瘡守稲荷神社(幡ヶ谷二丁目)

IMGS5236s_20161010175309436.jpg
 浄土宗法界山不断院清岸寺の境内に鎮座する瘡守稲荷神社(渋谷区幡ヶ谷2-36-1)。
 参宮橋南側にあった清岸寺が明治四十二年に移転し、当地にあった法界寺と合併して現在の法界山清岸寺となった。この瘡守稲荷神社は法界寺と称していた頃からここに鎮座していたものであるが、由緒等は不明であるとのこと。
 詳しくは清岸寺公式サイトを参照。
IMGS5251s.jpg
 社殿。
 復興誌碑によると、現在の社殿は昭和四十一年(1966)末頃に建てられたものである。
IMGS5245s.jpg IMGS5247s.jpg
 お狐さま。
IMGS5241s_201610101753089bd.jpg
 左から記念碑、記念碑、復興誌碑、水上忠蔵先生追慕碑。
『往年、代々木練兵場設置せらるゝに当り、当山寺域収用せられし為め、此地に移りてより星霜正に二十年。当時鶏犬僅に相答へ、炊煙稀に薄かりし村落、今や屋甍連り、軒楹接する街衢となり、田圃・林野、寸地も旧態を止めさるに至る。滄桑の変、実に驚くに堪へたり。四隣発展の情勢、夫れ此の如し。清岸寺の寺運亦隆々として頓に興り、檀越の契盟彬々として日に加はり、倍増して三百有余を算するに至れり。茲に本年四月、花咲ひ鳥歌う好季を卜し、恭しく移転二十週年紀念の法会を脩建し、勤て仏祖の洪恩に酬答し、国家安穏、宗運紹隆、寺門清寧、檀越福利を祝祷し、碑を建て銘を刻して以て後昆に遺す。銘云、
 皇城の西 幡谷の丘 亭々たる長松 四時青々として翠色を改めず 直
 直たる溝渠 清流淅々として昼夜を捐てず 清岸寺の法灯 高く懸りて
 常住の光滅ゆることなきは 松樹の高く秀でゝ歳寒に凋まざるが如く
 法脈長く流れて不断の水絶ゆることなきは 上水の流れ流れて市民の生
 命となるが如くならむ
  昭和三年四月廿八日 清岸寺 四十二世 定誉常順代
                     中谷在禅撰并書』

『当寺は、寛永年中、覚誉呑了上人剏むる所にして、爾来代々木山谷の地に在りしか、明治四十年冬、青山練兵場移転の為、近隣一体の地と共に当寺境内も官に収められ、殿堂庫院並墳墓を挙げて他に移さゝるに至れり。然るに同村幡谷法界寺は維新の際廃退し、本尊は北沢森巌寺に遷され、境内地亦該寺の所轄に帰せしが、茲に清岸・法界両寺の檀徒相謀り、両寺を合併し、本尊及境内地四段歩、境外地九段余歩の返還を請ひ、四十二年春、今の地に移転し、同年秋、殿堂庫院の新築総て成る。荘厳清灑、比隣稀に見る所なり。両寺合併の由緒に因み、法界山清岸寺と改称し、盛大なる慶讃式を挙く。是偏に現住並総代・世話人諸君の尽瘁と、檀信一同の協賛に依らすんはあらさる也。聊記して之を来葉に遺すと云爾。
  維時明治四十三年四月   大僧正 堀尾貫務 篆額
               文学士 大島泰信 撰
               大僧都 久野真冏 書
               現住第四十一世型誉静憲』

『復興誌
昭和二十年五月二十五日、空襲による戰火の為、本堂庫裡等すべて烏有に帰した。その後昭和二十六年千葉県岩井町の豪荘な民家を移築して出来上ったのが現在の本堂兼庫裡である。當時先代済譽徳全和尚の労苦は一方ならず、總代篠本兼吉、島田倉次郎、町田長吉三氏。卋話人秋山周三、田中浅吉両氏を始め檀信徒各位、観音講々員の協力は多大なるものがあった。
更に昭和四十一年末には不燃建築の華麗な瘡守稲荷社殿が完成した。又先代徳全大和尚(昭和四十四年三月二十七日歿)の後を承けて小衲境内整備の一環として納骨堂の建立を発願。翠雲堂の設計施工によって昭和四十五年十一月落成、浄霊殿と命名した。茲に寄進協力の檀信徒各位には深甚の謝意を表する次第である。
 維時 昭和四十五年十一月吉日』
DSCF7123s.jpg

IMGS5260s.jpg
 清岸寺本堂。
DSCF7147s.jpg
 案内板。
IMGS5254s.jpg DSCF7140s.jpg
 左から法然上人幼少時の像、聖観世音菩薩像、魚籃観音像。
IMGS5262s_2016101018340833b.jpg IMGS5264s.jpg
 酒呑地蔵。その左に見えるのはしあわせ地蔵尊。
『酒呑地蔵
 この地蔵は、江戸時代の宝永五年(一七〇八)に本村に建てられ、別名を子育地蔵ともいわれますが、つぎのようないい伝えがあります。
 むかし、四谷伝馬町に住む中村瀬平という若者は、故あって家を出て幡ヶ谷村の農家に雇われて農作業や子守りなど、一生懸命に働いたといわれています。
 瀬平の勤勉さに感心した村人は、三十一才になった正月に彼を招いてご馳走したところ、ふだんは飲まない酒によった瀬平は川に落ちて水死してしまいました。瀬平は村人の夢まくらに現れて、この村からお酒に苦しむ人を助けるために地蔵を造ってほしいと願ったので、村人たちは早速一基の地蔵を建立し、酒呑地蔵としてお祀りして来ました。
 平成二十三年一月十日に本町五丁目の地蔵橋のたもとから清岸寺に遷座し、二月十九日に開眼供養が行なわれました。新たなお堂も建立され、安住の地となりました』
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

カレンダー
06 | 2017/07 | 08
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -
ブログ内検索
カテゴリー
最近の記事
最近のコメント
月別アーカイブ
最近のトラックバック
FC2カウンター
プロフィール

梁瀬

Author:梁瀬
無駄な徘徊でCO2を増やす、
方向感覚に不案内なヒト

リンク
RSSフィード