白鬚神社(東向島三丁目)

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 墨堤通りと明治通りの交差する白鬚橋東詰交差点の南250m程の位置に鎮座する白鬚神社(墨田区東向島3-5-2)。
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 鳥居。
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『鷲津毅堂碑
 鷲津毅堂は幕末明治の漢学者です。文政八年(1825)尾張に生まれました。
 通称を毅堂または蘇洲と号し、父、祖父ともに大変に徳望篤い人物でした。
 二十歳のころ江戸に出て昌平黌に学び、嘉永六年(1853)久留米藩に仕え、次いで、尾張候の招きに応じ侍続となり、さらに教授に進み、毅堂自身も師弟とともに学問に励みました。時に王政復古となり、藩主徳川康勝の議定官に任ぜられ国論を一定し、覇王の思想を隣藩にまで広めました、明治元年(1868)朝廷より権弁事を任ぜられ、同二年大学少丞に転じます。そして権大書記五等判事、司法少記官、東京学士会々員に列するなど明治政府の要職を歴任しました。明治十五年(1882)司法権大書記官となりますが、同年十月五日、五十八歳で歿しました。
 なお、毅堂は永井荷風の母方の祖父にあたります。
 本碑の篆額は三条実美、撰文は三島毅、書は巌谷一六による碑です。
 平成十八年三月』
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『<墨田区登録文化財>「墨田三絶」の碑
 隅田川の風物を詠じた佐羽淡斎の詩碑で、大窪詩仏が筆をとったものです。「墨田三絶」の篆額は巻菱湖の筆になります。建立年に当たる壬午は、文政五年(1822)のことです。
 なお、絶とは五字または七字の四句で一体をなす漢詩のことで、三詩からなるので三絶と呼びます。
 この碑(草書)は三囲神社の「本松斎一得翁之碑」(隷書)、隅田川神社の「無琴道人墓銘」(楷書)の両碑を加えて、大窪詩仏の三書体、すなわち「詩仏三碑」として世に知られています。
  維舟渡口歩汀沙来飲祠前売酒家一
  道玻璃烟淡抹夕陽猶在半堤花
  不借朝南暮北風遊船如織日忽々沙鴎
  欲管繁華事閑唾落花流水中
  断磬聲中結夕陰堤彎岸繚寺門深
  鴎邊柳処元陳迹付与詩人吟至今
  上毛淡齋佐羽芳詩壬午冬日書詩佛老人大窪行
 平成十八年十二月』
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 神楽殿。
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 神楽殿の脇に墓碑。
『岩瀬鷗所の墓碑
 江戸時代末期の外交家。文政元年(1818)江戸に生まれました。名は忠震で、鷗所の号は隅田川の辺に住んだことに由来します。幕府の徒頭相楽貞夫の第三子で天保一一年(1840)、旗本岩瀬忠正の養子になりました。嘉永二年(1849)老中阿部正弘から目付に抜擢されました。鷗所は昌平坂学問所で漢学を学ぶにとどまらず蘭学も学び、当時、外国の事情認識においては鷗所が一番といわれました。幕府の鎖国政策を非難したほか、砲台を築き軍艦を造り、講武所と蕃所調所を設け海軍伝習を始めるのにも参画しました。後に将軍徳川家定の継嗣選定の問題で、新任の大老井伊直弼と対立したため、安政六年(1859)八月に官位を奪われ、蟄居を命ぜられました。
 その後向島に隠居し、もっぱら読書文芸にふける悠々自適の生活を送りましたが、文久元年(1861)七月一六日、四四歳で歿しました。
 平成十六年三月』
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 二の鳥居。
 拝殿の写真を撮っておくのをうっかり忘れていた○刀乙
 以前の社殿は関東大震災や太平洋戦争でも被災を免れていたそうだが、平成二年に左翼暴力集団の放火によって全焼し、平成四年に再建されたのだそうだ。
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 山玉向島講社碑。
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 案内板。
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『白鬚神社
祭神 猿田彦大神
   天照大御神 高皇産霊神
   神皇産霊神 大宮能売神
   豊由気大神 建御名方神
由緒 天暦五年(951)に慈恵大師が関東に下った時に、近江国比良山麓に鎮座する白鬚大明神の御分霊をここにまつったと、社伝の記録は伝えている。天正十九年(1592)には、時の将軍家より神領二石を寄進された。
 当社の御祭神猿田彦大神が、天孫降臨の際に道案内にたたれたという神話より、後世お客様をわが店に案内して下さる神としての信仰が生まれた。社前の狛犬は山谷の料亭八百善として有名な八百屋善四郎、吉原の松葉屋半左衛門が文化十二年(1815)に奉納したもので、その信仰のほどがしのばれる。明治四十年(1907)には氏子内の諏訪神社を合祀した』
 天正十九年(1592)と書かれているが、天正十九年で1592年になるのは十二月だけであるようなので、神領を寄進されたのはその頃と言うことになるのだろうか。因みに当時の将軍は室町十五代将軍足利義昭。
 社務所で頂いた由緒書きには近江国志賀郡境打颪(滋賀県高山市)琵琶湖畔に鎮座する白鬚神社からの分霊と、より詳しく書かれている。
 例大祭は六月初頭に行われ、墨東地区で最初の夏祭りになるのだそうだ。神輿は嘉永元年(1848)に造られた物で、三年に一度氏子内を巡幸するとのこと。また五月五日には嘗て一帯が農村地帯であった頃の習慣を伝える「ぼんでん祭」が行われ、氏子世話人が作った御幣を隅田川に立てて五穀豊穣と水害防止を祈念するのだそうだ。
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 文化十二乙亥年二月造立の狛犬。
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 三峯社・水神社と諏訪社。
 諏訪社の中には右から「至哉盛徳遏惡揚善 諏訪大明神 順天保命降福不滅」と言う文字と衣冠姿の男神らしきものが線刻された碑が納められている。らしきもの、と書いたのは諏訪大神と記された木札が前に置かれていてよく見えなかったから。天満宮などなら菅原道真公の姿を刻んだものを見るのは珍しくもないが、諏訪神社で諏訪大明神と思われる姿が刻まれているものを見たのは初めてだ。
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 白鬚神社の南、子育地蔵尊のそばに設置された案内板。
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