四津山神社(小川町高見)

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 四津山神社の頂に鎮座する四津山神社(比企郡小川町高見1125)。
 埼玉県道184号本田小川線脇に四津山神社入口と刻まれた標石が建てられているので、そこから1km程西へ走って行くと、ふれあい四津山デイサービスセンターの先に四津山神社の入口がある。駐車場は無いが、退避エリアがあるのでそこに駐車。
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『四津山神社再建記念碑
 秀峰四ツ山山頂に鎮座する四津山神社神社は、火遇突智命を始め十七神を祭神とし、御神体は勝軍地蔵なり。古来より火防の神としてその信仰厚く信者は関八州に及ぶ。
 四ツ山はかつて鎌倉街道上道を押さうる軍事上の要所にして、戦国の世には城築かれ、長享二年(1488)の高見原合戦を始め数度にわたり戦場となる。天正十八年(1590)豊臣秀吉関東平定の際近隣諸城とともに、城としての役割を終え徳川家康の関東入国によりて泰平の世となる。降って宝暦九年(1759)山麓の古刹真言宗高見山明王寺第七世住職権大僧都法印祐慶師の代に古来より境内に祀られし寺の氏神愛宕神社を三月二十四日山頂に遷座す。以来重誉師を始め時の住職は御神体を奉じて登頂し神事を執行せられたといえり。
 明治の世となりて、三十九年(1906)神社寺院仏堂合併跡地譲与に関する勅令により、翌四十年四月三十日山麓高見の村社邊取神社及び能増の村社八幡神社を始め小社十一社を合祀し、山容地名に因み四津山神社と改称す。時に氏子数高見六十五戸・能増西地区十九戸なり。翌四十一年十一月神殿竣工以来益々氏子信者の崇敬の念厚く、事あるごとに神前に額づき、苦楽を分かちあいつつ、由緒ある郷土の歴史の中に多くの人材を育み来たれり。合祀以来大正八年(1919)神楽殿の竣工、同十四年峻険なりし参道を整然たる磴道に整備。昭和二十四年(1949)石鳥居の竣工。同五十八年参道の舗装等、氏子先人は一致協力して神域の保全に努め来たれり。しかるに、神殿は合祀以来九十年にも及ぶ星霜を経て、近年特に老朽化著しく、氏子一同は神霊の安らけきを願い、平成四年(1994)元旦祭に神殿改築を発願。同年五月九日氏子(百三名)総常会において再建を決議、建設委員会を設立せり。
 以来五年広く信者に奉賛を願いつつ、建立に関する討議を重ね、平成八年四月二十八日宮司より御神々の遷座の儀を執り行う後県重要遺跡たる城址の発掘調査を経、十一月三十日初冬の紺碧の天空に三本の幟を立てめでたく上棟祭。翌九年(1997)三月三十日山麓に在りし神々の神霊を宮司祭主のもと関係各位列席し、荘厳の内にも盛大に遷御の儀を挙行す。氏子の慶事ここに極まれり。
 これ偏に神々の御神徳と三百数十名にも及ぶ奉賛者及び関係各位氏子一同の努力の賜なり。この崇神の念に心より敬意と感謝を表すると共に奉賛者名簿を神前に献じ、神々に幾久しき御加護を願い、爰に御芳名を刻し其の徳行を後世に伝えんとす。
 維持平成九丁丑年十一月吉日』

 鳥居脇の石碑にも記されているが、愛宕神社に合祀されたのは高見村社辺取神社と無格社阿夫利神社、疱瘡神社、尺司社、六所社、浅間神社、天神社、八雲神社、熊野神社に能増村社八幡神社と無格社菅原神社の十一社。
 「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」によると、辺取神社の祭神は武甕槌命であり、鉄剣を御神体とする。古代の製鉄技術者集団から信仰されていたと考えられるのだそうだ。
 同じ「へとり」の名を持つ神社として、ここから東北東3.4km程の位置に兵執神社比企郡嵐山町古里766)がある。辺取と兵執はどちらも「へとり」と読み、また御祭神も武甕槌命である。なんらかの関係があるのだろうか。
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『四津山神社之碑  正四位勲二等男爵澁澤榮一題額
明治四十年四月三十日武蔵國比企郡八和田邨大字高見六十
五戸大字能増西組十九戸胥謀合祀高見邨社邊取神社無格社
阿夫利神社同疱瘡神社同尺司社同六処社同浅間神社同天神
社同八雲神社同熊野神社能増邨社八幡神社無格社菅原神社
之十一社於高見四津山々頂無格社愛宕神社為兩字之鎮因地
名改稱四津山神社葢奉明治三十九年勅令二百二十號之旨以
表敬神之意也按口碑此山増田四郎重富之居趾云然其詳今不
得而可考愛宕神社之創始亦然而山勢嵯峨高拔群山遠望之則
峯頭四方所以有四津山之稱也明治四十一年改修神殿至十一
月竣工仍爰勒其顛末於石以傳不朽云
明治四十二年四月
                 戸田宇八撰
                 石川 巌書』
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 ここから石段。左に行けば犬走り跡だが、とりあえず今回はのんびり城跡巡りをしている余裕はないのでそちらはパス。
『四津山神社磴道記
      埼玉縣知事従四位勲三等齋藤守圀題額
明治四十年四月移邨社邊取神社同八幡神社於此地与愛
宕神社合祀其氏子九十有餘戸是以月之三日及祭日之參
拜者頗多然參道險峻以不易登攀如老幼殊恐缺賽禮氏子
亦憂之謀磴道之築造久矣雖然工費多大造營不容易大正
四年會御即位大禮乗歡意大揚為其記念事業議決磴道之
築造積資十年的成千餘圓也於是大正十五年十月起工直
築造五階百五十餘級之磴道矣其工費實一千八百圓課役
參百餘人以十一月告成十二月行奉告祭在天之神靈應以
頷氏子等之欣抃不俟言也乃勒其顛末於石以垂不朽
                石川巌撰并書』
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 腰郭跡。
 四津山公園と書かれた看板があるが……公園?
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 不動明王と大黒天。
 不動明王は享和三癸亥年(1803)三月二十四日の造立。大黒天には八十八翁愚禅の名が刻まれているので、文政四年(1821)の造立になるのだろうか。
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 山頂に四津山神社。
 麓からここまでおよそ20分程。写真を撮ったりせずに登るだけならもっと短い時間で来られるだろう。
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 社殿脇の土塁から。
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『県指定史跡 四ツ山城跡
 小川町大字高見字四ツ山一一二五ほか
 平成十五年三月十八日県指定
 四ツ山城跡は、周囲から一際高くそそり立つ山頂に立地し、北は荒川流域一帯、南は市野川流域を一望できる要害の地に築かれています。市野川筋にはいわゆる鎌倉街道上道が走り、戦国時代には鉢形城(寄居町)と松山城(吉見町)の間にあって、交通路を押さえる重要な役割を果たしていたと考えられます。
 城跡は細長い尾根を巧みに利用し、四津山神社の建つ本廓と北に連なる三つの主要な廓によって構成され、それぞれ土塁と堀切によって画されています。
 文明十二年(1480)の太田道灌書状写に「高見」「高見在陣衆」とあることから、このころに城が整備された可能性があります。長享二年(1488)に山内・扇谷両上杉氏の対立により激戦が繰り広げられた高見山合戦は、この麓の高見・今市付近で行われたと考えられています。
 また、江戸時代に編纂された「新編武蔵風土記稿」は、長享元年に没した増田四郎重富の居城と伝えています。「関八州古戦録」によると、天正十八年(1590)の豊臣秀吉による関東平定の際に鉢形城主北条氏邦の家人が籠ったものの、戦わずして鉢形城へ逃げたといいます』
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