二柱神社(藤岡町太田)

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 東武藤が丘カントリー倶楽部西側入口のそばに鎮座する二柱神社(藤岡町太田115)。
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『●二柱神社の由緒
 祭神はイザナギノミコト、イザナミノミコトの二神である。ゆえに二柱神社と称される。
 かつては大聖歓喜天という頭は象、体は人間の形をした夫婦像がまつられ、聖天さまとして親しまれていた。
 神仏分離令により、明治三年九月九日二柱神社と改められた記録が残っている。
 縁結び、夫婦和合、安産、子宝の神として崇敬を集めている。
 ●太田桜の由来
 神社の裏にある桜の木は、慶長の頃(1600年前後)太田の住人上岡大炊が植えたといわれ、八重と一重の花がまじり咲く珍しい桜であった。
 現在の木はその子孫である。
 江戸時代前期の公家で、和歌・書道にすぐれた烏丸光広が、この桜を
    はるばると 尋ね太田の 八重一重
           塚も名高き 桜木の里
 と詠んだと伝えられている。
  平成二十一年十一月吉日』
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 拝殿。
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『太田桜の由来
 慶長年間(1596~1615)当地住人上岡大炊が植付けたといわれる。今の木はその子孫桜で別名太田のにほい桜と称され、開花期には高い香りをはなち、花は八重と一重のまじり咲きで、山桜の一種だが非常に珍しい名木である。
 この話が広く伝えられ、元和三年(1617)徳川家康公の遺骸を静岡県久能山から日光に遷座の折、朝廷の奉行役を勤めた烏丸光広卿(江戸初期の歌人、書家としても著名)が表記の歌を詠まれたという。
 このたび太田地区民全員参加によるむらづくり事業として歌碑を建立し後世に伝える』

『白兼の桜
 郷土では、毎年春になると、町内の各地に桜の花の美しさをを眺めることができるが、そのうち最も長く伝統的に親しまれてきた桜に白兼(しろがね)の桜がある。慶長二年(1597)上岡大炊の奉納と伝う。
 今日、現地にある桜木は、おそらく何代目かの子孫桜であろうが、山桜の一種で、小さな塚の上に約五・六十年位は過ぎたろうと思われる老木が一本生えている。
 現在、特に一般人の注目を引くような古木でもないが昔、三香保崎の繁栄とともに、いつしか三毳山麓にて有名な太田の名桜木「白兼の桜」となってしまったのであろう。下野国誌にも「塚」とか「さくら木の里」とか、今日想像もつかぬような記録がのっている。
 この話を聞いたのであろう。元和三年(1617)、家康公の棺を久能山より日光へ、家康公の遺言により移す折、朝廷の名代役をつとめていた歌人・烏丸大納言藤原光広卿は例幣使となって再び日光東照宮社参の折、帰途現地を尋ね、つぎの歌を残している。
  「はるばると尋ね太田の八重一重 塚も名高きさくら木の里」
と、しかし名木は、何といっても名木、同一の木に強い「にほい」をはなって、毎年八重一重に咲き乱れ白兼の桜として、一般に広く鑑賞されると否とを問わず今後とも誇り高く、歴史的に伝統をもちつつ残っていくことであろう。
「備考」白兼の桜は、別に「太田のにほい桜」とも伝えられ。太田字白兼、二柱神社裏にある』(「藤岡町史」より抜粋)

 桜に関する記述は多いのに、二柱神社の方は鳥居脇の案内板と、あとは太田稲荷神社境内に建てられた石碑に「明治三十九年(1906)に字白兼の二柱神社を合祀する」と記されているくらいか。
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