赤城山大明神(宮地町)

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 宮地町公民館の隣に鎮座する赤城山大明神(前橋市宮地町85-1)。
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 鳥居脇に天王宮。
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 拝殿。
『赤城神社
位置 大字宮地村字梅天神二二四番地
祭神 磐筒男命 経津主神 磐筒女命 豊城入彦命
末社 厳島神社 市杵島姫命
   稲荷神社 豊受姫命
   天神宮  菅原道真
   八坂神社 素戔嗚命
   神明宮  大日霊命
由緒 不詳(上野国神名帳ニ正五位赤城若子明神トアルハコレカ)
氏子 四十一戸(昭和七年五月二十日許可トナリ氏子五十三戸トナル)

 明治十四年社寺制度の改革によって一定の財産がなく無格社となったが、その後明治末期から村社への昇格を望み、基本財産造成のため、金千円を年次計画で氏子全員に寄附割当てをした明細表が保存されているが、なお規定額に満たないため、昇格がおくれ、昭和七年五月二十七日村社として神饌幣帛料を供進すべき神社に指定された。同年十月二十日昇格祝賀式を挙行、村名誉職員、役場吏員等参列し当日は、太々神楽を奉舞。(大字後閑より一式借上げた)相撲大会等が行われた。
 祭典日は、四月八日、十月十七日の年二回行われていたが、現在は四月八日一回となった。

 宝物古物
一、鏡 一個 経、一尺
  裏に加賀田河内守とある。

 赤城神社と地蔵院(口説と調査結果)
 赤城神社について村内の年長者細野平吉氏、勝山辰雄氏を始め故人となった年輩者が一致して伝えられたと云う口説によると、この赤城神社は、勢多郡宮城村三夜澤の赤城神社に並ぶか、あるいはそれ以上に古い歴史と格式を持つものであるという意見である、その理由としては、現在の細野恒己氏の曽祖父、先代の和助氏が氏子総代の当時、明治初期頃か、それ以前のことかは明らかでないが、当時本村赤城神社所有の秘蔵の古文書と、お墨付、五反下がりの大のぼりを三夜澤の赤城神社の要請によって貸与したところ、それがそのまま、戻されていない。しかし証拠となる貸与証が紛失したかどうか保存されていないために手の打ちようがなかったということである。やむなく明治中期に至って大のぼりについては、以前同様の五反下がりのものを再調整をしたが古文書がないために立証する何ものもないということだけは今も伝えられている。
 又、この貸借関係については、粕川村出身の元県会議員故鎌塚酉次郎氏も肯定したような発言をされていたということも伝えられている。という話もされている。
 又前橋市公園愛護会連合会発行の「みどりのひろば」第二号中の斎木孝雄氏の「わが里朝倉町の由来」の項の一部に三夜澤の赤城神社のことが説明されており、その中に「ここに今一つの命の屋敷跡というのがあります。これは前橋南の宮地であります。ここは、梅屋敷、竹屋敷、松天神などと臣下の屋敷跡も今なお地名となっており、また古くから名主細野金太夫と云う人の家に"開かずのつづら"と云う物があり、太政官令と云う物が来ており、今なお飾ってあり、開かずのつづらは、赤城神社が国幣中社となった時に古文書として赤城神社に納めさせられ今は宮地にはない。そして宮の屋敷跡は氏神、同じく赤城神社になっております。このような点からして命も山から下り里にもお住まいしたとも思います」と云われている。
 以上の口説や資料に基づいて、赤城神社に関する資料を調査したところ、宮地村字梅天神の赤城神社を認めているのは、群馬県神社輯覧に見られるだけで、その他は祭神豊城入彦命ということだけが一致するのみである。そこで前橋市史における三夜澤の赤城神社の説明によると、「東西両社が区別されていて、東社は地蔵、西社は虚空蔵千手観音を本地仏としていたものである。」と記されており、又このことは、尾崎喜佐雄氏の「上野國信仰と文化」の中にも明記されて当時の神仏混淆説も唱えられている。又市史によれば「三夜澤には元三夜澤から移ってきたとの伝承がある。明治初年に記されたと思われる簡単な社誌があるが、そのうちに、「元宮地鎮座ノ時ハ」とか、この「元宮地」というのは元三夜澤を指す。」とか又「赤城神社は三夜沢の地に他からうつってきたとつたえられていた。」とか全く本村宮地村に関係ある文字が使用されている。
 このような資料から考えて村内に古くから口伝えられていることも全く無根であるとは考えられない点もある。神社の所在地も宮地村字梅天神であり、その他の小字も神明とか松天神、前田などすべてが社寺に関係あると思われる地名である。そこでさらにこの赤城神社の隣地は寺屋敷と云われており、その隣りに墓地も現存している。又勝山辰雄氏の祖父彌治衛門氏はこの寺屋敷を本籍として住居を構えていたが、彌治衛門氏の死後、養子伝治氏の代に現在の住所に移転し、本籍は辰雄氏の代になってから現住所に転籍したことは事実である。そこでこの寺について調査したところ、この寺墓地に和尚の墓石は七基あるが、文字等で判明したものは、宝永二年十月六日、(二七三年前)(法名不明)享保十八年六月十三日、(二四四年前)(法名不明)。宝暦四年四月二十三日三部都法大阿閣梨法印尊應覺。明和九年二月二十一日。竪者法印義隣和尚、のみである。この寺は「赤城山宮地邨地蔵院」と判明した。又寛政七年に富士領陰士之彫として、「赤城山大明神、護摩供御札、欽言」という木版が保存されていることから神仏混淆の時代における寺の併設が考えられる。これらによて、さきに述べた赤城神社の東社が地蔵仏に関係すると云われている前橋市誌や尾崎喜佐雄氏の著書によっても、赤城神社と地蔵院の結びつきが考えられるが、神社の建設や格式等については確たる資料がないんが残念である。しかし神社の古さを立証するものとしては、境内の松の大木である。目通り三・二メートル、根本四メートル余の大木の現存と社殿の造りが伊勢神宮と同様、拝殿と本殿の棟の向きが違うことなど多くの疑問を持っている』(「上川淵村誌」より抜粋)
 宝永二年は1705年なので、それに273年を足すと1978年。享保十八年は1733年なので、それに244年を足すと1977年。とすると、この調査結果が記されたのは昭和五十二年から五十三年頃となるか。
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 拝殿斜めから。
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 左の石祠は天満天神宮。右は不明。
『天神祭り
赤城神社境内に安置されている天神様は、毎年十二月二十五日が祭日で、数年前までは反下がりの、のぼりを立てて村内で赤飯を供えてお祭りしていたが現在はのぼりも廃されてしまった。細野平吉氏の話しによると、この天神様は、一枚橋の西南の東海道沿いの畑に祭られていたものを、明治末期になって、今の地に移したものだということである。又この天神祭りは各村々によっても行われている』(「上川淵村誌」より抜粋)

『天満天神宮
祭神 菅原道真
祭日 三月二十五日(旧暦二月二十五日)
宮地町のこの天神宮もこの末社として(年代不詳)宮地町字梅天神一八一番地(現在では県道高崎~駒形線の東宮地入口の信号機のある十字路の北西約三十メートル地点)の道路沿いの畑の一角に祭られ、多くの旅人に参詣されていたものと推測されるが明治初期にここに遷座されたようである。かつては十二月二十五日に天神講の行事として子供が書道向上の祈願に神のぼりを奉納していた』
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 キメラ仏。おそらく大黒天の身体に地蔵尊の頭を融合させた全く新しい神仏……ではなく、なぜこうなったのかはわからないが、なんとも不穏な雰囲気の石仏だ。
 その隣には十二天社。
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 八将神社。
 左側面に豹尾神、黄幡神、歳殺神、歳破神。右側面に歳刑神、大陰神、大将軍、太歳神と刻まれている。
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 末社。何神社かは不明。
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 二十三夜塔に庚申塔、馬頭観音、道祖神、双体道祖神などの後列に無縫塔。
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 誰が描いたのか、よくわからない落書きがあったのでなんとなくフレームインしてパシャっとな。

 以上で11月8日参拝分終了。
 使用機材はPENTAX K-5IIsにDA20-40mmとSIGMA 50-150mmII。FUJIFILM X30。
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