待乳山聖天(浅草七丁目)

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 今戸神社の南200m程の位置に鎮座する、待乳山聖天こと聖観音宗待乳山本龍院(台東区浅草7-4-1)。
 公式サイトはこちら
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 池波正太郎生誕地碑。
 ちなみに自分は「仕掛人・藤枝梅安」シリーズしか読んだことが無い。
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『待乳山聖天
 台東区浅草七丁目四番一号 本龍院
 待乳山聖天は、金龍山浅草寺の支院で正しくは、待乳山本龍院という。その創建は縁起によれば、推古天皇九年(601)夏、旱魃のため人々が苦しみ喘いでいたとき、十一面観音が大聖尊歓喜天に化身してこの地に姿を現し、人々を救ったため、「聖天さま」として祀ったといわれる。
 ここは隅田川に臨み、かつての竹屋の渡しにほど近い小丘で、江戸時代には東部随一の眺望の名所と称され、多くの浮世絵や詩歌などの題材ともなっている。とくに、江戸初期の歌人戸田茂睡の作、
  哀れとは夕越えて行く人も見よ
        待乳の山に残す言の葉
の歌は著名で、境内にはその歌碑(昭和三十年再建)のほか、石造出世観音立像、トーキー渡来の碑、浪曲双輪塔などが現存する。また、境内各所にほどこされた大根。巾着の意匠は、当寺の御利益を示すもので、大根は健康で一家和合、巾着は商売繁盛を表すという。一月七日大般若講大根祭には多くの信者で賑う。
 なお、震災・戦災により、本堂などの建築物は焼失、現在の本堂は昭和三十六年に再建されたものである。
 平成十一年三月』

『トーキー渡来記
リー・デ・フオーレスト博士は明治六年米國アイオワ州に生れ無線電信電話の開拓者として三百有余の特許権を得ラジオの父と仰がる、大正十二年更にトーキーを発明、紐育市に於て上映世人を驚かせたり。大正十三年故高峰讓吉博士令息エヴエン氏來朝の際、余親しくその詳細を聴きて将來に着目す、翌年渡米、博士の好意により東洋におけるトーキーの製作及び配給権を獲得したり。依て米人技師を帯同帰國、大正十四年七月九日宮中に於て天皇皇后兩陛下の天覧に供し各宮殿下の御覧を仰ぎたる後一般に公開せり。トーキーの我が國に招來されたる之を以て初めとす。以來余、我國におけるトーキーの製作を企図し、日本人技師をフオーレスト博士の許に派して技術を習得せしめ余の渡米もまた前後九回に及べり。大正十五年大森撮影所において撮影を開始し、ミナトーキーの名を冠して黎明、素襖落、大尉の娘等の劇映画を完成す。これ我國におけるトーキー製作の濫觴なり。爾来トーキーは日進月歩、昭和三年の衆議院議員普通選挙には時の田中首相及び三土、山本、小川の各閣僚が自ら画中の人となりて政見を発表する等の普及発達をみたる外ミナトーキーは上海を始め東洋各地にも大いに進出するに至れり。
今やトーキー我國に渡來してより三十年を閲するもフオーレスト博士の発明形式は依然として世界各國に踏襲さる。博士の業蹟偉大なりというべし。加うるに我國テレビジヨンの発足もまた実に博士の力に依れり。昭和二十三年、フオーレスト博士は極東軍総司令官マツカーサー元帥を介して余に日本におけるテレビジヨンの創設を慫慂したり。余正力松太郎氏にその意を伝う。正力氏夙にテレビジヨンの創設に意あり、フオーレスト博士の勧奨を機とし、氏独自の構想の下にテレビジヨンの実現に努力し遂に昭和二十七年テレビジヨン電波許可第一号を受け、日本テレビ放送網株式会社を創立し余もまた役員に加わる。翌二十八年八月三十日日本における最初の電波を出せり。これ偏に正力氏の業蹟に依ると雖もまたフオーレスト博士の日本への友情に基くものというべく吾人の感謝措く能わざるところなり
今日トーキーの普及発達は実に目覚しく、テレビジヨンの普及もまた瞠目に値す。フオーレスト博士の文化に貢献する処絶大なりというべし、茲に余の旧縁の地待乳山の名蹟を卜して碑を建てトーキー渡来の由來とテレビジヨン創成の縁由を刻して博士の功績を讃え併せて報恩の微意を表す。
 昭和三十一年五月吉日  建碑者 皆川芳造』
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 庚申塔と青面金剛と聖観世音菩薩。
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 参道。
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 腰壁には大根と巾着のレリーフが施されている。
 そして左上で観音様がみてる。
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『出世観音像
 昭和十一年境内整地のおり御頭のみが出土され足利末期(1,600年頃)の作と鑑定された。学業・芸道に志す者の尊信をあつめている』
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『歓喜地蔵尊
 数度の火災に遭い、その尊容とどめていないが古来より子育地蔵として伝承され、霊顕あらたかな尊として信仰されている』
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『築地塀
 江戸時代の名残をとどめる唯一のもので貴重な文化財である。全長二十五間(45.5m)
 広重の錦絵にも描かれている』
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 神楽殿。
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 狛犬。
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 本堂。
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『銅造宝篋印塔(台東区有形文化財)
 台東区浅草七丁目四番一号 本龍院
 宝篋印塔は「宝篋印陀羅尼経」という経典に基づいて造立された塔である。本塔は江戸時代中期以降に流行した、屋根型の笠をもつ宝篋印塔で、時代性をよく表している。基礎に刻まれた銘文から、天明元年(1781)に鋳物師西村和泉守が制作し、蔵前の札差等十六名が奉納したものであることが分かる。西村和泉守は、江戸時代から大正時代にかけて、十一代にわたり鋳物師を務めた家で、本塔の作者は五代西村政平にあたると考えられる。
 銅造の宝篋印塔は全国的にも類例が少なく、とくに区内では造立当初からほぼ完全な形で遺された唯一の事例である。各部の装飾は優れており、鋳物師の高い技能を知ることができる。また、蔵前の札差の奉納物としても貴重な歴史資料である。
 平成十四年に台東区有形文化財として台東区区民文化財台帳に登載された。
 平成十九年三月』
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 稲荷尊。
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『糸塚
 十一世杵屋六左衛門(後に三世杵屋勘五郎)建立
 この糸塚は元治元年(1864)十一世杵屋六左衛門が父十世杵屋六左衛門の遺志に依り供養の為建立せるものにして
 十世六左衛門 三世勘五郎共に長唄三絃の名人と云われた人である
 昭和六十三年四月 六世杵屋勘五郎記』
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『戸田茂睡歌碑
 茂睡は元禄の頃(1688~1704)活躍した歌人で、歌道の革新を唱えた。江戸最古の歌碑と称されたが、戦火に遭い昭和三十年拓本をもとに再建された』
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『天狗坂
 昔時は大木がうっそうと生い茂り、坂を下りたところに竹屋の渡しがあった
    天狗坂 夕木枯の
       おもいでに
           久保田万太郎』
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 天狗坂の階段は通行禁止になっているので、回り込むとここ、東の通用門側に繋がっている。
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 狛犬。
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 浪曲双輪塔。
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 浪曲双輪塔のそばにも狛犬。
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