諏訪神社(吉岡町北下)

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 北下西南部住民センターの南に鎮座する諏訪神社(北群馬郡吉岡町北下505)。
『群馬縣管下上野國西群馬郡北下村字諏訪臺 村社 諏訪神社
祭神  建御名方神、品陀和氣命、櫛御氣野命
由緒  勧請年月不詳、末社ニ馬場社アリ、或云馬場美濃守ノ霊ヲ祭ルト、此説タゝ社名
   ニ因テ附會セルノミ、按スルニ上野國神名帳ニ従五位馬場明神ト見ヘタルハ此社ナ
   ランカ
    明治四十一年四月十三日許可、仝村字山下無格社八幡宮、及字千代開無格社熊野
   神社ヲ合併セリ
境内末社 六社
 八坂社  祭神 素盞嗚命
 稲荷社  祭神 倉稲魂命
 神明社  祭神 大日孁命
 秋葉社  祭神 火産霊命
 厳島社  祭神 市杵島姫命
 馬場社  祭神 不詳』
(「上野国神社明細帳」より抜粋)

『祭神由緒書
諏訪台五〇五番地鎮座  村社 諏訪神社
一、祭神  建御名方命 品陀和氣命 櫛御気野命
一、由緒  建御名方命ハ父君大国主命、正妃ハ八坂刀売命、当国桃井城主房久 文禄
 慶長之頃勧請ト言ヒ伝フ。社殿創立ハ元亀天正之頃ト按ズ。元禄六年七月吉辰石鳥居
 建立。元文二年九月十一日京都神祇官領兼雄幣帛ヲ献ズ。天明六年冬十二月丙午良辰
 秋葉山勧請。天明七年丁未正月吉辰道祖神勧請文化五年戊辰正月吉辰高橋兵衛門清房
 金比羅宮勧請ス。文化六年六月吉辰厳島神社勧請総村中。文化六年己巳季夏良辰八坂
 神社建立総氏子中。稲荷神社勧請年月不詳。神明宮勧請年月不詳。馬場社元文五年七
 月吉祥日勧請。衣笠大神慶応三年卯四月吉日勧請ス。品陀和氣命ハ母ノ体中ニ有リテ
 朝鮮安定ス、国土平安息災延命ノ守神。櫛御気野命ハ素盞嗚命ナリ命ハ五穀豊盛之守
 神、弐社共明治天皇四十一年四月十弐日ニ当社ニ合併セリ。大正二年一月四日明治天
 皇勅令第九十六号ニ依リテ神饌幣帛料供進神社トシテ指定セラル』

『勧請年代は不詳なれども桃井城守播磨守直常従二位大納言四条隆俊を通じ京都神祇官より勧請すと伝ふ。其の始め当領主の祈願所たり。美濃守に至り再建す。城主は家中及び領内に命じ獅子舞を献ずるを例とせしが今なおこの例あり。境内に馬驫社あり当城主及び臣下の霊を祭りたりという。慶長九年社領除地となる。又当村は旗本六人の領地となり領主一人につき祭典料四百疋ずつ年々献ぜられ、次で北下村正一位諏訪大明神と称し奉る。天明元年神殿増築、明治六年北下村鎮守諏訪神社と改め十二年村社に列す。明治四十三年五月無格社同熊野神社、同八幡宮を合併し神殿を増築す。

 現在でも獅子舞用具一揃、破損こそすれ箱に収めて保有しているが笛を吹き舞を舞う人には制限があったのでこれを伝える者とて一人もない。境内社でも八坂社・衣笠神・稲荷社・道祖神のみがはっきりとわかるだけである。明治小学校南隣に鎮座する八幡宮もかつて諏訪神社に合祀され、大戦中北下から戦死者続出したことで一九四三(昭和一八)年戦争さ中、また元の地へ戻ったのであるが昔の八幡の森はことごとく変ぼうして石鳥居のみ堂々と立ち祠は暑い日の光を四方からあびている』
(「吉岡村誌」より抜粋)

 馬驫社と言うのが馬場社のことであるのなら、上野国神社明細帳では不詳とされる馬場社の御祭神は桃井城主とその臣下の霊となる。英霊殿のようなものだろうか。
 そして、明治小学校の南に八幡宮? そんなのあったかなと思いストリートビューで周辺を見てみたら……あった。あー、ここかぁ。次の蚕神社へ向かう際にこの前の道を通ってるのに、なぜ気付かなかったかなぁ○刀乙
 余談だが、「上野国神社明細帳」には北下東原に白山神社があると記されており、「吉岡村誌」には北下東原に八坂神社があると写真付きで記されている。どうやらこの八幡宮のある辺りが東原であるようなのだが、それらしいものは見当たらない。どこにあるのだろう?
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 参道。
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 拝殿。
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 狛犬。
 台座には昭和五十一年九月吉日と刻まれたプレートが埋め込まれている。
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 社殿北側から。
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 社殿北側の末社群。右奥は衣笠大明神。
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 社殿南側の末社群。
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 道祖神。
 裏側には「天明七丁未春正月吉辰」と刻まれているので1787年の造立。
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『顕彰碑
馬場三太夫重久翁顕彰碑       群馬縣知事竹腰俊蔵篆額
衆に先んじて事にあたり恩恵を千載に及ぼす業績を残すことは独り先覚の士のみがよくするところであるわれらが郷土の先輩馬場三太夫重久翁こそは実に時代の先覚者として輝かしい事績を残した人というべきである翁は甲陽の智将馬場美濃守信房の子孫で医を業としたが常に農民の福祉を念とし若年の頃より蚕の飼育について実験研究を重ねること三十余年ついに合理的な飼育方法を会得して蚕養育手鑑を著わし正徳二年江戸の書肆より出版して広く同志に頒布した時に翁は五十才であったこれは養蚕書中の古典としてわが國第二のものであり養蚕技術の進歩向上に役立ちしところ多く昭和九年今上陛下本縣に行幸のみぎりには天覧を賜わるの光栄に浴した翁はまた農事の改良に心を致し当時早くも後世の稲作品評会の方式をもつて稲穂の優劣等級づけを行いあるいは手鍬に改良を加え世にいう馬場鍬を考案して耕作に便ならしめるなどこの道の発展に寄与するところ多く享保二十年七十三才を以て世を去るまで郷党を措導して倦むことがなかったこれらの故を以て北下山下地先にある翁のささやかな墓碑は昭和二十七年吉岡村唯一の史跡として群馬縣の文化財保護顕彰規定にもとずく指定をうけたたまたま翁の偉業を景仰する北下地区民こぞって翁の顕彰会を結成し広く同志の賛同を得てここに顕彰の碑を建立しその功績を万世に傳えんとするに際し請われて建碑の由来を撰する次第である
 昭和三十三年文化の日          群馬縣蚕業試験場長日高八十七撰
                              森田精一書』
 ちなみに馬場重久の墓は、諏訪神社から東南へ350m程離れた水路縁にある。
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