八坂神社(小川町大塚)

DSCF4395s.jpg
 国道254号線脇、大関町会館に隣接して鎮座する八坂神社(比企郡小川町大塚94)。
 玉垣の親柱正面に八坂神社、側面に稲荷神社と刻まれており、扁額にも八坂神社稲荷神社合殿とある。
 鳥居の柱には「大正三年六月吉日建之」「東京日本橋區室町一丁目 山本徳治郎」と刻まれている。大正三年は1914年。

『大塚の八坂神社は、秩父街道の宿場の一角を成していた大関町の町中にある。そのため周囲に商店や民家が建て込む狭い立地を有効に使った独特な境内配置がなされている。現在の社殿は、社務所と共に平成三年四月に竣工したもので、独特な造りである。
 この八坂神社は、境内にある頌徳碑によれば、元は「梅皇山牛頭天王」と称し、天保八年(1837)に疫病の流行によって多くの人が亡くなった時、住民がこの牛頭天王に祈願したところ、霊験著しく病魔が退散したので、大関町の大塚佐右衛門という人が率先して私有地を提供し、町衆と共に社殿を建設の上、梅皇山から牛頭天王を遷祠したことに始まるという。以来、疫病除けの神として信仰厚く、この社を祀っているおかげで大関町では現在に至るまで二度と疫病が流行することはなかった。
 また、社殿内には、伏見稲荷の分霊と伝えられる稲荷神社が併せ祀られており、地元の商家の人々から商売繁昌の神として信仰されている。このほか、かつて境内には七夕神社が祀ってあったが、老朽化が進んだため、平成三年の再建時に八坂神社に合祀された』
(「小川町の歴史 別編 民俗編」より抜粋)

 梅皇山とはどこだろうとググってみたら、梅岑寺の山号であるようだ。「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」によると、当八坂神社は延宝七年(1679)九月と嘉永二年(1849)六月、明治元年(1868)九月の三回再建されたと記されている。上記の平成三年(1991)を加えると四回か。それはさておき、延宝の時は蓮蔵院、嘉永の時は梅岑寺、明治の時は大教院が別当を務めていたとのことであり、蓮蔵院と梅岑寺は同じ寺であるのだそうだ。とすると、梅皇山蓮蔵院梅岑寺と言う寺の境内に祀られていた牛頭天王をこちらに遷祠したと言うことになるのだろうか。しかし、普通は山号ではなく寺院名で書きそうなものだから、梅皇山と言う山があったと考えるべきかな。鎌倉幕府九代将軍である守邦親王が当地に逃れ落ち、猿尾氏に迎えられて梅香岡に仮寓したとの言い伝えもあるようだし。その辺りは調べてないのでよくわからない。ちなみに現在梅岑寺は存在しないが、本山派修験男衾郡板井村長命寺の末寺であり、ここから800m程西に位置する八幡神社の別当でもあったのだそうだ。
DSCF4405s.jpg
『頌徳碑
此處の八阪神社は去る天保八年吾地悪疫流行し死する者その数を知らず凶氣月を経て上ず
郷人哀痛して梅皇山牛頭天王に此悪疫退散を祈願す霊験いちぢるしく病魔たちまち滅して
患を免かる茲に於て吾町の大塚佐右衛門氏率先私有地を提供し衆とともに社殿を建設し梅
皇山より遷祠以て神徳に奉謝す盍し郷民一般の信念なりき其後明治の間小川村も町に発展
するにつれて吾大関町も益々増家繁榮するに到るや旧道の曲折狭隘を感じ當時の有志等道
路の改修を大塚氏に謀るや氏また進んで其幹部となり私財を投じて盡力大いに務む而して
曩きに納たる本社境内地は當時村社々掌片岡鼎氏の假所有名なりしを大塚佐右衛門の子恭
次郎氏と社掌の孫片岡二郎氏より贈與を得て昭和五年四月十九日付を以て登記完了せり是
まことに大塚佐右衛門氏の敬神感念と燃えるが如き愛郷心の事蹟にして本社の歴史なり盍
しこの徳行を不朽にせむ爲に刻して以て碑を建る者なり
 昭和六年四月』
DSCF4399s.jpg
 左は大黒天。右は文久三年癸亥(1863)六月に建てられた天王社の頌徳碑。文字は大分薄くなっており、読み取り難い。
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

カレンダー
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
ブログ内検索
カテゴリー
最近の記事
最近のコメント
月別アーカイブ
最近のトラックバック
FC2カウンター
プロフィール

梁瀬

Author:梁瀬
無駄な徘徊でCO2を増やす、
方向感覚に不案内なヒト

リンク
RSSフィード