おゆわ稲荷神社(藤岡町部屋)

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 帯刀研修館脇に鎮座するおゆわ稲荷神社(藤岡町部屋2227-1)。

『おゆわ淵伝説
 郷土の部屋地方は、昔毎年のように水害に苦しめられていた。田畑が荒され、多くの人々が水死するということで、やがて村人から水害を防ぐため、若い娘を人柱とする風習が起こり、決壊のたびに人柱の数が切れ所に立たされていったという。おゆわもその一人である。
 慶長十八年(1613)二月、前の年からすすめられていた洪水の復旧工事も近い堤で、今年は誰を、どんな風で人柱にするかという話が起った。座はしらけて話題一つ起らない雰囲気となり、誰一人として話をしなくなってしまった。困ったあげく押切村の名主の発言にて明日普請場に最も早く弁当を持参した娘を立てることと、家に帰っても誰にも話さぬことで話はきまった。
 翌二月三日、当日を待った村人たちは、各自思い思いに、自分の娘でないこと、あるいは自分の親が出ないよう祈りつつ昼を待つと、皮肉ことに人柱の意見を一番はじめに発言していた押切村の名主唯一娘「おゆわ」が現われてしまった。父は、これは大変とおおいにおどろき、手にて向うへ行けと合図したところ、「おゆわ」は、早く来いと一人のみこみ駆け足にて父のもとへと来てしまった。父の悲しみも甲斐もなく何も知らぬ「おゆわ」は、そこでとうとう人柱となってしまったという。人柱は、切れ所の洞沼今の西前原と部屋との境界、古屋敷から川下、五十間の地といえ、「おゆわ」の名をとって「おゆわ稲荷大明神」として祀り、厚く霊をとむらったことを伝えている。
 やがて明治末期から大正初期にかけてのとき、大きなカメが現地より出たそうですが、祠は今の帯刀部落の上流へと移され、現地には、小さな石地蔵を残し、「おゆわ」の命日の日には、毎年供養するにいたったという』(「藤岡町史」より抜粋)
 現在、おゆわ淵は既に無く、大正七年(1918)におゆわ稲荷だけが帯刀研修館の敷地に移転されたのだそうだ。ところで大きなカメと言うのは、甕と亀のどちらなのだろう。甕の方だろうとは思うけど。
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 大正二年(1913)六月八日造立の、線刻青面金剛碑。
 いつもの600x900ではわかりにくので、ちょっと大きめの1200x1800で。
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