大胡神社(河原浜町)

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 大胡城跡の北部、近戸廓跡に鎮座する大胡神社(前橋市河原浜町615)。
 神社北側の道から社殿西側の車止めまでは車で乗り入れることもできるが、大胡城跡からなら歩いた方が早いので、車を二の丸跡に置いたまま徒歩でこちらへ。
『群馬縣管下上野國南勢多郡河原濱村字根古屋
 村社 近戸神社 郷社 大胡神社
一、祭神 大己貴命 豊城入彦命 八綱田命
  相殿 少彦名命 天照皇大神 大山津見命 日本武命
     級津比古命 級津比女命 磐筒男命 磐筒女命
  追加 菅原道真公 大雷命 市杵島姫命 保食命 大物主命 大日孁命
     道之長乳歯命 建御名方命 久那戸神 八衢彦命 八衢姫命 八十枉律日神
     譽田別命 火産靈命 罔象女命 多紀理毘賣命 狭依毘賣命 多岐那毘賣命
     天之忍穂耳之命 天津日子根命 活津日子根命 熊野久須毘命 天之穂日命
     木花咲耶姫命 埴山姫命 和久産巣日命 賀夜奈流美命 手力雄命 大地主命
     大山咋命 和久産靈命 櫛御気野命 大屋津姫命 枛津姫命 経津主命
     火雷命 速佐須良雄命 速秋津姫命 天羽槌姫命 加茂別雷命 宇賀魂命
     素戔嗚命 不詳一座
一、由緒 同郡三夜沢ヨリ勧請ニテ其年月日ハ不詳、往古ヨリ領主地頭崇敬ニテ、天正度
    ニ至リ大胡城主大胡常陸介社頭之営繕御供米等例年現米ニテ五石宛御奉納有之、
    其後牧野駿河守、同上前橋城主酒井雅樂頭、同上松平大和守、同上舊幕府代官岩
    鼻林部善太衛門、同上武蔵國岩槻大岡主膳正、同上小笠原豊後守迠先例ニ依テ奉
    納有之
     明治四二年六月五日許可、本社境内末社十四社、仝町字町屋敷村社菅原神社、
    仝境内末社四社、仝所無格社神明宮、仝境内末社二社、仝所無格社八坂神社、仝
    町大字茂木村字西小路村社熱田神社、仝境内末社三社、字天神無格社稲荷神社、
    仝境内末社一社、字大道上無格社八幡宮、仝境内末社三社、仝町大字堀越村字諏
    訪村社諏訪神社、仝境内末社六社、字関皆戸無格社愛宕神社、仝境内末社五社、
    字勝山無格社神明宮、仝境内末社六社、仝町大字瀧窪村字宮久保村社八柱神社、
    仝境内末社十四社、字東天神無格社菅原神社、字西瀧無格社稲荷神社、仝町大字
    横沢村字新屋敷赤城神社、仝境内末社五社、字西ノ原無格社八幡宮、仝境内末社
    一社、字向山無格社雷電神社、仝境内末社二社、仝町大字樋越村字天王山村社八
    坂神社、仝境内末社五社、字西前沖無格社菅原神社、仝町大字上大屋村字天王山
    村社八坂神社、仝境内末社三社、字八ヶ峯無格社稲荷神社ヲ合併、同時ニ村社大
    胡神社ト改称、氏子五百四十四戸ト更正、明治四十三年八月十二日許可、仝郡桂
    萱村大字堀ノ下村東女堀村社熊野神社、仝境内末社八社、字二子山無格社赤城神
    社、仝境内末社四社ヲ合併、並氏子五百七十二戸ト更正ス
     大正二年九月十二日明治三十九年勅令第九十六號ニ依リ神饌幣帛料供進神社ト
    シテ指定セラル
一、境内末社 拾四社
 天津日神社 明治四十二年六月五日許可本社へ合併
  祭神 大日孁命   由緒 不詳
 琴平神社  仝上
  祭神 大物主命   由緒 不詳
 厳嶋神社  仝上
  祭神 市杵島姫命  由緒 不詳
 菅原神社  明治四十二年六月五日許可本社へ合併
  祭神 菅原道真公  由緒 不詳
 八幡神社  仝上
  祭神 譽田別命   由緒 不詳
 水神社   仝上
  祭神 罔象女神   由緒 不詳
 稲荷神社  仝上
  祭神 保食命    由緒 不詳
 秋葉神社  仝上
  祭神 火産霊命   由緒 不詳
 雷電神社  仝上
  祭神 大雷命    由緒 不詳
 八坂神社  仝上
  祭神 須佐之雄命  由緒 不詳
 日枝神社  明治四十二年六月五日許可本社へ合併
  祭神 大山咋神   由緒 不詳
 三峯神社  仝上
  祭神 大山祇命   由緒 不詳
 大山祇神社 仝上
  祭神 大山祇命   由緒 不詳
 諏訪神社  仝上
  祭神 建御名方命  由緒 不詳』
(「上野国神社明細帳」より抜粋)

『大胡神社の由緒を示す一つの古文書があるのでこれを示すことにしよう。
  一筆啓上候
  御堅固之段珍重
  奉存候然者其地
  赤城大明神当城之
  鎮守ニ近戸大明神と
  奉祭度候間其元
  父子之中 此方江
  引越神祭奉
  頼候萬事家来
  口上申入候謹言
        常陸介
  天正十七
   十一月九日
  奈良原紀伊守殿
 大胡城主大胡常陸介高繁が三夜沢赤城神社の神官奈良原紀伊守に出した手紙である。大胡城のまもり神として赤城神社を近戸大明神として祭り度いので奈良原父子のどちらか来て祭りをしてもらい度いというのである。
 天正十八年の夏には大胡藩主牧野氏に変わるのであるが近戸大明神(大胡神社)は奈良原紀伊守で現在に至っている。しかし、これ以前に大胡城内に神社があったと推定している。即ち城内に玉蔵院という寺院があった。この寺は二之宮(現前橋市二の宮町)赤城神社の別当寺であった。このことから古くは二之宮赤城神社の系統の近戸大明神で、春秋のご神幸の休み場所として南北朝時代から存在したと考えられるのである。大胡氏も城を守り切れず山上郷右衛門や金山の由良氏の輩下増田某などの居城の時代を経て、ここに戻ってあらためて赤城信仰を考える時に三夜沢赤城神社ということになったのだろう。
 祭神は大己貴命、豊城入彦命である。明治四十二年六月五日に大胡町地内の神社という神社の全部を合祀した。さらには前橋市堀之下町の熊野神社その他まで併せた。実に二十二社にも及ぶ多くの神社であった。そこで祭神も数多く追加され四十五柱、相殿八柱となる。
 祭日は古くから五月一日であった。山から春になると山の神が下りてきて田の神になり農耕の豊作であることを祈念したのである。
 太々神楽は河原浜の人たちと足軽町の人たちの交互で奉納した。古くからの由緒あるものでお面も数が多い。この神楽は下大屋(現前橋市)の産泰神社にも指導し、同社の神楽復興に助力した。
 明治四十二年六月に近戸大明神を改称して大胡神社とした。近戸は赤城の神の近いところに勧請したことを意味する。参道も東からの道を昭和十八年南参道に附け替えた。

 明治四十三年発行の「大胡町誌」から大胡神社沿革をみると次の通りである。
一、当社ハ祭祀ノ始メ神殿ノ御造営年月日ハ不詳ト雖も天正年間御炎焼次テ御新築成ル
一、天正五丁丑年大胡城主常陸介高繁公ヨリ御供米五石宛御奉納賜ハル爾後累代ノ城主ヨリ明治三庚午年迄テ通計二百九十四年間奉納有之
一、天正十七年十一月九日前大胡城主常陸介公ヨリ赤城神社神主奈良原紀伊守ニ宛テ元赤城神社ヲ大胡城ノ鎮守ニ近戸大明神ト改称シ分家シテ当社ノ斎主トナラレタリキ依頼書ヲ贈ラル同月分家シテ斎主トナル(依頼書本家ニ蔵ス)
一、寛永年間本殿拝殿御炎焼同時神主奈良原家共焼失シ古記録実物悉ク焼滅ス次テ同十年三月吉日大胡城主牧野大和守忠虎公神殿ノ御造営賜ハル同年同月同公御庭前ノ奇石五個神前ニ御奉納有之寛文丁未年七月九日神祇管領長上侍従卜部兼連殿ヨリ奈良原紀伊掾定直ヘ神主申付ラル元禄十四年辛己年二月二十一日神祇管領長上正三位侍従卜部朝臣為家(家ノ字蝕ヒテ慥ナラス)殿ヨリ奈良原大隅守藤原重正ニ神主申付ラル正徳四年十一月嘉辰宮関村(今大字大胡町)大塚氏包紿木鳥居奉納享保十三戍申年四月石階新調奉納氏子中元文四年十二月吉日石鳥居奉納永井氏外数名寛保元年九月五日神祇管領長上正三位行右兵衛督兼神祇権大副侍従卜部朝臣兼雄殿ヨリ奈良原大隅守藤原忠茂ニ神主仰付ラル明和元年閏十二月二日神祇管領長上従二位卜部朝臣兼雄殿ヨリ奈良原山城守藤原成重ニ神主仰付ケラル文化元年十二月十七日神祇管領長上正三位侍従卜部朝臣良連殿ヨリ奈良原紀伊藤原成紀ニ神主仰付ケラル文化十三年四月二十三日神祇管領長上侍従卜部朝臣良長殿ヨリ奈良原紀伊正藤原成壽ニ神主仰付ケラル天保三年三月六日六ツ時神殿全部焼炎同時奈良原家焼失記録焼滅同乙未年十一月七日神殿新築成ル氏子中天保七年常夜燈一対奉納鵜飼氏弘化三年十一月十一日神祇管領長上卜部朝臣良芳殿ヨリ奈良原紀伊正藤原暁清ニ神主仰付ケラル安政六巳未年四月朔日錦御柱掛奉納堀越村氏子中同年同月日拝殿用大幕一張奉納大胡町沢田仙吉外九名文久元年三月大太鼓一個奉納堀越村氏子中文久二年四月手洗水屋奉納鵜飼氏(永代修繕付)元治元年九月十九日石玉垣新築奉納三ヶ村氏子中明治六年三月三十日群馬県ヨリ奈良原茂樹ニ祠掌申付ケラル同十八年五月本殿用大幕一張奉納横浜相生町四丁目田村清治郎同十九年四月太々神楽用神器装束一式新調氏子中同二十年十月十九日大旗一対再調河原浜村氏子中同二十二年五月一日鉄製玉垣新調奉納総氏子中同二十五年一月七日木鳥居建築奉納総氏子中同二十六年十月十九日近戸神社境内接続引裂上地官林ノ払下認可ヲ得タリ同二十八年三月四日社掌奈良原茂樹病卒滅職同二十八年八月三十一日付群馬県ヨリ近戸神社社掌ニ奈良原喜久太補任セラル同二十八年神嘗祭之日二十七八年日清戦役凱旋紀念之奉額有之大胡町八ヶ町村中同二十八年明治二十七八年日清戦役分捕品ケベル銃奉納群馬県同三十四年一月二十五日付本殿幣殿ヲ銅板葺ニ拝殿ヲ瓦葺ニ屋根改修ノ件並ニ用材トシテ境内立木伐採ノ件出願同年五月九日許可セラル同年八月二十二日付寄附金募集ノ件出願即日許可セラル同月二十五日同工事ニ着手ス同九月三十日仮宮成ル同十月一日午前二時仮遷宮式執行同十二月二十二日社殿工事全部終了同十一月二十三日石畳十六間三尺奉納鵜飼長平同裏坂工事費金六十円也奉納堀越村氏子中同家屋一棟奉納河原浜村青年中同家屋移転料金四十円也奉納河原浜村氏子中同石垣工事費金二十九円五十銭也大胡町大組講社以下有志二十一人同賽銭箱奉納氏子総代工事委員一同同年十二月二十四日午后二時上棟式執行同二十五日午前二時正遷宮執行同日臨時大祭執行同年十二月二十六日屋根改修工事費決算終了同三十九年十二月十九日明治三十七八年日露戦役報賽記念天水鉢一対奉納大胡町出征軍士一同同三十九年天長節之日日露戦役紀念碑並ニ軍馬応徴紀念碑建設除幕式執行同四十二年五月七日訓令甲第九号及訓令乙第五十五号ニ則リ河原浜村々社大胡町堀越村三ヶ字総鎮守近戸神社ヘ大字大胡町村社菅原神社並ニ七個字村社無格社合計二十社及境内末社全部合併ノ上社号ヲ大胡神社ト改称ノ件出願同年六月五日付群馬県ヨリ認可セラル同年六月九日合併社号改称認可報告祭執行同四十三年一月二十日合併神社跡地譲与ノ件出願同年三月三十日勢多郡桂萱村大字堀ノ下村村社熊野神社無格社赤城神社及境内末社ヲ大胡神社ヘ合併ノ件出願同年八月四日付大字大胡町大字堀越村大字滝窪村大字樋越村合併跡官有地譲与願ノ件認可セラル同年八月十二日付勢多郡桂萱村大字堀之下村村社熊野神社以下大胡神社ヘ合併ノ件認可セラル

 大胡神社はむかしは近戸神社という社名であった。祭典はむかしは五月一日、現在は四月十日である。
 ここは大胡町の中の八ヵ村の神社を合併してあるので、祭典は八ヵ村(八大字)でおこなっている。各大字の神社を合併する前には、二日二晩大祝いをしたという。このときには八ヵ村の青年たちが出て祝ったということである。
 近戸神社は馬をまつった神社というが、たしかでない。ここの神主は三夜沢から来たというが、赤城との関係についてはなにもいっていない。
 この神社は河原浜の根古屋にあり赤城様をまつっている。牧様(大胡の殿様牧野氏のこと)が、三夜沢の赤城神社へ行くかわりに、近戸神社へおまいりをしてすませたものという。そのために、天正年間に三夜沢から分社したものと伝えられている。
 祭日は、春が四月十日、秋が十月十七日(もとは十九日、オクンチという)。春祭は祈願祭で、この日には大神楽をした。秋は感謝祭で、このときも神楽をした。現在は春祭のときだけ神楽をしている。なお、オクンチには、カキを焼いて食べたという。また、境内で、子どもたちが木をあつめて、それをもやしたということである』
(「大胡町誌」より抜粋)
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 石段昇り口脇には猿田毘古大神と……なんだろう、道祖神かな。
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 石段を昇った先に狛犬。
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 鳥居。
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『前橋市指定天然記念物 大胡神社のムクロジ(無患子)
指 定 年 月 日  平成20年3月19日
所 在 地      前橋市河原浜町615 大胡神社
所有者および管理者  大胡神社
 このムクロジは、目通り周3.7m、樹高25mに達する巨樹で、地上3.8mの高さで3幹に分かれています。枝張りは、東西18.2m、南北21.7mに及び、根周りは非常に大きく周50m以上に達しています。環境省の調査によると、樹齢は300年以上と考えられています。
 ムクロジは、西日本の山林には自生していますが、群馬県での自生は知られていません。このムクロジも移植されたものと考えられます。
 ムクロジの実は、石けんとして利用されたほか、羽子板の追羽根や数珠としても利用されました。

前橋市指定文化財 大胡神社の算額
指 定 年 月 日  平成6年4月5日
所 在 地      前橋市河原浜町615 大胡神社
所有者および管理者  大胡神社
 算額とは、和算家が自分で研究した問題と解答を社寺の軒下に奉納掲揚したものです。この額は、大正4年に船津伝次平を師とする、和算家である大原福太郎(茂木町)が奉納したもので、3つの問題が載せられています。和算は江戸時代に盛んでしたが、明治以降衰えたため、大正期の算額としては珍しく、県内唯一のものです。

前橋市指定重要無形文化財 太々神楽の舞
指 定 年 月 日  昭和44年7月7日
所 在 地      前橋市河原浜町615 大胡神社
所有者および管理者  足軽町太々神楽保存会
 この舞は、往古より徳川時代までの神慰の行事として、足軽町に伝えられてきました。
 明治42年の神社合祀により、足軽町神明宮の神楽殿は大正元年に大胡神社へ移転されました。以後、河原浜と足軽町の人たちが毎年交互に舞ってきましたが、現在は、5月3日の例大祭に足軽町太々神楽保存会が奉納しています』
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 拝殿。
 正面右側に掛けられている大きな額が前橋市指定文化財の算額。
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 無患子の木。
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 神楽殿。
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 末社群。
 下段左から四番目は秋葉宮。六番目と九番目は山神宮。その右隣は少し読み取り難いが、十七夜宮かな。十四番目は金毘羅宮。右端は大国主尊文字塔。一つ挟んでその左に水天宮。
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 水天宮と大国主尊に挟まれた石祠は何神社なのかわからなかったが、正面部分になにかが浮き彫りにされている。上は鳥のようだが、下のはなんだこれ。
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 石祠二基と神庫。左の石祠は弁才天。
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 社務所裏に金毘羅大権現。
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 大胡神社北側の濠址。この辺りが大胡城跡の北端になるようだ。
 ガードレールの間から下りられるようになっているが、こちらの奥にはお墓らしきものがあったので進まずに引き返し。
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