諏訪神社(柏倉町)

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 柏倉公会堂の西側に鎮座する諏訪神社(前橋市柏倉町甲諏訪1023)。

『村社 諏訪神社 宮城村大字柏倉村字甲諏訪鎮座
祭神 建御名方命、大己貴命、倉稲魂命、火産霊命、菅原道真公、誉田別命、大物主命、
  大日孁命、天児屋根命、罔象女命、大雷命、大山祇命
由緒 不詳、明治四十年八月十三日許可本社境内末社五社(愛宕神社、稲荷神社、大山祇
  神社、菅原神社、八幡神社)字近戸無格社近戸神社同境内末社十社(愛宕神社、菅原
  神社、春日神社、琴平神社、神明神社、大山祇神社、八幡神社、水神社、赤城神社、
  火神社)同所無格社稲荷神社同境内末社雷神社を合併せり
境内神社 七社
   八坂神社、赤城神社、水神社、埴山姫神社、地主神社、熊野神社、石神社
神饌幣帛料供進指定 大正五年三月十日
例祭 九月二十七日
事由 創立明応二癸丑年(西暦一四九三)七月信濃国上下諏訪神社ヨリ分社勧請建御名方
 命ヲ始テ爰ニ祀リタト云、同年七月廿七日大祭典ヲ執行シタル例トシ毎年其日ヲ以テ祭
 日ト定メ年ニ二回トシ三月廿七日、七月廿七日両日トシ、示後今ニ至ルマデ祭祀セリ。
 本村氏子等古伝ノ説ニ拠レバ中興、寛永元甲子年(西暦一六二四)十二月廿七日本社再
 興ヲナシ尚延宝八申年(西暦一六八〇)月廿一日再々興ヲナシ其侭今ニ存セリ。祭日ノ
 典例ハ本村ト大字市之関トノ境界ニ赤城山ヨリ下流スル金丸川ニ古来ヨリ字御漁ト唱フ
 ル処アリテ常ニ漁業ヲ為ス事ヲ禁止シ置キテ更ニ漁スル者一人トシテ無之シテ祭典前日
 村内氏子一同シテ「カジカ」ト唱フル魚七拾五尾ヲ漁シテ社前ニ饌ス。是信濃国一之宮
 諏訪神社ニ於テハ猪鹿ノ頭ヲ社前ニ奉リシ例規ニ依リテ変転シタルモノト云ヒ伝フ』
(「宮城村誌」より抜粋)
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 鳥居。
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 神額には諏訪神社の他に近戸神社と稲荷神社の名も刻まれている。
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 参道と拝殿。
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 享保二十年四月(1735)四月造立の水盤。
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 拝殿斜めから。
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 本殿。
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『諏訪神社由緒記
 柏倉の諏訪神社は群馬県勢多郡宮城村大字柏倉字甲諏訪一〇二三番地に鎮座し 柏倉の地域の総鎮守である 祭神は建御名方命 長野県諏訪市の諏訪神社から明應二年(西暦一四九三)に分祀したと伝えられている
 もと本社地には諏訪神社勸請の時に 地主神として祀られた神の社があって そこに諏訪神社が建てられたのである 「今でも本社境内に地主神を祀る社があり 諏訪神とか関係のない鎌倉時代の御正体が秘蔵されている
 永禄九年(西暦一五六六)厩橋(現前橋)城主北條丹後守高廣が柏倉村内の諏訪免壱貫文の地等を 三夜沢の赤城神社に寄進している この諏訪免の地は本社に関係あるものと見られるので その頃には既に諏訪神社は鎮座していたのである
 中世には本地垂迹説による信仰が流行した 平安時代の始頃(九世紀)に起り 明治元年(西暦一八六八)に神佛分離の命令が出るまで続き 其間寺院が神社を支配していた そこで神社に佛像を神体として祀るようになり それを御正体と言った 慶長二年七月十九日の奉納で 「上野国勢多郡柏倉諏訪大明神御正躰也」 と記されたものが二面現存している 尚 この御正体には「各百姓中」とあって 村人達の奉納であることが注目される 又 本社の別當寺は天台宗東昌寺であった
 明治維新以後 神佛分離によって神社は寺院から独立し 宗教から脱し 祭政一致という政治政策によって國家に統制された 明治十年(西暦一八七七)八月四日には 柏倉村地内の二十二の社を本社境内に移転した 當時氏子数一〇九戸 明治四十年(西暦一九〇七)八月十三日には 柏倉村近戸神社(祭神大己貴命)を合祀した 當時氏子数一三四戸
 大正六年(西暦一九一七)には村社の社格の指定を受けた 終戰後 神社は宗教であるとして國家統制からはずされた したがって社格の制度も廃止されて現在に至っている
 本社殿は寛永元年(西暦一六二四) 延宝八年(西暦一六八〇)の再興を経て 文政八年(西暦一八二五)に再建された これに慶應元年(西暦一八六五)に御饌舎 明治二年(西暦一八六九)に神楽殿が加えられた 大正三年(西暦一九一四)には本殿を改築 幣殿を新築し 旧本殿の上屋を拜殿とした 昭和三十七年(西暦一九六二)社殿改築の議が起り 終戰以來既に二十年 大正三年の修築より半世紀を經ているので 本殿に上屋をかけ 拜殿及幣殿を改築することになり 四十年十一月二十七日落成した 氏子三百八十七戸の寄進によったものである まことに敬神崇祖 報本反始の美挙と言ふべきである
 和のあるところに生産があり 教育がある 自ら道徳が行なわれる 神の嘉し給う地である 神は永遠に柏倉に住む人々の生活の中心にあるであろう
紀元二千六百二十六年
昭和四十一年七月二十七日      羣馬大学教授文学博士 尾崎喜左雄 撰文
                          麗軒 金子潤象  謹書』

『御社殿改築誌
昭和の初期老朽により改築の議が起きたが第二次卋界大戰のため立消えとなり昭和二十年八月十五日終戰により人心が動揺して敬神の念も薄らいだ観があつたが其の後次第に我が國本來の精神をとり戻して昭和三十七年十一月長寿会員と一部の有志とによる大幟旗が奉献せられ改築の議が再燃し昭和三十九年四月氏子総会で満場一致で之が可決せられた同年十一月御用杙の伐採を始め同四十年四月一日地鎮祭並に起工奉告祭八月二十八日上棟祭同年十一月二十七日竣工奉告祭を執行したものである
御用杙の内桁下一切は境内地のものを用い字共有林よりわ小屋組杙一切と経費の一部を献納し氏子三百八十七戸の寄進総額壱百四十三万四千五百円及び一戸一名の勤労奉仕と村外の熱烈な崇敬者六十一名より二十七万四千五百円の尊い寄進があり別に改築委員延二千五百人の奉仕によつて改築寛政したものである』

 上記の碑文は一枚の石に刻まれており、表面が諏訪神社由緒記、裏面が御社殿改築誌となっている。
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 前橋市指定重要有形文化財である歌舞伎舞台。
 明治二年(1869)に建てられたもので、宮城村に現存する唯一の歌舞伎舞台であるのだそうだ。宮城村は鼻毛石・市之関・柏倉・三夜沢・苗ヶ島・馬場・大前田の七村が明治二十二年(1889)に合併して出来た村で、平成十六年(2004)に前橋市に吸収合併されて宮城村の地名は消滅、現在に至っている。ちなみに宮城村の名の由来は「県社赤城神社ノ下ニ駢列スルヲ以テ宮城ト名ヅク」と言うものであるとのこと。
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 諏訪神社の文化財案内板。
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 本殿裏の末社群と石塔。
 左奥から赤城社、左口大明神、十二山神、不明(額部分に三の文字が浮き彫りにされているので、三峰社だろうか?)、不明。また、末社の奥の覆い屋の下には切り株がある。御神木だったのだろうか。
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 末社。
 左は天照皇大神。右は不明。わりと立派な石祠だし、地主神だろうか?
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 末社。
 何神社なのかはわからないが、左右の石塔は全て猿田彦大神なので、この石祠も猿田彦命を祀ったものであるのかも知れない。或いは、塞の神に関連して石神社か。
 側面には文久元辛酉年三月吉日と刻まれているので、1861年の造立。
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 砲弾。
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 享和三癸亥年(1803)十一月造立の石仏と文化十三丙子年(1816)四月造立の石燈籠。
 なんだろうこれ。虚空蔵菩薩かな? 違うか。辨財天のようにも思えるけど、うーん、どうだろうなぁ。
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 延享三丙寅年(1746)造立の馬頭観音。
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