九蔵稲荷社(九蔵町)

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 日蓮宗正法寺の境内に鎮座する九蔵稲荷社(高崎市九蔵町48)。
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九蔵稲荷
 この地に住む北爪九蔵が、反町・梶山・須藤と共に高崎の地侍として、慶長二十年(一六一五)高崎藩主酒井家次に従い大阪夏の陣に出陣、大阪城を陥落させることに手柄を挙げました。この功績により九蔵は家臣として召抱えられこの地を賜りました。知行百石から始まり四百五十石まで加増され、江戸留守居役にまで昇進したという記録が酒井家に残っています。
 九蔵の功績から、この町は九蔵町と呼ばれるようになり、後に、九蔵を祀って稲荷社を建立。昭和十年に正法寺境内に移されました。
 九蔵町は大正時代から昭和にかけて火事が多く、“九蔵町の火事横丁”と呼ばれたこともあり、昭和三十一年に、火難除けの神として信仰される浅間神を勧請し、合祀されました。毎年十一月十五日、町内住民による例大祭が行われています。

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 正法寺。
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 北側から見た正法寺と九蔵稲荷社。

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 正法寺の北東に建てられた一里塚跡の案内板。
一里塚跡
 井伊直政は中世の中山道を取り込む形で高崎城下を築きました。慶長九年(一六〇四)江戸幕府が、日本橋を基点として東海道や中山道に一里塚の設置を始め、江戸から中山道二十七里の一里塚がここに置かれました。二十六里は江戸方面の佐野柏沢に、京方面の上豊岡に二十八番目が設けられ、上豊岡は県内で唯一残存しています。
 一里塚が設置され始めた慶長九年に、高崎城主となった酒井家次は同十一年に中山道の道筋を変えました。それまでは赤坂から本町を通り東に直進し、大雲寺の角を南に曲がり通町方面に進んでいましたが、これを本町三丁目で田町・連雀町方面へと曲げ、城下の中心を通す付け替えを行ないました。このことに因り往来は新しい中仙道を利用し、この地にあった一里塚は、稲荷の小祠が面影を微かに残すのみとなりました。
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