赤坂氷川神社(赤坂六丁目)

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 東京十社の一つに数えられる赤坂氷川神社(港区赤坂6-10-12)。公式サイト有り。
 乃木神社も参拝者が多かったが、こちらはそれよりも多かった。もう撮影しないで次に行っちゃおうかなとか思ったくらい。
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 氷川神社案内板。
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『東京都指定有形文化財(建造物) 氷川神社社殿
 所在地 港区赤坂六‐一〇‐一二
 指 定 昭和二七年一一月三日
 この社殿は、本殿・幣殿・拝殿の三つの建物
が一体となった、いわゆる権現造の形式です。
 江戸時代の第八代将軍である徳川吉宗によって享保一五年(一七三〇)に建てられました。吉宗は「享保の改革」と呼ばれる倹約政策をとったことで有名で、社殿にも当時の質実簡素な気風を見ることが出来ます。通常は将軍の寄進するような社寺であれば、軒下の組物を何重にも重ねたり、彫刻や彩色などで飾り立てたりするのですが、この社殿の組物は簡素で、彫刻も目立ちません。しかしただ質素なだけではなく、大きな雲形組物や吹寄せ垂木など軽快な意匠を取り入れる工夫も見られます。また全体は朱漆塗としながら、部分的に黒漆塗や黒色金具を用いることで引き締まった印象となっています。
平成二二年三月 建設』
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 二の鳥居。
 鳥居の両脇に狛犬があるのだが、撮るの忘れてた。
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 台石部分には彫刻が施され、
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 その下には几号水準点もあった。
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 楼門。
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 その左右に石燈籠。
『港区の文化財 氷川神社の石燈籠 四基
 門の内外に立つ二対四基の石燈籠です。門内の本殿前に立つ二基は、赤坂表伝馬町・裏伝馬町・元赤坂町(現在の元赤坂一~二丁目)の講中が、享保九年(一七二四)間四月に奉納したものです。氷川神社が徳川吉宗の産土神として信仰され、現在の地に遷座したのは同十五年であり、それ以前は「古呂故が岡」(現在の赤坂四丁目一辺り)にありました。この燈籠はその時代のもので、遷座に際し移されたものと考えられます。
 門外の二基は、遷座の年に岡崎城主水野忠之が奉納したものです。水野忠之は吉宗が行った享保の改革の前半を主導した老中です。幕府財政の建て直しに尽力した人物で、吉宗との強いつながりをこの石燈籠からも伺うことができます。岡崎藩水野家は吉良邸討入後の赤穂浪士九人を三田の中屋敷に預かった家としても知られています。
平成七年三月二十七日 港区文化財総合目録登録』
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 石燈籠の傍に狛犬。
 台座には「延宝三乙年卯六月吉日」と刻まれているので1675年の造立。頭頂部の凹みは燭台のように使われていたのだろう。
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 拝殿。
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 境内西端の稲荷社。
 左の水盤には羽団扇紋が陽刻され、側面に「嘉永四辛戌秋」、右の水盤には「文化十癸酉年初秋造之」と刻まれている。が、嘉永四年は辛亥で、戌がつくのは嘉永三年庚戌なのだよね。そもそも干支に辛戌って無いし。ちなみに嘉永四年は1851年で文化十年は1813年である。
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 狛犬。
 台座には「文政八乙酉年六月吉日」と刻まれている。文政八年は1825年。
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 稲荷社の隣には祭器庫。
 公式サイトの境内案内図を見ると、この北側にも稲荷社があるようなのだが、あったかなぁ? まるで気付かなかった。
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 九神社。
 天祖神社・春日神社・鹿嶋神社・八幡神社・諏訪神社・秋葉神社・厳島神社・金刀比羅神社・塞神社の九社を合祀したものであるそうだ。
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『東京都指定史跡 浅野土佐守邸跡
 所在地 港区赤坂六の一〇・一九
     氷川神社他
 標 識 昭和一八年三月一六日
 指 定 昭和三〇年三月二八日
 元禄の頃、この地は備後国三次藩浅野家の下屋敷でした。三次藩は、寛永九年(一六三二)に安芸国広島藩から五万石を分知され立てられた支藩です。初代藩主は、安芸国広島藩二代藩主光晟の庶兄因幡守長治で、娘には、播磨国赤穂藩主浅野内匠頭長矩の正室となった阿久里(阿久理、阿久利とも)がいます。
 元禄一四年(一七〇一)三月一四日、浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央を切りつけた元禄赤穂事件が起きました。長矩は即日切腹を命じられ、領地没収の上、家は断絶となりました。そのため、長矩の正室阿久里は、出家し揺泉院と称し、生家である三次浅野家に引き取られました。以後、正徳四年(一七一四)に死去するまで、ここに幽居しました。この事件が起こった時、藩主が土佐守を称した三代藩主長澄であったことから、「浅野土佐守邸跡」として標識されました。
 三次浅野家はその後、四代藩主、五代藩主ともに早逝したため享保三年(一七一八)に断絶となり、遺領は広島藩へ還付されます。享保一五年(一七三〇)、現在の赤坂四丁目からこの地へ氷川神社が遷宮され、今日に至っています。
 平成二五年三月 建設』
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 氷川坂に面する東の鳥居。
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 狛犬。
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 東の二の鳥居と狛犬。
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 狛犬。
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 四合稲荷神社。
 鳥居の柱には「大正五年九月吉辰」と刻まれている。大正五年は1916年。
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『四合稲荷神社
 ※毎年四月十五日例大祭
・御祭神
 宇迦之御魂神─食物の神、殊に稲の神
・御縁起
 1 古呂故稲荷 (赤坂一ッ木二番地、古呂故天神社境内に鎮座)
 2 地頭稲荷  (氷川神社遷座以前より拠の地に鎮座)
 3 本氷川稲荷 (本氷川神社隣接、別当盛徳寺の境内に鎮座)
 4 玉川稲荷  (赤坂門外の御堀端、現弁慶橋のあたりに鎮座)
 以上、四社を明治三十一年、遷座合祀し、赤坂在住の勝海舟翁により
「四合(しあわせ)稲荷」と称えられる。
 大正十四年に、鈴降稲荷神社(赤坂一ッ木町に鎮座)及び、縁起稲荷
神社(赤坂丹後坂下に鎮座)二社を、また昭和九年に、明徳稲荷神社
(赤坂新町に鎮座)を、遷座合祀し、現在に至る。
 勝海舟翁筆の「四合稲荷社」という扁額が、現存する。
・附記
 古呂故稲荷神社は、古呂故天神社境内、氷川旧社地(氷川御旅所)に祀られていた稲荷社であって、明治十七年、氷川旧社地を売却した際、現氷川神社境内へ遷座、のちに四合稲荷に合祀された。
 地頭稲荷神社は、享保年間、現氷川神社遷座以前より祀られていた稲荷社である。
 本氷川稲荷神社は、本氷川神社(昔は溜池付近にあり、のち承応三年に、現氷川神社の隣地へ遷座、今井の総鎮守として、住民から尊崇を受けていた)境内の稲荷社で、本氷川神社と共に明治十六年、現氷川神社境内に遷座、のちに四合稲荷に合祀された。
 玉川稲荷神社は、水道方玉川庄右衛門の邸内社だったとする説もあるが、御神体が玉川上水に流れ来た故に、玉川稲荷と称したものと推定される。明治二十一年、現氷川神社境内に遷座、のちに四合稲荷に合祀された』
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 拝殿とお狐さま。
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 西行稲荷神社。
 鳥居の柱には「文久二壬戌歳二月初午」と刻まれている。文久二年は1862年。
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『正一位 西行稲荷神社縁起
 文政(一八一六~一八三〇)年間、町方書上の赤坂田町四丁目より録写したところによれば、町内自身番屋敷地内に古来からあった祠堂で本社は六尺に七尺五寸、拝殿二間四方で前方に三尺に六尺の向拝がありました。
 勧請の由来は、年代不詳(享保年間ともいう)、田町五丁目に西行五兵衛と異名をもつ男あり、榎坂を通行中、甲冑を帯し弓箭を携え、狐の形をしている三寸程の鉄像をひろいとったが、稲荷の御神体らしいと云ふので、これを勧請し、五兵衛の異名を以って、西行稲荷と唱えられました。
 明治以後、町の発展に伴い、大正十年(一九二一)九月氷川神社境内に移し、別名「火伏の稲荷」ともいい、火災除の御神徳があると称されております。
平成七年九月吉日建之』
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 本殿とお狐さま。
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 西行稲荷社下の穴稲荷と布袋尊像と石祠。
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 太鼓橋。
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『苗村翁頌徳碑
赤坂氷川神社ハ享保年間ノ創建ニ係リ神徳無限結構雄大古来
江都ノ名祠タリ維新中興ニ當リ神領官ニ歸シ社頭癈頽シテ昔
時ノ如クナラズ然モ幾バクナラズシテ舊觀ニ復シ今日ノ盛ヲ
致ス是レ固ヨリ神慮ノ致ス所ナリト雖亦以テ産土民戸ノ奉賽
ニ依ルニアラズンバ焉ンゾ能ク斯ノ如クナルヲ得ンヤ特ニ氏
子總代苗村又右衛門翁ノ功沒スベカラザルモノアリ翁ノ家世
世刀劍ヲ鬻ギ翁ニ至ツテ典舗ヲ業トス拮据經營産ヲ積ミ富ヲ
重ネ聲望漸ク加ハル屢區會議員同議長東京府會議員同商工會
議所議員等ニ推サル常ニ當社ヲ景仰シ明治十三年當社氏子總
代トナリ率先資ヲ捐テ専ラ力ヲ神社基金ノ増額神域ノ擴張ニ
致ス任ニ在ルコト五十余年敬神ヲ以テ念トナシ終始渝ラズ神
域内外ノ施設一トシテ翁ノ力ニ依ラザルナシ大正六年東京府
神職會其勞ヲ旌シ客年五月全國神職會大會更ニ之レヲ表彰ス
榮譽大ナリト云フベシ翁齡既ニ八秩ヲ過グルモ尚矍鑠トシテ
壮者ノ如ク後生ヲ誘掖指導シテ倦マズ其精力ノ絶倫ニシテ氣
力ノ旺盛ナル眞ニ驚嘆ニ値スルモノアリ豈徳ヲ頌セズシテ可
ナランヤ嘗テ聞ク神ハ人ヲ俟ツテ徳ヲ尚ヘ人ハ神ニ倚ツテ慶
ヲ受クト神人合一ノ美徳焉ニ見ハル翁ノ如キソレ斯人乎余夙
ニ翁ノ聲名ヲ耳ニス今人ノ来リテ文ヲ嘱スルアリ遭テ辭セズ
乃チ梗慨ヲ叙スト云爾
昭和十二年九月』
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 苗村又右衛門翁像。
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 見下ろしてみたり。
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 包丁塚。
『趣意
そもこの地赤坂青山は、古くより包丁の冴えに世人をして味覺の境地におそばしむる店多しために、今日が日まで破れ損いし刃物は和洋を問わず數多なり、そを情あつき人々相つどい組合設立二十五周年を期に、この因りの地氷川の神域に「包丁塚」を建立、以ってとこしえに感謝の誠を捧げるなり』
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『港区の文化財 氷川神社の力石
「三十五貫」と切符があるこの力石は、神社境内の土中から発見されたものです。この力石にまつわる話は特に伝わっていません。力石は、腕力や体力を鍛えるために重い石を持ち上げて「力競べ」、あるいは「曲持ち」を行った際に使用した石で、江戸時代には、神社の祭礼などに奉納のため盛んに行われました。区内の力石は全部で十四点確認されていますが、ほとんどが海岸沿いの神社に残されているのに対し、この一点だけが海岸から遠く離れたこの地にあり、興味深い例です。
平成七年三月二十七日 港区文化財総合目録登録』
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