朝日辨財尊天(竜泉一丁目)

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 昭和通り下谷三丁目交差点の南側、弁天院公園内に鎮座する辨天院(台東区竜泉1-15-9)。
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 弁天池に架けられた神橋と鳥居。
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『弁天池の記
昔の弁天池は約八千平方米の広さを持ち常に蒼々とした底深い水を湛え琵琶形に造られた約百六十平方米の中の島との間に長い木橋が架けられて風情を添え島には松柏の大樹がうっ蒼と茂る中に由緒深い本堂を仰ぎ見る景観は誠に荘厳を極めていた
然るに大正十二年関東大震災の直後当局はこの池を始め隣接数区の焼土により埋めたてられ細やかながらその名残を留めているのが現在の池である
文豪久保田万太郎はこの池の変貌を惜しみ「水の谷の池埋められつ空に凧」と詠んでいる誠に今昔の感に堪えない所である』
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 本堂。
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 狛犬。
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『由来記
辨財天の信仰篤かった備中松山城主水谷伊勢守勝隆は東叡山寛永寺を創建した天海の勧奨もあって寛永初年不忍池に辨財天社を建立すると同時にその下屋敷であった当水の谷の邸内の池にも辨財天祠を祀りいわゆる姉妹辨天とし西方の不忍を夕日東方の水の谷を朝日辨財天と称した この下屋敷は面積約二万坪であったがその後勝隆の子孫旗本水谷主水の下屋敷となり次いで北海道の田村富三郎の所有と変り更に新潟県豪農市島徳次郎の所有に転じ大東亜戦争後の大改革に遭遇し昭和二十二年当主市島徳厚は辨財天を永久祭祀の条件でこの地を借地人に分譲すると共に境内二百十七坪余をこれら関係者に寄付した 人々市島家の厚情に痛く感激し直ちに奉賛会を設立し昭和二十八年宗教法人法の施行と共に曹洞宗辨天院と改称し本尊釈迦牟尼佛をも安置した 本堂は大正十二年関東大震災に罹災したので昭和四年市島家に於て再建したが同二十年大東亜戦争のため烏有に帰した 然る所同二十三年奉賛会が中心となりこれを復興し同三十六年庫裏も落慶今亦壮麗な玉垣を完成し輪奐の美を添えた 往昔は琵琶形に造られた中島に常に松柏の大樹が鬱蒼と茂り二千四百坪の池には蒼々とした底深い水を湛え菱や蒪菜蓮など美しく浮び池畔には有名な料亭松源や廓の寮を始め瀟洒な別荘が点在し文人墨客の往来も激しかった 然るに関東大震災直後東京市の要請もありこの池を焼土の処分場に提供尓来二年有半宅地と化し昔日の面影を没するに至った 思うに町会の興隆は人心の融和に因る団結が基本であるがそのためにはこの辨財天を我らの守護神として日々崇敬し永く子々孫々に至るまで義理を重んする下町人情に徹し町会の発展社会の福祉国家の繁栄に寄与するよう祈念するものである
 昭和四十年九月吉日』
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 聖観世音菩薩。
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『聖観世音菩薩勧請の由来
昔の弁天池は大変広く且つその深さは底知れずと云われていた。これがためこの池にて命を落された方が尠なくなかったと伝へられている。関東大震災では東京市の要請により災害の焼土を以って埋めたてられられた為ここに棲息していた多くの魚類などが悉く生埋めとなり又焼土運搬の馬までも犠牲となるなど人々から憐憫の情を寄せられていた。当時の地主はいち早く境内に卒塔婆を建て施餓鬼供養を行って来たが境内移譲後は埋立地居住の有志がこれを継承昭和三十一年供養塔に改建し更に熱意を傾けつつ今日に至った。偶々本年は己巳年という好機に当りここに聖観世音菩薩を勧請し広大無辺なる御功徳により旧弁天池に絡る多くの諸精霊の菩提を祈念し併せて信徒並びに有縁諸氏の平安と隆昌を祈願すべく大方有志のご寄進を仰ぎてこれを完成し平成元年九月十三日開眼供養を執行したものである』
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