伊古乃速御玉比売神社(滑川町伊古)

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 奥宮に参拝したのだから、ついでに里宮の方にもお参りして行こうかと思い、奥宮の東700m程の位置に鎮座する伊古乃速御玉比売神社(比企郡滑川町伊古1242)へ。
 こちらには以前にも一度参拝したことがある。前回は2009年7月だったので、6年ぶりになるか。
『伊古乃速御玉比売神社
 滑川町大字伊古
 昔は二ノ宮山上にあったが文明元(1469)年当地に遷座したと伝える。
 第六十代醍醐天皇は藤原忠平に命じて延喜式を編さん、武蔵国で四四座を数えた。その中の一社で県内でも古社の一つで、比企総社となっている。
 境内全域に自生する樹木は、南半部にアラガシを主とする暖帯常緑樹、北半部はアカシデ、ソロを主とする温帯落葉樹で両帯樹が相生していて学術上きわめて重要なため、県指定天然記念物である。
 段を登りきったところにそびえ立つ御神木「ハラミ松」は箭弓安産の祭神と相まって近年でも広く信仰がなされている。
 平成三年 月 敬白』

『当社は「和名抄」に載る比企郡渭後郷に比定される。読みは、水辺を表す「沼乃之利(ぬのしり)」とされる。この名残として、式内社である当社は、社名に伊古(渭後)を冠している。渭後は滑川に沿う細長い谷間の土地で、山あいに数多くの溜池が設けられ農業用水に利用されている。現在の溜池を古代にまで遡ることはできないが、古代においても溜池から水を引く方式は認められてよく、このことから渭後の地名も付けられたのであろう。
 なお、この渭後郷の地名については、渡来系氏族壬生吉志(みぶきし)と関連があったとする仮説が「東松山市と周辺の古代」(原島礼二)「古代東国史の研究」(金井塚良一)に載る。七世紀初頭前後に、比企及び男衾方面に横渟屯倉(よこぬみやけ)の管掌者として摂津国難波から入植した壬生吉志は、本拠地である難波の地名を比企の渭後、都家、高生、さらに男衾の榎津にもたらしたとする。葬制においても、これらの地は、従前の横穴式石室の腹部に膨みをもたせて胴張型に変化し、渡来系氏族の墓地として想定し得る。渭後郷を難波にある地名と関連づける理由は、渭後が「いかしり」とも読めるので、摂津国西成郡に鎮座する式内社座摩(いかすり)神社とかかわりがあるという。また、座摩の御巫が祀る神は、「延喜式」神名帳の宮中神に見える生井神、福井神、綱長井神、波比祇神、阿須波神の五座を示す。いずれも、井水や敷地を守護する神である。
(中略)
 当社は「延喜式」神名帳の「比企郡一座 小 伊古乃速御玉比売神社」に比定される。
 由緒は「明細帳」に、「人皇二十四代、仁賢天皇ノ御宇、蘇我石川宿弥ノ末裔、此里ヲ開キ君祖三幹平治ノ広徳ヲ仰キ字二ノ宮ノ山上ニ弓箭ノ祖、安産ノ祖ト崇敬シ三柱ノ神霊ヲ祭祀シ、延喜式内ニシテ比企郡ノ惣社タルコト皆世人ノ知ル処ナリ」とある。
 祭神は、元来、渭後の地に坐す「速御玉比売神」である。これについては、「古代祭祀と文学」の「武蔵国式内社考」で、西角井正慶氏は、速御玉は渭後に坐す姫神の霊威を讃えたものであろうと述べている。「明細帳」には、当社祭神を、大靹和気命、気長足姫命、武内宿禰の三柱を載せる。
 また、別に当社の神を「淡洲明神」といい、これは「風土記稿」にも記録がある。「神社覈録」に当社の速御玉比売命は、安房国一ノ宮の天太玉命の后神である天比理乃咩(あめのひりのめ)神の異名であると記される。「比企郡神社誌」の一説には、淡洲明神の洲は「しま」と読むことから紀伊国海草郡加太之浦に鎮座する淡島明神、つまり加太神社の神を当社に分霊したと思われる、とする。縁起によると、淡島明神は、住吉明神の妃で、帯下の病により淡島に流されている。以来、女人の下の病を守る神として、更に安産の神として信仰される。なお、当社付近には、分社であると考えられる淡洲神社が、滑川町水房、山田(二社)、福田、土塩、嵐山町勝田、太郎丸に鎮座する。
 「風土記稿」によると、別当は天台宗東叡山寛永寺末の岩曜山明星院円光寺である。三世秀海は貞享三年(1686)に示寂する。円光寺には、薬師堂があり、ここに安置する薬師如来像は、当社の本地仏である。社蔵の金幣にも「御垂迹速御玉比売神社」「武州比企郡伊古村本地薬師如来と刻まれる。当社の神は、本地薬師との関係か、諸病快癒、安産の信仰を伝える。ちなみに同寺は、中武蔵七十二薬師のうち、七十一番札所となっている。
(中略)
 滑川町一帯では、農業用水として数多くの溜池が造られているが、日照りの続く年は、二ノ宮山上で雨乞いを行う。雨乞いの時は、村人が当社に集まり、生きた「やまかがし」を入れた長さ五メートル余りの藁蛇を作る。この蛇は、笛や太鼓の囃子で送り出され、伊古堰と新沼に入り、大いに揉む。次いで二ノ宮山頂に登り、山上の松の古木に蛇を縛りつける。蛇は、天に昇って竜となり雨を降らせる』
(「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」より抜粋)

『祭神は気長足姫命・大靹和気命・武内宿弥命で、御神体は、以前は金杯だったが、戦時中に供出され、現在は幣束であるという。
 「新編武蔵風土記稿」には、此の神社について次のように記されている。「一ニ淡洲明神ト云フ。今ハ専ラ伊古乃速御玉比売神社ト唱ヘリ。コノ社地元ハ村ノ坤ノ方、小名二ノ宮ニアリシヲ、天正四年東北ノ今ノ地ニ移シ祀レリ、祭神詳ナラズ。左右ニ稲荷・愛宕ヲ相殿トス。当社郡中ノ総社ニシテ、「延喜式神名帳」ニ比企郡伊古乃速御玉比売神社トアルハ即チ此社ノコトナリ。往古ハ殊ニ大社ニテ、一ノ鳥居ハ近村石橋村ノ小名青鳥ト云フ所ニ立リシト云フ。按ズルニ此内青鳥ト云フ所ハ「小田原役帳」ニ青鳥居トアリ。サレバ古ヘ鳥居ノアリシヨリ地名ニモオヒシナリト云フハサモアルベケレド、当社ノ鳥居ナリシコトハ疑フベシ。コトニ其間二里余ヲ隔テタリ。又此社式内ノ神社ト云フコト正キ証ハ得ザレド、村名モ伊古トイヒ、且此郡中総社トモ崇メルコトナレバ、社伝ニ伝ヘル如ク式社ナルモシルベカラズト。トニカク旧記モナケレバ詳ナラズ。(以下略)」、一方「埼玉県神社明細帳」には、「人皇二十四代仁賢天皇ノ御宇蘇我石川宿弥生ノ末裔、此里ヲ開キ君祖三幹平治ノ広徳ヲ仰キ、字二ノ宮山上ニ弓箭ノ祖、安産ノ祖ト崇敬シ三柱ノ神霊ヲ祭祀シ延喜式内ニシテ比企郡ノ惣社タルコト皆世人ノ知ル処ナリ。文明元年当地ニ遷座スト伝フ(以下略)」と記されている。
 なお、この神社は、明治六年に郷社に列格している。その時に、伊古の氏子だけでは人数が少なく、水房の鎮守の阿和須神社の祭神がこの神社と同じだったので、水房の人にも氏子になってもらって郷社の社格をもらったという。
(中略)
 境内社として八幡神社・琴平神社・天神社があり、また。「はらみ松」と呼ばれる松の大木があって、安産祈願のために人が訪れる。
 なお、「埼玉県神社明細帳」によると、境内社の愛宕神社が、字郷社前の八幡神社を合祀して八幡神社と改称したことが記されている。この八幡神社のかつての社殿は残っていないようである』
(「滑川村史 民俗編」より抜粋)

 石橋村は現在の東松山市大字石橋であり、青鳥の地名も残っている。以前参拝した石橋の弁天堂東松山市石橋)は青鳥城の三の丸跡になるが、あの辺りは字城山であるそうなので、もう少し東側になるのかな。伊古乃速御玉比売神社から青鳥交差点までは直線距離でおよそ5.6kmなので二里(約7.9km)には足りないけれど。いや、それでもかつては一の鳥居からの距離がそれだけあったと言うのは凄い。まぁ、疑わしいとも書いてあるのだけれど。
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 二の鳥居。
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 拝殿正面。
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 ふと足元を見たら、礎石に石臼が使われていた。
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 社殿斜めから。
 本殿覆屋周囲のコンクリートにも石臼がいくつか埋め込まれていた。
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 雨乞いの碑と天満天神宮。
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 金刀比羅神社。
 その周辺にも石臼が見える。
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 八幡神社。
 「滑川村史 民俗編」によると、古くは愛宕神社であり八口神社と稲荷神社を相殿としていたが、後に八幡神社を合祀して改称したと言うことである。
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 こちらも礎石には石臼を使っているのが見える。

 以上で9月5日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA20-40mm、DA FISH-EYE 10-17mm 、DA15mm、DA35mm Macro、50-150mm II。*ist DSにFA43mm。X30。
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