氷川女體神社(緑区宮本二丁目)

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 見沼氷川公園の北側に鎮座する氷川女體神社(さいたま市緑区宮本2-17-1)。
 見沼代用水に架かる神橋には氷川女體橋と刻まれている。神社に駐車場は無く、また神社前の通りには駐車禁止の看板もあるので氷川公園の駐車場に駐車。
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 鳥居。
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 拝殿。
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『三室氷川女體神社 さいたま市緑区宮本鎮座
 当社は崇神天皇の御代に、出雲杵築の大社を勧請した古社で、武蔵国一宮として見沼のほとりに鎮座している。
 主祭神は奇稲田姫命で、大己貴命と三穂津姫命を配祀している。
 当社の御手洗瀬である見沼を囲み、大宮氷川神社(男体社)大宮中川の中山神社(簸王子社)とともに、三社深い関係にあり、「三室」を伝えてきた。
 古代。女神を祀るところや、社殿が東方を向いているなど、その創立の深さと由緒を忍ばせている。
 中世以来。武門の崇敬を集めており、これらにゆかりある宝物も多い。徳川家康からは社領五十石を寄進され、また徳川家綱によって現存する社殿も建てられた。
 古来からの御船遊神事は、見沼干拓後、磐船祭として行われ、その遺跡が現存している。
 また、暖地性植物の繁茂する社叢は天然記念物であり、ふるさとの森にも指定されている』
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『埼玉県指定有形文化財(建造物) 氷川女體神社社殿 一棟
 付 寛文七年銘棟札 一枚
 平成一九年三月一六日指定
 氷川女體神社は、武蔵国一宮と称され、また、古来より御船祭を行う神社として知られています。中世以降は、武家の崇敬が厚く、当社所蔵の三鱗文兵庫鎖太刀(県指定有形文化財)は鎌倉幕府執権北条泰時の奉納と伝えられ、戦国時代には岩付太田氏や小田原北条氏の庇護を受けていました。江戸時代になると、徳川幕府から社領として五○石の地を寄進されました。また、当社に残る寛文七年(1667)銘の棟札等により、本殿は江戸幕府四代将軍徳川家綱が再興したものであることが明らかとなっています。
 社殿は本殿と拝殿を幣殿でつなぐ複合社殿で、権現造の形式となっています。本殿は三間社流造で、正面三間(3.56m)、側面二間(2.11m)、さらに向拝がついています。幣殿は両下造で、正面一間(3.56m)、側面二間(3.63m)です。拝殿は入母屋造で、正面五間(9.46m)、側面二間(4.57m)です。さらに向拝がつき、その向拝には千鳥破風及び唐破風がついています。
 平成二三年・二四年に社殿修理が行われ、屋根が柿葺きの時期があったことがわかりました。
 この社殿は、埼玉県における代表的な神社本殿建築様式を伝える建造物であるとして、平成一九年に埼玉県の有形文化財に指定されました』

 棟札には「武蔵国一宮簸河女躰大明神社、征夷大将軍源朝臣家綱公御再興阿部朝臣忠秋 奉寛文七丁未六月十二日御遷座」と書かれており、また徳川吉宗公の時代には、大岡越前守忠相が寺社奉行に昇格するや直ちに当社々殿を修復したとの記録も残っているのだそうだ。ちなみに大岡忠相が寺社奉行になったのは元文元年(1736)八月である。
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 拝殿・幣殿・本殿。
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『氷川女體神社の道標
 もともと、赤山街道沿いの大間木水深(浦和)の地にあった、この石碑には、「武蔵国一宮」「女體宮道」とあって、幕末の弘化二年(1845)に当社への道しるべとして赤山街道に面して建立されたものです。
 また、当社から北西約四百メートルの住宅地の中には石造の鳥居がありますが、これは安政二年(1855)に、馬場方面から参詣する人たちの便を考えて、大門宿の石工に作らせ、氏子たちが奉納したものです。
 幕末の頃に相次いで建てられたこの石碑や鳥居は、建立する必要に迫られるほど、当社への参詣客は非常に多く、篤い信仰を得ていたことを物語る貴重な資料となっています』

 ググってみたら確かに石鳥居の写真が出て来るのだが、正確な場所は不明。とは言え大まかには見当がつけられそうなので、後で探してみようかな。……ストリートビュー見てたら見つけちゃった。てへ。
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 氷川女體神社所蔵文化財の案内板。書き写すのは長くてめどいからパス。
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 竜神社。
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『この竜神社には、さいたま市の竜伝説に因んだ竜神様が御座します。
 かつて広大な沼であった見沼の辺のここ武蔵一宮氷川女體神社には、長年に亘り、神輿を乗せた船を沼の最も深い所に繰り出し、沼の主である竜神様を祭る祭祀「御船祭」を執り行ってまいりました。享保十二年(1727)八代将軍吉宗公の政策で見沼は干拓され、「見沼田んぼ」となってからこのお祭りは「磐船祭」として今尚続けられております。遺跡によれば御船祭は十四世紀から行われていたとも推定されます。
 世界最古の閘門式運河ともいわれる見沼通船堀など、見沼には数々の歴史財産が秘められております。見沼を中心としてさいたま市内に点在する数多くの竜神伝説もその一つと言えます。
 見沼代用水と見沼代用水から西へと引いた高沼用水、その二つの灌漑用水で田畑を耕す地域と見沼に関わる地域はほぼさいたま市全域に及んでいます。
 さいたま竜神まつり会は「文化と歴史を活かした誇りのもてるまちづくり」を目的として平成十三年(2001)五月に約五十mの巨大な昇天竜を制作し「竜神まつり」を開催致しました』
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 竜神社向かい側のこちらはなんだろう。祭具庫かな。
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 竜神社裏手に並ぶ末社群。何神社なのかは不明。
 多くの神社ではこういうのはわりと普通なのだが、しかし氷川神社や中山神社では末社は合社殿にまとめて社名も記されていたので、氷川三社の一つとしては少し残念。
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 左は榛名山・三峯山大権現。側面には「一天平定 日月清輝」、「文久二壬戌(1862)八月上浣」と刻まれている。
 右は越立山・富士山・湯殿山嶽々坂東秩父西国神社仏閣拝礼供養塔。側面に「大山石尊大権現五拾度参 天下泰平 郷中安全」、背面に「文政十三竜集庚寅(1830)十一月穀旦 願主 大熊友治郎」と刻まれている。
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 末社。
 左の写真の木祠は本殿のほぼ真裏に位置し、中には天照皇大神と書かれた神宮大麻が収められている。神明宮だろうか。
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 本殿西側の末社。
 どちらも社名は記されていないが、左の祠には竜の彫刻があった。また右の祠のそばには一山霊社・覚明霊社と刻まれた石碑があったので、富士講と関係があるのかも。とすると浅間社なのかな?
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 末社。おそらく稲荷社。
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 神社側から見た氷川女體橋と磐船祭祭祀遺跡入口。
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 見沼代用水。一週間早ければ桜も満開だっただろうか。
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 磐船祭祭祀遺跡入口。
『さいたま市指定史跡 氷川女體神社磐船祭祭祀遺跡
 昭和五四年三月二九日指定
 氷川女體神社では、かつて御船祭と呼ばれる祭礼がおこなわれていました。これは、毎年あるいは隔年の九月八日に御座船に載せられた神輿が見沼を渡って下山口新田の御旅所に渡御するもので、見沼の中に設けられた祭礼場跡では、何度も繰り返し竹を立てた跡や祭礼に伴うとみられる銭などがおびただしく出土しました(四本竹遺跡)。この御船祭は、見沼と深い関わりをもった氷川女體神社の根本祭礼でした。
 しかし、享保一二年(1727)に見沼の干拓が行われると、御船祭は行えなくなりました。そこで、新たに祭礼場を造成して、御船祭の代わりの祭礼が行われることとなりました。これが磐船祭です。
 新たな祭礼場は、氷川女體神社境内の前にある見沼の干拓地に柄鏡形に池を掘り、その中に山を盛って造られました。高台にある境内から、参詣路の石段を降り、見沼代用水を渡ったところから、陸橋(御幸道)が設けられ、祭礼場へと通じていました。
 祭礼場は直径三○メートルの円形の島で、その中央には四本の竹で囲んだ斎域が設けられていました。ここに神輿が渡御し、御船祭にかわる祭礼としての磐船祭が行われていました。
 磐船祭は享保一四年九月八日に初めて行われ、幕末から明治の初期頃まで行われました。その後、磐船祭は途絶えましたが、祭礼場の跡はそのままに残されてきました。
 見沼と関係の深い関わりを持った氷川女體神社の祭礼を物語る遺跡として、極めて重要なものです。なお、昭和五七年度に氷川女體神社と旧浦和市教育委員会によって、復元整備事業が行われました』
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 祭祀遺跡に向かう途中にある祠。他の場所であれば辨財天であろうかとも思うのだが、こちらだと竜神を祀っているのかも。しかし磐船祭と言う言葉からは天磐船(鳥之石楠船神)も想像してしまうし、天磐船は三穂津姫命を祀る美保神社とも縁があると言う。うーん、なんだろうなぁ、これ。
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 橋の向こうが祭祀場。
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 祭祀場。
 手前の石碑は明治三拾七八年戦役紀念碑。
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『御船祭の竜神伝説(残された見沼)
 とおいむかしから、見沼の一番深い所に神輿を乗せた舟を繰り出し、沼の主の竜神を祀るために「御船祭」というお祭りが行われていました。
 ところが、見沼を干拓して田んぼにするということになると、永年つづいていた「御船祭」が出来なくなってしまいます。
 田畑に水を与え、人々を見守ってくれる竜神を大切にするお祭りが出来なくなっては、人々が感謝の気持ちをあらわすこともできません。
 そのお祭りを行なっていたのは、この氷川女體神社です。そこで神社は、幕府にそのことを告げたのです。
 すると幕府は、神社の前にまるで手鏡のように見沼の水を残し、中央に土壇場という出島をつくりお祭りの場を残してくれたのです。
 見沼の竜神は干拓と同時に天に昇り、今でもこの辺りを見守ってくれているといいますが、それだけではありません。この残された見沼に時折来ては泳いでいるのです。もしかすると、コイに姿をかえて泳いでいるのかも知れません。
※「御船祭」は干拓後「磐船祭」となり、その後、「祇園磐船竜神祭」として毎年5月4日に行なわれています』
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 4月20日追記。
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 石鳥居(緑区宮本1-5)。
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 柱西面に「奉献 氏子中 當御宮廣前」、柱東面に「安政二年乙卯秋八月上浣建之」と刻まれている。
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