琴平神社(国領町一丁目)

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 国道17号線住吉町交番前交差点の北西に鎮座する琴平神社(前橋市国領町1-1-18)。
『群馬縣管下上野國東群馬郡國領町
 村社 琴平宮
一、祭神  大物主命 大山祇命
一、由緒  不詳
一、境内末社 三社
 稲荷神社  祭神 倉稲魂命
 淡島神社  祭神 伊邪那岐命 伊邪那美命
 八坂神社  祭神 素佐之男命』
(「上野国神社明細帳」より抜粋)
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『国領町琴平宮の歴史
 祭神  大物主神 大山祇神
 創建年月は不明である古くは金刀比羅宮と書き金毘羅、金比羅大権現と称した。
 慶長六年(1601)に徳川家康の命令で酒井河内守重忠が川越城主から厩橋城主に代った時、当社に家臣をつかわして着城奉告祭を行ない以後酒井氏が代々崇敬してきた神社である。
 徳川家綱が征夷大将軍に任ぜられた時、厩橋城主酒井忠清(四代城主 大老下馬将軍といわれた)が家綱に代り京都の朝廷へお礼に出向いた折り、道中の安全祈願をして大任を果たした。帰城後六歌仙の額を献じて奉賽祭(お礼参り)を行なっている。慶安四年八月(1651)のことである。
 その後寛延二年(1749)に、松平大和守某が姫路から厩橋城主として移ってきた時も着城奉告祭を行ない前の酒井氏と同様に篤く崇敬した。
 また当社は庶民の信仰を集め旅立ちにあたり道中無事を祈願する人が多く、文化文政の頃(1804~1830)は広瀬川の舟の往来が盛んで沿岸住民からの奉額等がずいぶんあったようである。
 文化八年(1811)には手水舎と鉢の寄進。文政十二年(1829)と天保三年(1832)にはそれぞれ立派な燈籠が一対ずつ奉納されている。
 天保十一年六月(1840)には、社殿お建て替えがなされた。当時の世話人は、島田専兵衛、井下清七他十名の前橋の名主たちであった。
 当社が道中安全旅の神様として人々から信仰され隆盛であったのは文化・文政・天保・弘化の頃(1804~1847)で毎月九・十両日特に十月の大祭には参拝の人々が列を作り広瀬川にかかる厩橋を経て細ヶ沢かた当社に通ずる道筋は露天商が連なり遠くは利根・吾妻・新田・佐波・多野・甘楽にわたる広い地域からも集り境内には小屋掛け舞台を設けて諸芸を演じ、一隅の土俵では、氏子連の奉納角力があり近郷近在きっての、にぎやかなものであったという。
 規模こそ壮大ではなかったが、長い歴史と共に生きてきた大木に囲まれて、人々に親しまれ静かな憩いの場であった琴平宮は、太平洋戦争中昭和二十年八月五日前橋大空襲の折りに社殿やゆかりの品々と共に焼失し、往時をしのぶよすがとてないのは、まことに惜しまれる。
 現社殿は昭和三十三年建立。境内は区画整理の為およそ三分ノ一の広さに縮小された。境内には二社があったが、現存するのは、稲荷神社(百十年前に川越町奉行所内から移築)のみで他は定かでない(淡島神社もあった)
 昭和四十九年十月』
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 拝殿。
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 本殿。
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 正一位北野稲荷大明神。
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 彫刻が施されているが、なんだこれ。
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 二十二夜供養塔、庚申塔、猿田毘古命。
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 国道17号線に面して建てられた社号標石。
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