鷲神社(外城)

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 小山総合公園の北東、鷲城跡に鎮座する鷲神社(小山市外城272)。
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『史跡 鷲城跡
 康暦二年(1380)から永徳元年(1382)にかけて小山氏十代の義政は、三次にわたって関東公方(足利将軍家の分家)足利氏満の軍勢と戦いました。「小山義政の乱」と言います。
 この乱の原因は、勢力を拡大した小山義政を抑圧しようとする氏満の策謀があったとされ、その指令を受けた関東各地の武士たちが、小山に攻め寄せました。最初の蜂起で館(神鳥谷の曲輪か)を攻められた義政は、二度目の蜂起となる康暦三年には鷲城に立て籠もって戦います。しかし義政は結局破れ、その翌年粕尾(粟野町)で自殺しました。
 鷲城は思川や谷地・低湿地に囲まれた要害で、東西約400m、南北約600mで、中城と外城の二つの郭からなり、当時としては広大な城郭でした。中城の空堀・土塁が明瞭に残存し、鷲城の名の由来となった鷲神社が鎮座しています。南北朝時代の城郭がこれほどよく遺存し、関連する文献資料が多数伝来しているのはきわめて稀な例で、貴重な史跡と言えるでしょう。
 平成三年三月十二日 国指定』
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 参道入口脇に並ぶ祠二つ。
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 参道は長く、200m程はあろうか。
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 拝殿。
『主祭神 大己貴命
 天慶年間(938~47)の創立。藤原秀郷が東国下向の折、武蔵国鷲宮明神に将門討伐を祈願し、その後、下野に下向し、下野国小山に鷲宮明神を勧請したのが、当社の創建であると伝えられている。その後、近郷近在の人々より子児の風邪・百日咳を治すなど、病気平癒の御神徳から信仰され、例祭日には卵の授与と奉納があって、殊に賑わっている。明治五年村社となる』(「栃木県神社誌」より抜粋)

 栃木県神社誌には上のように記されているが、ググってみると武蔵国太田荘の鷲宮神社から小山義政がこの城に勧請し、それにちなんで鷲城と名付けたともあるので、早くとも小山義政が父氏政の後を継ぎ下野守護職となった文和四年(1335。南朝の元号では正平十年)以降。応安五年(1372。南朝の元号で文中元年)頃の築城であろうと書かれているところもあったので、こちらの鷲神社の創立もそのあたりになるのではないだろうか。
 ちなみに武蔵国太田荘は藤原秀郷の後裔である太田氏の本拠地で、小山氏はその太田氏から派生した一族であることから、鷲宮神社との縁があったのだろう。
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 斜めから。
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 狛犬。
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 境内社建立記念碑。
 これを見ると、熊野神社と八幡宮、愛宕神社、水神社、雷電神社、三峯神社、耳治神社の計七社が祀られているようだ。ところで耳治神社と言う名は初めて目にしたのだが、どなたを祀っているのだろう?
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 末社。
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 鷲神社から土塁側へ向かうと、こちらにも末社。
 横矢と書かれた看板があるので、この辺りから矢を射掛けていたのだろうか。
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 虎口と書かれた看板を横目に歩いて行くと、堀跡を経て小山総合公園へ続いている。
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 堀跡。この先はまた土塁。

 以上で10月12日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA15mm、DA21mm、FA31mm、FA43mm、FA77mm。Coolpix P7100。
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