小出神社(吉岡町陣場)

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 陣場公会堂の南側に鎮座する小出神社(北群馬郡吉岡町陣場137)。

『小出神社
 陣場を通過する県道の中程、東側に「邨社小出神社入口」と刻まれた石柱が建てられてある。ここにあった四メートルに余る石灯篭は、数年前、境内巽の隅に移された。この石柱から約五〇メートル東進した所が、陣場の花火で知られた小出神社の境内である。天孫降臨に先だって武甕槌命と共に、中ツ国を平定した経津主命を祭神とし、武運の神としてあがめられてきた。
 人皇五十代桓武天皇延暦十八年(七九九)、皇子葛原親王御東征のみぎり、この地に御所を置き、陣所を建て、武運長久祈願の為、勧請されたといい伝えられている。祭典は春秋二回行われ、四月十五日の春祭りに奉納される太々神楽は、里神楽といわれた。
(中略)
 社務所から、小出神社西側に行った所に、道俟神と天王様を祭る。道俟神は、安政二歳次(一八五五)乙卯三月の建立で、陣場出身の石関黒山の書である。陣場の人たちは、これを六三除けの神として、線香を供えて祈願している。天王様は、七月十四日、十六日を農休み、中の十五日を祇園祭りとて祝っている。十四日の宵祭りに、氏子総出で境内掃除、紙花つくり、百八灯の張り替えをし、各家庭では、表道に面した所に灯篭を掲げ、あたりが一面明るくなる思いで、ゆかた着の老若男女が、三々五々参詣し、夜がふけるまで太鼓の音が響きわたり、お祭りの心をじっくりと味わうのであった。
 その奥に金比羅大権現を祭る。「安永六(一七七七)丁酉正月吉日建立」とあり、水難除けの神である。真中にしがみ石を台座としたのが天神宮で、建立は子供中である。後方に猿田彦大神が二基祭られ、飯島勘右衛門、同太兵衛の名が見える。
 奥の院の真後に、かしの御神木があり、年をとっていたので樹心は朽ちて、うろになり外皮だけでいたころ、この木に祈り釘が打ち込まれたことがある。今は、根っこだけ残されている。ここに奉安されてある神額は、大明神を刻まれているので、石鳥居中央の額であろう。このすぐ側の石宮は、屋根のひさしに宝珠の玉の図柄があり、中に白狐があるから稲荷様であろう。
 東側の雷神宮は安政三年歳次(一八五六)丙辰五月閏の建立で、落雷除けの願がこめられている。秋葉様は、安永二年(一七七三)癸巳五月、火伏せの神として祭ったものである。十二月十八日には、例祭を行ない、村内の安全を祈るのである。稚蚕霊神は、明治二十一年(一八八八)四月の建立で、四月十五日に祭りがある』
(「吉岡村誌」より抜粋)

 こちらの神社は明治六年の神社調査の際、本来村社の資格を有するところを誤って無格社として届けられてしまったが大正十三年九月二十三日に社格の変更願を出し、昭和二年七月四日、内務大臣鈴木喜三郎の承認を得て無事村社として認められたと「吉岡村誌」に記されている。その際の願書や調書、意見書なども記載されているが、長いのでパス。
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 鳥居の右の柱には「正徳三年癸巳仲冬建之」、左の柱には「天保十三壬寅季春繕焉」と刻まれている。1713年の冬に建立され、1842年の春に修繕されたということか。
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 拝殿。
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 狛犬。
 台座には「昇格記念 昭和三年十月 氏子中」と刻まれている。村社昇格を記念して奉納されたもののようだ。
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 稚産霊神の石碑。
 この碑はぐんま絹遺産の第23-56号として登録されている。後ろに見える案内板には以下の文が記されている。
『陣場桑
 蠶養育手鑑の著者・馬場三太夫重久翁が栽培していた桑に、進取の精神に富んだ此の地の人達が改良を重ね、葉が柔らかく、稚蚕の給桑として理想的な陣場桑を完成させ、自用のほか、県から販売許可を受け明治から大正にかけて、近郷からの注文により毎年何万本も出荷していたという』
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 雷神宮と秋葉大権現。
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 本殿裏の石祠と神額。「吉岡村誌」によれば稲荷社と推測されている。
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 猿田彦大神。
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 金比羅大権現と天神宮。
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 天王宮と衜俟神。
 天王宮の側面には「天明八年戊申二月吉日」と刻まれているので1788年の造立。
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 石関黒山の顕彰碑と水準点。
『石關黒山■士墓表
嗚呼是石關黒山■士之墓也處士以農家子自幼乃績學不
怠既長遊于江戸受業於太田錦城師之門又屢踵余質疑盖
将進求古人為己之學焉居數年河越候聞其名也辟為前橋
教授■士教人以孝友惇睦爲先藩之子弟久而化之駸駸馬
莫不嚮學勵行者矦嘉之賜以紋服人皆荣之而■士性譙虗
退託身亦善病懼教導之有缺大非矦家所以設學之意於是
一朝辭去頽然一室清約自甘而子弟之嚮慕之者猶昨云■
士諱光芳字子蘭又曰勝次郎石關其姓黒山其所自號也上
毛陣場里人父曰太郎八諱光一有二子長曰正暁次即處士
也■士以安政戊午二月十二日終于家享年五十九葬于里
中先塋之側配非爪氏先卒子男一女二皆夭葬之明月其門
人相與謀營建其碑以■士信余特䔍也具状来請墓上之文
余不可以辤遂掲其概略以表之
安政五秊歳次戊午冬十有一月
        江戸 海保元備撰并書 須藤永裕鐫』
 ■部分はユニコードではU2909Cの異体字。
 水準点には
『陣場の位置
 標高 197.5M
 北緯 36度25分50秒
 東経 139度0分12秒
  国土地理院調査
  平成24年11月調べ』
と書かれている。
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『陣場の常夜塔
 陣場を南北に通る県道は、昔三国街道と呼称されていた。江戸時代となって城下町高崎が大きく発展すると共にこの道の交通量も次第に多くなり、重要な幹線交通路となった。
 陣場の常夜塔は県道に面し、神社入口となるところに文化五年十月(一八〇八)に建立された。神社の氏子達が通行人の利便のために建立したものである。越後方面の大名達の江戸への参勤交代の往来もあったし、人馬による旅人の通行も長い年月見続けてきたが、昭和三十年頃から急速に自動車交通時代となり、常夜塔が果たす役割も減少し、ついに神社境内に移転したのである。
 歴史的建造物としてのこの石灯籠は、静かな境内で自動車の排気ガス公害も受けず、人々の営む生活を見下ろしているのである。
 平成六年三月三十一日』
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 三国街道に面して建てられた社号標石。その脇には里程標が建てられている。
『里程標
 高﨑市へ   三里二町
 前橋市へ   二里七町
 澁川町へ   二里
 朙和村役場へ 十八町
  大正七年十月 陣場青年會』
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