弁天さま、弁天さんと呼び習わすが弁財天様の現世功徳とは人々に弁舌の才を与え、福智を授け、延命と財宝をもたらし天災地異を除く神法として信仰を集める神で特に富貴、名誉、食物、勇気、子孫繁栄を恵む、学芸音楽の守護、土地の豊饒を招来する農業神として信奉される、人々の熱心な崇敬によりその功徳の包容力を益々高められきわめて特別な神格を持っている大神様です。
 神は人の敬いによって神威を高め 人は神の徳によって運に添う
 竹生島神社本宮の由来は書かれているが、この分宮の沿革などは記されていないのでよくわからない。
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 拝殿。
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 北の鳥居。
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清龍神社(本町二丁目)

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 群馬県道57号線脇に鎮座する清龍神社(館林市本町2-11)。
 以前に一度参拝しているので立ち寄る予定は無かったのだが、折角通りがかったのだからとお詣りしてみた。前回は2009年11月だったから、大体八年ぶりか。
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 本殿。
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 下の方が埋もれているが、出ている範囲内では「奉寄  清瀧大権  天和三年  願主 冨田  別當 福壽」の文字が見える。
 この井戸は館林駅前の竜の井や城沼と繋がっていたとの言い伝えがあると案内板に記されているが、まだ竜の井を見に行ったことなかったな。そのうちに行って来よう。
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 この後は富士原町の富士嶽神社へ向う予定だったのだが、行ってみたら鳥居の周辺でスマホを見ながら下を向いている集団がいたのでパスして次の神社へ。そう言えば西本町の愛宕神社でも参拝し終えた頃に鳥居の所で同じようにスマホを見ている集団がいたっけ。なんだったんだろうあれ。ポケモンGoとかかな? まぁまた後で行って来よう。見落としていた神社もあることだし。

金山神社(本町二丁目)

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 連雀子育観音の200m程南、民家前に鎮座する金山神社(館林市本町2-16
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連雀子育観音(本町一丁目)

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 かごめふれあい館の裏に位置する連雀子育観音堂(館林市本町1-3)。
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連雀子育て観音の由来
 天正年間(一五七三‐九二)の中ごろ館林地方を領していた小田原の北条氏より絶えて久しかった「六斎市」の復興が許されると、市場守護とその幸福をもたらすため市神(牛頭天王)がまつられた。当時は近郊近在より自家製の穀類・野菜をはじめ日用生活雑貨などを連雀(連尺・連策)とよばれる運搬用具で背負い市場である路傍に運び商品を並べて客を待った。
 これを連雀商人といい、その商人の集まった所を連雀町といった。ここは館林城大手門に接し頗る賑わいを極めた商人の町として発展した。今の「かごめ通り商店街」である。後に市神も他町内へ遷座、そのとき市神境内にあった観音は元気なそして利発な子に育つ霊験あらたかであるという由緒から、住民こぞっての希望で据え置かれ、ますます多くの人々から信仰されてきた。弘化年間井上河内守から秋元但馬守への引継書にもこの名が見え、当時から著名の観音だった。
(川島推知 記)

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不明(本町一丁目)

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 本町二丁目交差点の80m程西、サンライズ小室脇に鎮座する祠(館林市本町1-1-1)。
 社名を記したものが無いので何神社なのか不明。

野木神社・冨士嶽神社(仲町)

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 本紺屋町会館脇に鎮座する野木神社・冨士嶽神社(館林市仲町5-46)。
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 冨士嶽神社と野木神社の名が並んで刻まれている。多分社号標石。
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 額などの社名を記したものが無いのでどの祠が何神社なのかわからない・・・・・・と思いググってみたところ「塾長の徒然草」と言うブログにこちらの神社の記述があり、左端の祠が野木神社であり、祠の側面に額が掛けられているようだ。確かに一枚目の写真を見直してみれば側面に張り出している部分がある。全然気付かなかった○刀乙
 野木神社の御祭神は鹿屋野比売神であるとのこと。
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太神宮(仲町)

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 館林合同庁舎の170m程南に鎮座する太神宮(館林市仲町7-3)。
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 小さいながらも神明造になっている本殿。
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愛宕神社(西本町)

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 応声寺参道入口から170m程北上すると西本町南会館脇に愛宕神社(館林市西本町9)が鎮座している。
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 町名の由来を記したプレートの埋め込まれた石柱。
 現在は西本町だが、昔は木挽町と言う町名だったのだろう。
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 拝殿。
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 斜めから。
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合祀記念之碑
        貴族院議員正四位子爵秋元春朝篆額
抑愛宕神社ハ館林最古ノ神社ニシテ其由緒ヲ尋ヌルニ今ヲ距ル千二百年前文武天皇四
庚子年ノ創立タ■其後文永年間鎌倉執権最明寺時頼社殿ヲ造営ス元亀元年武田信玄ノ
祈願所ト定メラル後館林城主赤井照康ノ時ニ及ヒテ館林總鎮守ト定ム爾来北條長尾諸
氏及ヒ榊原康政ヨリ秋元但馬守ニ至ル世々ノ城主崇敬厚ク或ハ社殿ヲ修復シ又ハ祭祀
ヲ舉行セラレタリ天明元年聖護院一品親王宮菊章ノ幔幕ヲ納メラル明治維新ニ際シ神
佛混淆ノ禁令ヲ發セラレ随テ鎮守ノ尊稱ヲ廢シ遂ニ無格社ニ属ス境内ニ老杉數株アリ
蓊欝トシテ天ニ聳ユ會々是ヲ採伐シテ私利ヲ計ラントスルノ徒アリ巧ニ神職ヲ誑カシ
既ニ金ニ換ヘントス幸ニ特志家荒井清二正田文右衛門石島與平治ノ三氏首唱トナリ四
十五名ノ有志ト謀リ金ヲ醵シテ之ヲ購ヒ以テ事無キヲ得タリ明治十六年社殿頗ル朽廢
ヲ極メ又見ルニ忍ヒサルヲ以テ荒井石島両氏率先シテ大ニ修繕ヲ加フ現今ノ社殿即是
ナリ三十九年神社合祀ノ令ヲ發セラル時ニ本社ハ郷社長良神社ニ合祀シ巨樹ヲ金ニ換
ヘントスルノ議盛ニ起レリ此時ニ當リ荒井清三郎痛ク之ヲ惜ミ時ノ神職中島豊及ヒ氏
子等ト苦心焦慮専ラ是カ存續ニ力メタルヲ以テ茲ニ塚場町有志ト相謀リ本社ヲ存シ且
稲荷八幡秋葉ノ三社ヲ合祀スルノ議熟シ官亦之ヲ諒トシテ直ニ認可セラレタリ嗚呼靈
験顯著ノ神靈モ時勢ノ變遷推移■共ニ殆ント衰頽堙滅ニ歸セントス幸ニ敬神篤志家ノ
アルヲ以テ其血食ヲ存シ喬木蔚乎ヲ全ウスルヲ得タリ況ンヤ三柱ノ合祀ニ於テヲヤ是
レ氏子ノ永ク忘ル可カラサル所ナリ頃日氏子相謀リ碑ヲ建テ之ヲ不朽ニ傳ヘシトシ文
ヲ余ニ需ム余其ノ意ヲ嘉シ此ニ其梗概ヲ誌スト云爾
   大正八年六月                  吉田安宅 撰
                           寺島錬二 書
 創立が文武天皇四年庚子と言うと西暦700年か。大宝律令の制定される前年だ。その後文永年間になって北条時頼により社殿が造営されたとあるが、文永は1264~72年。北条時頼は弘長三年(1263)に没しているので無理じゃないのかな。時頼存命中ならば文永以前となるし、文永年間の執権となると北条政村か時宗だが、はてさて。
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 拝殿の裏手に回ると館林町第1号古墳の頂に本殿がある。
 石段右手側には猿田彦大神と三猿。
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 本殿。
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 石段脇の祠は三峰神社。
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 群馬県指定重要文化財である青石地蔵板碑。
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群馬県指定重要文化財 青石地蔵板碑
  指定年月日 昭和四八年八月二一日
  員   数 一基
  所   在 館林市西本町甲二四四〇 愛宕神社
  時   代 鎌倉時代
 板碑とは、供養などのために建てられた塔婆のことで、板状であることからこう呼ばれています。関東地方では、埼玉県秩父地方に産出する緑泥片岩を利用することが多く、この石は色が青く見えることから、「青石」と呼ばれてます。
 この板碑は頂部が欠けていますが、現状で高さ二〇二センチメートル、重さ八〇〇キログラム以上もある大きなもので、上半分には、地蔵尊の像が、下半分に「右志者為過去慈父出離 生死往生極楽成仏得道 文永十癸酉二月□日 十三ヶ歳十二孝子 敬白」の文字が刻まれており、文永一〇年(一二七三)二月に一二人の子供たちが亡き父の一三回忌に造立したものであることがわかります。
 画像板碑としては、群馬県内でも有数のもので、工芸・文化史上において貴重であるとともに、数少ない中世の文字資料でもあります。

館林城鐘(西本町)

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 時宗館林山應聲寺前に残る館林城鐘(館林市西本町2)。
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群馬県指定重要文化財 館林城鐘
一、指定年月日  昭和二八年八月二五日
一、所 在 地  館林市本町二番五〇号 応声寺
一、時   代  江戸時代
 この鐘は、寛文一三年(一六七三)、館林城主徳川綱吉が城内をはじめ城下町へ時を知らせるために下野天命(現栃木県佐野市)の鋳物師長谷川次郎左衛門藤原勝重に鋳造させた城鐘です。
 鐘の大きさは、口径七五cm、胴の高さ一〇六・五cm、龍頭を含め一三八・五cm、肉厚七・七cm、重さは五四〇kgを測り、駒の爪や撞木座、上部のツバ、下帯の文様などに江戸時代の巨鐘の特徴を示しています。
 乳の配列は五乳五列。池の間には鐘名の痕が残っています。この銘文は、綱吉を継いで館林城主となった綱吉の子徳松丸が、天和三年(一六八三)に死去し、館林城が一時廃城となった際、城鐘は不要となったことから、当時、時報係をつとめていた縁故で応声寺に下げ渡され、その時の条件としてつぶされ判読不可能となったと言われていますが、その後の研究、調査で次のようであったと解読されています。
 鐘之為器也、文武兼用、其声之伝、遐邇亮彰、上下聞達、在八音之始而万物由是以動、故内而懸於殿堂以置左右、外而携於軍旅以成進退、然則城楼不可無鐘、可以発晨昏之省、可以戒衛護之務矣、上州館林城者、為関左之重鎮、方今命鳧師、改鋳旧鐘、既脱鑢鞴、新架楼頭、令僕作銘、貴慮之加不可辞焉、銘日
  上毛野国 館林城楼 九乳改旧 六時点籌 動而鯨吼
  静則雷収 分弁昼夜 抹過春秋 花移長楽 楓添楚遊
  晨曦杲杲 暮雲悠悠 近聴先覚 遠響焉廋 有出有入
  或去或留 隊士馬進 戍卒衣摳 思武以激 謹直不休
  彫弓盧矢 画戟英矛 各守班別 共為好仇 兵備無文
  文徳可修 太平固本 方鎮相攸 簨虞高掛 鎮勲貽謀
   寛文十三年癸丑秋九月吉辰
         弘文院学士 林 恕謹記
               (参考 館林市歴史編)
 現在、鐘には幅〇・二mm、長さ四〇cmほどの亀裂が入っていますが、この亀裂は、銘文をつぶす時に生じたものと言われ、その後、嘉永元年(一八四八)の火災などを経て広がったものと伝えられています。
「城下町館林」に欠くことのできない館林城関係の文化財です。

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 「歴代に 時の音告げた 城の鐘」
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 応声寺。
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白山神社(栄町)

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 館林駅の北西350m程、正田醤油館林工場脇に鎮座する白山神社(館林市栄町14)。
 左の御堂には如意輪観音と地蔵尊が納められている。と言うことは十九夜堂だろうか。
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 昭和十年四月に建てられた改築記念碑。由緒等は刻まれていなかった。
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 三基並んだ石祠。左のものは石燈籠に石祠の屋根部分を乗せただけのようにも見えるけど、うん、まぁ。
 中央の石祠は白山宮で寛文・・・・・・何年だろう。よく見えない。右奥の石祠は八幡大菩薩・稲荷大明神で宝暦六子年(1756)二月の造立。
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 青面金剛。
 左は享保九甲辰年(1724)、中央は正徳五乙未年(1715)九月、右は享保五子天(1720)十月の造立。
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 文化七庚午年(1810)六月造立の普門品供養塔と享保十七壬子年(1732)十月十五日造立の歸命辨財天。

山神社(近藤町)

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 近藤開拓地区集会所の脇に鎮座する山神社(館林市近藤町)。
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 脇に建てられた山神社遷宮本殿建立御寄進碑には昭和六十二年十月二十五日と刻まれてはいるものの、由緒等は不明。
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 御神燈には「奉納御廣前 文政八乙酉年 正月吉祥日」と刻まれているので1825年の造立。とすると、こちらの山神社の創建はそれ以前と言うことになるだろうか。

元八幡宮(邑楽町赤堀)

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 群馬県道314号線脇に鎮座する元八幡宮(邑楽郡邑楽町赤堀4010)。
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 由緒書きが無いので詳細は不明だが、標柱には「元八幡宮之■■」と刻まれている。左側の石碑は開拓記念碑なので神社に関する事柄は記されていない。
 元八幡宮と言うからには他所にも八幡宮がありそうなのだが、この近辺には他に八幡宮は見当たらない。どこかの神社に合祀されている八幡宮の元宮がこちらと言うことなのだろうか?
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天満宮(邑楽町赤堀)

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 国道354号線の脇に鎮座する天満宮(邑楽郡邑楽町赤堀)。
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 祠の中には天満宮の石塔の他、久五郎神社と刻まれた石塔と石祠の台座部分のみが納められている。
 久五郎神社には「大正十四年二月吉日」と刻まれているので1925年の造立とわかるが、他は不明。まぁこの久五郎神社が何を祀ったものなのかさっぱりわからないのだけれど。
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 庚申塔。
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 後ろから。
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大日如来堂(邑楽町狸塚)

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 本郷江原集落センター脇に位置する大日如来堂(邑楽郡邑楽町狸塚2315)。
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 庚申塔と青面金剛。
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 江原新田土地改良事業竣工記念碑。
 大日堂についての記述は無い。
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馬頭観音堂(邑楽町狸塚)

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 群馬県道20号線狸塚交差点の170m程東、狸塚総合研修センター脇に位置する馬頭観音堂(邑楽郡邑楽町狸塚1590-1)。
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 享和四甲子年(1804)二月造立の石仏と明治三十九年(1906)三月造立の石碑。
 石仏は道標を兼ねているようで、左側面に「左たてはやし」と刻まれている。右側面にも刻まれているのだが、崩し字で刻まれている為読めない。石碑は文字が薄くなっていて読み取り難いが、「明治三十七八年之役也我軍之」で始まっているので日露戦争の記念碑なのだろう。
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 出羽三山塔。
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八坂神社(邑楽町中野)

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 第五区公民館脇に鎮座する八坂神社(邑楽郡邑楽町中野)。
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 寛政十戊午年(1798)五月造立の庚申塔。

愛宕神社(邑楽町中野)

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 邑楽町立中野小学校の南側に鎮座する愛宕神社(邑楽郡邑楽町中野)。
 額が無いので何神社なのかわからなかったが、弘化四年(1847)に建てられた石碑に愛宕邱と記されているので愛宕神社であろう。
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 本殿。
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重脩愛宕邱碑
上毛邑樂郡中野村有愛宕邱焉土人之所祀以禳災也往昔土人渇仰之餘相倶擔土築而成之其蹟洼然自畫心字清泉沸亢旱不竭土人知神之樂茲土焉祭祀匪懈神徳益以顯其後歴載既久邱圯池竭大乖所以妥神之意也土人大畏乃重恊議戮力増崇浚深疊石而環之嶄然皎然不日告成土人請勒其事干石扵余曰庶使後代掲虔渇仰如今匪懈焉余扵是知神之庥佑茲土永世無斁也乃作短古一章使其剜之其辭曰
神徳與邱崇民心與泉清神人唯誠耳茲以觀其成
弘化四年龍在丁未冬十月江戸龜田保撰文
 石碑の後ろの覆い屋の下には石塔の一部が置かれていたが、何なのかは不明。
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団地稲荷神社(下豊岡町)

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 豊岡団地公民館脇に鎮座する団地稲荷神社(高崎市下豊岡町1280-28)。
 天照皇大神宮を参拝した後は群馬八幡駅から信越本線で高崎駅まで戻ろうかとも思ったのだが、やはり折角来たのだからと踵を返して団地稲荷神社へ。さすがにもうお祓い行事は終わっていたので人の姿は見えなかった。
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 左手前の石碑には「果之山 正一位稲荷大明神」と刻まれている。
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稲荷神社
 この稲荷は、昔から「ハケノ山稲荷」「原の稲荷」などの通称があります。いつ、どんな理由で建てられたか不明ですが、常夜燈(残欠竿石)には文政八酉年(一八二六)三月、願主青木源兵衛と刻まれています。「果之山」の碑は昭和三十八年(一九六三)建立、裏面に十四名が連記されています。
 「ハケ(端気)」と「果」は同義で崖の端を意味します。この辺りが、烏川と碓氷川により形成された河岸段丘の、秋間台地から若田・八幡台地を経て続く豊岡台地の東端で、この先は崖となり豊岡地区の最も低地になります。その地形から「ハケ」などと呼ばれて来たようです。
 昭和三十四年(一九五九)に豊岡団地が造成されましたので、鳥居には「団地稲荷大明神」の掲額が掲げられています。お祓い行事が、年に一度、八幡神社神主のもと行なわれています。


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 団地稲荷の80m程南にある三角地に鎮座する石祠
 文字らしきものが刻まれているのだが、よくわからない。
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 以上で9月3日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA16-85mm、DA FISH-EYE 10-17mm。X30。
 ウォーキングカウンターは25,121歩。

天照皇大神宮(藤塚町)

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 浅間神社から450m程西に鎮座する天照皇大神宮(高崎市藤塚町)。
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天照皇大御宮・洪水祈念之碑・射水神
・天照皇大御宮
 全国に存在する天照大明神を祀る社で、建立年月などは不明です。祭は十月十四日に行なわれています。
・洪水祈念之碑
 明治四十三年(一九一〇)、大洪水のため藤塚町は壊滅状態に陥りました。家屋流失十八軒。半壊家屋五十数軒、浸水家屋十軒、溺死者二名、行方不明十名を数えました。疫病の発生を恐れ歩兵十五連隊が派遣され、近隣の人々の協力により復旧が為されました。皇族からの見舞金、国からの援助により復村したことを後世に伝えるため建立されました。
・射水神
 大正九年(一九二〇)、赤岩下が地滑りをして碓氷川を塞ぎ、人家や田畑に大きな被害を与えました。村民は堤防を造り、同十一年に村を守ることを願いこの碑が建てられました。

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 秋葉神社と射水神。
 石祠の前面には「正一位秋葉大権現」「明和元甲申年五月吉日」と刻まれている。明和元年は1764年。
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洪水記念之碑
洪水記念碑 陸軍歩兵大佐從五位勲三等功四級 古木秀太郎 篆額
明治四十三年八月十日暴風雨碓氷川大漲襄涯流橋其藤塚村地低平而家居近
岸是以打鐘報警近村相助堙塞是朂風愈暴雨愈急水量激増髙於平日既十五尺
矣濁浪沛然決潰堤防滔々横溢邨中浸家屋決田園人皆周章或攀梁或乘屋荷擔
奔走號哭之聲終夜不息村衙急開小學校為救拯之處供給衾食至翌十一日拂暁
水勢漸減衆心初降其間家屋流失者一十八毀壊者二半壊者五十有一浸水者十
而溺死者二生死不明者一既而水全退來閲之土礫滿家泥砂填井未可遽歸住也
於此老溺猶各把鋤鍬浚渫搬除鄰郷壮丁亦援之歩兵第十五聯隊特派兵員焉最
恐疾疫侵染鋭意盡力恢復後殆三十日而初得安其堵矣慘怛其状達
上聞九月六日侍從日根野要吉郎伴本縣知事神山潤次来傳
聖旨且賜 皇族諸殿下賑恤金村民感泣貯蓄以貽後昆本縣廳亦給與救害米穀
其二十日内務大臣平田東助来檢之然後田園修拓堤防再築越明年得全復儁觀
焉後數年邨人胥議勅禍害所及於貞石欲使後世子孫觀以不遣所儆誠也銘曰
  天何所怒 起斯風烈 吹雨巻雲 陵谷泪没 濁滾滔々 家流田決
  下民何辜 遷此杭臲 飽暖逸居 人情偸安 肉食紈袴 昔人譏孱
  心傲體懈 爲堪艱難 天烖地變 時㕥儆人 人能懲毖 勞苦儉勤
  寒暑無厭 饗義移仁 驕怠若兆 請觀斯文
 大正七年歳次戊午暮春月中浣    東谷隠士 田邨理 撰并書

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 境内側から見た鳥居。
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 天照皇大神宮から90m程東に石祠があったのだが、何神社なのかは不明。

浅間神社(藤塚町)

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 国道18号に面して鎮座する浅間神社(高崎市藤塚町)。
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浅間神社富士山
 中山道の一里塚の向い側に建つこの神社は、富士山を神格化した富士山信仰の神社で、静岡県富士宮市に鎮座する富士山本宮浅間神社が総本山の末社です。
 浅間さまは、坂上田村麻呂が勧請したと伝えられることから、田村麻呂伝説が多い東国のこの地でも信仰されて来たのではないかと思われます。祭神は木花咲夜姫で、祭礼日は七月十四日です。
 旅人たちが休憩する場所となっていた中山道二十八番目の一里塚が、八幡村と豊岡村の村境に位置していました。そのため、村人らが分担して清掃を行ない、一里塚を大切にすることに役立っていたと思われます。
 当社は八幡村分の藤塚が祀り、南側の八坂神社は豊岡村分の下藤塚が祀るのが慣例になっていました。

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 天神社と庚申塔。
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金ヶ崎不動尊(上豊岡町)

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 上豊岡町交差点の200m程東に位置する金ヶ崎不動尊(高崎市上豊岡町)。
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金ヶ崎不動尊
 この堂は、豊岡の茶屋本陣(東へ約300m)の飯野家が所有する広大な土地の鬼門(北東の方位)に当る、乗附村金ヶ崎に方位除けとして祀ったものですが、明治四十三年の大水害で流されてしまいました。そこで、飯野家所有の現在地に建てられました。本尊は木彫りで漆喰仕上げの不動様で、背の後に今もって鮮やかな色の大火焔があります。
 お堂は、昭和天皇即位の頃に建て替えられたときは、顔を洗うことにも使っていた清流が中山道沿いに流れていたので、北向きで中山道に面していました。昭和三十三年に改築の時に南向きに変えました。地元の人々によって、三月と九月の二十七日の夕方から二十八日まで縁日としてお祭りが行なわれています。不動明王は怒りの姿で悪魔を恐れさせ、悪魔から守護してくれると信仰されています。この不動様のおかげで、この地区には火災がないといわれています。

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 庚申塔と道祖神。
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 上豊岡町交差点傍の馬頭観世音(高崎市上豊岡町)。
 右側の石で囲われているのは水準点。

神明社(中豊岡町)

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 若宮八幡宮北口から150m程西へ向かうと道路に面して神明社(高崎市中豊岡町)が鎮座している。
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 詳細は不明。

若宮八幡宮(下豊岡町)

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 豊岡公民館の北東に鎮座する若宮八幡宮(高崎市下豊岡町甲1428)。
 こちらの鳥居は北を向いており、柱には「昭和七年七月吉日建之」と刻まれている。
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 随神門。
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 こちらの随神は弓矢を持っていないが、手の形から見て以前は持っていたのだろう。
 新後閑町の琴平神社では鬚のある随神が右、無い方が左に配置されていてこちらとは逆だが、特に決まりとかは無いのだろうか。
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若宮八幡宮御由緒
 高崎市下豊岡町字若宮甲一四二八
祭神 大鷦鷯命(大雀命)
   諡名 仁徳天皇
 当社は平安末期、永承六年(一〇五一年)源頼義・義家父子が建立したと伝えられている。即ち、前九年の役が勃発するや、頼義、義家勅命を奉じ奥州の安倍氏の反乱を鎮圧する途次、この豊岡の地に仮陣屋を設けて暫く逗留、軍勢を集めると共に、戦勝を祈願するために当社を建立、乱収り帰還の折りに再び当社に寄り戦勝を報告、額を奉納したという
 以来、武将、兵士、一般大衆の尊崇厚く、鎌倉時代には里見太郎義俊の三男豊岡三郎という者、此の地におり当社を崇敬した。
 寛文二年(一六六二年)、幕府代官諸星惣左エ門政明らが中心となり、社殿を大修築し、盛大な祭典を挙行した。
 江戸末期には江戸の火消し新門辰五郎、明治期には乃木大将の参拝などあり、常時参拝者が絶えなかった。
 境内には義家の腰掛石、社宝として市重要文化財蕨手太刀がある。
 なお当地区には「土用寒村」「十八日村」などの伝説、古跡が多い。
  境内地 八〇六坪二合
  祭典日 三月十五日 春季例祭
      七月三十日 夏祭(みそぎ大祓い)
      七月十五日 秋季例祭
   その他、七五三祭、二年参り、初詣もにぎやかである。
 昭和五十四年七月二十九日

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 朱塗りの鳥居。
 こちらは東を向いている。
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 拝殿。
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 斜め後ろから。
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 末社群。
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城峯神社(下豊岡町)

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 豊岡20号古墳の頂に鎮座する城峯神社(高崎市下豊岡町)。
 姫宮観音堂の次は豊岡団地公民館脇の団地稲荷にお詣りするつもりだったのだが、丁度年に一度の御祓い行事の日に当ってしまっており、さてどうしようかと思っていた時、たまたまそこにおられた方と話をしたら、公民館の北西にある公園の北側に古墳があり、その上に神社が祀られていると教えて頂いたので団地稲荷は後回しにしてまずはこちらの神社へ。
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 小さな鳥居だが額にはしっかり「城峯神社」と陽刻されている。
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姫宮観音堂(下豊岡町)

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 姫宮公園内に位置する姫宮観音堂(高崎市下豊岡町)。
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 観音堂の北側は墓地になっている。
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姫宮観音の由来
姫宮観音は元禄年間(一六八八~一七〇四)に私の父祖である梁瀬孫平により碓氷郡鼻高村黄檗宗達磨寺の末寺として開山された寺院でありました。開山僧は不詳、酒井雅楽頭の寄付によるものであったとの記録が残っています。
その後の変遷は詳らかではありませんが、正徳元年(一七一一年)には、当時の観音堂の庵主大蟲が、寺号を名乗ることを許され、観音寺となっています。
さらに、明治八年(一八五七年)頃には、臨済宗姫宮観音と呼ばれる寺であったとのことです。
爾来、姫宮観音は子育ての観音様として梁瀬家にて大切にお守りして参りました。
この度、この土地を高崎市に寄付するにあたり、御堂を建立して姫宮観音を安座し、当地の皆様の幾久しいご平安をお祈りするものであります。
 平成四年十一月吉日
          梁瀬次郎 記

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 観音堂左手側に秩父供養墖。
 天明丁未七秊講中と刻まれているので1787年のもの。
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