稲荷神社(上大屋町)

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 馬県道3号前橋大間々桐生線大胡バイパスのそば、稲荷塚古墳の墳頂に鎮座する稲荷神社(前橋市上大屋町8)。
 駐車スペースは無いので、古墳前の道(道幅は車一台分程)に置いたままささっと。
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『前橋市指定史跡 稲荷塚古墳
指定年月日  昭和五十年七月七日
所 在 地  前橋市上大屋町八番地
 昭和十年に群馬県下所在の古墳の一斉調査が実施され、その際に大胡地区では四十二基の古墳が数え上げられている。古墳の分布が特に多かったのは横沢、茂木、堀越地区だったが、これらの古墳は現在そのほとんどが壊され、形をとどめているものはごくわずかである。その中にあって、この古墳はその原形を良く残している唯一のものであり、貴重である。
 古墳の形は円形(円墳)で、直径25m以上のものである。墳丘のまわりには周堀がめぐらされていると考えられるので、それを入れると直径30mは超えるものと推測される。遺体を納めた墳丘内部の様子は未調査のため明らかではないが、横穴式石室と思われる』
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 二の鳥居。
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 一の鳥居には牛頭天王宮、二の鳥居には正一位稲荷大明神と刻まれた石の額が掛けられている。
『上大屋上組には、木のお宮の稲荷神社がある。もとは伊藤一家の稲荷様であったが、先代のときにむらへ寄付したという。その後大胡神社へ合併したが、内緒でこちらでもまつっているものである。祭日は二月二日。子どもが燈籠をつけている。

 上大屋の上組では牛頭天王(天王様)をまつっている。もとは上大屋の鎮守様であった。木のお宮がある(合併してご神体はない)。
 祭りは大胡の祇園と同じ七月二十七、八日。四月一日には神主におがんでもらって、幣束をきってもらう。
 上大屋では天王様をまつっているのでキュウリがつくれなかった(戦争が終ってからは、戦争に負けたのだから、そんなことはないだろうというのでキュウリをつくりはじめた。それまではどこの家でもつくらなかった。親類などからもらって食べていた)。キュウリをつくれない理由としては、むかし天王様がキュウリが食べたくなったのでキュウリばたけへ入ったところ、棒で目をついたためともいうし、また、殿様が戦争のときにキュウリばたけへ逃げこんだところ、キュウリのて(支え棒)で目をついたためともいっている。
 なお、下組には観音様がまつってある。ご縁日は七夕のときで、むら中でまつった。このとき子どもが燈籠をつけた』
(「大胡町誌」より抜粋)

『群馬縣管下上野國南勢多郡上大屋村字八ヶ峯
 無格社 稲荷神社
  明治四十二年六月五日許可、同村大字河原濱村字根古屋村社近戸神社ヘ合併、村社大
 胡神社ト改称セリ
一、祭神 保食命
一、由緒 不詳

 群馬縣管下上野國南勢多郡上大屋村字天王山
 村社 八坂神社
  明治四十二年六月五日許可、同村大字河原濱村字根古屋村社近戸神社ヘ合併、村社大
 胡神社ト改称セリ
一、祭神 素盞嗚尊
一、由緒 不詳
一、境内末社 三社
 八幡宮   祭神 譽田別尊
 菅原神社  祭神 菅原道真公
 菅原神社  祭神 菅原道真公』
(「上野国神社明細帳」より抜粋)

 上記の内容がこちらのことであるのか確証は無いが、上大屋の稲荷社と八坂社に関する記述はこれくらいだろうか。
 それはそれとして、樋越町にも牛頭天王が胡瓜の支え棒で目を突いてしまったことから胡瓜を作らなくなったという言い伝えがあると言うことなのだが、同様の言い伝えは以前参拝した文京町の八坂神社にも残っている。ググってみると、内容に多少の差異はあれど牛頭天王を祀る地域では胡瓜を作らないという話は割とメジャーであるようだ。
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 稲荷社。
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 末社。
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 これも末社……かな? 祠の残骸らしきものはあるが。
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