朝日神社(木曽呂)

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 見沼代用水東縁を挟んで神根グラウンドの東側に鎮座する朝日神社(川口市木曽呂193)。
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朝日神社 御由緒
 川口市木曽呂一九三
□ 御縁起(歴史)
 当社は元来氷川神社と号し、応永三年(一三九六)に創建したと伝えられる。
 その後、江戸期に入るまでの事歴は不明で、社記によれば、享保七年(一七二二)神祇管領吉田家から正一位に叙せられると共に本地仏の十一面観音像が本殿に安置された。更に、文久二年(一八六二)社殿大破につき、神階叙位にかかわる宗源宣旨・宗源祝詞・幣帛が破損したため、吉田家に願い出てこれらの品々を改めて拝受したという。先の享保七年の宗源祝詞には、氏子の間で禁忌とされていた「四間半の家作る事」「蕎麦蒔事」を尊神に許しを乞うた一文が見える。
 慶応三年(一八六七)の社殿再建の棟札写しには発願主として「名主石井忠左衛門」、奉幣使として「別当薬王寺住貞祐」の名が見える。
 神仏分離により薬王寺の管理下を離れた当社は明治六年に村社となり、更に同三十年に十一面観音像が薬王寺に移されて名実共に神仏分離がなされた。
 明治四十年から同四十四年にかけて木曽呂・東内野・源左衛門新田・神戸・安行領在家・道合の六大字の各神社を当社に合祀し、大正二年に至り、社号を朝日神社と改めた。社名の由来は、御遷宮(合祀祭)を執り行った十月十日にちなみ、「十月十日」の四文字を組み合わせて「朝」の字を冠し、朝日のごとき隆盛を祈ったものである。
□ 御祭神と御神徳
 ・須佐之男命・・・災難除け、安産・縁結び、家内安全
□ 御祭日
 ・元旦祭(一月一日)       ・小 祭(四月十五日)
 ・天雲神社祭(七月十四・十五日) ・例 祭(十月十日)

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 二の鳥居。
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 拝殿。
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 斜めから。
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鬼瓦
 屋根の頂きにある両端や、降り棟の端を飾る瓦で、七〇〇年以降建築物の安泰を祈り、鬼面を飾ったものが主として用いられたため、鬼瓦の名称が一般的となった。
 また、鬼面がなくても、前途の場所に飾られてある瓦も鬼瓦と呼ばれている。
 ここに安置してある鬼瓦は、大正十年(一九二一)に当神社の屋根が、茅葺きから銅板に葺き替えると同時に、この鬼瓦を使用したものである。その英姿は威風堂々として、誠に他に類を見ないものである。
 平成五年(一九九三)社殿建て替えによってその務めも終わり、古色蒼然、永年の労を偲び設置した次第である。
 平成十八年十月吉日

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 稲荷社。
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 左は天照皇大神。中央は歌碑かな。「やくもたつ いつもやえかきつまこみに やえかきつくる ■のやえかきを」と刻まれているが、これは素盞嗚尊が詠んだ「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」を平仮名で記したものだろう。右端は氷川神社と刻まれているが、なんだか社号標石のように見えなくもない。
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 諏訪社。
 こちらを撮影している時、いきなりAFが作動しなくなり、フォーカスモードレバーはAF.Sなのにファインダー内の表示はMFになっているという現象が発生。電源Off→Onでも直らないが一度レンズを外して付け直すとAFが作動したので安心したのだが、しかし一枚撮るとまた同じ状態になり、何度かレンズを外したり付けたりしながら撮影。修理に出したばかりなのにまた故障かよと少し気分が落ち込んだものの、この諏訪社以外を撮ろうとすると普通にAFが作動し、以後一度もその現象が発生しないと言うちょっと不思議な体験。なんだったんだろうなぁ、接触不良でもなさそうだし。
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 天雲社。
 こちらについては特に由緒書きには記されていないが、ググってみたら木曽呂にあった天神社及びその境内社である稲荷社と神明社、八雲社を合祀したものであると猫の足あとさんのところに書かれていた。
 Google先生に訊くと猫の足あとさんのヒット率が高くてしばしば御世話になっておりますね。有難いことです。
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 拝殿と本殿。
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浅間神社(東内野)

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 厳島神社の北側に位置する「木曽呂の富士塚」脇に鎮座する浅間神社(川口市東内野594)。
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国指定有形民俗文化財 木曽呂の富士塚
 昭和五十五年四月二十四日指定
 富士塚は、富士山を模して築造した塚で、江戸高田の行者藤四郎が、老若男女だれでも心やすく、富士に登山できるようにと、安永九年(一七八〇)、高田水稲荷(みずいなり)の境内にこれを築いたのが始まりである。
 木曽呂の富士塚は、地元で”ふじやま”または”木曽呂浅間”と呼ばれ、寛政十二年(一八〇〇)に、富士講の一派である丸参講(まるさんこう)の信者蓮見知重(はすみともしげ)の発願によって、見沼代用水と通船堀(つうせんぼり)の連結点の縁に築造されたもので、高さ五・四m、直径約二〇m、塚全体が盛土で築かれている。頂上には、お鉢めぐりができるよう火口が掘ってあり、又、今日では入口が埋没しているが、塚を貫いて胎内くぐりの穴を設けている。
 富士塚の麓には、文化二年(一八〇五)造立の蓮行知道居士(蓮見知重)の碑があり、富士塚築造の由緒が刻まれている。この他、塚ならびに周囲には、享和四年(一八〇四)の石燈籠天保四年(一八三三)の石鳥居等丸、参講によって造立された石造物が多く残されている。
 富士塚の中でも古い築造で、特に埼玉県下のものでは最も古く、庶民信仰の様相を示すもので、貴重である。

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 社殿が塚の麓にあるのは珍しいような気がする。
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 なんでしょうかねこれ。
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 伊勢太々碑、鹿嶋太々記念碑、登山隔年修行碑、登山三十三度碑。
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 富士塚。
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 塚頂上。
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 富士嶽神社。
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 塚の南側には石碑らしきものがあるが、案内板の配置図にシモガミと書かれているのがこれなのだろうか。碑文は殆ど判読できないが、「文化六己巳」くらいは読み取れた。
 この後ろに胎内くぐりの穴があり、そして穴のほぼ真上に先に富士嶽神社がある。
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 富士塚西側。左上に浅間神社が見える。
 胎内くぐりの穴は閉じられているが、南側の穴と繋がっているのだろう。西側の口の上には浅間神社があり、南側の口の上には富士嶽神社があることになるが、どちらが入口でどちらが出口などの決まりはあったのだろうか。

厳島神社(緑区下山口新田)

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 見沼代用水東縁の傍に鎮座する厳島神社(さいたま市緑区下山口新田78)。
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 拝殿。
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大熊志水居士之碑
志水居士諱元吉字明道姓大熊氏號志水居士又號化陽庵武
藏國北足立郡大間木邨人父大熊五郎右衛門朝祝母大熊氏
名美喜子以文化四年生家世郷望族居士天資温良謹敏夙夜
勉作業及居士之世大起家産重義軽財好施與先鰥寡天保四
年癸巳及七年丙申歳荐饑輙發金穀救濟數千百人生平守儉
素痛斥奢侈凢遇有當費曾不恡情有餘暇則學文演武就稻垣
玄節翁學天経皇典及撃劍精力絶人學通和漢旁渉天文地理
兼善詩文及和歌以至俳諧圍棊之細皆莫不究其妙事親純孝
與兄弟友惟樂其志片言隻行無悖父母之意與人交信而敬赴
人緩急風雨疾病不爽晷刻小事如是况於大事乎故隣里郷黨
景慕如神天保十三年壬寅九月二十一日罹病而卒享年三十
有六卒之日吊者數千人無不哭泣者葬于本邨先塋之次如居
士之才之徳假令立於廟堂則為蒼生霖雨以澍天下矣嗟夫天
烏優其徳而嗇其壽乎哉配石關氏擧二男二女長曰正名克紹
先業不墜家聲頃者將鐫先考之遺徳於貞珉以之下山口里厳
島神祠傍以傳不朽作状索余銘之正名第三子駿二有才學幼
遊余之門義不可辤為之銘曰
高雅丰釆 嚝達器宇 勤儉興家 純孝事父 俛焉治生
欝中興祖 賑窮救饑 甘露膏雨 學通和漢 驗今考古
濟世之才 修文講部 草奔遺賢 郷里規矩 千載徳望
春風和照
明治二十一年十月 神道管長従六位平山省齋譔并書

稲荷神社(緑区下山口新田)

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 見沼代用水東縁に架かる山口橋の脇、下山口自治会館の隣に鎮座する稲荷神社(さいたま市緑区下山口新田18)。
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 拝殿。
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稲荷社 御由緒
 さいたま氏緑区下山口新田一八
□ 御縁起(歴史)
 当地は、江戸中期に開発された見沼新田の内の一つである。『風土記稿』下山口新田村の項に「女体権現御旅所跡 土人の話に此開発の以前、沼中に祭竹と号せるものを立て、三室女体の御旅所とせり、(以下略)」と載るように、まだ沼地であったころには、三室氷川女体神社が隔年の九月八日に行ったという御船祭の御旅所が置かれていた。それを示す祭竹や古銭・磁器片が発掘調査でも数多く発見されている。
 当地の開発は、享保十三年(一七二八)に江戸小田原町鯉屋藤左衛門が入り、六十年余りの難工事の末にようやく成し遂げられたものである。新田名はその功により鯉屋の姓である山口を当てたという。
 本殿内には稲荷大明神像のほかに、勧請の添簡も残されており、それには、寛政三年(一七九一)初春吉辰に関平八・沼口以兵衛両名をはじめとした氏子中の願いにより、京都伏見大社から正一位稲荷大明神を分霊することの許しを受けた旨が記されている。当地が悪水の集まり易い土地であったため、その開発が難航を極めたことから、ようやく農作も安定し始めたと思われる同年に村の繁栄を願い奉斎したものであろう。
 当社は『風土記稿』に「稲荷社 鎮守なり、村民の持、地蔵堂」と載り、やがて明治六年に村社に列した。
□ 御祭神と御神徳
 ・倉稲魂命・・・五穀豊穣、商売繁盛
□ 御祭日
 ・初祈祷(一月第一日曜日) ・初午祭(三月第一日曜日)
 ・宮 薙(七月第二日曜日) ・秋大祭(十月十五日)

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 庚申塔と六地蔵。
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水神社(緑区大間木)

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 芝川に架かる八丁橋の脇、県道103号線に面して鎮座する水神社(さいたま市緑区大間木2395)。
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水神社
 水神社は、見沼通船堀が開通した翌年の享保十七年(一七三二)六月の創建と伝わります。祭神は、水の神である罔象女命をお祀りしています。
 享保十六年、伊沢弥惣兵衛為永によって開削された見沼通船堀が開通し、江戸と見沼代用水路縁辺の村々との物資輸送が可能になりました。船は、代用水路縁辺の河岸で荷物(江戸時代においては年貢米が主でした)を積んで江戸へ行き、帰りは肥料、塩、酒などの商品を積んできました。荷物の積みおろしをする河岸場は、芝川と東西の用水路沿いに五十九カ所あり、ここ八丁にも河岸場がありました。八丁河岸周辺には、河川輸送に携わる人たちが住んでおり、水神社は、そのような仕事につく人たちが、水難防止を祈願して祀ったものです。
 なお、本殿は大正十二年九月一日の大地震により全壊し、同十三年に再建されたものです。また、境内は国の史跡「見沼通船堀」の一部になっています。
 平成二十四年三月

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抑當通船堀者見沼代用水路開掘後享保十五年井澤惣弥兵衛爲永之所設
計也連絡東西代用水路興中悪水路築造閘門於上下各二ケ所宛翌十六年
竣工共得許圖自深谷至東京廻米之便當時此水路之通船権者高田茂右衛
鈴木文平両者之所有而両者被給通船屋敷予江戸神田花房町反武刕尾間
木村文政三年以後髙田氏之支配也隆而明治七年髙田貢平氏受通船堀反
附屬地之拂下于埼玉縣令后一切之権利移於見沼通船會社■後■岡村俊
太郎氏鈴木順太郎氏小嶋藤七氏之盡力大正二年船子之者受之拂下而又
守護神當水神社之鎮座敷地者鈴木順太郎氏外二十五名所有也偶遇大正
十二年九月一日之大震災也社殿全潰八町山口之倒潰家屋■及五十余戸
然救水難神威遂揺諸氏至得恊賛大正十三年起工令十四年落成四月三日
舉行御遷宮式茲記念運河閘門之遺蹟並水神社再建設碑以梗漑傳永久■
 昭和四年十月 髙槁佐平謹書 大工石塚于四郎
 ■の部分はちゃんと文字はあるのだが、読み取り難かった部分。
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 水神社本殿と末社。
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 通船堀大橋から見た水神社。
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