高崎城址(高松町)

IMGS9671s.jpg
 群馬音楽センター東隣に位置する高崎城址(高崎市高松町)。
『高崎城東門の由来
 高崎城十六の城門中、本丸門(萑門)刎橋門、東門は平屋根であった。そのうちくぐり戸がついていたのは東門だけで通用門として使われていた。
 この門は寛政十年正月(1798)と天保十四年十二月(1844)の二度、火災により焼失し、現在のように建て直されたものと考えられる。くぐり戸は乗篭が通れるようになっている。門は築城当初のものよりかなり低くなっており、乗馬のままでは通れなくなっている。この門は明治のはじめ、当時名主であった梅山氏方に払い下げられ、市内下小鳥町の梅山大作氏方の門となっていた。
 高崎和田ライオンズクラブは、創立十周年記念事業としてこれを梅山氏より譲り受け復元移築し、昭和五十五年(1980)二月、市に寄贈したものである』
IMGS9672s.jpg
 高崎城の図。
IMGS9677s.jpg
『高崎城乾櫓の由来
 この櫓は、高崎城本丸乾(西北)の土囲上にあった。南に建つ三重の天守閣(御櫓と呼ぶ)と並んで、本丸堀の水に影を投じた姿がしのばれる。
 高崎藩に伝えられた「高崎城大意」という書物によれば「もとこの櫓こけらふきにて櫓作りになし二階もなく土蔵などの如くなるを先の城主腰屋根をつけ櫓に取り立て」とある。先の城主安藤重博が今のように改築したとある。従って、重博在城の元禄八年(1695)より以前から存在したことが明らかである。多分、安藤重長が城主であった寛永(1624~45)の頃の建築であろう。城郭建築物の本県内に現存するものはこの櫓只一つである。
 幸にこれが保存されていたのは、明治初年に払い下げられ下小鳥町の梅山氏方に移り、納屋に用いられていたからである。所有者の梅山太平氏が市に寄附の意を表され、県の指定文化財となったのは昭和四十九年(1974)で以来二年を経て漸くこの位置に復元することができた。元位置はここから西方三○○mの地点に当る。
 屋根の「しゃちほこ」は栗崎町の五十嵐重五郎氏宅に現存するもと高崎城のものを模造したものである。
また塀は金古町の天田義英氏宅にある高崎城から移した塀にならって作り、瓦は大部分を下滝町の天田季近氏方に保存されていた高崎城のものを寄附されたものである。
 高崎城には石垣はほとんどなかった。この石垣は土囲敷が広面積を占めないよう止むを得づ築いたもので、乾櫓には土囲上に一m足らずの高石台があったに過ぎない』

 ちなみに安藤重長が高崎城主だったのは元和五年(1619)~明暦三年(1657)の間。
IMGS9697s.jpg
 しゃちほこ。
IMGS9693s.jpg
『群馬県指定重要文化財 高崎城乾櫓
 高崎城の本丸は、烏川の縁りに近いところ(現在の日本たばこ産業倉庫、NTT別館付近)に土塁と堀をめぐらし、その四隅に、西側の土塁の中央に建てられた三層(三階建て)の櫓を取り囲むように四棟の隅櫓を配していた。その乾(北西)の角にあったのがこの櫓である。
 二層(二階建て)で、本瓦葺き入母屋造りの屋根をのせ、腰屋根をめぐらした平入りの建物であり、梁間二間(十二尺=約3.64m)、桁行三間(十八尺=約5.46m)の規模である。外壁は柱を塗り込めた大壁で、白漆喰で仕上げている。現状は、初層(一階)の西壁(当時とは方位は逆)中央(中の間)に土戸を引く戸口を設け、初層のこの壁以外の三面と二層の四面には、それぞれ太い竪格子をはめた窓を二カ所ずつあけている。ところが、明治六(1873)年に、城内に置かれた東京鎮台高崎分営(十五連隊の前身)を撮影した写真では、初層の正面(東壁)右の間に戸口があり、左の間には同様な窓一カ所が認められる。妻飾りは狐格子で、破風板に懸魚をかけている。
 高崎城の築城は、慶長三(1598)年、井伊直政によって着手されるが、その後、藩主は目まぐるしく替わり、元和五(1619)年に安藤重信が入部して、元禄八(1695)年まで三代にわたって在城し、城と城下町の整備にあたっている。享保(1716~36)ころの著作という「高崎城大意」には、三代の重博が、平屋の土蔵の様でしかなかった乾櫓を二層の櫓に改築したとの記事があるが、これと様式的に見ても矛盾はなく、十七世紀末の建築と推定されている。
 その後、東門とともに下小鳥町の農家に払い下げられ納屋として利用されていたが、県重要文化財の指定にともなって、昭和五十四年(1979)この位置に移築復元された。初層の戸口の位置は納屋として使用されていた時期を踏襲しており、屋根瓦は当時の資料によって復元されたものである。両側の鉄砲狭間をあけた塗り込め塀は、修景のためのものである。
 指定年月日 昭和四十九年九月六日』
IMGS9735s.jpg
 西側から。
IMGS9750s.jpg
 飛龍の松。
『飛龍松之記
明治二十六年秋於高崎近郊有近衛師團小機動演習之舉
天皇陛下親臨閲之後行觀兵式於此地于時十月二十二日也於是植一松樹以標駐驛之跡傳之永遠號曰飛龍松
 歩兵第十五聨隊長
  河野通好撰併書』
IMGS9669s.jpg
 歩兵第十五連隊址碑。
IMGS9723s.jpg
『高崎城記
 高崎は王朝時代赤坂の荘と称し、東山道に属していたが、この地方の中心地とまでにはいっていなかった。
 十三世紀、鎌倉時代和田氏が城を築いてここに居るに及んでようやく地方の中心的存在となり、十六世紀の末期天正十八年、小田原の北條氏と運命をともにするに至るまで、和田城は三百数十年の歴史を誇った。
 慶長三年、井伊直政が箕輪城十二万石の城主から移って、城主となるに及んで和田の地を高崎と改めた。成功高大の義である。この時代、城地の規模を拡張し、中仙道第一の壮大さは、交通の要衝たることと相伴って、要害の名をうたわれた。中仙道はのち中山道と改称された。
 後、酒井、安藤ら数代の城主を経て大河内氏十代の居城となり、明治維新王政復古により廃城となった。大河内氏は初代城主輝貞かた第十代輝聲に至るまで、幕政時代ではあるが文治の城主だった。
 明治六年、東京鎮台高崎分営が置かれ。旧城内は兵営となった。ついで明治十七年歩兵第十五聨隊が創設され、以来昭和廿年八月太平洋戦争の終結まで、高崎は六十余年間、軍部の観を呈した。その間、大小の戦役に従い、特に太平洋戦争には東部第三十八部隊となり、歩兵第百十五聨隊をはじめ大小あまた部隊の基幹部隊をなした。滅私奉公、国家護持のために散華の郷土出身将兵は実に五万。兵どもが夢の跡とうたった古人の名句が偲ばれる。
 昭和二十年八月十五日、戦い終り、平和はよみがえった。われらは永遠に戦争放棄の民として更正し、城内は市の行政、教育、文化の中心機関所在地となり、市民生活の中枢となった。
 ここに明治百周年を迎え高崎城回顧の記を録する。
 昭和四十三年十月二十三日』
IMGS9740s.jpg
 音楽センター側にコントラバス型の公衆電話ボックス。
IMGS9618s.jpg
 高崎城址公園南端に設置された案内板。以前はこの辺りに富士浅間神社があったようだが、現在は残っていない。
『高崎市指定史跡 高崎城址(三の丸外囲の土居と堀)
 箕輪城主井伊直政が徳川家康の命により、この地に城を築き箕輪より移転したのは慶長三年(1598)のことであった。築城にあたって直政は、当時和田と呼ばれていたこの地の地名を松カ崎と改めようとし、竜広寺の住持白菴に相談した。白菴は、諸木には栄枯があることを説き「成功高大」の意味から高崎と名づけるように進言し、これが採用された。「高崎」の地名はこうして誕生したといわれる(川野辺寛「高崎志」)。
 この地にはかつて和田氏により和田城が築かれていた。直政により新たに築かれた高崎城は、和田城址を取り込む形で築かれたといわれており、坪数五万一六一三坪にも及ぶ広大な城郭となった(土屋老平「更正高崎旧事記」)。築城にあわせ、城下町の整備も開始され箕輪城下から多くの寺院や町が移された。連雀町や田町はこのとき箕輪より移転した町である。また、城下町を囲む形で遠構と呼ばれる土塁と堀も築かれた。
 明治四年(1871)の廃藩置県後、高崎城の敷地は兵部省、次いで陸軍省の管轄となり、乾櫓をはじめとする多くの建物が払い下げとなった。さらに、兵営や練兵場を建設するために城内は整地された。このため本丸や二の丸の土塁や堀は現存しておらず、三の丸の堀と土塁がわずかに昔の面影を止めている。
 所在地   高崎市高松町5-8ほか
 指定年月日 昭和五七年二月一七日』

 以上で6月14日分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA15mmとDA20-40mm、50-150mm II。Coolpix P7100。
 翌15日は高崎城址の東側にあるclub FLEEZで行なわれたangelaのライブを堪能して来たのでありますよ。やっぱりライブはええなぁ。腕振り過ぎて月曜日は筋肉痛になってたけど(笑)
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

カレンダー
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
ブログ内検索
カテゴリー
最近の記事
最近のコメント
月別アーカイブ
最近のトラックバック
FC2カウンター
プロフィール

梁瀬

Author:梁瀬
無駄な徘徊でCO2を増やす、
方向感覚に不案内なヒト

リンク
RSSフィード