大寄八幡大神社(榛沢)
東光寺から北へ向かい、埼玉県道352号線を北東へ走って行くとやがて左手側に大寄八幡大神社が見えて来るのだが、こちらは駐車場が無いので、大寄八幡大神社の西にある宮西公園に駐車。
手水舎。
手水舎の天井には龍の彫刻が施されている。また、これ以外にも龍や亀などの彫刻が施されているが、保護の為なのか金属ネットに覆われている。
拝殿。
拝殿正面の扉には亀と鳳凰の彫刻が施され、その上には龍の絵が描かれている。
改良区設立碑と外宇新築拝殿吹替記念碑、石燈籠。
大寄八幡大神社の社殿は奥院及び拝殿とによって成り御神体に應神天皇を奉る。
今より凡そ二百五十四年前江戸時代享保十三年第百十四代中御門天皇の御代に建築されたと推定される。武州榛沢郡時代別名五領の宮とも稱ばれ、地元近隣領民の武運を守り崇拝の神として氏子によって尊厳が保たれ現代に及ぶ。
しかるに近年に到り社屋の老化はげしく高度技術の粋を集めた建物が風雨に打たれ文化財に損傷のきざし有り。特に彫刻天上絵等無類の宝物保護の必要を感じ総氏子協議の結果奥の院全部に上屋をめぐらし更に観賞の立場から下見はガラス張りとなす。亦拝殿屋根は総吹替をなしいぶし銀の瓦瞳にまぶしく神殿の尊厳益々盛んなり。亦右工事に要した費用は神社の営繕費をこれに当て総工費壱阡壱百五拾参万七百拾五円にして昭和五十八年九月その工事の完成を看る。
特に総氏子これを祝し祭詞奏上の九月二十五日御遷宮となす。
昭和五十八年九月二十五日』
当社の祭神(誉田別命)は、社名に幾度かの変遷があった。江戸時代後期に編纂された「新編武蔵風土記稿」では、榛沢六郎成清の勧請により、十一面観音を安置すると記載されている。また昭和五年に編纂された大里郡神社誌では、祭神は、誉田別命(応神天皇)とされている。神社名称もはじめ、児玉宮、御霊宮と呼ばれ、次いで大寄大神社となり、現在の大寄八幡大神社と呼称されるようになったのは戦後のことである。
本殿は、木造銅板葺で、回廊より上部は、内外とも総彫刻で彩色されている。礎石には、享保十三(1728)年八月施主武政郷助の刻銘がある。
本殿は、破損が著しいため、昭和五八年に三方ガラス張りの覆屋をつくり、保存につとめている。この他に拝殿、水舎等は、江戸時代後期(文久年間頃)の建立と考えられている。
また、当社は、祭礼の日には、武道の試合が行われ、遠近の武道者が集まったと伝えられている。拝殿内外に掲げられている奉納額は、これを物語っている。特に角力は、さかんに行われ、御霊宮(大寄八幡大神社の旧名)の角力と言えば、遠く秩父地方にまで鳴響いていたという』
先の記念碑には五領の宮と書かれていたが、五領宮と御霊宮はどちらも読みは一緒だ。疫病の沈静化を願って建立されたものであるのだから、この疫病は平氏の怨霊の祟りによるものと考えたのであれば、それを鎮めて御霊となす為に御霊の宮を建てたと推測するのはアリかな? 児玉宮は…なんだろ。ここからずいっと南西へ向かうと県道75号線そばに児玉神社があるが、うーむ、どうだろ。
また、十一面観音が勧請されたとも書かれているが、これは東光寺にあった十一面観音と何か関係あるのだろうか。神仏判然令によりここから東光寺へ移されたとも考えられるが、ググってみても判らないなぁ。
境内社。左側は三峰神社。
大寄大神社と称していた頃の社号標石なのだろう。
中を覗きこんでみたら祭具殿…かと思いきや、天満天神、二柱大神、別雷大神、稲荷大神が祀られていた。
遙拝所と流造の境内社。神紋は左三つ巴紋だが…これあんまり手掛かりにならん。
末社。どちらも詳細不明。
塚の上に石祠。富士塚なのかな?
末社。詳細不明。
神楽殿。
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