最上位青石稲荷大明神(西久方町一丁目)

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 日蓮宗妙光山法経寺の境内に鎮座する最上位青石稲荷大明神(桐生市西久方町1-7-26)。
 左の石段は開山堂、中央の石段は最上位青石稲荷大明神、右の石段は墓地へと続いているが、上でつながっているのでどこから上っても同じである。
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 二の鳥居と拝殿。
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 お狐さま。
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 開山堂。
 左側には観世音菩薩。
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 上から見た鳥居。
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 日蓮上人像。
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 弁天社だろうか。
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 法経寺本堂。
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 大黒殿。
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 この時点でもう暑くて帰りたくなってきたものの堪えて次の神社へ。

桐生天満宮(天神町一丁目)

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 群馬大学桐生キャンパスと県立桐生工業高校の間に鎮座する桐生天満宮(桐生市天神町1-2-1)。
 公式サイト有り。
 駐車場は神社北側にあるので、一度境内を通り抜けてからもう一度入り直してみたり。
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 二の鳥居。
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 神橋。
 神門入口に建てられた柱には「ここから撮影禁止」と書かれている為、門の向こう側、即ち拝殿や狛犬などの撮影はしていないので写真は無し。
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 神橋傍の水車。
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 機神神社。
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 財福稲荷神社。
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金運招来・江戸豪商由来 財福稲荷神社
〔由緒〕
 幕末から維新を経て明治の中頃まで、天満宮境内には数多くの摂社・末
社が遷座されましたが、その中に、かつて桐生に縁りの深かった、江戸で
栄えた富裕な商家に代々祀られていた家敷稲荷があり、戦前までは桐生広
域の商工業者から「江戸の財福稲荷」として広く信仰されましたが、戦後
はその存在も忘れられがちでした。
 そこで此度の平成大修理事業竣工記念として、宝船神社とともに御本殿
西側の末社石宮より御神霊を戴き、境内太鼓橋北西側の宮地を新たな鎮座
地と定めて遷座祭を斎行し、ここに、古来より伝わる社号を掲げて「財福
稲荷」と称え奉り、往末永く奉斎して厳かに祭祀仕奉つとともに、新年の
初詣や初午祭はじめ年間を通じより多くの崇敬者各位の御参拝をご祈念申
し上げます。
〔御祭神〕稲荷大神(倉稲魂神)
〔御神徳〕金運招来・財運招福・商売繁昌・社運隆盛
     事業繁栄・営業拡大・創業成功・契約成立 (他)

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 南蛮燈籠。
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 宝船神社。
 大国主命、事代主命、大宮能売命、天鳥船命、少彦名命、須佐之男命、伊邪那岐命・伊邪那美命を合祀している。
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 水舎傍にある東の鳥居。
 鳥居の柱には「大正十四乙丑年十一月 玉垣寄附者一同」と刻まれている。大正十四年は1925年。
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 神明宮・直日神社。
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 天満宮本殿裏に並ぶ末社。右側は春日社。
 左奥にも基礎が見えるが、嘗てはもう一社あったのだろうか。
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桐生市指定重要文化財 天満宮末社春日社
  所   在 桐生市天神町一丁目二一八番地の一
  指定年月日 平成三年十一月八日
 天満宮は、天正十九年(一五九一)に久方村梅原から赤城の森(現在地)へ遷され、荒戸新町(のちの桐生新町)の起点となった神社であり、旧桐生領五十四箇村の惣鎮守格であった。
 末社春日社は、本殿の後方に南面して建つもので、一間社流造りの小規模な社殿である。
 社殿は、身舎、庇の軒桁や垂木に見られる反り増しをはじめ、要所に用いられている彫刻の装飾に、室町時代後期の建物の特徴をよく残している。一部に菊と唐草・流れに紅葉などの文様が描かれており、各部には彩色が施されていた痕跡が見られるが、ほとんどは不明である。
 県内における類似する建物としては、板倉町の雷電神社末社稲荷社社殿があり、象鼻彫刻が発生した早期の建築と考えられる。
 このことから、建築年代は天正(一五七三)から慶長(一六一五)年間と推定され、現存する桐生市内の建造物としては、最古のものであるとともに、当地方における古建築の遺例として貴重である。
 平成五年十一月一日

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 本殿西側に並ぶ石祠群。
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 神楽殿。
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 神楽殿の側面には算額の案内板が掛けられている。
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 渡辺崋山 毛武游記の碑。
毛武游記 天保二年卯十月
     上冊
帰又天神祠に謁す。此祠は桐生第一街にありて、六丁目といえるかたより一文字に行とまれところ、即此やしろあり。境内松並いと黒うしげり、中に一水きよらかにながれ出づ。此ながれにわたり廓あり。やしろハいとめでたくつくりなして、上も下も力をあわせ花鳥の形を彫りて、なかなか都にもまれに見る御やしろなり。

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群馬県指定重要文化財 天満宮社殿
名称及び員数 天満宮社殿(本殿・幣殿・拝殿)
           附 本社幣殿拝殿妻之図
             棟札 四枚
指定年月日  平成二年九月二十五日
所 在 地  桐生市天神町一丁目二一八番地の一
所 有 者  宗教法人 天満宮
建築年代   本殿・幣殿 寛政元年上棟(一七八九)
       拝殿    享和二年  (一八〇二)

 天満宮は桐生新町の宿頭として、天承十九年(一五九一)に久方村梅原から現在地へ遷座したといわれ、桐生領五四ヶ村の惣鎮守格であった。
 棟札によれば、現在の本殿及び幣殿は安永七年(一七七八)に起工し、寛政元年(一七八九)に上棟、寛政四年(一七九二)に社寺奉行へ披露され、翌、寛政五年(一七九三)に遷宮開帳が行われている。
 拝殿は享和二年(一八〇二)に棟札があげられている。
 天保十二年(一八四一)には拝殿の屋根瓦の差替が行われ、本殿・幣殿は銅板に葺き替えられている。
 天満宮の社殿は、県内の江戸時代の神社建築に多く見られる本殿が幣殿・拝殿につながる権現造の形式である。本殿・幣殿は外壁の前面に極彩色の精巧・華麗な彫刻が施されており、内部は同様な彫刻とともに壁画も描かれていて、北関東の近世神社建築の特徴をよく示した優れた建築である。とくに、内部の彩色は当初の姿をよく伝えている。
 附指定である「本社幣殿拝殿妻之図」は極彩色の社殿の側面図であるが、現在の社殿とは構造・彫刻ともに若干の相違がみられる。特に拝殿には精巧な彫刻が描かれており、計画図と考えられることから、当時の造営計画を知る上でも貴重である。この図には、棟梁町田主膳・町田兵部、画工狩野益広の名が記されている。
 また、四枚の棟札は、社殿の造営と修理の経過を物語る重要な資料であり、本殿・幣殿の大棟梁は町田主膳、彫刻は関口文治郎他八人、絵師は狩野益広他五人、拝殿の棟梁は町田兵部の名が記されている。
 平成二十五年三月 桐生市教育委員会

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奉造立天満宮御本社御上棟 寛政元己酉年一月十五日

手置帆負命
天思金命  奉造立桐生殿
彦狭知命
     上野国山田郡■■村          木梗
  棟 梁 町田兵部■栄清  町田龜十郎栄正  葛貫孫兵衛
  股棟梁 中山庄藏斯重   鹿山平次郎    尾花善兵衛
  肝 煎 麻嶌政八郎昌方  神山安五郎    武井甚左エ門
  同 断 町田弥吉郎栄直  豐田喜八郎      助八郎
  合手類 原嶋金太郎忠久  白石八百吉      次良左エ門
  同 断 町田宗八郎清久  田沼清藏       佐一郎
                          粂八郎

                 新町一町目
                  朴木要七郎   落合嘉左衛門
維旹享和二歳次壬戌十月朔旦 世話人 同 佐兵衛   栗田■吉
       神主前原大内藏勝行  ■原吉右衛門  小嶋權右衛門
                  栗原利左衛門  發頭 落合源藏
                  阿久澤藤右衛門 同  關口金兵衛

 天保十二年辛丑年四月廿五日記之
奉修覆御本社御幣殿銅葺
  御拝殿凢差替末社神築殿迠修復

上野国山田郡桐生下久方郷
桐生領惣社天滿宮者從 東照神君御祈願
所而長日天下泰平國土安全祈祷無怠慢勤
行然御神殿及大破神主藤原勝温為發願天
保十一庚子年九月廿八日大工棟梁須永隼
人手斧立賀翌辛丑年三月廿五日荒増成就
上棟之式寺社御奉行阿部伊勢守様御聞濟
而同月廿八日丑刻御遷宮四月十二日追十
五日之間令開帳者也
       神主前原大内藏藤原勝温

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菅原神社(近藤町)

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 国道354号線と国道122号線が交わる小桑原交差点の700m程南西、近藤地区集会所の隣に鎮座する菅原神社(館林市近藤町2-101)。
 鳥居の柱には「平成二十四年三月吉日建之」と刻まれている。
 そう言えば、くわばらと言えば菅原道真公だが、小桑原の地名はこの菅原神社に由来するのだろうか? ……いや、無いか。ここ小桑原町じゃなくて近藤町だし。小桑原村にあった菅原神社は富士原交差点傍の富士獄神社に合祀されているから、もしも関係があるとしたらそっちか。
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 本殿と狛犬。
 狛犬の台座には「平成七年十二月吉日」と刻まれている。
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 以上で6月23日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA20-40mm。X-T100にXC15-45mm、XC50-230mmII、SMC PENTAX 50mm F1.4。X30。
 ウォーキングカウンターは18,322歩。
 茂林寺にも行こうかと思っていたのだが、X-T100のバッテリー残量が心許無かったので撤退。この日は一応X-T100のテスト撮影が主目的だったので。
 それにしても、X-T100にマウントアダプターを装着することでKマウントレンズも使えるようになったわけだが、こうなると今更ながらにAPO-LANTHAR 90mm F3.5 SLとAPO-LANTHAR 180mm F4 SLを手放したのが悔やまれる。もう八年前の話だけど。

館林城土橋門跡(城町)

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 館林市文化会館北側に位置する館林城土橋門跡(館林市城町4-32)。
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 善長寺前の遊歩道にも同じカルタが埋め込まれていた。
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館林市指定史跡 館林城跡
 一、指定 昭和四八年四月一日 館林市指定史跡
 一、所在 館林市城町甲二三‐一他
 一、時代 戦国時代~江戸時代

 館林城は、「城沼」を自然の要害とした平城で、別名を「尾曳城」という。
 その形態は、城沼を城の東側の外堀とし、この沼に突出する低台地を区切って、城の中心である本丸、二の丸、三の丸、八幡郭、南郭を置き、これを取り囲むように、稲荷郭、外郭、惣曲輪を構え、さらにその西方の台地に「城下町」を配置し、そのすべてを土塁と塀によって囲んでいた。
 築城時期や築城者については、江戸時代になって書かれたもののなかに「赤井照光」によって築かれたとするものがあり、「狐の尾曳伝説」と相まって広く知られているが、実際には、築城時期や築城者を明確にした築城当時の記録は、現在まで発見されていない。
 現在確認されている「館林城」について書かれた最古の古文書は、文明三年(一四七一)に上杉軍が「赤井文六・文三」の居城である「立林(館林)城」を攻略したという記録である。
 その後、越後の上杉氏や甲斐の武田氏、小田原の北条氏による三つどもえの攻防のなかで、「長尾氏」「北条氏」などが館林城を支配するようになった。
 天正一八年(一五九〇)の徳川家康関東入封に伴って、徳川四天王の一人榊原康政が十万石で城主となり江戸時代を迎えると、「館林」は、利根川を押さえることができる東北方面への要所として、また、徳川綱吉が五代将軍になってからは、将軍を輩出した徳川宗家に関わる重要な地として、江戸幕府に位置づけられ、最後の城主秋元氏まで江戸幕府の重鎮を務めた七家の居城として栄えた。
 城の建物の大半は明治七年(一八七四)に焼失したが、現在でも本丸、三の丸、稲荷郭、城下町などの土塁の一部が残されており三の丸には土橋門が復元されている。
 土橋門は、城の中心(三の丸)への出入口の一つで、在城当時は、正門の「千貫門」に対し、通用門として使用されたものである。
 この土橋門は、昭和五七年に発掘調査の結果をもとに復元したもので、事前の発掘調査により三基の門の基礎と二基の井戸が発見されている。また、門とあわせて周辺に残る土塁は、三の丸の周りを囲う土塁で、江戸時代からのものである。
 特に門からカギの手状に延びる土塁は「蔀土居」と呼ばれ、開門時に郭内を見通すことができないよう工夫されたもので、県内に残る唯一の遺構で貴重なものである。

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 土橋門内側。
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 井戸跡。
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 土橋門跡の110m程東に館林城千貫門跡の石碑が建てられている(館林市城町1-1)。
 千貫門は館林城の牙城部 三の丸の北面中央に位置し 城の正門である大手門と同様 城内にある重要な門の一つであった その形態は渡櫓門で 三の丸北面部の土橋門(通用口)に対して武士の正門とされていた
 千貫門の内側には 城内を敵に見透かされぬように築かれた鉤の手状の蔀土居が絵図等により確認されている また その名は三の丸と外郭を結ぶ千貫橋から由来するといわれるが 当時の面影は失われ 現在は隣接する土橋門周辺の土塁等にその姿をとどめるにすぎない
 碑面のレリーフは 館林を代表する芸術家藤牧義夫(一九一一~一九三五?)の作品「三岳画集」に所収されているものであり 尾曳稲荷神社に奉納されている館林城絵馬を参考に描いたものともいわれる
 此所に碑を建設し 城下町館林を後世に伝えるとともに 文化の発展に寄与するものである
 昭和五十九年三月三十一日
         館林市教育委員会

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八幡宮(城町)

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 秋元神社のすぐ西側、向井千秋記念子ども科学館の東隣に鎮座する八幡宮(館林市城町1-3)。
 以前こちらにお詣りしてから約九年ぶりか。
館林市指定史跡 館林城本丸土塁及び八幡宮
 指定年月日 昭和六二年八月七日
 所   在 館林市城町一番地の三 他
 時   代 江戸時代
ここは「館林城」の中心、本丸があった場所です。
  八幡宮
 「八幡神」は源氏の氏神で、広く武家の間で信仰され、各地に「八幡宮」として勧進されています。
 この八幡宮は、江戸時代には、武家の守り神として、また、城の守護神として、館林城の「八幡郭」に奉られ、歴代城主の厚い崇拝を受けてきたものです。
 明治になって、廃藩とともに、尾曳稲荷神社に合祀されましたが、明治の終わり頃に城跡に進出してきた、「上毛モスリン株式会社」によって現在の地に移され、再び八幡宮として奉斎されました。

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 覆い屋。
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 本殿。
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 狛犬。
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 館林城本丸土塁跡。
館林市指定史跡 館林城本丸土塁及び八幡宮
 指定年月日 昭和六二年(一九八七)八月七日
 所   在 館林市城町一番地の三 他
 時   代 江戸時代
  館林城本丸土塁
 館林城は、館林・邑楽地方の代表的地形である低台地と低湿地を巧みに利用して造られた平城で、別名を尾曳城と言います。
 城の中心は、現在の文化会館敷地の三の丸から東に、現市役所敷地の二の丸・その東に本丸・南に南郭。本丸の東へ八幡郭と並び、城沼に突出した舌状台地を土塁と塀とで区画して造られていました。
 ここは本丸にあたり、この土塁は本丸の南側土塁の一部です。
 徳川綱吉が城主であった時代の絵図には、ここに三重の櫓(天守)が描かれており、二五万石の城主にふさわしい荘厳な城であったことが見て取れます。その後綱吉の子。徳松の夭折により、館林城は一時廃城となりますが、次の城主、松平(越智)家時代の、「館林城地目録」によれば、延享年間(江戸時代中期)の本丸は、東西約七五間(約一三六m)、南北約二五間(約四五m)の長方形の郭で、周囲を長さ約二二四間(約四〇七m)、高さ約二間(約三・六m)の土塁が囲んでおり、その上には瓦を載せた塀が走り、北東隅には天守閣にあたる二重の櫓があったと伝えられています。
 館林城に関わる遺構として、大変貴重なものです。

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 三重櫓跡。
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