春日神社(本田)

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 八幡神社から東へ1.5km程、時宗安養山阿弥陀院教念寺の南側に鎮座する春日神社(深谷市本田2025)。
 ググル先生に訊いてみたところ、天平二十年(748)に河内国の枚岡神社を勧請したものと伝えられ、古くは枚岡神社と称していたが、神護景雲二年(768)に藤原氏が氏神である鹿島神宮の武甕槌命に香取神宮の経津主神と枚岡神社の天児屋根命・比売神を併せて御蓋山(通称春日山)に祀り春日神としたことから、それに合わせて春日神社と改称したのだそうだ。
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 参道。
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『春日神社之碑
              正三位勲一等男爵千家尊福篆額
春日神社在武蔵国大里郡本畠村大字本田祀天津兒屋根命村社也明治四十年三月移
社殿於社域中央以北同月得官允起拝殿及幣殿之工翌年四月竣功行遷宮式其工費一
千六百餘圓也先是明治三十九年降勅令行神社廢合於是氏子胥謀請官明治四十年四
月移轉字山之神無格社山之神社及字北社宮司無格社社宮司社於春日神社域内明治
四十一年十月又移轉字鹿嶋無格社鹿嶋神社及字宿無格社稻荷神社於其域内明治四
十二年二月合祀字平方村社大天白神社於春日神社移天神社於同社地域而字鹿嶋無
格社雷電社以明治四十二年九月得登載干神社簿同年十月合祀之於春日神社域内鹿
嶋神社於是時有氏子二百二十二戸又有社地一千七百四十歩社外宅地一百三十七歩
及土地一千九百七十七歩明治四十三年五月遂被指定神饌幣帛料供進神社焉而社域
四圍皆以荒川石新築石垣延長實一百六十一間五尺也屬其西者五十九間二尺氏子而
從軍於明治二十七八年役者六人同從軍於明治三十七八年役者四十二人及参加両役
者六人荅神恩且為紀念築之屬其東北者七十八間三尺明治二十九年一月仝三十一年
一月仝三十二年二月及仝三十五年二月氏子而参拝伊勢太廟者六十八人相謀築之屬
其南者二十四間為氏子一同所築焉於是社域肅穆神威益揚頃者氏子有志■貲建碑欲
以表彰神徳來徴余文因紀其所言如此
  大正二年十月           從六位林有章撰弁書』
 ■は抬の「口」の部分が「月」の左下が伸びていない妙な形になっている。異体字だろうか。
 この碑を見ると社宮司社と大天白神社も春日神社境内に移転して来ている筈なのだが、あれー? 見当たらなかったぞ。

『記念之碑
 天平二十年第四十五代聖武天皇の御代西暦七百四十八年の昔より下本田の鎮守として氏子の信仰の篤い春日神社であります
 拝殿幣殿の再建竝に神殿外宇の小屋替等三殿の竣工と併せて瑞垣を新に回らし幽神の霊氣漂ふ
 其記念之碑を建立するにあたり概要を茲に記す 抑新築にいたりたる主因は取替不能な拝殿東南の隅柱の腐蝕甚大なるによる 想うに財源なく後世までの護持に誠に憂慮にたえない事態であった
 時恰埼玉県営農林公園の川本町に設置が決定其用地内に所在する本田三社共有地を昭和五十九年八月埼玉県に拂下げる続いて埼玉県営川本工業団地が決定し昭和六十一年十二月同団地内の共有地を埼玉県に拂下げる又工業団地取付道路用地等三次に亘り埼玉県へ共有地の拂下げをする 三次に亘る拂下げ代金の内春日神社の取得分は合計金三千七百四十六万八千八百也であつた 又昭和六十二年一月境内の﨔の枯損木二本を金一千万円也と金四百五十万也の合計金一千四百五十万にて業者に拂下げ從来より蓄積せる資金と併せ概ね再建可能なる財源を取得し昭和六十二年十一月起工し 平成二年八月願望総ての工事を完了す
灼なる御神徳により財源を授かり尊厳にして華麗なる御社三殿の再建を達成す
             平成二年十月十四日
                   建築委員長 大澤仁三撰文』
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 拝殿と狛犬。
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 八坂神社。
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 かわもと郷土かるた。
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 末社殿。左から古峯神社、八幡神社、雷電神社、山之神社、冨士浅間神社。
 その右に天満大自在天神、天満天神社。
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 鹿島神宮、稲荷大明神、社日神社。
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 稲荷大明神。
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 深谷市指定文化財史跡第16号の高札場跡。
 昭和37年1月29日に川本町の指定文化財に登録されたが、川本町と深谷市の合併に伴い、記号番号変更の為平成18年1月1日に登録され直している。
『高札場跡
 この上に高札(現代の掲示板)が、江戸時代から明治初年にかけて立てられていた。
 おきてがきや、お知らせを一般の人々に知らせるためのものであった。
 この地は、「御高札の辻」、「札の辻」とも呼ばれている』
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