保食神社(宮代町金原)

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 真言宗智山派金谷山遍照院の西側、金原集会所前に鎮座する保食神社(南埼玉郡宮代町金原43)。
稲荷社  ──宮代町金原四三(百間村字金谷原)
歴史

 百間村は大落古利根川の右岸に沿って位置する。「風土記稿」によれば、古くは太田庄百間領に属し、村の鎮守であった姫宮神社の応永二十一年(1414)の鰐口には「大田庄南方百間」とあり、足立郡鴻巣宿の農民が来て、切り開いた土地であるという。
 当社は、この百間村の金谷原に鎮座する。金谷原とは鋳物師に関係の深い地名で、この辺りに鍛冶屋がいたことから付いたという。ちなみに当社の南三○○メートルほどの所に鍛冶屋屋敷跡があり、当地では「川口の鋳物師の本家」であるといわれている。
 口碑によれば、江戸初期に金谷原の「七郎名主」と呼ばれた関根家では金山大神を鎮守としていた。村には上の上寺(宮崎坊か)と下に遍照院があった。当時村では上下の対抗意識が強く、名主の関根家は下に居を構えていた。安永年間(1772-81)以前に、名主が関根家から上の折原家に替わるや、上では金山社を鎮守として祀るのを嫌い、新たに京都の伏見より稲荷を勧請した。そこへ下の金山神社を合祀したという。また、社伝には「安永四年(1775)羽倉摂津守が山城国伏見稲荷より五穀豊穣を願い勧請した」とある。「風土記稿」に見える上の寺と思われる宮崎坊は稲荷山と号し、遍照院は金谷山と号し、稲荷社・金山社それぞれの別当であったことが推測される。
信仰
 当社の祭神は倉稲魂命であるが、社頭に掛かる明治十八年の社号額には「保食社」とあり、この保食神が祭神として意識された時期があったことをうかがわせる。本殿は慶応三年(1867)五月の再建で、内陣には全高二五センチメートルの白狐に乗った荼枳尼天像が納められている。
 当社の例祭は七月二十日で「稲荷神社の祭礼」と呼ばれ、作神である稲荷に五穀豊穣を祈り、宮司が祝詞を上げる。終了後直会があり、御札が配布される。また、主な行事の一つに二月の初午がある。祭典は宮司が祝詞を上げた後、社務所で直会が行われる。昭和三十年ごろまでは、当番により甘酒が三日前から四斗樽数本に仕込まれた。当日は当番が神社に詰め、この甘酒が村中の人々に振舞われた。
 また、子供の行事としてお籠りがあった。初午の前日は、「初午のカンゲン(勧化の訛か)」と言って小学一年生から六年生の三、四十名が全員で太鼓を鳴らしながら、各家を回り、「稲荷のカンゲンをもらいに来ました」と言ってお金やお菓子をもらった。其の晩、子供たちは拝殿に火鉢と銘々で布団を持ち込んで集まり、交替で一晩中太鼓を打ち鳴らして過ごした。朝になると、一度家へ帰ってから学校へ行ったという。なお、初午の日は、正月・御影供・当社の例祭・彼岸・お盆・お日待と共に村の休み日であった』
(「埼玉の神社 北足立・児玉・南埼玉」より抜粋)
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 拝殿。
 手前のお狐様は、何故かそっぽを向き合っている。
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 お狐様。台座には昭和二十年一月吉日と刻まれている。
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 本殿。
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 末社。
 左から金山大神、天満宮、雷電宮、金谷権現神社。「埼玉の神社」には金谷権現神社は金屋権現と書かれている。
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『保食社は安永四年九月本宮正官攝津守によって分社、現在の地に鎮座された氏神様です。約六百坪の境内には杉の大木が茂り百間杉と愛称されておりましたが大東亜戦争の供木になり放置されておりましたが幸い町当局の好意により公園と集会所が完成し社殿補修工事は氏子一同の協力によってなされたものであります。
 昭和四十九年七月二十日』
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