氷川鍬神社(宮本町一丁目)

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 上尾駅東口のそば、埼玉県道164号鴻巣桶川さいたま線に面して鎮座する氷川鍬神社(上尾市宮本町1-14)。
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 神明鳥居。
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『氷川鍬神社縁起
 氷川鍬神社は「武蔵国足立郡御鍬太神宮畧来」によると百九代明正天皇の御代、寛永九年(1632)の御創立と伝えられます。
 御祭神は豊鍬入姫命・稲田姫命・菅原道實公・木之花咲耶姫命・應神天皇の神で豊鍬入姫命は悩める人苦しむ人の胸中を知りその人のため救いの手をさしのべて下さる神であり、疫病除け、招福、豊作の神であります。
 稲田姫命は須佐之男命の御妃で限りない慈しみと深い母性の愛を表わされる神であり、菅原道實公は学問の神として、木之花咲耶姫命は浅間さまの神さまで、大山祇神という尊い神さまの御子神さまです。應神天皇は文化神としてのご神徳を持っておられます。
 氷川鍬神社は上尾宿総鎮守として広く世人の崇敬を集めた古社あり、通稱「お鍬さま」と呼ばれております。
 氷川鍬神社の名稱になったのは明治四十一年(1908)の神社合祀以後のことで、それより以前は「鍬大神宮」という社名であった』

 上尾市教育委員会のサイトを見ると、三人の童子が鍬二挺と稲束を持ち、白幣をかざし踊り歩きながら上尾宿に現われたが童子たちは何処かに消え失せ、残された鍬を林宮内が祀ったのが鍬神社の始まりであり、万治(1658-60)の頃の事と伝えられると記されている。
 ところで主祭神の豊鍬入姫命は崇神天皇の娘であり豊城入彦命の妹姫だが、天照大神を祀るために笠縫邑や篠幡宮、伊勢飯野などを放浪し斎王の祖となった人物であるそうだ。が、なにゆえその豊鍬入姫命がこちらの御祭神になっているのだろう。どこからともなく現われ去って行った童子らと、放浪する姫はイメージ的に似通った部分があるのは確かだとは思うが。
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 神楽殿。
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 拝殿。
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 本殿裏から。
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 浅間大神。
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『上尾市指定史跡 上尾郷ニ賢堂跡
 上尾市宮本町一-一四 氷川鍬神社 
 昭和三十四年一月一日指定
「ニ賢堂」(通称「じけんどう」)は、天明八年(1788)、学僧の雲室上人が上尾宿(現在の氷川鍬神社境内)に開いた郷学ともいえる「聚正義塾」の学舎の名称です。雲室が、当時親交のあった林大学頭信敬らと相談して、中国の南宋の大儒朱文公(朱子)と、わが国の学問の神様ともいわれる菅原道真の二人の賢人を祀る意味から、「ニ賢堂」と名付けたものです。
 雲室は、信濃国飯山(長野県飯山市)出身の当時有名な学僧で、江戸の多くの文人たちとも交流がありました。雲室が上尾宿で開塾したのは、学友の石井永貞と、その弟子に当る上尾宿の山崎武平治碩茂の強い勧めがあったためです。
 聚正義塾の学舎は、山崎碩茂ら上尾宿や近隣の村の人々の資金と労力によって建てられ、その意味では、私塾とは異なる郷学の性格を持っていました。雲室は、四年ほどで上尾を去りますが、その後山崎碩茂が引き継いでいます。塾は、文政九年(1826)に碩茂が亡くなった後も続けられたといわれています。
 現在も氷川鍬神社に残る、林大学頭信敬筆の「二賢堂」の扁額、そして境内の「上尾郷ニ賢堂碑記」、「雲室上人生祠碑頌」とあわせて三件が、上尾郷ニ賢堂跡を物語っています。
 平成十一年六月十八日 上尾教育委員会』
IMGS9261s.jpg(クリックで1200x1800)
『上尾郷二賢堂碑記
    林皝撰 市河三亥書 松平定常題額
浮屠鴻漸頗通儒術甞游上尾郷與里人山﨑碩茂謀創建義學
以教郷子弟廼又就菅公祠以文公朱子並祀焉名曰二賢堂吾
正良君為書其匾而春秋祭祀之典一皆取正於市河子靜實係
天明八年事也属者介子靜之子孔陽請曰并祀之舉今己■三
紀而講學日以滋盛願賜一言以記之余乃為之言曰自學之不
講而為士者皆汲汲乎功利之競名譽之求而仁義遜讓之風幾
乎泯焉然其間名賢碩儒往往崛起使斯道賴以明於天下在我
則贈相國菅公乃其人而在彼則文公朱子繼往開来之功固不
待賛也蓋其東西相望先後同揆徳澤之所覃被遐壤絶郷莫不
顒然向風於戯盛矣■詩曰高山仰止景行行止使郷之子弟敬
瞻二公之在是祠也必将竦然興起相與勸勉晨夕講磨以従事
乎此則去功利而就仁義謝名譽而尚遜讓在家則孝悌之行興
居郷則長幼之禮成其風聲氣習之所曁雖委巷細民亦将視傚
而知勸畏威而寡罪安知一郷之俗不靡然而變乎抑鴻漸非有
斯道之責者碩茂亦力田自給之民乃能慨然留意於此自非志
尚超乎流輩者盖不能也故予樂為之記以諗其郷人使益脩而
勿廢云
文政五年歳次壬午冬十一月朔 山﨑碩茂等建』
IMGS9265s.jpg(クリックで1200x1800)
『雲室上人生祠碑頌
雲室上人名鴻漸字元儀信之飯山人也寶暦三年癸酉三月五日誕于
一向門徒光蓮寺是則武田信豐之子正善所創而上人其第十一生上
人欲以剛堅之質徧窮諸典也年十七出于江都學于宇子迪翁之門三
年翁没矣退而以為吾   邦天正以来伊洛之流日滋盛行則昇平
之化不得■關乎斯也然則今之讀書者誰不従事於斯其或非之者可
謂妨化之民耳遂游于林祭酒正良公之塾云天明八年游于上尾令郷
生山﨑碩茂為同學而後與碩茂及郷人林豐峰友老石應白石素碩山
口其道細井義跖井上常章美濃部美貫小松木奴小川呉来山﨑既年
林篤小川士慎山﨑興清水清英清水直正高橋茂之僧壽海大﨑八及
山﨑守禮等謀建義學以教子弟事見於去年所建二賢堂碑記當寛政
中住於江都西窪光明寺改名了軌字公範過年七旬託教肆乎法嗣證
存遂隠居焉去年壬午再游于上尾而大喜此郷益興於學矣於是郷人
謀報其徳為建生祠而請余為之頌夫上人余父執而又喜其崇儒術之
徳及於物故不辭其需乃為頌曰
祁祁郷子向斈無貳上人之篤永錫爾類
文政癸未四月望 江都 和氣行蔵撰并書及篆額
  昭和四十五年庚戌四月上浣 光苑市川芳雄疏募
              石工  大塚 裕康』

 碑文はもしかしたら読み取り間違えている部分があるかも知れないけど、大方は間違っていない筈。
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 聖徳太子像碑。
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